写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】R2.5/30_尾仲浩二「ネコとコージくん」@gallery solaris

【会期】R2.5/26(火)~5/31(日)

旅と猫のお時間です。猫は可愛い。

可愛いけれども、それだけじゃない。

 

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本展示はR2年3月31日~4月12日までの会期だったが、4月7日の「緊急事態宣言」発令を受けて、ギャラリーが4月9日から臨時休業に踏み切ったため、会期途中で一旦中断となっていた。休業解除となった今、会期延長での再開となった。

 

本来の会期としては、奈良市写真美術館で開催された大規模な回顧展『Faraway Boat(会期:R2.1/18~4/5)とほぼ同時期にあたっていたため、同じ有名作家の、また異なる切り口から世界観を見比べることができる期間となっていた。

 

www.hyperneko.com

 

本展示『ネコとコージくん』は、世界のあちこちを旅して撮った猫の写真集『Neko wa Neko』と、作者自身の幼少期の写真を着色加工した写真集『Long time no see』という2シリーズで構成されている。

 

なお、本来であれば4/5に作家トークショーが予定されていたのだが、新型コロナの感染対策に社会が敏感になっている時期でもあって中止となり、代わりにYouTubeにて、ギャラリーオーナー・橋本氏とのWeb対談動画が公開された。ここで今回の展示作品について語られている。

また、「バーチャルギャラリー」として、展示会場を3D的にWeb画面内に展開し、Google Earthのようにマウス操作で移動して鑑賞する仕組みも試行がなされた。ウィズコロナの社会に向けた試行錯誤が、休業の水面下で行われていたのだ。

 


尾仲浩二 オンライン・ギャラリートーク part1/3(Neko wa Neko 編)|「ネコとコージくん」展 @ Gallery solaris

 

 

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旅先で出会った猫たち。これまで撮ってきた写真の中から、猫の写っているカットを探し出してセレクトしたものとなっており、舞台となった国は日本、中国、タイ、ベトナム、マニラなどのアジア圏から、リスボンラトビアジョージアグラナダ、ロンドンなど、非常に多彩である。何も見ずに地名を当てるゲームをしても面白いでしょう。『Slow Boat』展と同様に、作品を観て回ることが「旅」に繋がってゆく。中には作者の自宅の飼い猫も混ざっている(気付きましたか?)。

 

猫の表情は、顔だけでなく全身の佇まい、振る舞いにも表れ、個性的という言葉では到底足りない。人間と同じぐらい「地元民」としての風格が漂っている。なにせ、人間と同じ場所に陣取っていたりするのだから、どちらが家や店の主人なのか分からない。そういう「地元民」や「家主」としての顔付きと態度は、犬よりも猫の方がはるかに色濃い。主従関係を絶妙に引っ繰り返すのだ。

 

だが本作が「猫」の写真かというと、微妙に違う気がしている。

比較の念頭にあるのは岩合光昭に代表される類の「猫」写真だ。それらは画面を、焦点を、フレーミングを、猫のためだけに費やしていて、猫以外の要素は全て「猫」を押し上げるための舞台に回っている。また、撮られた猫の像はこちらの既に知っている「猫」のイメージを、プラスの方向へ増幅はすれど、その外側へと勝手に歩き出していくものではない。裏切らない「猫」である。仮に裏切りの表情を見せたとしてもそれは観客の期待にかなう範疇のものだ。

 

本作に登場する猫は、「猫」という枠組みの内にはいない。

夜のスナック街の路地にたむろする猫、商店の棚にスイカと共に座る猫、テーブル上で王冠チェスの盤を見つめる猫、商店の入口のど真ん中に居座って店主然としている猫、立ち話をする住民たちの合わせ鏡のようにして立ち会う猫たち。どれもこちらの頭の中にある愛玩動物の「猫」に当てはめようとすると、するりと擦り抜けていってしまう。仮に当てはまったとしても、それは偶然であって、そのうち何処かへと歩き出してゆく。そんな揺らぎがこの写真にはある。

 

その土地土地の「地元民」としての姿なのだ。

どこかの地方の飲み屋街や集落では、出くわした人のことを「日本人」とか「◯◯人」という、人種や国籍で区別して見るというより、代わりに「地元の人」か「地元の人ではない人」という括り方で見ている気がする。この猫たちはそういう「local(地元民)」という区分の、相当に中核的なところに位置していると言えるだろう。

 

だからこれらの作品は、旅先での人物スナップの亜種のように、不思議な親近感と、未知の出会いに満ちている。猫のいる場所がいずれも、どこか鄙びた、ざらりとした、ごちゃごちゃした場所であることが興味深い。それは他の旅の作品と共通しているが、日本国内であれば、今も地方に残る昭和の原風景、レトロな町並みや飲食店であり、それらは猥雑物に満ちていて、猫の舌のようにざらっと眼に絡み付く。さすがは新宿で「Camp」を運営し、写真行為に明け暮れてきた作家である。聖と俗の混然とした情景を逃さず捕らえてくる。それこそ「地元」の風土であろう。

 

 

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対角線上の壁で展開される『Long time no see』は、打って変わって、非常にレトロというか、駄菓子の人工甘味料のような風合いをしている。これらは作者の父親が撮った幼い頃の作者のモノクロ写真を、スキャンして着色したものだ。

 

興味深いのが着色方法で、なんとphotoshop上での手作業だという。今ではディープラーニングにより膨大な色彩と画像情報とが結び付けられていて、画像をアプロードしAIに任せれば自動で適切な色が付くようになった。無料でモノクロに自動着色してくれるWebサービスも登場している。

 

photoshopvip.net

www.adjust.co.jp

 

ここでは作者が人力で着色することに意味や作家性が宿る。対象ごとに範囲選択しながら、チクチクと色を細かく選んで当てていく作業。想像するだけで面倒すぎて鳥肌が立つのだが、AIを挟んでいない以上、「色」のセレクトは作家の知識と記憶と感性に委ねられることになる。

選択の判断において、一定程度は客観的な事実(髪の毛は黒、地面は茶色~黒、など)に基づくことになろうが、学芸員の手掛ける仕事でもないので、衣服や背景の細部の配色について、正しく時代やメーカーの情報を調べて事実考証しながら補完してゆくものではない。色のセレクトの手掛かりと決め手は、作者自身の「記憶」、その中にある光景との対話次第になる。

しかし作者も還暦を迎えた身であるから、もう半世紀近くも昔の「記憶」というのは、ほぼ「印象」と呼べる領域でもあるだろう。それらの判断を束ねる総合的なバランス感もまた作者の感覚、記憶の当事者がしっくりくるかどうかに委ねられている。

 

実家で発見された、実家ファウンドフォトとでも言うべきこれらの写真は、作者の手に拠らずに写されたものが、その像に色で肉付けをし、現在へと転生させたのは作者の世界観と作業によってである。ここに「写真」という行為の幅と、その単語の指し示す射程距離の問題が湧き上がる。記憶や印象を掘り起こし、それを画像編集ソフトによって着色していく行為は、「写真」の工程のある一部を過剰に、スローにクローズアップさせた行為とも言える。

 

目の前にあったのは、写真か、それとも記憶的な「印象」か。

 

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会場では多数の写真集が揃っていて、購買意欲を無性に掻き立てられた。『あの頃、新宿で』とか『Slow Boat』は名作だなあーと思う。。既に特別定額給付金の10万円は溶けて無くなっているので我慢しました。くそう。

 

政府殿、また10万ください。

 

 

 ( ´ - ` ) 完。