写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展/KG+2020】【No.37】「galleryMain archive project #1」、【No.34】三宅章介『切妻屋根の痕跡のための類型学Ⅲ/LIVE』@Lumen gallery

KYOTOGRAPHIEサテライト展示【KG+】、京阪五条近くの同じ建物内で隣接するギャラリー:「galleryMain」(ギャラリーメイン)と「Lumen gallery」(ルーメンギャラリー)の2ヶ所をレポ。

ギャラリーメインは取り扱い作家らのアーカイブ展だが、美しい作品だけでなく、写真自体に対する考察、実験的な作品を積極的に展開している点が面白かった。

ルーメンでは、空間全体を暗室と化したような展示で、終わりのない感光が続いていた。 

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(galleryMain 展示会場より) 

  

  

 

【No.37】「galleryMain archive project #1」@galleryMain

【会期】2020.9/18~10/18

 

これまでギャラリーメインが取り扱ってきた作家/作品のアーカイブ展という形態で、7人の作家(澄毅、中井菜央、牛久保賢二、ヨシダミナコ、中澤有基、カワトウ、山崎裕貴)のプリントとポートフォリオが展示されている。

ギャラリーの内装も変わっていて、向かって左側の壁面がかなりせり出していた。バックヤードを拡張し、作家のプリント等作業スペースを確保したのこと。

 

ここでは個人的に興味を抱いた、写真とは何か?とのメタな考察を必要とする作品を中心に取り上げたいと思う。

 

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 ◆中澤有基(イメージの在り処、表面と境界)

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写真作品というよりは、Web広報の素材写真のようなイメージが並ぶ。

被写体、撮り方、提示の仕方、どこをとっても普通の写真としては全く意味や主張を持たない。かなり断片的で、諸要素が「無」さすぎるのが特徴だ。「写真」の標本、実験サンプルのように、「写真」であること自体を試されていて、例えばマウスをゲージ内でくるくる運動させたりピペットで液を飲ませているような実験の光景を見る思いがする。写された被写体やシーン自体には前後の文脈、空間性がなく、つまり情報をほとんど有していない。そして(それゆえ)観る側にも、一切の記憶や感動を呼び起こさせない。

 

会場に貼り出されたステートメントによれば、作者は大きく4点の問いと試行を設定している。「対象」「表面と境界線」「見ること(直接・間接・何か越し)」「虚実、オリジナルと複製(時間性も含む)」だ。いずれも、写真に写されたものの指示対象と、それを「見る」こととの関連――噛み合うのか/ズレるのか、そしてどうズレるのか/ズレの後に世界は再び整合するのか、の試行に関わる。

 「写真」そのものを見ているのか、それとも写真が記録・複製・内包した世界、私たちにとっての「外界」=被写体を見ているのかという、基本的かつ根本的な問いである。

 

写真を見てみよう。

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「白」い壁面と写真内に写り込んだ「白」、直接に対象を見ることを妨げる霞み、荒々しくドットの浮き出たカラスの影、手と手の影と影の写った箇所の上から塗られた白い塗料、日に当たるサボテンと白く飛んだ背景と背景に連続してゆくギャラリーの白い壁面、写真の中の白く飛び気味の「壁」と連続するギャラリーの白い壁面、写真に写った光の「白」と色情報のない画像としての「白」、写真の中のテレビモニタとそのモニタの中の映像、等々・・・ これらの写真を見るとき、私達は何を見ているのか/何を見ていないのか?

 

通常の写真では、写し撮られたものをより適切に、より効果的に読み取れるよう、撮影時からレタッチ、プリント、額装など全工程において目的に沿った手法が施されるが、ここではそれら構成要件のいずれかがループしたり切り上げられていて、「写真」という構造体自らを指示対象とするよう、あるいは指示を失うように仕向けられている。まるで建物で階段を上ったら降りていたかのように、玄関の扉を開けたら部屋がなくて隣の物件に即繋がっていたかのように、安住を許されず、構造内を歩き回らされることになる。だが写真の観賞自体がたちまちに拒絶されたり無意味だと突き付けられるのではない。あくまで2つの「写真」の領域――例えると、建物(写された対象や表彰のレベル)と、物件の所属する敷地内(広義での「写真」の文体や約束事のレベル)において、出入口や階段の仕掛けに出くわしては歩き回り、入れ子的な構造を体験する。

 

 

作者は写真という平面メディアの中身と物質性とに着目し、また、それを提示する白い壁面との物質的な連続性と、写真が孕むイメージとの関連性について考察する。そして『私は再び写真に手を触れて、境界線は曖昧になり、やがて世界は一つだと知覚する』と、和合の実感を記している。

これは作者がギャラリスト(galleryMainのオーナーである)として日々、写真作品という物質の中身と物性の両側面・2つの次元について、白い壁面・展示空間に向き合っているがゆえの視点であり問題意識だろう。写真の外へ、内へ・・・抜け出してもそこはまた写真である。

 

 

 ◆山崎裕

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ギャラリーの最奥に組まれた木々は、天から日が射し、地が受け止めているような形を成し、その上下には作品が差し込まれている。下部には少し色褪せた、追憶のような家族写真、上面はしゃがんで膝をつき、覗き込んで見上げるとテキストがある。読むと、今は失われたかつての作者の「家族」であることが知れる。

 

本作が風変わりなのは、写真と呼べるものは古い家族写真の1枚だけで、あとは作者の考察メモ、論考(論文)、そして木を組み上げた巨大なオブジェから構成されていることだ。メモの書きつけは西洋の宗教画の構図とシンボルに込められた意味を解読しようとしており、また、A4用紙30枚弱・2万字近くにも及ぶ論考が壁にずらりと貼り出され、思考自体を展示していると言える。写真の枠組みを越えていくところが興味深い。

  

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だが単に写真やアートの思索ではない。このオブジェは天井からの救済の光であり、テキストを覗き込む際の動作は跪いて天を仰ぐ「救済への祈り」を催させる仕掛けでもある。テキストは家族写真と呼応しており、A4用紙1枚分の随想は、救済と信仰について書かれている。

 

テキストには、配偶者が幼い頃から暴力と両親との死別(自死)に見舞われていたこと、彼女には常に「生」の反対側に「死」があり、振り子のように行き来しながら生きていたこと、作者自身は振り子の「生」の側にしかおらず、彼女が救済されることはなかったこと、「メシア」的なものの力について、などが綴られている。

それは『ぼくには、もう言うべきことも撮るべきものも残っていない。』と締め括られる。

 

詳細は2万字の論考に当たらねばならないが、受難と救済について、長大なテキストの論考をここで読み解きレスポンスを返すことは難しい。 写真という複製技術に対してベンヤミンが「メシア的な力」をみたことを手繰り寄せ、写真のもつ神学的パラダイムを参照し、終末を到来させる試みは、神学、哲学を引用しながら対象とオーラ、そしてメシアの関係を語ってゆく。

『抽象的になるが結論だけを先にいえば、複製技術論におけるメシア的思考は、オーラとオーラの喪失の瀆神的な関係それ自体さえも瀆神する可能性である。執刀医の技術的操作が介入することで、対象の像でさえなく、写真の像でさえもない、だれのものでもない像を写真によって救済できる可能性である。』 私達は写真の天使にはいつ出会えるのだろうか/だがそれを見てみたいと思う、興味本位ではあるが・・・。 

   

 

 ◆カワトウ(Kawatou)

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全く何気ない光景、中でも「空き地」が延々と続く作品だ。何冊もあるポートフォリオではその物量、もとい空白量が圧倒的だ。撮り方はスナップ的で、厳密な記録や類型学ではなく、いわゆるニュー・トポグラフィックス的な構図とも異なり、より作者の身体に近く、視線が招き入れられた先の光景という印象を受ける。

 

空白に引き込まれた先には何があるのか。

物件が取り除かれ、誰の物でもなくなった都市のエアポケットは、実際には土地の所有者が何かしら存在するのだが、対象物がないため権利関係が視覚的には無視され、自由な振る舞い、探索、意味の発見を許す。無属性となった空き地を通じて、向こうに見えるブロック等の壁面や他の家屋の組み合わせが浮かび上がり、無名のコラージュ作品のような様態を見せる。

 

物件と物件の間に生まれた「空き地」という空白地帯には奇妙な誘引力については、私自身がカメラを持っている時に何となく撮りたくなる対象(非対象?)でもあり、共感するところである。この誘引は何なのか? 都市の制度や風景が見せる綻びは、都市に自由に眼を向け、自由に解釈を許す千載一遇の隙である――人の家や庭を凝視したり撮影することはとても憚られることで、そして写真家にとっては危険でもある。写真自体の撮り方、フォームやジャンルの曖昧さからすると、もしかすると作者が撮っているのは、建築・都市の隙間としての・土地としての空き地ではなく、眼が引き込まれる非対象の力、引き込まれた現象としての空き地ではないだろうか。

 

◆澄毅(Sumi Takeshi)

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写真にとても細かい波が刻まれ、白い光を帯びている。純粋に美しい。ゴッホムンクの作品で風景に表される渦、世界の揺らめきを想起させられるところもあるが、世紀末の不穏さは微塵もなく、逆に濡れた髪が朝日に照らされて清冽に輝くような多幸感に満ちている。

この光はカッターで刻まれたスリットによるものだ。微細な光そのものの強さを、写真に物理的に宿らせるための技術的な解法であるが、常に光に照らされた結果が写る写真を、それ自体が主格として光を放つものとして転じさせたことで、冷徹な記録の像である写真が温もりを宿すようになった――写真というメディウム自体が主観を宿した、ということだろうか。写った像そのものではなく、光を帯びた色彩や明るさを総合的に観ているとすれば、本作は絵画に近いのかもしれない、などと、様々な問い掛けを孕んでいる気がする。

 

 

 

他の作家陣にも触れたいが、時間がないため、泣きながら省略させていただく。人生は泣いてばかりである、と偉い人が言っていた。うそです。

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すぐ隣に「ルーメンギャラリー」が併設されているので、そちらも鑑賞に。

あっ暗い。暗室みたいになってる。

 

【会期】2020.9/23~10/4

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暗室と化したギャラリー内には、メートル級の印画紙が3枚、壁3面にそれぞれ貼り出され、ぼんやりと光を浴びている。 印画紙に映像を当てて感光させているのだ。ギャラリー自体が暗室行為と化している。定着処理が行われないため、焼き込まれた像には完成・終了がなく、他の照明をつけたりする中でずっと感光し続ける。一度は得られた切妻屋根の像も、やがてまたぼんやりと輪郭が薄らいでいくことになる。

 

作者は昨年の【KG+】でも同じように、部屋丸ごとを使った大胆な展示(暗室的行為)を行っていた。

 

 

展示様式はほぼ同じだ。テーマはタイトルの通り「切妻屋根」の家屋の側面である。切妻屋根の詳細は省くが、京都では伝統的な京町家の形状が切妻屋根を基本としており、街並みの景観の保存のために屋根の角度が定められている地域もある。 

昨年と同じく動画をプロジェクター投影しているが、今年はリアルタイムの中継動画で、作者の車にカメラを取り付け、駐車中の車から録られた動画をYouTubeを介して会場に届けている。その時々の時間や天候によって明るさが変化するほか、通信状況によっても像が乱れたりし、それら全ての予期できない状況が焼き込まれてゆく点では「写真」的と言えるだろう。

 

会場の3枚の巨大印画紙は会期中それぞれ順番に照射されてゆくようで、鑑賞時に当てられていた1枚は1時間40分ほど、最も長いものはトータル4日間ほどの照射時間となっていた。像としての完成度がない分、終わらない「写真」として、定義の領域が延長されていくことに面白みがある。

 

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会場では映像・現像システムの図解や、通常の写真での切妻屋根の作品、そして写真集も見ることができた。通常の写真では、まさに類型学に近く、大量の家屋のパターンが延々と記録されていた。

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あたまの体操が多すぎて、脳天がねじれそうですが、柔軟にやってまいりましょう。

 

( ´ - ` )ノ 写真は自由。

 

 

 ( ´ -`) 完。