写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】金村修『Voodoo Doughnut』@gallery 176

【写真展】金村修『Voodoo Doughnut』@gallery 176

200枚近いモノクロ写真の列と、大小2つの映像作品から成る会場は、一見スタイリッシュにすっきり整っていたが、深入りし始めると終わりがなかった。それらは力のある骨・筋肉を露わにしてゆく。

【会期】2019.11/8(金)~11/19(火)

 

 

都市、アメリカのニューヨークとポートランドが、キャビネ版2列の直線でギャラリーの壁面の両サイドに並ぶ。展示構成としては2都市が対比されていることになるが、鑑賞する中でこれらの都市景はあまり対比を意識させられない、というより比較する必要がない。構造的な見方、分析を差し挟む前に、1枚1枚の中を覗き込んでいるうちに、いつの間にか写真群の中に迷い込んで出られなくなっている。何となく「NYぽいな」「アメリカだな」と思いはするが確定的な答えは出ない。むしろ写真の中に写された都市は同定を逃れてゆく。それらがどこかは問題ではない。問題はない? いや、何もなければ作家は写真を撮らなかっただろうし、展示にも選ばれていない、そして私も写真を見てはいないはずだ。

何かがあるのは間違いない。

惹きつけられるのは「膜」のような不確かさゆえだ。都市景と呼ばざるを得ない被写体と構成なので、これらの写真を都市景と呼びながらも、その一枚一枚の内部には「都市」に期待される都市らしさはあまり旺盛ではない。何故なら多くのカットで反射が繰り返されていてイメージは膜のように重なっているからだ、ガラス面が多く写り込み、ガラスは向こうとこちら側とを複層させる、反射と言ってもL・フリードランダーのごとき作家の影・像などは写り込まないし、ましてやG・ウィノグランドのようなストリートの有象無象の人間たちとその影が繰り返されるわけでもない。執拗に繰り返されるのは構造物、建物や電柱や柱や階段や壁面、ガラス面とそれらの反射とそれらの影の組み合わせだ。

そこに作家はいない。作家個人の顔や個性は消えている。都市の膜が続く。いや作家だけではない、都市自体の顔も消えている。

膜と化したイメージの乱反射に重なるモノクロの陰影、それに加え、建造物の壁面の凹凸や柱の形状や影がまた重なりに重なり、看板や広告、建築物の配列といった都市の「顔」、それぞれの「都市らしい」姿、装いは圧倒的に後退している。広告・看板の誘いや建物の美観などが醸すアイデンティティー、欲望喚起の力、ブランド、フォトジェニックさへの誘惑など、通常期待される「都市らしさ」あるいは「写真の美」が驚くほど沈黙状態にあって、それは沈黙を守っているのではなく言葉を奪われて忘れてしまったようであって、「都市」としてのアイコンとしての働きを果たさないのだ。ここでは消費にまつわる力は一様に無効となっていて、モノクロの陰影や構図の微妙な傾き、ずれ、似たような光景の連続などによって効果を奪われていて、柱に主役を奪われ、脇へ、背景へと後退する、まるで文字そのもの、残骸である。記号やアイコンは何か大きな体系に結びついて初めて効果を発するが、本作に移り込む記号らは戻る先がなく、物理的にただの記号であって、資本の力を発動できないでいる。

残るのは構造物を旨とする都市の構造(=骨、筋肉)、それらが反射によって多層と化す現われ、「膜」の在り様である。

膜と骨・筋肉のフォルムが繰り返される、それは強い、都市の「肉」にあたるもの、皆の期待する、おいしい「都市らしさ」を押しのけて、フォルム同士が繋がってリズムを生じてゆく、肉はここにはない。「肉」とは資本の力と言い直そう、都市に託された、欲望喚起と搾取の体系そのものであり、それが持つ美しさのことだ。それらに取って代わる膜と骨・筋肉の躍動が、確かさを持った内面のフレームとなって力を帯びる。

ギャラリー奥で光とノイズを放つ映像作品を観てからは一層その力が映えてくるだろう。 

一見、きちんと「都市のスナップ」のような風をしている写真群である、一枚一枚はきちんと「一枚の写真」に納まっているかに見える、構図といい余白のフチといい、一般的な写真の体裁は整いながら、微妙に・大胆に、一定のテンションを維持しながら、演奏・踊りを続けるように、都市景に似たうねりがどこまでも続く。カオスとは言い難いし無個性な都市というわけでもないし都市の平板さを重ねたというのもまた違う。構造と影と膜による運動がある。運動が見えてくる。内面の凹凸だけでなく、用紙自体のうねりによってそれは更に際立つ。写真は1枚ずつ両面テープによって壁に直貼りされているが、10日ほどの会期のうちに浮き上がってきて、一枚一枚が歪な形を帯び始めたのだという。こうした写真の像の中身と連鎖、そして用紙自体の動きが、「写真」としての2つのフレーム:用紙自体の余白のフレームと撮影行為によるフレーミングを超えた、内なるフレームを駆り立てる。その時、整然と並んでいた都市景の2列の写真群は、リズミカルで予測不能な動き、体を強くくねらせるような動きそのものとなって現れる。 

ギャラリーの奥、平時はスタッフが待機したり物品を置く小さなコーナーに、映像作品が上下に、大小、2つ同時に流されている。それらは激しく明滅し、瞬時に切り替わり、意味の同定を許さない。上の大きな映像は都市の光景やパーツの断片、下の小さな映像はライブ会場のようなところで撮られている断片、時折、人肌、体が写り込む。下のライブのような映像からは強烈に時間を切り刻む音が響く。流れはなく行為だけがある、音楽というより音、音にしては長く複雑で動きがある。

仏人のコンテンポラリーダンサー、カミーユ・ミューテルが踊っているとのことだが、「踊り」や「踊り手」といった単語は会場に置かれていたテキストで知っただけで、後付けに近く、映像からはそれすらも判然としない。断片のステージ、断片の肌、断片の体。明確には分からない、不確かさばかりの空間だが、これらが「受け手の感性に委ねられている」「自由に解釈すればよい」という展示であろうはずもない。衝動的・偶発的なノイズに見えるかもしれないが非常に理論的なエクササイズだ。映像の時間軸にも画面内にも中心が見当たらず、瞬きのスピードで現れては消える明滅と共にあるイメージを掴んだり乗ったり離れたり俯瞰したり上下の映像を比較したりまた没入したり、急に現れる街の中の木や葉や動物園の動物のコマは唐突に穏やかに長時間流れていくのを、脳の周辺は加速のついたまま等速運動を続けている一方で脳の芯のあたりは停止を受け容れてゆっくり凝視しその速度のギャップに視点は大きく移行する、映像自体の記号的な意味を追うことから「見る」こと「撮る」こと行為自体が生み出すもう一つの意味、行為に伴って現れる姿なき形のようなものを得ようとするようになる。それを指す言葉が見当たらず難しい、そんな体験は売られていないので単語が開発されていないのだと思う、なぜならこれはグルーヴ感とは真逆なので大勢に売れないからだ、売りにくいものは作らないしそれゆえ出回らない、よって対応するラベルとしての単語もない、それが市場の原理である。

この場は今、市場とは裏側に位置している。市場の逆は素朴な共産的な共同体であるとすればそれは金村作品に写り鳴り響いている世界観とはまた異なる、ならばこの、意味という消費のための「肉」を無効化したことで浮かび上がる影、骨、筋肉の織りなす動きとは何だろうか。売り買いの対象でもなく都市の目的でもなく写真の本来的な対象でもなかったこの構造の動き。ここには騒々しさと無生産と「個」の断絶とそれでいて断続の連続からの繋がりがある、都市の本質であり深淵、都市は売買と消費と交雑を繰り返すが1次的な生産を行えない、生産を志さない圧倒的受容としてのこの場、意味は生成されず、それゆえノイズは「無意味」なのではない、その脈と動きはまた必ず逆説的に「意味」に通じる。「意味」を乗っ取るウラ拍のような形で響く虚無・影の国として。個のうちに現れる動きの姿。私という個の受け身の中にある能動的な体験、それを音楽と呼ぶべきか分からないが、映像が音と光を放ちながら物語や起承転結を棄てていて、形うねり刻み震え自体が切り立っている、切り立ったところが露わになり繋がってゆく。音と流れを伴う以上は、それは音楽と呼ばざるを得ない、その姿は受け手個々人で異なり、隣にいる人と私とそのまた隣の人は共に永遠に共有できない体験をしながら笑ったり曖昧に言葉を交わしたりするだろう、エンターテイメントとして一般的に愛されている=消費される類の音楽やライヴ、ダンスとは全く質の異なる「意味」、裏返った音楽、国との出会いとでも呼ぶべき場だろうか、調和や連帯、グルーヴによる感動と真逆の、個としてもたらされる体験である。ウラ拍めいたそれらは名状し難く、話題に上りづらいが、ただ形を帯び、確かに動きとしてここにある。

癲癇を起こさない程度に光とイメージの明滅を凝視しているとこの心身は否応なく解されていく。癒しではない。もっと切り立った何らかの体験である。解されるのはやはり都市に託された表層の記号やブランド、商品、消費喚起のための戦略の数々、美の罠であり、そして都市と一体化して呑まれていた我々の心身である、金村作品はそれら都市(=我々)の「肉」を行為によって落とし、内(裏)に宿る骨・筋肉のセンスを立ち上がらせる、そしてフレームによって成り立つがゆえにフレームの呪縛に囚われている「写真」を、その内(裏)側から解放するだろう、それは影や虚無--意味の埒外にあったものが体を手に入れ、踊り始めるような場である。

 

※体験には個人差があります。 

 

( ´ - ` ) 完。