写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】R2.2/8 _ LILY SHU(リリー・シュウ)「ABSCURA」@大阪ニコンサロン

【写真展】R2.2/8 _ LILY SHU(リリー・シュウ)「ABSCURA」@大阪ニコンサロン

「詩」は姿を変えて、今なお必要とされ続けている。 

【会期】2020.2/6(木)~2/19(水)

 

 

作者の日本での生活の場、家族、作者自身と思わしき人物の写真から構成されている。日常の生活が舞台、かなり断片的で、明確に言葉には置換できない写真が散りばめられている。そこは迷路のようだ。 

本作は初期作品とのことだが、同名の作品・展示が2017年の東川国際写真フェスティバル、2018年の1_WALLで評価されていたことから、制作時期はそれ以前と考えられる。解説文からは、作者は中国・ハルビン市の生まれであること、日本とイギリスで歴史と哲学を研究したこと、本作の舞台は東京で一人暮らしをしていたアパートだということが分かる。

 

写真は、中国から両親がやってきた三日間の滞在時に撮られたものが中心だ。と言っても、普段多くの人が見慣れているような、日常や家族についての親愛の情、温もりの確認、記憶を辿るといった語り口とはまた異なっている(結果的にはそうだったとしても)。それらは物語の形をしていない。親子3人が、何処で何をどう過ごしたのか、そもそも仲が良かったのか、どんなものを共有していたのか、そうした物語としての必要条件を大きく欠いた構造となっている。このことはちょうど、すぐ隣で同時に開催されていた、ニッコールクラブの「家族」をテーマとしたグループ展と強烈な対比であった。

 

本作の特徴として、具体物を撮っていながらも抽象性が高いことが挙げられる。それぞれのシーンは場所や、撮影、構成などの意図を感じさせない。と言うより、意図は隠されている。抽象性は、映像が不確かなのためはなく、1枚1枚が確かな情報を持つことを回避していることから生じてくる。

冒頭の無機質な、集合住宅へ入っていく3枚の写真からして、現実社会のどこかに設置した透明な入口から、誰にも探知されないように折り畳まれた迷宮へと入り込んでゆく。不思議のアリスを連想する。だが待っているのは奇特なフィクションの世界ではない、どこまでも現実の社会である。作者は追尾不能な場所へと紛れ込む。それは都市生活者を一括りにした匿名性の話ではなく、作者個人における身体、身柄に限定される。その滑り込み先は秘匿されている。

 

そして「家族」を巡る考察と試行が行われる。

最も確かな写真は、自室の内部と家族と共にいるシーンだ。作者の体がある、その体越しの向こうに家族がいる、そこは作者の住まいである、父親や母親が手の届く距離にいる、その体がある。これらは現在系の「生」の実感として眼差されている。

対して、過去の家族集合の写真や、雪のある光景の写真は東京での3日間からジャンプする。作者にとっての「家族」の記憶やイメージに関連するものだろう。中でも、大延ばしで並べられる2枚の写真、暗がりの中で光る歪な形をした氷?のような写真は他と比べて異質で、洞窟の内部にも、冷蔵庫の製氷室を拡大したようにも見える。凍れる冷たさは故郷に連なるイメージだろうか。

 

家族や日常という非常に身近な主題を撮りながらも、確定的なことは語られないカットからは、鑑賞者が受け取る・生起するのはどういった感情だろうか。両親が滞在する三日間と、故郷や「家族」について、掴んでも掴み切れない言葉が交わされていく。これらのシーンには他の家族を扱った作品と構造を異にしながらも、言葉を秘めている点では同じであるはずだ。

写真の言葉を探っていくと、手指や背中、足など、顔ならぬ体の一部の登場するカットが多くの割合を占めており、その表情を強く捉えていることが避け難く浮かび上がってくる。体に関するイメージの繰り返しは、親密なモデル、パートナーの顔の表情を延々と追うのと同じように繰り返されるが、一方で顔が正面から写されることがない。手指の動き、背中、腿、腹、それらによって、隠される顔と表情。まるで顔認証の追尾を避け、まるで公安の指摘を逃れながら、「私は」「生きている」とメッセージを伝えているかのようなこれらの――両親の体のカットは、日本における「家族」の写真と比べると明らかに異質だ。

身体を晒す表現は、日本では芸術分野の伝統芸として、例えば前衛と呼ばれる分野や私写真の領域ではお馴染みだが、本作ではその意味も切迫度も方向性が異なる。個人情報を秘匿しながらも、個人が「私」として生き延びてゆくための、個人のもう一つの / そして最後の「家」としての身体を見た思いがする。その切実なサバイバルを痛感させられた。

 

本作はペシミスティックな内容でも、また中国社会の政治性を直接的に訴えるための作品ではない。従来通りの、作者と家族との関係性を問い、探す作品としても十分読むことが出来るだろう。だが、最も親しい者との関係性を撮るにあたって、繰り返される顔以外の身体のカットは、常に「個人」を奪われうる可能性の中での「生」を強く感じさせられた。

本作タイトル「ABSCURA」は「abstract」(抽象)と「obscura」(暗箱)を掛け合わせた造語である。抽象的な暗箱、語り得ぬイメージを乱反射させながら、そこに個人や家族を留める、不可侵の小部屋となる。作者自身がこの作品の総体を「物語なき叙事詩」と締め括っている通り、不条理で圧倒的な力に抗しながら、その力の網をすり抜けて生き延びる文体として、古くから「詩」は頼みにされてきた。

 

本作は、その撮り方、散文のような配置により、意味を不確かさに隠しながらも、今ここに個人が生きていることを伝える。それは「詩」の姿をしていた。今その力が必要だからだ。詩の先にあるのは、国家だ。

 

 

( ´ -`) 完。