nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】2025.11/1-12/25「あ³ 複製される感性 Monika Orpik(モニカ・オルピック)」@奈良市写真美術館

その写真の何を見ればいいのか、写真に何を見ればいいのかが分からないとき、どのようにアプローチをとることになるのか。

これは展示レビューというより、写真展の鑑賞から理解へとアプローチを進めていくプロセス記録なのかもしれない。

 

「あ³ 複製される感性」展で、森山大道とともに展示されたのがモニカ・オルピック(Monika Orpik)。アートコミュニケーション人材育成プログラム「あ³ — the cube of a —」の一環として招聘された。プログラムの目的として、学生が芸術制作・展示企画・国際交流などを実践的に学ぶことが掲げられている。

 

教育プログラムや展示の概要は以下リンク:森山大道パートのレポ記事からどうぞ。

www.hyperneko.com

 

さて、

モニカ・オルピックの作品だが、普通に分からない。

 

良い写真なのだが意味は全く分からない。

 

「良い写真」と「意味が分からない」は両立する。

前者:視覚イメージとしての美の構成要素が整っていて何らかの雰囲気やニュアンスを示していて、非言語的な感覚を受容できるという状態。

後者:制作手法や意図やテーマや背景が分からない、テキストや資料で示されてもそれを視覚イメージと一体のものとして読み取れない、あるいは頭では理解できるが共感できない・同調できないといった状態。

 

対処法としてはシンプルに、与えられた資料・テキストを読み込む、作者の来歴や過去の制作活動を追跡することになる。材料がなければイメージだけからこちらが有する既存の知識や理解の枠組みに当てはめ、○○と考えられる・△△と類似している、などと推量推察するという形で「分かり」の段階を踏んでいくことになる。

だが、「正しい意味」の手がかりを得るのに高いカロリー、高いコストを要する場合で、なおかつ写真イメージが「分かり」を回避するよう作られている場合、話は厄介となる。今回がそれだ。

 

本作は小規模な展示ながら、作品が6シリーズにも及び、それぞれの解説はハンドアウトに掲載されたQRコード先のテキストを読み込まねばならず、内容もがっつり東欧の歴史リサーチものである。東欧。わかるわけがない。あれはややこしい。国家と国境の意味が日本人にはたぶん分からない。その場の短時間でテキストを読み、歴史性を飲み込み、写真イメージとの紐づけを行いながら解釈を図るなど、到底不可能だった。(冒頭のリンクの通り、森山大道の展示コーナーで直面させられた戸惑いと問題への応答を探るのに滞在時間を全て費やすことになったのも大きい)

 

モニカ展の作品シリーズはこうだ。

1.「Stepping Out Into This Almost Empty Road」(同名の写真集から)

2.a ≠ a(イメージの反復について)

3.Ich verstehe nur Bahnhof(訳「さっぱりわからない」)

4.Blue Zone(グーゼン強制収容所の跡地の現在形)

5.structures(奈良でのアーティスト・イン・レジデンス制作)

6.映像『Oh, to Be Able to Speak!』

 

テキストがQRコード内のみで、会場には掲示されていない時点で、写真イメージとテキスト=意味を照合させて観る作品ではないと思われた。写真が言葉・コンセプトの後付けとなることを避けている。まず写真を見ないといけない。

 

しかしどれも、目で見ていても「それ」とは分からない。写真のイメージは言葉や出来事と直接には結合しないし、具体的な言葉、情報を想起させることもない。

もちろんサラッと見て目触りの良さを確認して立ち去るのでも構わない、のだが、気になる写真だ。凡百な「それっぽい」写真と違って、明らかに主題があり、深みがあり、全てを貫いて流れる音のようなものがある。つまりその奥がある。

 

本当は何も調べず、写真の詩的な、旋律のみを感じていたかったのだが、「音楽のように美しい」とは言い難いカットも多い。何気なさを装いながら、明らかに語っている/隠しているものがある。こうなると、その奥へ行かざるを得ない。

ここから奥へと踏み込むためには、①イメージを一旦テキスト・テーマから切り離して、造形や陰影や画面構成だけで見る。もしくは、②作家性や撮影プロジェクトの読解をやる。しかない。

結局どちらのアプローチも時間と手間がかかる上に、片方だけではだめで、結局両方揃わないと気持ち悪いことになる。鑑賞中にやりきってしまえるのが理想的だが、無理です。やるつもりはなかったが、書いてたら①をやるはめになってきて、終わろうとしたら気持ち悪くて、結局②をやり始め、全体を書かざるを得なくなった。後付けにもほどがある。泣いてる。

 

 

上述のような、分からなさが満ちつつ、何か気になる力を有するという特徴は、『Stepping Out Into This Almost Empty Road』に顕著だ。以下は作者の代表作といえる『Stepping Out・・・』に的を絞り、本展示というよりも同名の写真集の中へ分け入って考える。

視覚・造形からのアプローチ①に拠れば、写真からは一貫して静謐さが伝わる。誰かの日常を撮っている感はある。にしては生活感や「誰か」個人の私的さはない。ましてや作者の生活感情ではないし作者の身体性すらない。Alec Sothから更に引き算して人間を消し去り、土地の血合いを抜いて、光景の純度を高めたスタイル。

が、美的な風景ではないし、造形や幾何学的な美を抽出しようというのでもない。「美」の側から見ると、写真には明らかに人の生活がある。しかし仮住まいのような、浅い定住地のような不確かさも漂う。住んでるのか住んでないのか。

 

どの写真もイメージ出力結果としては解なし、未定数となっている。出力結果としての写真はそこにあるのにも関わらず。言うまでもなく写真プリント、写された像は出力結果に他ならないから、それ自体が何らかの計測結果・演算結果としての解=数値であるはずなのだが、モニカの作品のイメージ像は更に入力を要する数式のようになっていて、像それ自体では何も具体的な回答(=事物や状況を指定する情報)が提示されない。そして何か思い当たりそうな推察、適当な名詞なり情報を入力してみても、やはり数式はぐるぐる回ってるだけで明確な解が出てこない。

 

後者のアプローチ②をとる。

改めてステートメントを読むが、訳文や引用のためか情報のフラット化に配慮しているためか、何が要点かが分からない。

何より、前提として最も分からないのが、東欧の事情であることだ。「ポーランド東部のビャウォヴィエジャの森周辺を横断するように撮影された」「ベラルーシ革命が始まった2020年8月から、ポーランドベラルーシ国境における移民危機、国境壁建設の契機となった2021年」「ポーランド語の放棄は、ベラルーシ国内では禁じられているベラルーシ語の象徴的な開放であり」・・・これらは日本の私にはあまりにかけ離れたところの事情、状況、歴史のことなので、説明文の文字が空転する。

 

作者HPを辿らないといけない。

monikaorpik.com

幸いにも本作に関するインタビュー記事や書評のリンクが複数あり、作者自身の目と外部の目の双方から本作へとアプローチできる。以下はそれらから得た理解を元に書いている。

 

撮影されたのは、ポーランド内のポドラシェ地方、ビャウォヴィエジャ森林地帯で、ここはベラルーシとの国境地帯にあたる2020年8月9日のベラルーシ選挙に対して大規模な抗議活動が発生、政府の厳しい弾圧が始まり、反体制派は国外逃亡者=移民と化して、国境周辺に逃れて来るようになった。

 

作者は元々、ポーランド内のベラルーシ人コミュニティに関するプロジェクトを開始するために森を訪れたのだが、滞在の翌日にベラルーシ選挙デモが起きてしまう。以降、この予期せぬ事態を巻き込みながら、徐々に、作品は制作されていった。

 

ここ=森/写真では2つの立場が混ざり合う。長らくここで生活を営んできたベラルーシ寄りのポーランド人・あるいは逆にポーランド寄りのベラルーシ人。そしてベラルーシ選挙抗議により当局に追われ、にわかに移民と化したベラルーシ人。

森に居たのは誰なのか、ポーランド人 or ベラルーシ人?が言葉の上で交錯するが、実際交錯していて、どのルーツがポーランド側で、どのルーツがベラルーシ側なのかは不明瞭なのだという。このことは作者にとってまさに他人事ではなく、ポーランド生まれの作者は幼少期からポドラシェの森に通っていて、なおかつ曾祖父の代からベラルーシのルーツを引いていて、どちらとも割り切れない。

国境によってでは明確に区分されえない地点に、作者はアプローチしようとしていた。国境は確かにある。だがそれは幾度となく揺れ動いてきた。何度も引き直され、その上にいた人々がその都度振り分けられてきた。森は国境とともに虚しさを湛えている。

そこに更に、予期せぬ、望まれぬ状況に追い込まれた人々が、移民としてやってくる。もはや自ら何人かという線引きを逃れようとするかのように。そもそも過去の線引きに意味があったのかという問いも生まれる。ポーランド人とベラルーシ人とを区分するものは何だったのか?森は、本質的な線ではない。逆に、森は中間的な状態――人種や民族の移ろう象徴的な場となる。

 

「集合的な歴史」と「不在の物語」という作者の言葉がここで当てはまる。

様々なルーツと事情を持った人々の言葉を聴き取り、その存在をあずかる上で、個別の場所、個々の物語を脱する必要があった。集合的な、誰もがその物語の主体となりうるように。展示では見られなかったが、写真集では15人のインタビュー内容が掲載されているという。語り手の15人は国名、地名、人名といった固有名詞を消され、ポーランドベラルーシという単語もまた消されている。さらに、作者もまた作者として語ることをやめ、物語が自発的に生まれるように構成された。

写真も全く同じ構造をとる。実際にはポドラシェ村だけでなく、ワルシャワブロツワフなど、十数カ所の村が撮影されているというが、全てはひとつの村・森であるがごとく、そこに佇んでいる。ひとつ、と数えることも無意味かもしれない。集合された光景はグレーな境界の広がりとして、東欧という地の地肌、あるいは腹の底を見せている。

 

そして、定常状態(定住)を失うことの危うさ。定常は、実は儚い。誰もが昨日までと同じ日々がずっと続くと信じて疑わないが、その保証はなかったのだ。政治的な力で統治された生活の安定は、実は虚ろであった。安定を保証していたはずの国境は、一転して、またしても不確かで、根拠のないものであることを露わにする。国境が虚ろとなる、すなわち保障や安定の虚ろとなった地帯で、移住者らは新たな生活を築かなければならない。人々の身元を決定・固定してくれるものが本質的には存在しないことと、写真の分からなさとは不可分であろう。

ただ、作者はこの不確かな移ろいに対し、ネガティヴというより「未知」という位置付けを見出している。国や国境は後付け的に私達を規定し定住を強いるが、それらは長い歴史の中では極めて流動的であり、私達は本質的には移ろいゆく移住者である、その道中にあたる光景が、この写真なのだと語っているようだ。

 

この空虚さこそが目標でした。私は二重の感情を表現したかったのです。何かを残して戻れないという空虚さと、何もない新しい場所に入り、新たに築き上げなければならないという空虚さ。それは抑圧と見捨てられ感と、より良い現実の可能性との間で揺れ動く感覚です。どちらか一方ではなく、両方であるということを伝えたかったのです。

magazynszum.pl

しかしなんせ、積極的に語らないことによって物語を自生させようとする作者の意図・手法・スタンスと、東欧の歴史的・民族的背景の分からなさが掛け合わさって、理解は困難であった。理解できないというより、解説やインタビューで語られる言葉と、作品・写真(集)で行われていることとを合致させ、一つのこととして飲み込めるまでに、時間を要した。本稿の後半に至るまでには、日本人である私には多大な時間を要した。東欧の歴史性は、遠い。いち鑑賞者には不可能な時間投資だ。

私だけでなく取材記事も難解であると指摘している。

この本は、何が起こっているのか理解するのが非常に難しいです。(中略)西洋の読者、いや、この地域やその文化や政治に馴染みのない読者にとっては、この本を読み解くのも、風景の奥にある意図された意味を見出すのも難しいだろうということは言えます。

cphmag.com

 

西欧人ですら「西欧人にはむずいです」と言ってるのだから、いわんや日本人俺をや。

 

だが、写真が良い。わけわからんでも、気になる写真であることには変わりはない。なので分かると、余計良い。語彙がいきなり減ったな、

理解が進んでくると、作者の物語化スタンスは、なるほどなと納得できる。できました。それで、写真集どうしようかなと思ったんですが、あんまり広くWeb販売されてない。

1件販売があったけど、円安がひどくて無理どす(※執筆時点、1ドル156円台を推移中。55ユーロ、すなわち10,120円。送料別)

<★Link_「sun archive books」>

Stepping Out Into This Almost Empty Roadsunarchivebooks.com

 

円高になりますように、、、

( ◜◡゜)っ 完。