世間に便乗した。2025年ベストをやる。

- ◆自分が観に行った展示ベスト5
- ①大阪・関西万博シグネチャーパビリオン_落合陽一『null²』
- ②Study:大阪関西国際芸術祭(全体)
- ③瀬戸内国際芸術祭2025(春会期・瀬居島)
- ④KYOTOGRAPHIE 2025_JR(京都新聞ビル、JR京都駅)
- ⑤「BUTSUDORI ブツドリ:モノをめぐる写真表現」(滋賀県立美術館)
- ◆行けなかったけど気になった展示ベスト3
- ①「ルイジ・ギッリ 終わらない風景」(東京都写真美術館)
- ②「知覚の大霊廟をめざして——三上晴子のインタラクティヴ・インスタレーション」(ICC)
- ③「笹本晃 ラボラトリー」(東京都現代美術館)
BTとかTokyo Art Beatで、美術関係者や文化人やらに今年の展覧会ベスト3を挙げてもらう企画が日々飛び込んでくる。当然あんまり目を通していない。ちくしょう。自分が東京に行けていない=明らかに重要な展示を観られていないことを自覚しており、後ろめたいからだ。傷口に塩とはまさにこのこと。塩!
塩!
いいわけをするなら、以下の要因で展示に全然いけてなかった。
- 業務がクソ多忙かつ責任とか精神的負荷が想像以上にクソたいへんで寝てた
- 生活環境の変化 ⇒時間の使い方とその考え方の変化
- 競合(旅、山、万博) ⇒事前段取り、事後の写真整理に多大なコスト
理由になってない。
何よりも、心身の疲労からのリカバーのために必要なオフ時間が、昔よりも格段に増した。うごけん。みなさん覚悟してくださいねこれが○歳からの疲弊湿地帯のリアルです。kakugoしとけよ家からも疲労からも出られんからな。別垢「うごけん」作ろうか? 国家は違法スレスレによくきくサプリを私に回せ。
この話はこれでお終いだな!
( ◜◡゜)っ
◆自分が観に行った展示ベスト5
とはいえ、何も観てないわけがない。少しは観ている。それを否定するのは、逆に私の観てきた展示に対して失礼ではないのか。などと私のゴーストが喚くので、記憶を辿り、顧みることにした。良心が残っていた。
どうせやるなら2025年ベスト5しましょうね。
「best」って最上級だから5つもあるのおかしくない???
狂ってんなこの世は。
①大阪・関西万博シグネチャーパビリオン_落合陽一『null²』
自分の2025年鑑賞体験を思い返すと最も異質で最も容易でなく、そして最も真っ当だったのが落合陽一「null²」@大阪・関西万博。
4月の万博開幕直後に鑑賞。残念ながらKYOTOGRAPHIEなどと時期が重なりまくっており、記録レポを残せていない。
これがアート、展示なのかという疑問も含めて、「null²とは何か」という解・形が分かりにくい。当然で、一般的な生活・仕事上で触れるどのジャンルにも属していない。フォーマットにも即していない。あの建物は、建築か。パビリオンか。鏡か。音響装置か。視覚装置か。未来の知覚コンテナか。あの内部空間は、インスタレーション空間か。パソコン内部か。演算そのものか。未来を啓示するモノリスか。あの演出は、哲学か。鏡か。電子演算の拡張か。アバターか。亡霊か。移管後の新しい実体か。遥か遠い未来のおとぎ話か。啓示か。
どれもそうであり、どれともいえない。領域を越境するにとどまらず、万物を包含し、変換し、亜現実へ移行させていく演算体だった。光を発さず、光を吸収せず、null²自体の色や姿は、反射(参照)された外界でしかない。震えていて、流体のように動く。本来は人目に付かないバックグラウンドで動いている演算が、新たな局面として物理的外界に姿を現わしてきた感がある。
そして内部(アトラクション)は、参加者の全身像、声・言葉が生成され黒い空間に立ち上がってくる。人間/個々人は演算によって向こうの世界に移行する。向こうとは?ここです。電子的な計算が作っている世界と、我々が物理的に立っているこちら側との境界が溶ける場所。現実や存在のありようが、次のステージに移行する。
「我々」が存在するより昔のことと、「我々」の存在が終わった後のこと、そして「私」の目に触れる範囲以上のことを、現・我々は認識できず知覚できない。物理的な断絶がある。だが演算によって取り込まれ、個としての情報を有しながら全体へと連なっている次元に達すれば、時空間の限界、というか時間や空間そのものすら消失する。「私」の中から数個の細胞を取り出してそれが「私」であるかを問うことに意味はなく、個々の細胞もまた「私」という総体を認識しないし必要ともしないのと同じか、いやもっと根本的な、零度の極楽往生めいたことが「我々」に起きる。そういうアトラクション/鑑賞だった。
私自身の鑑賞ログがないので、よそ様の動画や解説を借ります。
12月12日には、落合陽一と美術評論家・三木学、写真家エヴ・カデューの対談があり、それを踏まえて、仏教の観点から『null²』を考察する三木学評が詳しい。
落合陽一作品はまともに言葉にしようとするとえらいことになる。当の本人が大量の言葉/理論や世界観はては宗教観まで高速で連環させているので、拙い語彙と理屈を差し込むのはまさに起動中Cドライブの中身をプログラムの意味も知らない素人が迂闊にいじるがごとき暴挙、無謀である。どうすればいいかと言うと、逆に作者・作品の込めた原理や思想の構造的な中身は無視してそのウワモノとして稼働しているIF、アプリケーションの入出力の部分だけを触れてその感触を率直に語るべきだ。古代と未来の双方向的脱近代を身体で堪能せよ。
そのアティチュード体得機会を、万博は提供した。
これまでは、「落合陽一」という存在自体は知的エンタメとしてニューメディアとしてメジャーに流通していたが、作品・展示は決してメジャーではなかった。「落合さんは凄い、だが何がどう凄いかを言語化できない」というジレンマの頂点にそれらはあったように思う。目の前に提示されているのにその意味と理屈とテーマを言葉にできない、と。
落合作品は、電子的演算の領域をどこまで拡張できるか、というか全ての事象―世界を演算結果で明らかにし表わすのではなく演算そのものが全てとなって「世界」となりうることを表し、その成果としての一端を数式ではなく物理・空間に引き出して表現・体験可能である(数値の意味や数式の扱いが全く分からなくても)ことを過剰なまでに超領域的に試行してきた。近年はその試みが、人間、信仰、文化伝統、自然といった、我々(特に日本人)の感覚的な・身体的な領域にまで強く広く及んでいた。
展示を観る度にこれらをどう捉えればいいのか困惑と興奮があったが、ついに今回の万博でメジャーな層への受容に達した。爆発的にそれは増大した。私も含めて観客はわけもわからず喜んでいて、「よくわからないがすごいということがわかった」という奇妙な興奮と満足は、万博の中でもかなり異様なものだったのではないか。
そして上記のような、いくら言葉で説明を重ねても説明にならない、了解済の領界とは別次元の領域を出現せしめた点。これらにおいて『null²』は「大阪・関西万博」の全展示の中でも異色であり、傑出していた。万博内での全アトラクション、パビリオン、展示物その他の総合的評価や分類のチャート上には同列に乗せられない、まさにnullの存在だった。
万博会期終了後の「引っ越し」プロジェクトのクラファンも目標金額1億円を達成。2027年3月9日から始まる「国際園芸博覧会」、通称「横浜花博」での再展示が決まった。めでたい。
更に報が。12/26、『null²』制作記録映画が完成したとのプレス報道が入った。まだまだ多くの人間が万博の熱を引きずることだろう。万博で本物の「未来」を語っていたのは『null²』だけだったことの証左ではないかこれ。
②Study:大阪関西国際芸術祭(全体)
大阪府民だから「大阪・関西万博」を推したいというわけではないが、第2位も、万博に連動して開催された「Study:大阪関西国際芸術祭」。
万博開催前からリサーチとして3回開催されてきたが、今回が本番の位置付けとなる。
何が良いかというと、国内・国外のアートが大阪の市街地に一定規模で集まるのがよかった。
そんなとこかい、と思うだろうが、そこだ。おまえらなめんなよ。関西はアートがあるのはある、他の地方都市よりも恵まれている。けれども東京の規模とは比べ物にならない。単発展示はまだ多い方だが、国際的で領域横断的な展示に出会う機会は少ない。
中でも大阪文化館・天保山(旧・サントリーミュージアム)で催された「リシェイプド・リアリティ:ハイパーリアリズム彫刻の50年」が、実によかった。ハイパーリアルな、人を主題とした立体彫刻が集まり、異様なテンションがあった。彫刻体験が未熟な私には、衝撃があった。元・美術館のがらんとしたフロアに、人間も同然の存在が、何の音も立てず、立ったり座ったり横たわったりしている。人間と同等かそれ以上の存在感を催す彫刻作品は、見慣れてきた写真などの平面表現あるいはそれらを立体的に配置したインスタレーションとも全く異質のものを備えていた。
本展示がもっと大々的に、「大阪・関西万博」と一体のものとして打ち出され、動線も作られていたらと、惜しく思った。9月中旬、熱狂が高まり続ける万博とは対照的に、会場はガラガラだった。ただ、万博はアートを完全に呑み込んで、会場内の様々なアート作品を「無数の多くのものの一つ」にしてしまう恐るべき体験の場となっていたので、どちらが幸だったかは分からない。
③瀬戸内国際芸術祭2025(春会期・瀬居島)
自分でも意外なことに、瀬戸芸がよかった。
ベタもベタである。6回目を数える今回、何か抜本的に新しいものがあるのかというと、特にない(失礼すぎる)。
ないのだが、瀬戸芸という枠の中でいうと、何かが違った。
それを直感したのが春会期、瀬居島の展示「SAY YES」シリーズである。
展示の内容は上記レポを見てもらうとして、瀬居島の幼稚園、小学校、中学校(どれも跡地)いずれもそれまで慣れ親しんでいた「瀬戸芸」の典型的なパターンを超えた圧倒的物量とスケールと密度を叩き出しており、鑑賞処理落ちしそうになった。
典型とは、作家 × 地元民 × 風土・歴史等の徹底的協働を旨とし、空き家一棟を作品で埋めたり屋外にオブジェを置いたりしながら「対話」の瀬戸内を浮かび上がらせるものだ。「SAY YES」も基本的にぴったり遵守しているのだが、作品出力の量と密度とスケールが段違いなのだ。これは観客が素通り・即回れ右できないよう「対話」を鑑賞側にも全感覚的に強迫的に推し進めた構造で、YouTuberが視聴者の判断よりも先に早口で捲し立てて脳に話を流し込んでジャックしてしまうがごとき、そう皆さんお馴染みの昨今の現代アート展示の手法そのものである。
現代アートが瀬戸芸に流入してきた。奇妙な評だが牧歌的な地域丁寧対話だけでなく、処理落ちするぐらいの多角的多数の情報圧があるほうが、いちいちヒューマニズムや善性を求められずそれらのバイアスを挟まずに「アート」を体感できて、却って理解が進むところも大であった。よき。
④KYOTOGRAPHIE 2025_JR(京都新聞ビル、JR京都駅)
我ながらベタすぎると思うのですが、許してほしい。なぜ数ある写真展の中で、KGのJR展なのかと。アホかと。デカくて多かったら良いんかと。デカくて多くて溢れかえってたら感銘受けちゃうとか、アホかと。はい。
①数・量が多い ②規模が大きい ③空間を占めている、この3点で痺れているというのはまさに瀬戸芸・瀬居島「SAY YES」展の評価と全く同じだ。わりと単純というか、アホというか、しかしこの率直な評は何かシリアスなことを語っている気がする。
写真や美術やその他諸々の教養をはじめとする知性とか感性を十分持ち合わせていなくても、上記①②③が揃えば誰でも反射的にすごいなと反応する。思考は要らない、もしくは思考がその場の数や量に巻き取られる。ただそこで洞察力、考察力があったり知的トレーニングや科学的姿勢を身に付けている人は感動・情動をいったん排して、そこに働く力や力を生み出す構造やその構造を持ってきた理由・動機などを見るわけです。権力や暴力への批判、商業的・経済的な装置への警戒、などという形で。
そうなんだけどもそれをしたくなかったんだよ。
それが最大のポイントで、要は私は、「写真」の大きな移行期―絶滅期への下り坂とも思える時期において、恐ろしく分かりやすい解の象徴的な、バカでかい新古典主義的な偶像に出会ってしまったわけだ。「写真はどこに行くのか」の最もモダニズムで古典的な回答がまさにJRの展示だったことは、冷静に考えれば考えるほど疑いがない。保守のど真ん中を先鋭化させた解、この軸の極大解を得ることで、まだ得体の知れない未知数な、有象無象の現象やイメージに対し、これから「写真」と呼ばれるのか否か、あるいは「写真」から外れていくのか否かを見つめ考えるにあたっての大きな指標となるだろう。写真は、指標だ。
⑤「BUTSUDORI ブツドリ:モノをめぐる写真表現」(滋賀県立美術館)
写真に関わってるとこの展示はやっぱり欠かせないすね。
ものの定義に関わる展示は重要で、「ブツ撮り」という言葉はお馴染みだけれど、それがどこまでを指すものなのか、歴史を点検したり現在地から再定義することはなかなか一介の生活民には難しい。そもそも「写真」とは何ですかという時期におります。もっというとJRの項で漏らしたとおり絶滅期に差し掛かっているのではないかとすら思う。TikTokが憎いのではない。ただ今までと同じではなくなっている。いったん色んな解釈可能性を広げてみて小分類をして網羅して眺めてみる機会が得られたのが、良かった。
写真史の提示によって、時代ごとに新しい写真表現の切り口、世界へのアプローチが模索され、それまでになかった表現形態が生み出されていく様子が見えるのも、良い。写真を脱して新たなメディアや映像体験に生活が置き換わっている中では、写真のポテンシャルをすっかり見失ってしまっているのだが、何かまだ全然あるんでは?という気持ちにさせられる。ただこれ以上写真がメタ化していくともう情報そのものの複写と現像をすることになるし、反動的に先祖返りするのもなあ、どうでしょうね。素粒子撮ります?笑
◆行けなかったけど気になった展示ベスト3
行けなかった展示も挙げておきましょうね。なぜ人は展示に行けないのか。労働と老化が悪い。やはり脱法すれすれのサプリの解禁を
観られなかったものについて何を言っても後の祭りだが、自分の中で欲望や必然性を再確認することは、無駄ではない。未練がましいとも言う。ああう。
①「ルイジ・ギッリ 終わらない風景」(東京都写真美術館)
これは展示が面白そうとか話題だったとかではなく、必修科目であって、全く観てない者と少しでも観た者との差は圧倒的だと思う。
展示風景から作品を見るだけでもやばい。
あかん。やばい。ギッリの写真、絵画表現との関連にとどまらず、平面という次元への深い洞察と多彩なアプローチが見てとれる。一枚の平面の中に平面sがあって平面のままで複数の平面同士が関連しあって何か別のものをもたらし生じさせる、あるいは字義通りに写されたものを指し示すだけの平面ではなく像の一部(特に構成要素となっている平面)が字義的な意味性を陥没させて別の次元を引き起こす、なにこれ-2次元みたいな写真なんなんすかこれは
2次元(または-2次元)、平面について考えることは今まさに必要で、落合陽一は超空間的に電子・電算情報化された世界を物理空間側に引き出して提示してくれていたが、それはけっこうなサービスであって、実際には我々人類はめちゃくちゃ平面(スマホ画面一択!)でしかそれに触れられていない。例外を除いて平面だけが重要な鍵であり入口であることは間違いない。写真はどうアプローチできるのか?などといったことを考えながら鑑賞したかったです。はい。
②「知覚の大霊廟をめざして——三上晴子のインタラクティヴ・インスタレーション」(ICC)
あかんて。三上晴子は前から気になっていたのだが、まとまった形で観たことがなく、全然知らない状態。90年代で既に現在に直結するような情報アート、メディアアートをばんばん発表する、すさまじく進んでいた人という印象がある。すごすぎてわかっていない。分かっていないので知りたい。欲望を喚起するアーティストである。
自分の関心が情報、メディア、電気や電子に対して偏っていることを改めて実感する。しかしどの素養も持ち合わせていない。あるのに見えない、使えるのに使ってない、呼び出せるのに呼び方も呼び名も分からない、なんか、魔法の世界にいるのに自分には魔法コマンド自体がないので、人が魔法使いまくってんのを遠くから見て「わ、わぁ~」てふるえてる感じ。ふるえてていいすか?笑
③「笹本晃 ラボラトリー」(東京都現代美術館)
好きだ。電子だ情報だと言ってたかと思ったら身体パフォーマンス推し。節操がない。だってなあこれは惹かれますよこれは意味わからんもん。意味わからんものの中でも高位の、よきわからなさが詰まっていまして。ただでさえ私は平面表現や活字側の人間なので、時間と空間の次元が上乗せされると処理しきれず混乱するです。そこに、わけのわからん器具小道具がひしめいてる中を作者が地味にわけのわからん動きをする、仮設された「場」を出たり入ったり行ったり来たり開けたり閉めたり、な、なにこれと。なにしてるんですかと。やってる行為は特権的な身体能力由来の動作でもなく伝統的な型でもなく日常動作、いや、日常言語?
私が笹本晃を知ったのは2015年「京都国際現代芸術祭 PARASOPHIA」で、《ラストコール、誤りハッピーアワー》映像と、パフォーマンスの痕跡を残した会場を見て、地味にひっくり返るような衝撃を受けた。ひっくり返されたわけです。どこでどう転倒したのか未だに謎。
今回の展示について語っているインタビュー動画もあるが、「とりあえずドーナツにつながるようなああいう形とか」「空気をドーナツにするみたいな」「ドーナツをどうひっくり返すか」と語っていて、これだ。これです。同じ日本語を使いながら、この世界を規定している言語基盤が私のとは微妙に/全く違うために、その動作一つ一つが分かるようで分からない。分からないことで言葉や動作の意味がしばしば非常にソリッドに迫ってくる。詩と呼ぶのはたやすい。もっと獰猛な丸みがある。なんだこれは
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なぜ見なかったのか。時代が悪い。円安や宿泊費高騰が悪いし、私に仕事をさせてる会社も悪い。三日寝なくても思考と行動し続けられるサプリを解禁しない国家が悪い。むちゃくちゃを言い始めた。2025年はこうやって終わる。ああん。あほ。
なお2026年は更に多忙になるため壊滅が確定している。
終わった。
( ◜◡゜)っ 完。