【写真表現大学】10/20(日)研究ゼミ3
なんか久々に学校に来ました。
※今年度も研究ゼミ生です。
※今年度も研究ゼミ生です。(2回言った)
5月の授業に行ってから早くも10月です。何をしていたかというと展示、展示、展示を観ては書いて、書いて、書いてました。よかったですよ。
これでもまだ半分以上は書けてなくて切り捨てているので大変です。ままなりませんね。
書くことで何か生まれたかというと、展示作品との議論が進むので、それはいいことです。いいことですね。なぜなら鑑賞、感想は平等だからです。どんだけクソえらい人でも、感想のレベルにおいては対等です。どんだけ宇宙の真理に迫ったすさまじい大天才の超人がいても、鑑賞、感想が正しくできれば、それは1秒にも満たない間かも知れませんが、鑑賞者側と、対等な関係を構築できます。だからやります。やめられないです。
崇めるのは性に合わないし、見下したり見切るのはよろしくない。ましてや部分的に切り取って私的な政治利用をするのは最悪です。Chim↑Pomの《気合い100連発》を恣意的に切り出して非常識だの暴力だのと喧伝したような連中が健在である、いやWeb社会の成れの果てがそうした層に勢いを与えている現状であるからこそ、鑑賞における、ある種の愚直な「正しさ」を、誰かが地味にやり続けることは必要だと考えます。
私の書き綴ってきたことが「正しい」とは口が裂けても言いませんが、そうして愚直に、ああでもないこうでもないと論考する姿勢自体は「正しさ」として、曲げてはならないものです。卑屈になれば、政府がやってみせたような恣意的な権力の発動を招き、個人の表現の自由や内面の自由を快く思わない民の暴力を許すことに繋がるからです。そして、表現者らは命を削って表現しているからです。
( ´ - ` ) おわり。
皆さん作品が進んでいました。
忘れてたけど今は10月半ばを過ぎる頃でしたね。つまり来月は11月ですね。そういう時期でした。
この1年は高度な完成された展示品を相手にワーワー書いてきたので、まだ強い力で貫かれているわけではない、厳密なセレクトを経ていない、発表の形態にまでなっていない、「案」の手前のもの、に、意見を述べるのは改めて辛かったです。相手がフィニッシュに至ってない状態では、どこまで言えばいいのかよくわかりません。とりあえず褒めたらいいのかも知れないですが、それは無責任すぎます。という葛藤があり苦戦しました。
そこは、才能や個性を伸ばしたいと思うかどうか、教育や育成の観点を持ち合わせているかどうかだと思います。私に決定的に欠けているものですね。ワンマンプレイヤー意識が強すぎる傾向がよく現れています。
では私がどうなりたいのかと言うと、たぶん目標やモデルがありません。ただただ、優れた作品とやりあっていると、此処でも向こうでもない、異様な世界に行くことができます。異次元への到達、そのことに多大な価値を見出しているのは事実です。仏教観じゃないですが、現世の細々したあれやこれやのしがらみとか上下関係とか政治性とか愛別離苦の輪廻から一瞬突き抜ける境地が、優れた作品の持つ力なのではないかと思います。結果としてそれらの要素について現実的見地から言及することとなったとしても、それを書かせている動機の根源はかなり異次元的なものです。もう一つの体というか。
その、もう一つの体への乗り替わりの瞬間を、可能な限り連続で叩き込みたいというサガがあり、それは恐らく評論ではない、もっと別の、私の内面に深く関わる動機ではないかという思いから、自分のやっていることは「感想」と呼んでいます。ほかによい日本語が開発できたら呼び改めたいところです。結局その営みが「評論」なのだよと誰かが教え諭す日が来るかも知れません。そうではないかも知れません。
ただあくまでこの世界は現世であって、あまり異次元に向かっていても、私の周囲の人たちは少なからず置き去りになるわけで、死んだわけでもないのに置き去りにされた側はたまったものではなく、私が関わりを持った以上、この世界とは何らかの生の応酬があるべきで、そういうことから、もう少し学校には顔を出して口を開くべきなのかな、と思いました。
なんでこんな臨死体験を経た輩の感想になっているのか分かりませんが、今年はそういう旅をしてきたということだったのかもしれません。
( ´ - ` ) 完。