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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/KG+SELECT 2019】藤安淳「Sense of Wonder」、中井菜央「繡」、アルメル・ケルガール「Anatomy of a French family - investigation in progress」@元・淳風小学校

藤安淳「Sense of Wonder」、中井菜央「繡」、アルメル・ケルガール「Anatomy of a French family - investigation in progress」。

三者三様の「家族」の形を見る。

 

 

  

 

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 家族、血縁は身近なテーマで、実に多くの観点から語られる。例えば生物学や遺伝の側面から、先祖の歴史から、法律上の制度から、日常的な人間関係から…

藤安淳は双子という類似・相違した存在の側から、アルメルは一族の系譜という博物史か、中井は解体された個の生から、それぞれに「家族」を語っている。

   

◆藤安淳「Sense of Wonder」

双子の写真が基本2組の対で並び、教室内に設けられた擬似的な家(家庭)の中へ観客は招き入れられていく。

作者自身が双子であることを踏まえて、自分達かどういう存在としてこの世にいるのか――個としてのありようを模索することが表現の動機となっている。

 

双子は、家族という括りの中でも独特の存在である。2人のどちらかを個として認めたとき、片割れはまた別の「個」となるのだろうか、それとも準・個として認識されるのだろうか。藤安が問い続けているのは同一性と差異である。どこまでが同じで、どこからが異なるのか。

作品に登場する双子らは興味深いことに、まるで1人の個人を別の日に撮り直したかのように生き写しの写真もあれば、全く別の他人として映る写真もある。特に幼少期から学生にかけては同じような服装、髪型をさせられていて、区別が困難なぐらい似ている。しかし自分たちのそれぞれの人生、生活に分化した先では、それぞれ別の人間としての風体、風格を帯びるようになる。要は環境なのだろう。

 

家系図や戸籍謄本、遺伝子検査など、制度上の「家族」においては、双子は特別な意味は持たず、あくまで2人はそれぞれ個別の存在として認識され、機械的に配置される。だが双子である当事者らにとって、お互いの間柄はいかなるものなのだろうか。2人の自己認識は互いにベン図のように重なり合っているのか、互いを別人と割り切っているのか、それとも超並列の存在としてパラレルと見なす感覚があるのだろうか。お互いをどのように認識し、どのような関係性があるのか。本テーマは、まさに当事者である作者にしか切り込んでいけない、未知の領分だ。

会場である教室の黒板には、取材対象の双子らが互いの存在について語る言葉が溶け込まされている。 

 

双子という存在が、外見上の類似性から同一化されて、どちらかの(どちらにも)「個」に重なり合わされてしまうということ、しかし環境によっては「個」は各々に独立して認識されるということ、そうしたことがよく分かる展示だった。

 

だが、双子である当人らにとってのお互いは、どうなのか。現時点では、本テーマが秘めているであろうの深遠な提議、「家族とは一体何か?」に立ち入る手前で、客観的にきれいにまとめられていて、その先には行けなかった。ここに示された、双子たちの多様性の先にある、何か重要な、絆ともひずみとも付かぬものが、写真によって探求されたならば、溶け込まされていた黒板のテキストは俄然、意味を発揮するのではないだろうか。それは類似性から連想する比喩としての神秘さなどではなく、「家族」や「個」を巡る深遠な力を問うものになるはずだ。

 

 

 ◆アルメル・ケルガール「Anatomy of a French family - investigation in progress」

アルメルは「家族」を掘り返し、実に124名もの親族を系譜として書き出し、家系図に配置することに成功した。本展示はその根拠資料と、過去と現在とを映像によって結び直す。

物量自体が作品であり、意味である。

 

自分自身の事例で考えると、まず一般的な家では家系図の管理をしていない。ひいひいお爺ちゃんがどうのと、5世代ぐらいまで遡ることができれば大したものだろう。横の繋がり・広がりに至っては、もはや血縁と呼ぶには遠すぎて、全くよく分からない。「家族」とは、放っておけば拡散して、いつか見えなくなってゆく分子のようだ。作者はそれを再配置し、DIYで歴史を紡いでいく。それは歴史という制度に近い力にも転化してゆく。

するともう一つの可能性に思い当たる。いち個人が、その系譜を強固に編み上げてゆき、根拠を取り揃えてゆくとき、それは歴史的に特権的な立場にある人達と遜色のない力のようなものを帯びるように思われるのだ。

貴族や皇族の権能の根拠なり源をひどく乱暴に言うならば、個人史の系譜における正統性が物証その他で担保されていることだろう。まさに先祖代々、家系図が管理され、出自が「歴史」として刻まれていること、国や地域の歴史と共にその個人が紐付けられ、それらとの同一視を催させること、それが権威の源泉ではないだろうか。

 

アルメルの制作意図には権威や権力に関する話は無いが、「家族」の系譜を練り上げてゆく膨大で執拗な作業はまさに「歴史」そのものを作ることと同義だと感じた。個人の側からの意図せぬカウンターになっていて面白い。それはもはや写真の展示ではなく、写真を動員しての歴史作りの展示であった。写真が効力を発揮していたのは、歴史の証人として過去の事実を語ることと、過去と現在を映像の共鳴によってリンクさせることだった。 

会場に何点の展示物があったのかは分からない。とにかく、写真と資料の森である。ファウンドフォト的な過去の写真の収集から、現在を撮ったもの、書物の中に登場する先祖の存在、資料、資料、資料だ。小さな博物館である。それらは日本語ではないし、日本語訳が付されたものでも全てを押さえるには体力も時間も追い付かないので、精読して意味を解することは、一般の観客にはほぼ不可能だろう。 

 だからこれは、資料を読ませる展示でも、写真を読ませる展示でもなく、歴史をDIYで構築していく試み自体を見せる展示と見なした方が良いだろう。

 

「家族」を辿るに当たって、直列回路を作るような発想が、国によって「家族」の捉え方、在り方が全く異なることを現わしていて、興味深かった。

しかしKG+SELECTの冊子を読む限り、本作のポートレイトはこだわりを持って撮られたらしいが、会場では1枚ずつがインスタレーションとしての「配置」へ追いやられ、写真として読むことがほとんど出来なかった。単体で掲載された写真作品はそれだけで力があったが、会場のどこにそれがあったかは全く思い出せなかった。見せ方を抜本的にスタンダードに寄せても、写真作品としての率直な力が訴えかけてくるのではないだろうか。

 

 

 

◆中井菜央「繡」(しゅう)

「家族」が個の存在となって周囲の人達、自然界の事物と関係を結び直す。 

会場のインスタレーションが語るのは、紐 、繋がりである。作者の祖母は9年前からアルツハイマーを患い、記憶や意識が変容する中で、周囲との関係性もまた変質した。作者は祖母を「個」の存在として捉え直して撮影し、同じく、身近な家族やその他の人々から日常にある万物もまた「個」と見なし、それらをポートレイトとして収めた。

 

認知に異常を来すことは、世界の体系が損なわれることと同義だ。精神疾患にせよ認知症にせよ高次脳機能障害にせよ、それまで自己を主体としてバランスを以って関連付けられていた外界とのマップや手順書が紛失、解体され、秩序が失われてしまう。では秩序のない世界とは何か。全てが等価な「個」として立ち上がると言えばよいだろうか。

 

アルツハイマーでよく聞く症状の一つに「いつも行き来していた道が分からなくなり、迷子になった」「普段の生活動作の意味が分からなくなった」などがある。その時、本人の認知のマップは解体しつつあり、関連付けられ整理されていた人物や事物は、ばらばらに個々の存在として立ち現れているのだろう。家族という間柄すら例外ではない。子や孫も、隣近所の顔見知りも、見ず知らずの人も、誰もが等しい情報量で、重要度の判別のない「個」として現れるようになる。

 

本作に現れる多彩な被写体は、そうした祖母に生じた存在のあり方の変容を、病ではなく、それもまた「生」のあり方として前向きに捉え直した結果なのではないだろうか。

家族と思わしき、顔かたちのよく似た人達に加え、作者や祖母の知人なのか、縁の遠近の不明な人達が多数登場する。(ギャラリーメインで同時開催された、同名の展示では、まさにこの人物だけをひたすら直列に並べて展示していた)

 

そして樹木や草花、蝶、雨に濡れた石など、一見関連がなさそうな事物や光景も多数、織り交ぜられる。祖母の内部で解体された世界の秩序から、新たに立ち上がった「個」の生きる世界を前向きに体現したかのように、それらは多彩である。そしてその中にも文脈らしき繋がり、関連し合う背景や動きが見い出される。それらをどう結び付けあうかは、鑑賞者次第であるが、決して物語を生成することはない。あくまでそれらは「個」として、生のままの世界として立ち現れる。「個」のまま、会場に垂れ下がる紐の連想を得て、何かの繋がりを企図されてゆく。この祖母は「個」に還ったが、それはまた新たな形の繋がりを得たのだという、希望を感じた。

 

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