「写真は変成する」展は、大胆に「写真」を慣習や約束事から突き放すように変成・流動させる、刺激的な実験の場である。3回目となる今回は京都芸術大学だけでなく東京工芸大学との共同展となった。
変成、実験、試行と展示。今回は今までになく思う所、考えさせられることがあった。迷い迷いレポしていきたい。
【会期】R5.2/20~3/4
- ◆展示全体の感想、前2回との違い
- ◆自己/「私」に深く迫るもの
- 【6】菊池詩織《野性の叫び声》
- 【8】大矢彩加《ひと塊の執着》
- ◆身体、触覚、知覚に訴えるもの
- 【2】中川桃子《Heavy drag》
- 【5】原田一樹《波は身体に押し寄せているか》
- ◇散乱・解体したもの・意味や形の揺らめくもの
- 【3】森凌我《バー・ティーンノットがあなたを引き止める》
- 【4】高尾岳央《Sails》
- 【9】金田剛《イメージは、瞼裏の海から生まれる。》
- 【12】小林菜奈子《風が吹けば桶屋が儲かる》
- ◆風景・視界を改めるもの
- 【1】道場美秋《σ(x、y)》
- 【7】高橋順平《Where is ND》
- 【10】シン・ウシン(Shen Yuxin)《Long take》
- 【13】宮本十同《The twisted border》
- ◆装置、物性の強いもの、そしてメディア
- 【11】成瀬凛《受動と抵抗を繰り返す、あるいは》
- 【14】大澤一太《絶え間なく行われる官能的な行為/唐突なピリオド》
- 【15】大橋真日菜《人間という生き物は》
今回は早めにSNSで開催の告知があったのでスムーズに予定を組むことができた。会場もギャルリ・オーブ内だけでなく、手前の階段~エレベーター通路部分にも拡張され、より充実した体制が取られた。
前2回は新型コロナ禍の真っ只中で、まだ感染対策に神経質だった状況のため、あまり広く公開されていなかった。特に2021年の第1回は、卒展・修了展自体が完全予約制のクローズ開催だったこともあり、学生の関係者でなければ予約が取れないという厳しいものだった。その意味で、通常の卒展・修了展の性質に近付いたとも言える。
(参考)2/4~12に開催されていた卒展・修了展
キュレーターは計4名。これまでと同じく京都芸術大学の後藤繁雄(教授)、多和田有希(准教授)の2名に、新たに高橋耕平(准教授)と、東京工芸大学から川島崇志(助教)が加わった。
2校の生徒の内訳は明記されていないが、出展作家は計15名。第1回は17名、第2回は19名(うち2名はゲスト)と、展示スペースは広がったが出展者が減少したことが、後述する展示密度・世界観の緊張度に影響していたのかもしれない。
また、期を同じくして、東京の国立新美術館では、京都芸術大学と東北芸術工科大学の合同学内選抜展「DOUBLE ANNUAL2023 反応微熱 これからを生きるちから」(会期:2023.2/25~3/5)が開催された。こちらは本展示とは別枠で、写真・映像に限らず分野横断的な企画だが、同校が精力的に在学生を展示の現場に送り出していることが伺える。
◆展示全体の感想、前2回との違い
端的に、性質が大きく変わったと感じた。
前2回が主催者の狙い通り、先鋭的な試行・実験の場だったのに対し、今回は通常の卒展・修了展の延長線上にあった。個々の作品のテンションや思考、会場の密度が平熱に近く、言わば、閉じられたマニアックでコアな場から、一般に開かれた安全な場へと転じていた。
(参考)第1回展示レポ
(参考)第2回:京都芸術大学広報課の記事
(※第2回については、鑑賞し記録も行い、雑誌『写真』Vol.2の展評欄にも掲載したが、私の力がアレで肝心のblogに書けていない。がんばりたいと思う(白目)。)
「いや、この場は先鋭的な”攻め”が為されているはずだ、私のコンディションがあれなのではないか」とぐるぐる回って確認して回ったのだが、考えた末、やはり私の感覚の問題というより展示自体がこれまでから変質しつつあるためだと結論付けた。
参加人数と展示会場の拡張・オープン化により展示の密度が下がったためだろうか。いや。それは要素の一つに過ぎない。
各作品の展示形態は確かに物理的に攪拌されていて、「写真」の意味や形態を解体、分散、攪拌させているのがよく分かった。のだが、散乱の跡があるだけで、その行為の内・行為の先に見るべきものがあまり無かった。解体の後に私は立っていた。平板で安定した・・・
そこには「写真」(情報発信のメディアであり、古典的で近代的な芸術であり、私達の受容体のパターン、規約でもあるような、広義の”写真”)に対する意味、性質への問い直しや挑発が、どこまであったのか。問い直しの作業のためには深い知識や洞察、尋常ならざる試行など、何か一定の水準を上か下か横かに逸脱するものがなければならない。ないものねだりではなく、そういうものが前2回には確かにあり、闇に光るニューロンの不規則な蠢きを感じたのだ。要は、場を牽引してきた力のある先輩らが抜けた、展示スタイルの自己模倣が起き始めている、ということなのかもしれない。
結局のところ、会場で最も/格段に強い説得力を湛えていたのが菊池詩織《野性の呼び声》と大矢彩加《ひと塊の執着》、つまり従来の写真的な訴求と問い掛け:私とは?私の姿とは?他者から見た時の私の魅力とは?を率直にやっていた作品が圧倒的パワーで独り(二人)勝ちしていたのが、何とも奇妙な気分であった。
それぞれ展示形態の切り口からレポを残しておきたい。
◆自己/「私」に深く迫るもの
先述のとおり「私」を問う作品。秩序や形態が崩壊した後の世界においては、人間の生きる姿に意味が生じ、目が行くということなのか。あまりそういう「旧来の写真が結局一番強い」みたいな安直なことは言いたくなかったのだが、今回はそう感じざるを得なかったので、素直に書き残しておく。
ならば他作品は崩壊の最中や途上の、あるいはその先のエネルギーや作用機序について語らねばならなかったのか。場を崩壊前の臨界状態に戻すか、崩壊後に分化し伸展した無秩序なまでの力が必要か。ともかく二人の作品は強かった。
【6】菊池詩織《野性の叫び声》
卒展・修了展で出展されたのと同じ作品である。相変わらず圧倒的な強度を誇っていた。むしろ前回は個室だったのが、グループ展の形態になって他作品と同じ空間に入れられたことで、その凶悪さが実感できた。なお、作者は前出の国立新美術館「反応微熱」にも選抜され出展しており、その実力が伺える。
(参考)卒展・修了展での同作品
強い光が射し込んでアクリル面が反射していた前回の会場と違って、今回はクリアに毛と毛穴(写真に開けられた植毛の穴)が見え、一層の野性味が物理的に目に飛び込んできた。若い女性のヌード=視線を誘引する引力と、剛毛に覆われた野性動物の体=目を逸らすべき危険・不快さの斥力という、強烈に対立する力が同時に働いている。
ステートメントでは、文明・産業化の発展とともに地球上の簒奪者となった人間に対する不信感を露わにしており、フェミニズム的観点などではなくガチで「野性」と近代化された「人間」(脱・動物)との関連について考察しており、シンプルな力に驚かされた。
【8】大矢彩加《ひと塊の執着》
圧倒的だった、他作品が問題にならなかった。菊池詩織作品以外、誰も「ホクロデカ」「ホクロさえなければ」の一言に勝てなかった。
言われなければ別に何も気にすることがないのだが、本作の主題はホクロである。
その一点に尽きる。それ以外にない。
それゆえに色んな意味で大変である。
とかく美容や美貌、外観のコンプレックスというものは厄介で、本人にとっては人生や生き死にを左右するぐらい一大事となる。一般論で言うと、加齢とともに社会的・経済的な活動やコミュニケーションの評価のウェイトが高まり、ルックスについては衰えもあって問題にならなくなっていくが、幼少期~ティーンの頃には、多くの一般人にとっては他者と自己をやりとりするものが「それしかない」世界のため、標準や理想からの外れ値について残酷なまでに背負いこむことになる。
コンプレックスの特徴は落差にあると言っても良いだろう。それを負ってしまった本人と、その種となる言葉・評価を撒いた周囲とで、受け止め方の非対称性が甚だしい。直接的に生命や健康あるいは財産が脅かされるわけではない。本人も人間関係など環境によって距離を置くことができたり、時に距離がゼロになったりする。トラウマとの違いはそこにある。
本作が見事なのはメッセージ画面等の日常的なコミュニケーション、言葉の吐露の書き付けを写真に織り交ぜていること、その言葉のセレクトと配置の妙によってほくろ=コンプレックスとの距離感の揺らぎを場にもたらしている点だ。本人にとっては重大事、常に過剰に気に病んでいる、だが見る側にはそのことが分からない、また慰められたり気を逸らされることで本人も距離を置くこともできる。そのような緩急が観る側に与えられているのだ。
そして本作は多角的な問題を提起している。あらゆる分野に及ぶだろう。最も痛切に感じたのは「誰がこんな世界にしやがったのか」だ。世界である。誰かが美醜の価値評価を繰り返し下してきたから作者はここまで背負い込むことになった。誰か、それは不特定多数であり、社会が掛けた負の呪いである。一朝一夕にそうなったのではなく、古来から疾病への恐怖や経験則などが感性に継承されてきた結果であろう。そこに美容や美醜の価値判断が組み合わさっている。
ここまでならフェミニズム的な批判意識から理論武装すれば乗り越えられそうでもあるし、逆に割り切って美醜の価値観に完全に乗っかる、つまり唯物論的に異物と見なして「手術で除去する」を選べば最短で勝者に回れる。
だが更に厄介なのは、その容姿(ほくろ)を「あなたらしさ」と肯定する、正の呪いも掛けられていることだ。ここには多くの場合、親子関係が絡んでくる。両側から締め付けられることで「手術で取れば良いじゃない」と片付けられない葛藤を与え続けている。このバインドがうまく表現されていた。
これらの問いは非常に深いものをこちらへ与えた。安全圏内に留まることを許さない問いである。良い作品だった。
◆身体、触覚、知覚に訴えるもの
上記のカテゴリーに重なる部分もあるが、身体や知覚をクローズアップした作品があった。これらは「私」(作者自身)という主体を離れ、もっと即物的なアプローチを取る。
【2】中川桃子《Heavy drag》
ビジュアルのインパクトは、本企画でも卒展・修了展を合わせても最も強い部類に入る。身体の一部が曲線を保ったまま歪み、引っ張られて延ばされ、器官だけが連なった姿を呈している。言わば人間としての道を歩まなかった、同じ素材と器官を持ちながら、別の進化を歩んだ亜人種である。通常のヒューマンポートレイトの路線を歩まなかった、肖像未満写真とも言えるだろうか。
だが本作の鑑賞で解釈を戸惑わせたのは、この夥しい歪み・誇張の変形ではなく、性的さ思わせる演出である。変形だけを取り上げるなら全く許容範囲だった。人間から知性や主体を引っこ抜いてグニャグニャの「パーツ」に終始させた描画は一見、宮崎駿を激怒させたドワンゴ創業者・川上量生の作成した脳なし人間キャラ映像と類似した問題を思わせるが、本作は「わたしはわたしの輪郭がわからない」とのステートメントから、作者が自分で自身の身体を扱ったものだと推察できる点で、倫理観の問題は自己言及・自己批判の観点からクリアされている。
ここではあえて明確に提示された黒い下着と、下着の上や全身にベタベタと付着する白い糊のような粘体が、直接的すぎる性的な仕掛けとして映り、困った。下着は写真や比喩ではなく、写真に本物の下着が着けられている。その上にべっとりと付着する白い粘体。作者の意図は不明だが、ビジュアルとしてリアルに「そのまま」過ぎるため、脱皮したエイリアンのように全身から体液を垂れ流しているという演出、あるいはガチで作者の身に触れた異性の跡と虚脱や混乱に襲われた体験の演出、などと解釈の枝を伸ばしてみるものの、解釈の余地が奪われ、どうしたらよいか迷い、読解を停止せざるを得なかった。
【5】原田一樹《波は身体に押し寄せているか》
スーハーと息を吸っては吐く音が聞こえてくる。
展示会場の「ギャルリ・オーブ」は大きな一つの部屋だが、部屋の隅にその奥へと続く細い入口が開いている。吐息はそこから流れてくる。入ると細長いL字型の部屋が続いており、物入れのような場所で、写真が床置きされ、壁に海の波の映像が大写しされていた。波が寄せては返す。そして吐息の音が繰り返し響く。
人間の体と海の波、月の引力などが繋がっていることを語る作品だというが、それぞれの構成要素、着想、世界観は良いのに、それらを一体のものとして体感できず、スケール感が掴めず、吐息の音だけが耳に付いて終わってしまった。勿体ない・・・ 片目のクローズアップ写真など、1枚ずつのカットも示唆に富んだ良いものだと思うが、この展示形態ではバラバラに零れ落ちていってしまった。
◇散乱・解体したもの・意味や形の揺らめくもの
「写真は変成する」企画の本懐とも呼べる、大胆な解体や再結合を試みる作品である。従来からの「写真」・・・美しいプリント、しっかりした額装、しっかり写された被写体・撮り手との関係性、解像度あるいはボケや遠近感、日常あるいは特殊性の記録・・・そのような従来からの平面表現としての権能・権威が強固であればあるほど、解体の意義は高まる。
だが全ての前衛的表現の宿命として、繰り返されるとすぐにそれが新たな定番、フォーマットとして定着する。すなわち自己模倣が始まる。また、作り手にとっては先鋭的な試みであっても、鑑賞側が既視感を覚えるようになってくると、従来方式との比較(=普通に出力した方が良かったのでは?との問い)がつきまとう。
作品が自己模倣の罠にかかっているのか? 鑑賞する「私」が鈍磨し始めているのか?解体の先に何を見ているのか? 解体の跡だけがあるのか?
【3】森凌我《バー・ティーンノットがあなたを引き止める》
見事な「写真」の破壊・解体で、写真自体も展示形態も会場としても、しっかり物理的に視覚的に解体されている。「写真は変成する」の代表選手に相応しい。謎めいたタイトルは「But I cannot hold you back」という英詩をカメラ越しに翻訳アプリに掛けたところ、AIが誤って「Bur teannot hold you back」(バー・ティーンノットがあなたを引き止める)という文章に変換してしまったことに由来する。
本作はAIの誤検出を起こすプログラムに模して、作者自身の行為を意味・文脈から脱したところに置き続けて制作したものだという。
非常に面白く、有意義な試みである。AIは今こそ旬で、「創作」「思考」「会話」において異次元の振舞いを見せており、僅か数カ月で人間のよき対話相手・伴走者として無視できない存在に躍り出た。
ゆえに懸念がある。AIの誤検出や誤読はこんなに乱雑な、意味の削れた代物だろうか。むしろ災害の爪痕のごとき本作の様相は、AIに意味を読み取られまい、AIに絡めとられまいとする人間側の(人間的な)メタな抵抗なのではないか。
というのは、ChatGPTでも各種イラスト生成サービスでも、AIの仕事というのは「知らないことを尤もらしく穴埋めして取り繕って出力する」、個々の事物の意味や定義がガタガタでも総体として対人コミュニケーションが成立している(ように見える)よう構築・出力する、という、実に人間めいた挙動をやってのけているのだ。無限のラリーに耐えうる、人間的な言語身体性を持っている。
本作は実に誠実に「写真」の意味や痕跡を細かく削除し解体しているが、何だか哀しい残骸である。何というか、スマホを床に叩きつけて割った後のような、哀しい風が吹いていた。
個々のプリントにはプログラムとエラーを感じさせるものが写っている。これらを綺麗な紙でまっすぐずらっと並べて提示した時、AIめいた毅然とした態度(と空疎な誤り)が示せるのではないだろうか?
【4】高尾岳央《Sails》
幼少期の頃、強い台風が家を直撃した時に、家の軋みや窓の立てる音から外の世界がかき混ぜられる様を想像したという。その混乱と暴動の、目にしていない心象的な情景の作品だろう。目を瞑って踊り狂ったような動きの軌跡が気持ちいい。
素材が「キャンバス、木材」だけで、この踊るような描線がどうやって刻まれたのかは分からない。2つの距離があって、キャンバスの奥に焼き付けられた曲線・描線と、キャンバス表面に濃い黒のスプレーを吹き付けたような塗りと飛沫の部分とがあり、異なる2段階の工程で作られたのではないだろうか。
前者について考えられるのは、感光紙に直接、フォトグラム的に紐を置いたり物体を動かして焼き込みを調整したか、撮影時に真っ暗な中で長時間露光し、ライトを持って激しく振り回したものをネガ反転させたか。直接に目に見えない中で、騒々しい暴威を写し込むという行為なら後者のライトペインティングの方が動きの激しさ、複雑さがそのまま焼き込める。前者であれば巨大な印画紙を暗室で動かすことになるのでこうも複雑なひねりを沢山入れられないだろう。
写真というより絵画にかなり近い作品で、そもそも「写真」とは一言も言っておらず、零度のストリート系パウル・クレーを見る心境だった。どれだけ激しく動いて描いても、絵画と異なり筆致は1ミリも厚さが乗らず、ただただ触れられない内側、網膜の中に沈む記憶のような描写になるのは興味深い。
【9】金田剛《イメージは、瞼裏の海から生まれる。》
作者のテーマ、意図通りの会場セッティングが広がっている。
海の底を思わせる会場は、作者が幼い頃から体感している寝る前のルーティン「眼閃(phosphene)」、閉じた瞼の裏で様々な色と形に変容する光の模様を見る現象に基づいている。白く積み上がるものは、目を閉じたまま光の残像を描きつけたドローイングの紙だ。このモチーフを基に連想ゲーム的にイメージを発展させたのが本作だという。
作者がビジュアル構築・出力に優れていることは、2020年度「写真新世紀」優秀賞受賞作品《M》で明らかだ。私は展示を観ていないが、2022年4月の「PITCH GRANT」プレゼンでもその点を了解している。
本作でも個々の写真のビジュアルは魅力的で力があり、もっと中身の細部を見たいと感じたが、写真は舞台仕立ての背景やパーツに後退していて、壁に近付いて見ることが出来ない。積み上げられた諸々のブツを作品として観ることになるが、これらが写真の中身を超えているかというと疑問で、積み上げられたブツであって、没入感が意外と乏しかった。
そして光の具合や配置の角度などが影響してか、立てかけられた白いものがベッド、その下に積まれた白いクシャクシャがドローイング、と、これら全体が「眼閃」を意味することに気付くまでにかなり時間を要してしまった。ただ何かを解体しただけに見えていたのだ。ベッドと判ってからも不自然さが強く、モノとしてバラバラに見えていた。
片山真理がKYOTOGRAPHIEや岡山芸術交流でやったように、インスタレーションであっても写真の面を主役として見せる方が作者には合っているのではないだろうか。
【12】小林菜奈子《風が吹けば桶屋が儲かる》
さすがに分からなかった。
「本作は、本来「風」を感じる感覚、聴覚を用いて多様な「風」を吹かす(付加す)装置である。」
水色にプリントされた大きな布が吊るされ、囲いの中央に置かれた扇風機でプリントが揺れている。
布は大きく2種類あり、極薄で半透明に透けたものと、ビニールのように厚く光沢を帯びたものがある。どちらも淡いブルーを帯びている。
日本語で「風」が様々な意味を持ち、様々な表現に用いられること、しかし目には見えないことから、「風」の多彩な意味と表情と物性を総合的に感じ取れる・想像できるようにしつらえられた空間なのだろう。
意図は理論として十分に分かるが、それが理屈を超えて体感できたかとなると、何も動くものがなかった。
この布を押しのけたりスリットを通って出入りする時に、ブルーと透明さとの距離がぐんぐん変わってゆく中で、何かを得られそうな兆しはあった。風力やそよぎで伝えるか、ビジュアルだけで強力に伝えるか、布の物性から体に伝えるか・・・
◆風景・視界を改めるもの
私達が通常に見ている「風景」「視界」に対して揺らぎをもたらす作品である。日常の時空間として安定的に埋もれているものをあえて切り出し・掘り返し、改めて異物に提示してみせる、ある意味で日常を揺るがすテロリスト的な試みでもある。
【1】道場美秋《σ(x、y)》
静かに刺激的な作品である。3次元=空間を表すはずの建物の「角」は、平面に還元された状態で並んでいる。個々の建物・部屋としてのアイデンティティーは失われ、「角」という三角形だけが繰り返されている。奇妙なことに、奥行きが消失したことで これらは「山」の概念写真、幾何学的な山を横/正面から見た像と化した。
座標で言うとxとyだけがある状態だが、棄却されきらなかった奥行きのz軸がy軸へと折り重なって強調され、画面全体としてのy軸は「角」の頂点よりずっと高い位置まで延長されており、ここに概念としての空を見てしまう。縦長の山と空の概念的な図像は山水画のプロトタイプのように真空を湛えている。形の純粋さ・シンプルさに加えて色がグレーとホワイトしかない世界は、電子顕微鏡で見た像を思わせた。見せ方によって、他にも様々な視点を提供しそうな作品である。
【7】高橋順平《Where is ND》
走光性に駆られて火に飛び込む羽虫のように、人間も光の引力に引かれることを宿命づけられているのではないかと思い、賑やかに焚き火を囲む人たちから離れて暗闇へ向かって歩き出した作者。中世に補陀落浄土を目指した行者の多くは辿り着くことはなかったが、ここでは「あった。ほんとにあった。しかし、なぜ?」「どうして辿り着けてしまったのだろう。」と、どうやらどこかへ到着したようである。
だが、どこに?
パネル3面に投影される動画はそれぞれ1時間半、3時間超、4時間超で、どのタイミングで見ても夜道を歩いているところが延々と映し出されており、その結末を見届けることなく鑑賞を終えた。
作者はどこを発って、どこへ向かって歩き、どこに辿り着いたのか、テキストでも映像でもついぞ分からなかった。延々と市街地を歩き続ける道程が、恐らく自身の上半身に着けたウェアラブルカメラの録画によって流れている。
この、目的地や経由地、目的そのものすらないドリフトこそが作品だったのだろうか。動物のように、いや走光性に支配された動植物よりも初期化された身体によって、真にあてなく漂流することを試みたということだろうか。唯物的な機能論にも似ながら、あえて集団から離れて「ひとりで」歩き出すという意思があり、補陀落渡海との喩えは何ものかへの回帰を思わせる。ただそれらを読み込むには手掛かりがなさすぎた。
市街地の夜が踏破されていくが、いつ終わるのかどこに行くのか分からない、見ていて不安や不満が募る、それこそが作品だったのだろうか。
【10】シン・ウシン(Shen Yuxin)《Long take》
鑑賞時には光の当たり具合と影の強さの影響でうまく捉えられず、また、2枚の作品の配置や構成、紙を押さえる石の配置、物性の強い素材感に気を取られ、何が写されているかを注視していなかった。「掛け軸を意識したシルクスクリーン仕立ての日本画風の写真」というむちゃくちゃ粗い感想を抱くだけに終わり、しかしその「写真」の表面がレースのカーテンのように硬い網目から出来ていたことはフェティッシュな魅力を覚えた。編み込まれた物質としての強度が、像に直接触ったり擦っても大丈夫という印象を抱かせ、写真ではない別のものへと転化させていた。
少し離れて作品全体を撮った写真を見ると、木々・森の生えている方向が上下左右に入り、普通の・現実の森の光景ではなかったことに気付いた。複数のシーン・被写体が入り混じっているのは1枚のネガにおいて複数のカットが同時に列となっていることと呼応するのかもしれない。
正面の作品に至っては白く掠れていて森の残像である。シルクスクリーンの工程はメッシュ状の布(紗)越しに配したインクで刷った結果、どのようなイメージが仕上がるかは、インスタントカメラのように開けてみるまで分からないという。作品の像だけでなく全体の構成や工程が写真のダブルミーニングであるという作品なのだった。
【13】宮本十同《The twisted border》
皇居を一周歩いて撮影した写真をメビウスの輪にしている。単なる輪ではなくメビウスのねじれが加わっているのは、皇居は現代の都市空間の中で強い過去の場=異世界と繋がっていること、環の内側が空白(empty)となっているのは「皇居の中には入れず、外周をぐるぐる回るしかない」ことを反映している。
国家の中心、歴史の中心にあるコアは秘められていて、直接には立ち入ったり目視できないという指摘は正しい。一応、皇居は毎日120人の一般参観を受け入れたり、元旦の一般参賀などイベント時に開かれてはいるが、通常に民が触れられる「皇居」という空間は堀と門と塀の向こうに聖域として秘められている。民はその周りをぐるぐると回り、風景は周回する。
皇居ランナーという存在は奇妙だ。走る先の目的地点を持たず、走る目的は健康や鍛錬といった非常に個人的なサイクルに終始し、もはや国や天皇と無関係である。そうした二重の空疎な円周についても言及できるだろう。皇居というテーマ・場所はいくらでも作品に盛り込んで構造化できると思う。
◆装置、物性の強いもの、そしてメディア
最後に、「写真」や「映像」で括ることの難しい作品群をまとめる。これらはもはや写真ではなく、映像は使っていても構成の一部である。「写真」から会場に入った人間にとっては、何を以ってそれらが「作品」と呼ばれるべき性質を持つのか、何があるから作品として鑑賞できるのかを問う機会にもなる。
【11】成瀬凛《受動と抵抗を繰り返す、あるいは》
本展示で最も悩んだ作品。衣服が繋がれて宙吊りになっている。写真がプリントされているとか、写真的な原理が組み込まれているわけではない。一つ一つの衣服は他の衣服が上下の区別なくキメラのように縫い合わされて出来ている。
「服はその人の皮膚だと考える」「人体において最大の器官で、外界の影響を受け、多様な圧力を受け、固定された枠に押し込まれてきた」とし、漂白・再構築によって「抵抗」を試みた作品であるという。意識の内にある「私たち」を拾い上げる行為の過程であると。
理論は分かるが、なぜこの作品がここにあるのかが分からず、写真との関連、写真からの遠近について考え、それが見当たらなかったので読解を終了したのだった。
が、後に本稿を書く段になって調べていたら、作者がどうやら写真家でありモデル、俳優である(らしい)ということが判明した。
ステートメント等にプロフィールや経歴、生活について一切触れられていないので、本当に作者と同一人物か分からないが、衣服・装いの表現者であり写真も手掛けているとなると、本作がここに提示されていることの背景としては納得できる。
写真家が写真を撮りカットを重ね、何かを問い続けることが、日常から表現へと通じる「行為」であるとするなら、モデルや俳優が日々の衣服の着脱に「行為」を見い出す・それを表現へと移行させるのは当然のことである。このことは了解できた。
本作を強引に「写真」へ引き寄せるなら、一般的な、撮られる対象になることのない撮り手がアウトプットする「作品」と何がどう異なるのか、その距離感を見ることに意味があるのだろう。
【14】大澤一太《絶え間なく行われる官能的な行為/唐突なピリオド》
展示の入口から見えていたクルマのシート、いきなり飛び道具(固定装置だが)である。順路の最後もしくは我慢できない人は最初にこれに触れることになる。車?か何かの音が聞こえている。
作者の自動車教習所での体験が元になっている。シートに座ると別で設置されたバックミラーがちょうど見える位置に来る。この小さなミラーに、会場の壁に付けられたモニターの動画が映り込むようになっている。
映像では暗がりから男が現れる。映像は明瞭だが、黒い背景で撮られているので、夜や日の出前のように暗い。そこに不意に人が近付いてきたような状況が再現される。ただでさえ視界の悪い車体後方なので、その挙動が気になるが、確実に安全になったかどうかが確認しづらい。
自動車運転、路上での早めの信号停止と後続車の追突というアクシデントを「コミュニケーション(と失敗)」と捉えている点が面白い。確かに交通・運転は、唯我の空間でありながら360度他者コミュニケーションの連続で成り立っている。この切り口から色々と探求していってほしい。
【15】大橋真日菜《人間という生き物は》
展示室の外、通路スペースの壁に大きく投影された2つの映像である。1つは等間隔に多数の四角形が並び、同じ映像のコマが連続している。遠目には何かが分からなかったが、これらは青い鳥の顔なのだった。
皆一斉に同じ方向を向き、機械的にキョドキョドと動き、グルッと首を回す、一糸乱れぬ動き。青い鳥、方向転換のたびに今にも動いて呟きそうなクチバシ、集団が一つの個体のように統制された振舞い。まさにTwitterにおける我々の反応と挙動だ。バズにいいねとRTで一斉に同質な(それが対抗意見であってもまた別のアルファな誰かへの追従であり同質な)反応を示す様。瞬時の真実や有意義の正誤判定を繰り返すだけの姿。シンプルにして見事である。
時折、逆を向く一羽。これは周りに惑わされない/惑わされている、鑑賞者それぞれの「私」だろうか。
もう一つの動画は、三条大橋~四条大橋から見えるお馴染みの鴨川に、人物がいる。白黒で分かりにくいが、背後に大きな建物のようなものがあり、燃えている。人物らは我関せずで談笑している(3Dモデルのため表情は無いが)。不吉である。炎の部分だけが動いている。
ここから連想される一つは、間近に危機的状況が迫っていても「繋がり」の中に閉じているために気付かずにいる状況。もう一つは、炎上が日常化していて気にも留めない(何なら)状況。他にも身近なところから様々な連想が可能だろう。
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以上である。
前2回の経験から、かなり高い期待感を持って観に来たために、各作品についてかなり「足らず」を指摘する書きぶりになってしまったが、むりやり褒めるのも変なので、あえて修正せずこのまま掲載する。
逆にこれらが全て額装された普通の写真プリント展示だったら、もっとえらいことになっていたわけで、今回このように解体や転換を試みたことには意義があった。「写真」への問い掛けは、絶えず更新されなければならない。写真は各種インフラ、コンテンツのありように応じて無限に変形を繰り返すからだ。
( ´ - ` ) 完。