写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【ART】TOKYO 2021_un/real engine -- 慰霊のエンジニアリング(Site A「災害の国」/Site B「祝祭の国」)@戸田建設本社

【ART】TOKYO 2021(Site A「災害の国」/Site B「祝祭の国」)@戸田建設本社

日本有数のゼネコン・戸田建設社屋の移転新築に向けて、現社屋1Fで刺激的な現代アートの展示が催された。「災害」「祝祭」が反復される場としての日本を乗り越え、芸術の営みを「慰霊のエンジニアリング」と位置付ける企画。東日本大震災後も、毎年各地で地震や風水害が相次ぐ中、2つの大きな「祝祭」(東京オリンピック大阪万博)の実施が着実に迫っている。今、芸術には何が出来るのか。

【会期】2019.8/3(土)~10/20(日)

(※この鑑賞は9月中旬に行ったものです。)

 

 

「2021」のロゴが重く感じる。

 

いよいよ来るべき時が来てしまったという実感が、ようやく遅れてやってくる。本展示はタイムリーだ。

あれこれ言ってる間に311の震災からもう8年も経ってしまった。ロゴデザインから新国立競技場のコンペからケチのついた不穏な幕開け、真夏の日中という競技時間の設定、会場整備費の周辺自治体への負担ぶん投げ、ボランティアスタッフという名の無償労働者(医師含む)のかき集め、等々、全方位で問題を孕みながらも、どういうわけか話題は議論を深めないまま通過していて、いつの間にか開幕まで1年を切ってしまっていた。(なお直近の話題として、マラソンの会場を札幌に変更せよとIOCに迫られるという新展開が発生)

今年は東京五輪パラリンピックのチケット販売が開始され、超高倍率で多くの申込者が弾かれた。「五輪やめたらいいのに」「日本どないなるねん」と言っていた庶民は、何だかんだで申し込んだ、当たった外れたと嬉しそうに口走っていた。課題だらけなのは明らかだが、一瞬で他の話題にスイッチし、それらの堆積でタイムラインはかき消される。京アニが燃やされ、実名報道がなされ、すんなりと消費税は10%へ引き上げられ、台風18号・19号の大雨洪水が無慈悲の打撃を与えた。「災害」は「祝祭」の準備と綻びに絡み付くツタのように襲来し、確実に国土と国民を痛めつけている。

 

 

『TOKYO 2021』は大きくは2つのプログラムから成り、前半(8/3~8/24)は建築展、後半(9/14~10/20)は美術展である。芸術に何が出来るのか。本展示のキュレーター・黒瀬陽平は無償のゲームエンジンからテーマタイトルをUnreal Engine--慰霊のエンジニアリング』と名付けた。

更にその展示は「災害の国」「祝祭の国」という2つの場から構成される。

 

昨今のゲームを見れば一目瞭然だが、現実世界は極めて精度の高いシュミレートによって時間・空間的に複製され、引用され、アレンジされている。その技術の恩恵はサブカルのみならず現代美術にも変化をもたらし、「シュミレーション」の指し示すところはもう”ポストモダン”の頃の意味に囚われない。それはかつて提唱されていた”コピーの大量消費”から変質し、今では現実社会と密接に対応するための科学的な手法となっている。

黒瀬は本展示によって、日本現代美術を「災害」と「祝祭」の円環から抜け出すための現実的で前向きな力として再認識するよう、系譜を辿り、アップデートを企図している。

ここで芸術が担う役割は、繰り返される「災害」と「祝祭」との狭間を埋める「慰霊」と位置付けられている。「災害」は避けられない、そして「祝祭」もまた、政府、行政、企業などにより設定・実施されることが避けられない。両者の裂け目に、何ものたちかが、落ち込んだままとなっている。技術的な進化を以って、芸術はそれらの、失われたものたちを記憶し、呼び出し、時には「祝祭」の歓声や感激に参加できないものたちにとっての拠り所となる。この展示は実際そのような場となっていたのではないか。

 

2021年・東京五輪という歴史的祝祭に向かって、引き返せない道をゆく残り1年未満のこの時期、本展示が見せつけたのは、理屈を超えてこの国と国民の中にしっかりと刻まれている「災害」の記憶と実感そのものだった。現代美術批評に対する批評の更新めいた黒瀬陽平ステートメント以上に、それらは生の感情に触れるものだった。

 

どちらも入場無料、撮影自由。<Site B>のみ予約が必要。

以下、印象に残ったものをピックアップし感想等メモ。

 

◆Site A「災害の国」

以下、作品No.はMAPに付された番号に準拠。

 

「災害」ぽさは感じず、「展示」として整っていて、真っ当な美術展示の印象。むしろ次の「祝祭」サイトの方が強烈に「災害」の感が、アーティストの危機意識とともに剥き出しにされていた。各作品の由来、制作意図を紐解けば、そこには山ほど日本のカタストロフィーとの繋がりがあるのだろうが、作品解説は特になかったので基本的に体当たりでの鑑賞となる。(※9月鑑賞当時の状況です)

入場するや否や、歓迎されているのかデモ行進されているのか分からないこのノリですよ。わあい。

 

◆【No.3】磯村暖《(表記不能文字)(プロテストする地獄の亡者、ある時にはプロテストしたので地獄に落ちた亡者)+モ"ク丸ヒト丸、dot0a、中川春香、他8名による地獄の亡者の彫像群》(2019)

空港で待ち構える旅行代理店の添乗員めいて、会場に足を踏み入れた我々を賑やかに迎えるが、プラカードには「歓迎」「希望」「不法な人間はいない」などとある。意味は分からないが、とにかくデモ行進を続けているようである。「彼らは危険ではない。彼らは危険に晒されている。」シュレーディンガーの猫みたいなこと言われてでもですね。

そしてこの風体をご覧ください。カワイイのと気持ち悪いのとの間ぐらい。ポップな亡者です。足元は肉と土が同化したようなグシャグシャ具合だし、現世の者ならぬ感じがある。被爆し遺伝子が変性しどうかしてしまって死してなお、デモを行っているのか。デモをやってる輩は日本ではゾンビ・非人間扱いとされるのか。

 

◆【No.4】宇川直宏《A Series of Interpreted Catharsis episode2 - earthquake 》(2007)

クールな写真群に目が惹きつけられる。

だがおかしい。登場人物らのファッションが作り物めいているし、室内の調度品もファッション雑誌の一コマを誇張したようなおかしさがあり、そんな中で男女がずっこけ、床に手を着いて慌てている。地震を意識した演技だろうか。それにしては表情が変だし、舞台がカメラ目線で整っている割に人物らのリアクションが全然カメラを向いていない。なにこれ?

これらは筑波の地震研究所との共同制作によるもので、実際に大規模な震災の揺れをシミュレーションした人工的な地震を起こし、その際の俳優らの状況を高速シャッターで捉えたものだという。道理で喜怒哀楽のどれにも当てはまらない表情をしていたわけだ。演者らは揺れを予見できていたはずだが、それでもこの有様だ。

 

◆【No.】大山顕Firewall》(2019)

事実上のファイアウォールとして機能する物件、都営白髭東アパート。12棟が連結され全長は1㎞を超える。大地震で火災が発生した時に、木造家屋の密集する隅田川東岸への延焼を防ぎ、団地と隅田川の間に設置された緑地公園を避難所としてガードするよう設計されている。

最大の特徴は棟同士の隙間が緊急時には連結され、文字通りの「壁」となることだ。地震大国は火事大国でもあった、その地理的、歴史的な因子を最大限取り入れて生み出された構造体だ。本作はそのスケールの大きさ(長さ)を表現するため、横幅7mにも及ぶ長さの1枚の写真で展示されている。

 

団地については、作者本人がデイリーポータルZにて写真入りで詳しく語っているのでそちらをおたのしみください。

https://dailyportalz.jp/kiji/150522193621

 

 

◆【No.2】梅沢和木《Summer clouds》 (2019)

会場入ってすぐにある巨大合成画。このタッチを見るとゼロ年代後半~2010年台初頭のWeb世界を思わずにいられない。懐かしい。ある年齢になってから「懐かしさ」を感じなくなってきたが、これらの画像のドットの粗さ、データとしての「画像」の質感、それらをコラージュした際の雑味、今はなき「2ちゃんねる」的な、民意の2次元闇鍋の感じが良く出ている。

現在の主要なWeb公共圏はタイムラインとしてのスピード感にあふれ、非スレッド制ゆえ全ての話題が1本のメインストリームで集中管理されており、こうした平面の広がりではなく「縦ノリ」だと感じている。そうしたWebの身体感覚の違いが味わえてよかった。災害関係ない感想ですんません。 

  

◆SIDE CORE《意味のない徹夜》 (2019)

◆SIDE CORE《RODE WORK》(2017)

SIDE COREは作品制作の都度、構成メンバーを入れ替えるグループだ。東北の「リボーンアート」でも刺激的な作品を展開していた。 

www.hyperneko.com

《意味のない徹夜》は道路工事現場で進路誘導を行う動く電光標識で、誰が通るでもないところで誘導の合図をずっと送っている。RODE WORK》は映像作品で、深夜に道をコーンなどで塞ぎ、道路工事を行うかと思いきや、ハーフパイプを設置して、制服を着た作業員はスケートボードに興じる。しかし全く享楽的な雰囲気はなく、夜の静けさを背景にスケボーのガーッ、ガーッという走行音だけが繰り返される。どちらも底知れぬ空虚さがあるのだ。ストリートは独特な文化の生まれ出る場所としてよく注目されるが、公的・行政的な「道路」としての側面から捉えると、このような情景となるのだろうか。これらの作品が深く湛える空虚さは、終わりのない土木工事を延々と続けている東北、被災地のことを思い起こさせた。(そういう思いをここで蓄積した結果、後にリボーンアートを観に行くことへ繋がった。)

 

 

 ◆【No.16】高山明《個室都市東京 2019》(2009-2019)

時間の都合から詳細な鑑賞は省略してしまった。棚に並ぶDVDを個室ブースで鑑賞するシステムだ。2009年、池袋西口公園にプレハブ小屋を建て、24時間営業のビデオ個室としたプロジェクトが元となっている。インタビューを受ける人物らも同公園で受け答えがなされたものだ。都市の生の証言である。時間があれば観たかった。 

 

 

◆【No.9】カオス*ラウンジ《東海道五十童子巡礼図》(2019) 

東海道五十三次サブカル調に戯画化。元々の浮世絵の平面性に、キッチュ萌え要素のあるキャラ絵が加わって、お祭り的な、それでいて虚無感も漂う絵になっている。描き手が相当数いるので絵柄もまちまちだ。

このアキバ感はどこかレトロだ。絵柄、色味、造形には各年代で潮流がはっきりとあるようだ。《Summer clouds》と同様に10年前のWeb界隈を思い出させる。こうした、ぺたっと平らで可愛いキャラ絵+遠近感のない背景とくると、カオス*ラウンジやゲンロン界隈の作品だろうなと大体予想が付くようになった。美術史上の正式な位置付けがどうかは置いておいて、Web、サブカルが主流となったゼロ年代を象徴するスタイルを美術界隈に打ち立てたのは大きな功績だったと思う。

本作は東海道がかつて流通、巡礼、セキリュティの道であったことを踏まえ、「五十三次」=53あった宿場の由来:善財童子という子供が、悟りへ向かう旅で訪ねた「善知識」の人数に由来する、という話にも触れている。なんやな、昔からそういう冒険譚とか少年少女キャラとか好きやったんやな… 300年前、500年前の日本人にドラクエやらせてもあまり違和感ないかもしれない。

 

後に知ったが、本作は2019年7月18日に発生した歴史的悲劇、京都アニメーション第1スタジオ放火事件を受けて制作されたという。現実の暴力に虚構が壊されたので、虚構を回復するという試みらしい。そこは全く分からなかった。絵の中に京アニの放火への言及が特にない。単に鎮魂の思いを馳せるということなら理解できる。現実の暴力とは言うが、犯人の抱えていた観念(俺の作品をパクリやがって)は、現実側から図り得る物差しが今のところ見出されていない。あれは我々社会の側からすれば異次元の虚構でもあろう。そうした事態にこれは太刀打ちできていない。

 

 

◆【No.10】梅田裕《53つぎ》(2019)

会場の床を斜めに走るオブジェ、旅館の座布団みたいなものがずっと続く。SIDE COREの展示で、あたまが震災脳になっているので、工事現場の土嚢を連想してしまう。このSite A会場自体が仮設的な、被災からの立ち直りの最中にある現場のように。

中には53か所の宿場で採取された土が入っているらしい。触ったらご利益ありますかね。

 

 

◆【No.13】ア ヤ   ズ《 ニシ  ポイ  》(2005-2019)

Site A最大級のインスタレーション

あまりに謎が多かった展示。まずタイトルも作者も不明。タイルのめくれた床に白く光る骨壺らしきもの。そして気付くと、中高年の男性のオブジェが、床と壁に引っ掛かっている。座っているというよりも掛かっている。

最初に骨壺を見てから、後に一巡してきたときにこの人物オブジェがあることに気付いた。最初は人物は無かったように思う。???  しかし、 顔が異様に精巧であること、眼が作り物でないことに、ようやく気付いた。

これは作家本人だ。作家が、存在を投げ出して行っている。パフォーマンスだ。

気付いた時に何か寒気のようなものが走った。

「なぜか 生きている」と貼り出して作家はそこにいる。気配がない。見て見ぬふりをする自分を止められなかった。気配がないのなら見に行けばいい。顔を覗き込めばいい。出来なかった。死者ではなく生者でもなく、死にゆくものを凝視することは許されないように感じた。死へと傾斜してゆく最中の者を、半可な生者が眼で触れると、こっちの世界へ引き戻してしまう。そのことを恐れた。生の領域でないところへ行こうとしている者を引き留めてはならない、なぜそんなことを直感で思ったのか分からない。即身仏だからだろうか。ただただ死へと近付いていってくれることを望んだ。

 

タイトルと作家名が虫食いになっているが、この謎解きは制作年月日にある。2005年からというのは、作家が《バ  ング  ント》というパフォーマンスを敢行した年である。それは光の入らない180㎝四方の箱の中で、最低限の水と食料(1日130kcal程度)で24日間を過ごしたという、自己消失のパフォーマンスである。今回の作品名とつなぎ合わせると《バニシングポイント》という単語が完成する。

 

更に展示は続く。会場ではキャプションやステートメントの表示がなかったので判っていなかったが、作家本人のパフォーマンスから距離を置いて、八谷和彦の作品の奥にある壁面、そこにびっしり書かれた文字も、同名の飴屋の作品《 ニシ  ポイ  》の一部なのであった。その壁の裏手のトイレに向かう狭い空間にびっしり書かれた文字もまた、飴屋の《 ニシ  ポイ  》である。 これらは地下鉄サリン事件以後、一時的に政策を休止したことについて』というテーマで制作を依頼して出来たものだという。

会場内に向いた壁一面に印字された文字列、歯抜けのお経のような文字は、法則性も引用元も分からないが、読点の連打がリズミカルでトランス感がある。お経だ。単語の拾い読みをすると、どうも永井豪デビルマンにおける、悪魔(デーモン族)と人間とデビルマン(悪魔人間)について評しているテキストと思われる。デビルマンは本来は人間の味方なのに、外観上は悪魔と区別が付かないので、悪魔からは敵とみなされ、人間からも恐れられ、デビルマンを炙り出すため人間は人間を疑うようになり、そして魔女狩りを…

 

奥の部屋は天井も何もかも手書きの文字だらけ。「殺す」「思います」「タイホ」??? 呪われている。

この言葉は元・オウム真理教教祖の麻原彰晃が裁判において証言した言葉を書き起こしたものだという。まだこうやって喋れていた頃があったのか。麻原については収監後、拘禁反応で認知症のような状態になったということしか覚えていない。オウム真理教の施設に警察が踏み込み逮捕に至った1995年は阪神・淡路大震災の年であった。 しかし震災に負けない強烈な記憶を残した。人災という言葉でも足りない出来事だった。

 

 

◆【No.6】三上晴子《ポートフォリオ》(1986)

◆【No.6】三上晴子《《Bad Art For Bad People》で使用された赤いケーブル》(1986)

2015年1月の逝去を受けて『ART iT』に寄稿された椹木野衣のテキスト『追悼:三上晴子はメディア・アーティストだったか』がとても印象に残っていた。80年代に現れ、都市、脳神経、ジャンクでSFチックな世界観を展開していたらしい。塚本晋也『鉄男』をもっと怪しく凄まじくしたスケールの世界。写真を観ているだけでぞわぞわする。かつて飴屋法水とは公私共にパートナーであったという。《 ニシ  ポイ  》で自身の傍に骨壺を置いていたのは、三上の下へ逝くという含意もあったのか。

 

◆【No.12】会田誠《MONUMENT FOR NOTHING Ⅳ(2019Ver.)》(2012-2019)

撮影不可。大きな壁面は何かが描かれている? らしいが、覆いが被せられていて中を見ることが出来ない。薄っすら浮かび上がるのはTwitterのアイコン欄だ。これは会田誠展 天才でごめんなさい』森美術館、2012.11~2013.3月)の展示作品で、当時は普通に鑑賞が可能だった。その内容はTwitterでの原発関連のツイートを、デマも含めて大量に貼ったもので、その後、投稿を無断転載されたと訴える人達が抗議の声を上げ始め(許諾も得ずに、人の顔写真の載ったアイコンと共に投稿を切り取って公に晒し、それで入場料を取って商売するのか、等)、議論となった。こうした経緯を鑑みての対応である。

こうした本作の経緯は作者の意図を超えていたと思われるが、大規模な被災や事件にあっては、その直接的な現場だけでなく、Twitterをはじめとする各種Webメディアが第二、第三の現場となることを示しているかのようだ。大きな事件・災害では、必ずTwitterで話題が沸騰するが、その際にはRTやいいね欲しさにデマ、暴言、差別、極端な政治的偏向などが飛び交う。そして時にはこの会田作品で起きたように、発言の取り扱いを巡っての権利争いも生じる。生身の被災地・被災者の存在とは別のレイヤーで問題系が生まれるのだ。「災害」が複数のレイヤーへ派生する、しんどい世の中だ。

 

 

◆【No.18】渡邉英徳《「忘れない」震災犠牲者の行動記録》(2019)

この作品が黒瀬陽平の提唱する「慰霊のエンジニアリング」というテーマに最も合致していた。そのまま然りで、東日本大震災の発生後、津波が来るまでの間に個々の住民がどのような動きをとったかを聞き取り調査し、それを地図上のプロットと動画上の時間経過によって表した映像である。移動手段によって丸の動きは異なるし、家族で集団避難したケースと、バラバラに動いてしまったケースなどが一目で分かる。 

これはアートなのか?という素朴な疑問があった。立派な行動科学の研究である。アートが立派ではないという意味ではない。ただ「アート」が製作者の内面を吐露したり、先行する美術史・作品に対する応答を繰り返したり、といった範疇からもっと先へと進み、現実的課題にリンクした考察を促すための「表現」の役割を果たしつつある、そのことが明らかとなった。

 

 

 

Site Aとは雰囲気がまた変わり、会場は作品の展示というより祭りの会場めいていた。入ってすぐ正面には太陽の塔の顔が光っており、間仕切りなくフロアが広がり、異形の作品たちが花咲いている。テンションの高さが良い。そして影の濃さも。

 

◆【No.1】檜皮一彦《hiwadrome:type THE END spec5  CODE:invisible circus》(2019) 

太陽の塔の顔というだけで引き込まれるが、ボディが発光しているのがさらに素晴らしい。純粋にかっこいい。大阪の民は太陽の塔を土着の神と崇めております。

サイバーパンク的な廃材に見えた骨組みは、よく見ると車椅子だった。車椅子と照明器具が内側から発光している。私のような二足歩行者にとって車椅子は円と線の集合体にしか見えないが、作者にとっては体の延長上にあるものだ。2021年はパラリンピックも催される。あの場に立てる人類は超エリートだ。障害者という範疇でとらえることのできない人たちの活躍によって、認識を更新せざるを得ない社会となってゆく。「普通」で「健康」(=理想的)な身体のデザインとは何なのか?という問いだ。本作もまた、「太陽の塔」のフォルム:土偶や土器の時代から受け継がれてきた人体の普遍的な身体イメージについて、更新を投げかけるものになるかもしれない。

 

◆【No.11】檜皮一彦《hiwadrome:type THE END spec5  CODE:radical dreamers》(2019) 

作者本人が展示スペースの一角に滞在し、飯を食ったりパソコンで作業をしたり、観客とコミュニケーションをとる。その周囲には複数のモニタが並び、映像作品が流れている。

作者の座する台座は天井近くまで持ち上がる。身体に不自由を抱え、直立姿勢をとれず、移動時も座位をとる作者は、二足で立つ我々よりもはるかに高い所に行ってしまう。月の探査機みたいなキャタピラ付き作業車は、その体の延長として連結されて見える。我々二足者が座ってもしっくりこない、むしろ不安定で邪魔だろうが、檜皮の体は収まりがよく、台車を含めて一つの体である。我々はその背を見上げるのみだ。

一方で映像作品では、檜皮は自身の立ち位置を更に転換してみせる。健常者と対等な目線で対等に食事をする。単身、夜のストリートを車輪付きの台座で疾走する。そして自身を飼い犬として夜のストリートに投げ落とす。それらは「人間」としての尊厳をきちんと持ち、そして人間としての尊厳の建前を笑ってぶん投げている。犬、ペットのような姿で首輪をはめられ、謎の女性に連れ回されている。二人の衣装は調教プレイとしての演技性が高いため、悲劇や嫌悪感は全くない。役割の転換である。これらの多彩で極端な役割の振れ幅は、檜皮一彦という人物から「障害者」という見え方を失わせた。

ここでの発見は、「障害者」という属性は社会の取り決めによって「そのように扱う」ことになっている、という、合意事項のようなものではないかということだ。月並みな言い方だが。その合意事項としての役割性を檜皮和彦という作家は大いにかき乱し、抜け出す。ただし障害者全般がその解除を可能とするわけではない。檜皮はむしろ一般民間人としての障害者とは区別されるだろう。稀有な資質、能力、技術を持ったアーティストとして「障害者」群からは孤立している。そのダークスター的な輝きと強さは、同じく独特な立ち位置にいるパラリンピック・アスリートらと対の存在になるだろう。

 

 

 

◆【No.13】藤元明《幻爆》

冷たい金属の集中線と床に映る円形の影/光。それはなぜか、原爆の炸裂の瞬間に見えている。この眼にはそう映る。おかしい、この光と影と金属は、ただ光と影と金属であるはずなのだが、そうは見えない。印象が残る。

凍結した記憶。複製された爆心地である。写真のようにして本作は留まり続ける。この秒から動かず、進まず、熱も持たない。写真は原爆が爆発する瞬間の姿を収められない。光と熱が時間もろとも写真機も撮影者も焼き尽くすだけだ。しかし私たちは、なぜか原爆や爆心地の観念的なイメージを持っている。アニメやマンガによって継承されてきた何らかの象徴、公的な記憶。その形を表したのが本作だろう。

 

 

◆【No.2】弓指寛治《黒い盆踊り》(2019) 

黒い提灯が民を誘う。民は、背後から「太陽の塔」(檜皮一彦の作品)、万博という「祝祭」の光を浴びて、生者としての色を備えているが、正面から見ると黒い灯りに照らされて、真っ黒に感光している。焼けている。盆踊りとは。お盆にお迎えした先祖の霊を、踊りと念仏によって慰めてまた彼岸へと送り返す儀式であった。庶民に親しまれた、最も身近な慰霊の儀式の一つと言えよう。ここでは民は生き生きと振る舞いながら、同時に死へ向かっているのだろうか、死んだまま生きているのだろうか。

 

◆【No.14】カタルシスの岸辺+こまんべ《カタルシスの岸辺》 

カタルシスの岸辺』とは若手芸術家らのグループによる実験的な販売活動プロジェクト名である。映像素材を量り売りしています、というTwitterアカウントの紹介文からして謎めいている。ホームページを見てみると、受注生産でオブジェと動画再生装置のあいの子めいた作品や、現代美術作家の作品制作の過程で生み出され死蔵した画像データを販売している。

<★link>カタルシスの岸辺 HP

https://sites.google.com/site/catarsisnokishibe/home

 

PC環境の置かれた仕事場。付箋にはこんな一言がある。

『隣の部屋に再現されているのは、現段階で判明している情報をもとに生成された仮想の「カタルシスの岸辺」にすぎない。(とはいえ、現段階では最高の再現率だ。)』

 

ガラス張りの向こうでは建物が崩壊し、建材がむき出しになって堆積している。怪しく美しい色で天井は光っている。これが「仮想」の「再現」なのだろうか。反射的に連想されたのはやはり被災地の現場感に他ならなかった。他の会場、文脈でならこの堆積物は、作者の活動に紐づけて、データと再生と集積という観点で読もうという気になったかも知れない。だが本企画においては、シンプルにこれは311に代表される被災の話と映った。気の遠くなる、手に余る物量で、建材が目の前に積もっている。それだけで十分だ、あの時の感じが甦る。何が五輪だ?確かに道路は綺麗になりました、けれど何も癒されていませんが? などという、あのどうしようもなさだ。 

 

◆【No.14】藤元明《2026》 (2019)

ただシンプルに建材に「2026」と彫られている。それだけで何か気が重くなる。かつてサブカルでは2000年代は未知の世界で、とんでもない世界を描くことが許された自由の主戦場だった。今、2020年以降の世界は、現実的絶望の死地が広がっているようにしか見えない。2026年は、大阪万博が終了した1年後だ。最後の大規模投資案件、「祝祭」の終了後だ。そしてこれは、団塊の世代が75歳以上の後期高齢者に突入した翌年でもある。この国をどうすれば良いのか私にはよく分からない。

 

 

 

 

◆【No.15】中島晴矢《shuttle run for 2021》(2019) 

またしても瓦礫。眺めているとやはり三陸で見た被災地の光景が憑依してやってくる。こうも真っ当に被災、悲劇のことを形にしてくれるのは衒いがなくて良いですね。この展示会場・戸田建設のビルは取り壊し予定なので、作家らも思い切ったことができるのだろう。作家らが踏み込めば、都市や日常の表層から、「祝祭」や復興のすぐ下から、まだ生き生きと在り続けている瓦礫の山がこのように溢れ出す。

瓦礫の中にはモニターがあり、固定カメラが走る選手を捉えている。選手は10mもないごく短い距離をひたすら往復する。背景にあるのは新国立競技場。五輪に向けた虚無的な反復が何となく恐ろしい。後ろにも前にも進まない。筋力とインフラの準備は整ってゆく、だが人間としての目的地はなく、2021年への時間だけは刻々と経過してゆく。マウスが輪の中を無限にカラカラと走り続けるアレみたいだ。

 

 

◆【No.10】Houxo Que《un/breakable engine》(2019) 

個人的にただただ好き。剥き出しの配管や建材がサイケデリックめいた色を帯び、異界の生き物のような姿を見せる。題材として80年代ぽく感じるが、当時の疾走感やカオスさ、各種科学との勢いのあるミックス感はない。80年代は都市も人間の感覚も無秩序に伸長し拡大してゆくムードがあったが、今では当時生まれた都市が、経年劣化と相次ぐ災害によって外皮も破れ、崩れ、自重にすら耐えかねる段階に来ているように見える。配管は生き物のように見える、だが、死んでいる。

 

 

◆【No.4】Houxo Que《un/real engine》(2019) 

階段を下りてゆくと水が張ってあり、モニターの光を受けて水面が光っている。ビルの中に水。水没したビル。毎年お馴染みの大雨・台風被害の浸水景だ。暗かったので踏み込み過ぎ、靴が一瞬浸かったが、本物の水だった。

それ以上中には入れない。

その場はそれで満足したが、階段が水没しているということは、その先に続く空間が全部水没しているということだ。ビルの地下の規模は分からないが、相当な水を流し込んでいることになる。稼働中のビル、しかも芸術家の専用施設ではなく、ゼネコン社屋である。企業の地下部分を水没させる試みは前代未聞だろう。水面に照り返す光は美しくは「映える」光景だが、その奥に満ちる水の量、埋め尽くされた空間の体積を思うと、その紙一重さがたまらない。奇しくも9月、10月は台風18号、19号と続いて関東に甚大な浸水被害をもたらし、本作は洒落にならない予見的・象徴的作品となった。

 

 

◆【No.3】中島晴矢《バーリ・トゥード in ニュータウン -エキスポ-》(2018) 

千里ニュータウンで二人の男がプロレスをしている。意味の分からないシュールさがじわじわ効いてくる。両者の試合?は終わりがない、堂々巡りのもどかしさがある。本物のプロレスには、抗争の物語、キャラ立て、試合運びの組み立てや演出があり、体を張ったエンターテイメントである。だが本作にはそういった要素がない。何か闘いらしきものが行われてはいるが、のっぺりしている。住宅街であるから、覆面をして技を駆けあう二人の応酬は、さぞかし場から浮いているかと思いきや、妙にニュータウンのフラットな空気管に馴染んでいる。それはそれで奇妙なことだ。ではニュータウンとは一体何なのだろうか? その白々しいまでのフラットさが浮かび上がってくる。

 

 

 

時間的都合から半分ぐらいしかメモ出来なかった。

 

改めて本展示を思い出しながら書いていて、段々と「国家」の能天気さとしたたかさに頭にきて、酒をあおり、踊りだし、筆は進まなかった。私的祝祭ということにした。わあい(怒)。

会場で、311のことを思い出した。トリガーを弾かれ、思い出すスイッチが入ったのだ。作家らの展示は、特にSite B「祝祭の国」は、理屈ではなかったように思う。なぜ瓦礫や破壊や水没が展示に現れてくるのか? それは忘れられていないからだ。黒瀬陽平は冒頭のように、現代美術・表現を、慰霊のための科学的で前向きな手段となり得ると示そうとした。が、示されたのは、我々は災害を忘れられておらず、乗り越えられておらず、未解消のまま今も生きているというシンプルな事実であった。このことが現わされたこと自体が、本展示は成功だったと思う。

 

「祝祭」と復興が結びつくとき、土木は一大国家事業としてクローズアップされる。また「祝祭」は貴重な観光資源として対外的にも発信され、訪日外国人の財布の紐を緩めるためのあらゆる手段が検討される。それらは麻薬のようだ。ほかに売るものの無くなった者が、自分の体を差し出しているようにも見える。その「体」には他ならぬ芸術も含まれるだろう。

だがその体と心は深く傷ついている。直近の311にしても、8年前という月日は、人間の人生においては相当に十分な時間(=もういい加減立ち直れよ的な)として見なされ得るだろう、が、国の歴史、地球の動向として見れば、ついさっきの出来事である。それだけではなく、会期中も現在進行形で災害が押し寄せてきたわけで、回復と忘却の速度を上回る勢いで災害と傷が繰り返されていることは、しかと認めなければならない。

 

一方で、民の気持ちの発散と慰撫と満たされの拠り所であるWeb、Twitter等の公共圏では、少し振り返れば、あいちトリエンナーレ・「表現の不自由展」再開の報と、首長の対立、文化庁交付金の全額不交付決定に揺れ、怒り、共感と分断があり、次に台風被害に関する治水・防災、ダムや堤防の建設計画から政権の意思決定から放流の判断から等々について揺れ、共感と分断があり、大雨洪水の渦中で台東区の避難所がホームレスを受入拒否した件について以下同文、そうしてリアルタイムで次々に延焼しながら苛立ち、怒り、ソフトな分断の中で怒りと共感のグルーヴ感としばき合いが続いてゆく。これは延焼、飛び火しながら続いていく。弔い、慰霊の暇もなく、災害と感情戦が継続している。巧みに棲み分けを図りながら、絶賛継続中である。

こうした通年での災害による異常事態と、それに伴う感情戦とソフトな分断は、美術関係者の思惑をも超えた予期せぬ形で現代日本芸術をアップデートすることになるのではないかと思う。むしろそれが出来なければ、政治家や行政の得心のゆく展示のみが生き残ることになるかも知れない。それらへのアンチテーゼとしてのアートが露悪的あるいは反政治的に生じるだけになるかもしれない。ではそうではない表現とは?

 

 

( ´ - ` ) 面白かった。