虚ろなる自演的実践を繰り返す、特殊詐欺グループ「Hijack Geni」犯行のすべて。
作者の作品は初めてではなく、まず昨年7月に「Reminders Photography Stronghold」での個展「Hijack Geni」を観たのが最初だった。12月には東京都写真美術館のプリピクテジャパンアワードでも同作を鑑賞した。基本的に同じテーマ:オレオレ詐欺など特殊詐欺の被害者と実行犯の双方の立場を、作者自身がシミュレーション的に実演しながら描き出していくものだ。
本シリーズ3度目の鑑賞体験からすると、毎回、見せ方・見え方がかなり変化し、何を感じるか・気付くかが変化する。多かれ少なかれ現代美術全般がインスタレーション化している今、写真表現もその場その場での空間演出に寄っているが、千賀作品においてもその傾向は顕著である。
社会的なドキュメンタリー写真作品、現在進行形の社会問題を扱う=テーゼと解は常に一定である、と思いがちなところ、千賀作品では物事の意味や真偽の定まらないこと自体を表現している乱反射的な性質を持つため、見せ方によってどの部分が強く出てくるかは観客にとってランダム性が強いとも言える。
個人的に言えば、「Reminders Photography Stronghold」での「Hijack Geni」では、特殊詐欺の実行犯と被害者それぞれの置かれた状況と内面、騙す・騙されるの関係や騙す側もまた騙されているという闇の構造が強く掘り下げられ、ショッキングに伝わってきた。安全神話のベールの裏で、老若男女共に何者かによって騙された被害者だらけという、日本の負の面が暗く影を落とす。それは同名の写真集の趣旨を強く反映していた。
「プリピクジャパンアワード」の展示では「溶ける」ことに力点があった。詐欺グループが用いる証拠隠滅の手法が写真、しかも顔写真へ流用されたとき、写真は写真であることの存在意義を失う。そして詐欺行為とそれに加担する若者らの全てが淡い夢のように、儚く、あまりに脆いということを知らされる。かつ、「写真」が伝えるイメージや事象もまた表面でしかなく儚いこととが重なって見えた。
そして2024年3月「BUG」での本展示「まず、自分でやってみる。」は、極めて高い壁面を持つ会場を活用して、これまで使用され言及されてきた諸要素を、非常にバランスよく空間的に提示し、全体像として可視化していた。
千賀健史をリーダーとする犯行グループ「Hijack Geni」が用いてきた、自己啓発と真実の歪みをもたらす認知・認識ハイジャック、その演出的創作の犯行道具を押収資料として提示したかのような、開示的な展開である。
逆に言うと各キャラの顔から「人生詰んだ」と声が聞こえてきそうな暗い影や澱、こちらもろとも袋小路に追い詰められているような当事者感はかなり薄れたし、すべてが「溶ける」ことの不気味さ、梯子を外されて取り残される不安さも薄れた。個々人の被害の傷の影というよりも、見えざる組織の幻のボス・千賀の繰り出す指示によって、末端構成員・千賀sが従い用いてきた各パートの手口、メソッドの全体像が、日の当たる場へと並べられたのだ。
そこで改めて見えてくるのは、特殊詐欺という犯罪システムの構造。いかにして無防備な若者を取り込み、見えない組織と力関係の中で自発的に犯行に及ばせるかのスキームだ。
加担して努力してタスクとノルマを果たしても何も得られない、虚ろな搾取の仕組みである。
かたや写真に写されたものは本質的には物事の外面のビジュアルにすぎない、つまり本質的には無意味であり、僅かな厚みの表面だけから成立している映像の領域で、こちらもまた虚ろな宿命を負っていることも見えてくる。
膨大な押収品からはこうした二つの虚ろさが立ち上がり重なり合っていて、それに対し私達はいかようにも意味を付けたり意義を見出したり様々な感情を抱くことができる。しかし実の犯人も被害者もそこには直接的に登場しない・・・全ては作者のシミュレーションに基づく自演と創作と編集であるという、構造そのものが究極的に虚ろであることと表裏一体であることが、逆説的に本作を「作品」たらしめている。それが本展示の要点だ。
これは千賀作品における個々の写真の特徴に由来する。
従来の写真表現のように写真1枚ごと・1群ごとに1つの意味や事象を指し示すという形態をとらず、意図的に意味・真実の同定を回避している。いや表面上の視覚的意味に対してのみ正確である。
「写真には写したものが写る」という原理原則について額面通りに真摯であることが、もう一つの本質「写されたものがいかなる意味や真実を持つかは(写真は)責任をとれない」を不可分のものとして強く表す。
作者はこの性質を用いて、自作自演と断片的なショットにより印象に深く残る場面を作っていき、詐欺被害の二重にショッキングな実態:実行犯はターゲットの理性的判断を奪うためのメソッドと演技を繰り出し、実行犯もまた同じく詐欺的なメソッドと演出によって騙されて囲い込まれている、をこちらへ想像させる。
人間は不穏なもの、不安なものに対する方が強く想像力が働くという。それはまさに詐欺グループの手練手管であり、この場=作品において用いられている手法でもある。不安の中で掻き立てられる想像、しかしこれはリサーチに基づく演出であるという断りが、嫌悪や反発を和らげ、好奇心を稼働させる。虚ろであるから少なくとも私達は何かを奪われることはない、犯人はもう襲ってこないのだ。作品としてじっくりその押収物を観て回ることができる。
不安感と不穏さ、犯罪スキームへの同調だけではない。
作者が踏み込んだのは先述のように「溶ける」話法だ。
本作は詐欺グループが証拠隠滅のために水溶性の紙を用いることを模していて、溶けて崩れた顔写真は人物の同定を防ぎ、そこに写っていたのが詐欺被害者なのか加害者なのか、実際の当事者なのか自作自演なのかあるいは生成画像なのか、などといった問いをも全て不問にする。
これはパフォーマンスでフォトアートである、ということの証拠であり成果である像をも消し去ろうとする―またしても「虚ろ」であることが前景化されるのだ。
では現代美術的にメタな表象ゲームが繰り広げられているのか、というと、実はどこまでも真摯に現在進行中の「特殊詐欺」という社会問題、そこに絡めとられてしまう無防備な若者に対して寄り添っている。そう見えてならない。
作品を下支えしているのが膨大な資料・データのリサーチであるため、被害者と加害者の実在する「犯罪」であり、社会問題であるという大前提が揺るがないのだ。ここに提示されているのは美術界のゲームではなく、表象を巡るイメージと言語のゲームでもなく、現実に起きている問題の縮図である。
その悲劇と暴力性があまりにも強固であるために、「虚ろ」さをインスタレーション敵に構造化しても、その説得力は衰えることなく逆に茫洋としたイメージとなって襲い掛かってくるのだ。
顔も名前も身元も分からず一網打尽にされることのないリアルの特殊詐欺グループに代わって、虚ろな代理構成体として千賀健史率いる特殊詐欺グループ「Hijack Geni」、そのボス、リーダー、末端構成員、被害者の全てを分担し自演し、騙し騙され実行を重ねてまた騙されながら何かを信じて実行し、そして「ぼくがやりました」と出頭し、その手口を開陳した次第、それが本展示の顛末であろう。
「まず、自分でやってみる。それが、これです。」
私達は、どうしたらよいだろうか。
( ´ - ` ) 完。