リアルよりも、液晶画面に映る容姿と仕草がリアル、オンラインでの意志疎通がリアル。そして圧倒的に不確かで。そんな時代の虚実を鮮やかに突く作品だ。
【会期】2021.3/26(金)~4/24(土)
本展示はFacebook上の投稿で知ったもので、実際ノーマークだった。そして作者のことも初めて知った。作者:栗棟美里(くりむね・みさと)氏は、写真を使ったミクストメディアの現代美術家で、京都精華大学・大学院で版画を学んだというバックグラウンドを持つ。これまで私が知る機会がなかったのは「写真家・写真作家」という枠組みの表現者らとは活動のフィールドが微妙に違ったのだろうか。確かに写真に写った像が直接的な主役となるのではなく、写真というメディアをフルに利活用しつつ、像とは別の次元での話題を展開する。
作品はいずれも人物の写真、「ポートレイト」だ。
しかし、光と像が動く。
こちらの立ち位置に応じて像は映り方を変え、近付くとデジタルめいた影――暗い光の中に隠される。遠退いたり歩を進めると再び現れたりまた隠されたりする。光によって撮られたはずが、暗い光の中に消える。人に見られるために撮られたはずが、見ようとすると隠れてしまう。虚数域を持った写真のようだ。
現れる人物像は美しい。男女とも美しすぎる、理想的に整った造形と眼差しとポーズをしている。あまりに出来過ぎていて不自然なので、型の定まったファッションフォト、しかも作者が撮ったものではなく既製品を複写し引用しているのではと考えた。だが聞けば、パーツを合成して作られた非実在のイメージ人間だという。
作者はミクストメディアの現代美術家として、写真の上から異なる素材を重ね、既存のイメージを揺るがし、新たな視点への気付きをもたらす。ここでは「レンチキュラープリント」の透明な凹凸が写真の上に重ねられており、反射光を帯びた写真はデジタル液晶画面のように光の奥行きを持つ。それが、鑑賞者の位置や角度によって像の見え方が変わる要因となっている。
内側から光るデジタルのような画面、理想的な作り物の人物像、幻のように消えたり現れたりする挙動といった特徴は、現在の、液晶画面越しに為されるオンライン・コミュニケーションの在り様を表している。
この1年間の間に一気に進んだマスク着用生活とオンライン上の対人関係によって、人の「顔」は隠蔽され、露出の機会を失い、リアリティが薄れた。いや、それ以前からも既に、非対面のLINEやSNSで出会いとコミュニケーションが交わされてきたし、そんなプラットフォームに対応すべく「自己演出」は夥しく繰り返され、既にリアリティは生来的な肉体としての顔から別の次元に移っていたように思う。
各種の加工アプリによって、任意のフレーミングと色艶と細さとくびれとエモーショナルな風合いを管理して、時には腕のあるフォトグラファーの力を借りて、「私」は「ナチュラルな」「本来の」肌と顔と身体として作り上げられる。そうして仕上がった「私」たち/同士が、InstagramやSNSで文字通り自分として披露され、対峙する。それが「リアル」な感覚だ。
Webには顔のみならずプロフィールの全てが他人という層も一定数おり、詐欺や閲覧者数獲得や目的は様々だが、プロフィールデータとしての「私」というラベルは無限に偽られてゆく。動画の顔だけをAIによって他人のものにすげ替えることも可能になっている。ZoomなどWeb会議ツールも、使用頻度がもっと高まれば、その画面内での理想的な「私」の最適化ツールももっと世に出回ったことだろう。
氾濫する私。私を演じる私。
本作は、「顔」の信頼性の揺らぎを突く。
Webは既に生活上の現実の一部となっていて、「顔」は誰のものなのか。私の顔は「私」のものなのか、私が見ている誰かの顔は本当に「その人」のものなのか、そんな問いは絶えず横たわっている。同時に、理想的によりよく「私」を見せたいというニーズも健在である。理想のたまねぎ、剥いても剥いても本当のその人は掴めない。
そして、近付けば像が消えたり現れる現象は、オンラインにおけるコミュニケーションの不確かさも暗示する。Web接続の不確かさ、レスポンス速度と頻度の不確かさ、アカウントの中の人の不確かさ・・・ しかしこの新型コロナ禍の中では、直接会ってマスクを外して会話することは出来ない。不確かさの連鎖網を重ねながら、まるでフィクションの積み上げを「リアル」としてコミュニケーションしていかねばならない。
そんな本作は、その反射光の特殊な体験=自分が動いて展示物との距離感を探り合うことが重要なため、実際に会場に来なければ理解ができない、出会うことができないものとなっている。着眼点と現実問題の指摘との関連が非常にクレバーで、面白かった。
理想的な表情、理想的な目鼻立ち、理想的なプロポーション、理想的な色味、理想的な好意の眼差し・・・これらは文字通り、理想的に組み合わせで作られた人工人間である。それらは男女問わず愛玩動物を手元に置いておき眼で愛でる、ポルノグラフィやアイドルといったモバイルの籠の鳥そのものとして映る。
こちらの欲望の眼差しを引き出し、吸引し、優しく慰撫する。優しいようで強力なイメージだ。欲望喚起のセオリーに沿って類型化され、長年にわたって繰り返されてきたパターンの像なのだろう。
スマホを意識したサイズの作品もある。これも近付くと像に光の影が入って顔が見えなくなり、歩き続けるとまた現れる。
新型コロナ禍や通信メディアについて、具体的な事物を直接的に点で取り上げるのではなく、それらと私達ユーザーとの関わり方について、体験を伴う形で俎上に上げてみせたこと、そしてこちらの能動的な動きを引き出す構成が面白かった。明らかに、写真作家の技ではなく、別の角度からのアプローチとメカニズムだった。面白かった。
( ´ -`) 完。