nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R4.9/3~24 内倉真一郎「浮遊の肖像」@BLOOM GALLERY

暗闇の中で、人々が目を閉じて浮かんでいる。羊膜の中で眠るように呼吸する胎児、そんな無垢さを思わせる肖像写真だ。

【会期】R4.9/3~24

 

モデル達は眠るように立っている。いや、真っ暗な宙に浮いている。

 

会場入口の解説によれば、これらはモデルが床に仰向けになり、作者が高さ3mの脚立から撮影したものだという。モデルは作者の演出に従って装い、ポーズをとり、そして目を閉じる・・・ だが撮影方法だけではこの浮遊感、そして無垢な静かさは説明がつかない。

 

思わず衝いて出る言葉。無垢とは。

足元は脱力しているのに背骨は一本通っているのは、重心が背中の面にあるためだろうと逆算的に理解できる。モデル達は日常の服装と動作を備えながら、意識が、自我が、そこから遠いところにある。ゼロ歳児ならともかく、いかなる老若男女も意識や自我は切り離し難く抱えており、生活・日常もまた抗い難くつきまとうというのに、ここにいる人々はみな、無垢な様子で浮いているのだ。

 

無垢とは。モデルらは羊水の中で目を閉じる胎児に似ている。

目の前に確かにいる、しかしその内面を推し量ることはできない。見るものと見られるものとの関係――均衡は、静かに崩されている。こちらからの視線は吸い込まれて、向こうからコミュニケーションとして反射されてこない、応答のなさ。だがこちらから見ることは幾らでも許容している。無防備と無応答が浮遊していることを私は「無垢」と呼んだらしい。

 

昨年12月に見た前作《私の肖像》シリーズと同じ構造をしている。

 

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前作で見た表情を私は「仏像のようだ」と感じ、その通り書いた。ポートレイト撮影において、モデル本人が自分で意識できず、撮影者の側も狙っていない、意識と意識の狭間、表情と表情のの空隙を撮った作品、そこに写し出されたのは、虚空の眼であった。

 

本作ではモデルらは目を閉じているから、その目に直接の虚ろさや「無」を見い出すものではない。が、仰向けの人物を3m上方から撮ることで、自然と顔面はアオリの付いた角度になり、首は重力から逃れる。それが座らない首という、羊水に浮かぶ胎児にも似た表情を生んだのかも知れない。あるいは、トランス状態に入った僧侶の見せる忘我の表情を思わせたのかも知れない。

 

「無垢」とはそうした連想や見え方が生じさせた印象である。印象が一定の強度で続いているのだから、それは状態を超えて、本作の世界観である。

 

 

実際に乳幼児の写真もある。演出の通用しない相手であるから、逆にこの無垢な眠り――覚醒とも区別のつかない自然体としての浮遊状態が、本作の起点となるイメージなのだろう。

 

なぜ胎児・乳幼児が見せるような「無垢」がここに横溢している・テーマ化しているのだろうか。単に、人の無垢な表情・無防備な瞬間を撮りたいのであれば、写真館の商業写真家であり、また作家活動初期には東京で都市スナップを撮っていた内倉にとっては、通常のスナップやポートレイトの技術と経験則でクリアできる仕事であっただろう。

だが《私の肖像》も《浮遊の肖像》も、いわゆる通常の写真における「無垢」を超えた、まさに胎児の眠り、仏像の眼のごとき深度を求めて、独自の手法を模索している。 手をかけてスタジオフォトのセットをしつらえ、モデルを配し、ポートレイトの文法をしつらえて、わざわざコンストラクトを固める中に生じた隙間に無垢を見い出している。

 

これは、写真館の商業写真家として・商業写真としては日常的に「失敗」と見なされるカットに、別角度からの解釈の可能性を見い出していたのだろうか。クライアントの北井と要望を応えるだけが「写真」ではないと。それとも、商業的「正解」――演出にぴったりと添った意識と表情の明瞭さが撮り手・撮られ手ともに自明であるがゆえに、無意識、忘我という剥落の瞬間を検出・確保しやすかったのだろうか。商業的肖像写真の枠組みという検出器にクライアントの身体と意識をセットし、両者の焦点が外れたところをキャッチして真のシャッターが切られるという機構なのか。

 

私自身、意識と無意識、「無垢」や虚無といった、「ない」ことの世界観について、言語化のためには更なる洞察や体験が必要だと感じた。眠りながら起きている、漂いながらそこにいる、目を閉じながら醒めている・・・ これらは西欧的な理性の話題ではなく、まったく「禅」の精神のようである。

 

会場の奥の部屋では、演出色が強まり、さながら忘我、夢の中のカーニバル会場である。先の、動きの少ないカットは浮遊感に特化していたが、これらは動きと演出構成が過剰で、力を宿しているため、無垢と浮遊のニュアンスからまた別のものを表す。ムーブの途中で止めた像、ポージングの停止を表すことに演出の力が割かれている。

ポージングの停止と無重力化は、不意に漫画の表紙絵と結び付いた。過剰なキャラと全ての運動がビタッと止まった一枚のカットは、まさに写真によって描かれた、戯画化された絵に等しい。背景・空間の奥行きが元々なく、最初から平面であるところも、漫画という純粋2次元の世界に似ている。モデルは3m高度差のアオリ撮影によって、生身の個人から浮遊したキャラクターとなり、演出・架空の瞬間を止まりながら永遠に動く。

 

ゲームや漫画の中では、しばしば暴走状態や迷走状態:中の人の意思もこちらの操作も受け付けない無意識下でアクションをとるシーンが登場する。それらに慣れ親しんだ目には、これらの作品は妙な親和性があった。私もそういう読み方をしたいわけではなかったのだが、意外な発見だったので記しておく。

 

 

本作に登場する人物らは、家族であったり、作者の制作意図を汲んだクライアントら、身近な人達だという。植田正治しかり、浅田政志しかり、自分の世界を実現するために、「身内」など使えるカードは全て使うという姿勢は、なかなか(とても)大切なマインドのように思えた。礼節や配慮は不可欠だが、「巻き込み力」とでもいうのか、有無を言わせず一人、また一人と、自分の領域に引き込んでいく力がなければ、人を撮るということはできないのだろうなと思った。

 

写真集コーナーは必見です。「KANA KAWANISHI GALLERY」から2022年、内倉の写真集が続けて発刊された。

中でも『内倉真一郎 初期作品集』の2冊(1:ストリートスナップ、2:ポートレイト)、これが従来作品を良い分量でまとめてあり、特にスナップの方は「えっ、こんなん撮ってたんすか」という意外性と「あっ。うまいわ、」と数秒で分かるアレがあって、非常に参考になった。スナップで分かるアレってありますよね。あるんですよ。あれが。

www.kanakawanishi.com

 

「BLOOM GALLERY」では10月も続けて、内倉真一郎「忘却の海」展を開催する予定だ。どんな世界観が展開されていくのだろうか。

 

( ´ - ` ) 完。