nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【KYOTOGRAPHIE 2024】R6.4/13~5/6_本体プログラム全体を通じて、その形態から4分類

「KYOTOGRAPHIE」京都国際写真祭 2024、今年のテーマタイトルは「SOURCE」。

が、毎年のことながら、どの展示もコンセプトに縛られることなく構成・見せ方が特徴的で、ぜんぶ「インスタレーション」と言ってしまいそうになる。

なので、全13個のプログラム全体について、形式面から分類してみたい。

 



 

2024年「KYOTOGRAPHIE」もとい「KG」は以下の地図+地図の外側・北に位置する出町桝形商店街を合わせて全13プログラムある。

うち「0」はインフォメーションセンター、「8」と「13」(地図外、出町柳は同じアーティスト(ヨリヤス)で、「12」は川内倫子潮田登久子の2人展となっている。

本稿では、このオフィシャルマップのナンバリングに基づいて展示を紹介する。

 

◆概要と捉え方

さて毎年のことだが、テーマ設定はあるものの、はっきり言って展示の作品、そして展示空間が個性的である。つまりテーマに基づく統一性を確認するのではなく、個別に見ていくのが最も適切な見方になる。

 

これまでずっと「KG」は、「写真」という平面芸術を扱いながらも、各会場の個性・クセの強さ(場所が京都なので寺社や町家など手強い空間が多い)と向き合い、いかにして従来的な「写真展」(額装、平面プリント、単個配置、一対一鑑賞・・・)を超えたスペクタクルとサイトスペシフィックで唯一無二の臨場体験をもたらすか、と劇場的な写真空間化を追求してきた。

一方で、「写真の本質」への追求、すなわち写真によって何を捉え・伝えるのかも重視されており、ドキュメンタリー的な視座から社会への訴えかけは必ずセットである。美しい・集客力が高いだけの写真は選ばれない。美を重視する際にはファッションや貴族文化など何らかの歴史性や文脈を押さえている。それでいて「KG+SELECT」のようにやや硬質な、ドキュメンタリー重視になることも避けている。

 

展示の追求と、新型コロナが感染症5類扱いへ格下げされて観光・経済が従前に戻った  結果、今回はどの展示も質が底上げされていて、全体のグレードがぐっと上がった印象がある。新型コロナ禍中で資金繰りに苦しんでいたときのように「目玉の展示はまあ良いけど、下の方の落差がひどい」という状況はなくなった。

 

となると今回は「どれもインスタレーション的でよかったです」の感想一言で終わりになってしまう恐れがある。

よって改めて「KG」を展示の空間性、インスタレーション的イベントの性質を踏まえて、その形式や形態の面から捉えてみる必要がある。

 

 

 

◆分類(x,y)

というわけで、「展示・作品の形態」「作品の主張・訴求内容」から以下のように4つのゾーニングを振ってみた。なお表現の便宜上「+、-」が生じるが、これは程度・度合いの表現であって「評価」、価値判断ではないことに留意されたい。

 

横軸(x)「展示・作品の表現形態」である。写真の平面性をそのままに表した作品や展示であれば左側(-)へ。空間表現・インスタレーション的であれば右側(+)とする。間のゼロは支持体がモノ化・オブジェ化した形態と言おうか。


縦軸(y)「作品のテーマ性、表現内容」である。社会性、当事者性、政治性などドキュメンタリー的な要素が強ければ上(+)、美的・表現主義的であれば下(-)とする。ゼロはやはりどちらでもないもの、例えば素朴なスナップなどだ。

 

この時代にこんなモダニズム的な二元論 × 二元論で物事を捉えようとするのも周回遅れにも程があり、私はまだ平成の世に縛られているのではないかなどと腸がねじれそうな思いがするが、ポストモダン!知的!かっこよ!をやっていく知的技量と度胸はないし、誰かが土木工事をやらないとあかんので、地道にやります。はい。

 

では、あくまで私個人の意見と見立てであることをお断りしつつ、13プログラムを①~④で割り振ってみる。

 

 

(1)①(X-,Y+)=(平面・単一的/社会的・当事者性)

やってみよう。まず第1象限、みどりの①ゾーン=作品や展示がオブジェ的・単個のもので、社会的・当事者性の趣旨を備えた作品だ。

通常のギャラリーでの写真展ならスペースの制約、費用の面から、そして写真=平面表現という性質からも、多くはここに該当することになる。

 

言うまでもなく昨今の「KG」はインスタレーション傾向が強い展示イベントで、写真の空間化が至上命題である。が、数は少ないながら、空間構成は立体的な展示であっても、写真それ自体は平面で単個であり、内容もドキュメンタリーや当事者としての地声を伝えるものであるもの、すなわち従来の写真表現の地平にあるものが見られる。

 

【2】ジェームス・モリソン(James Mollison)「子どもたちの眠る場所」@京都芸術センター

まさに展示の立て付けは立体的・建築的なインスタレーションながら、全てがオーソドックスな平面の写真から構成されており、写された内容も世界各地の子供とその寝室、1枚につき1事実で対応している点で、代表的な作例といえる。

制作意図も問題意識が一貫していて、心身の重要な発達期にある「子ども」が国や地域によってはプライバシーもない環境で寝起きしていることから、将来に及ぼす影響の深刻さを伝え、環境格差を生み出すものへの問い掛けを促す点で、まさに社会派ドキュメンタリー写真の使命を果たしている。 

ともすれば説教的な内容になるところ、カラフルでポップな立て付け、取材対象者の幅広さから予想外の多様さを押さえていて、非常に面白かった。社会的問題意識と好奇心を同時に強く掻きたてられる。

子供らの寝床=家庭内の生活環境はまず第一義にその国のGDP、経済的発展状況に左右される。なので先進国、新興国発展途上国で格差がはっきりと出るのだが、面白いのはそれらの国の中でも地域・民族・部族によって生活様式や文化の違いから住まいが異なること、また例えば同じ「西欧・白人」でも経済格差や信条、趣味嗜好の違いによって部屋の傾向は大きく異なることだ。

 

自らの意思により選びうる正の多様性に対し、不可避に強いられる不利な状況としての負の多様性、それが如実に表れているのが本作の被写体=子供らの寝室なのだった。ウクライナ人とロシア人が並ぶなど、世界情勢も孕んだ構成になっていてスリリングである。

 

 

【7】柏田テツヲ「空(くう)をたぐる」@建仁寺両足院

両足院の大書院、毎年一番難しい会場での展示である。畳の広間に並ぶ什器によって、写真は1枚ずつ上から覗き込む形をとる。つまり立体的な展開に見えて、写真は壁から床へと水平面を90度移行させているに留まり、平面性は担保されている。

什器の形は座して読む姿勢を意識しているように見えるが、足の高さは鑑賞者が立ったまま巡回して覗き見ることを想定している。写経や座禅が行われる和の空間に、写真の鑑賞行為の身体性が組み込まれているのだ。

作品は、毎年恒例の世界最古のシャンパーニュ、ルイナールの提供するアーティストインレジデントの成果として、葡萄畑やルイナールが再生を試みる森が撮られている。昨年のKG・ポートフォリオレビューで「Ruinart Japan Award」を受賞したことでレジデントに招かれたためだ。

 

光と緑の溢れる自然豊かな光景は、人の手により長年育まれてきた「文化」そのものだが、自然の礼賛には止まらない。色の付いた糸からできた蜘蛛の巣が、演出アート的なアクセントをもたらすとともに、本作の問い掛けとして、見過ごされがちな小さな変化へ意識を向けるように誘っている。

 

地球温暖化をはじめとする様々な気候変動、自然のバランスの調和と崩壊が、眼前の小さな状況と関連を持つことを示唆しているということ。ブドウは1~2℃の僅かな温度変化によってもシャンパンの味を変えてしまう。地球規模の大きな変化が、身の周りの些細な物事へ小さな変化をもたらす。その小さな変化が、不可逆の変化に繋がっている。

 

本作は決して派手でも声高でもない。思索を拡げるには、心を落ち着けて座するようにして、写真と向き合う必要があるだろう。

 

【9】イランの市民と写真家たち「あなたは死なない もうひとつのイラン蜂起の物語」@Sfera

【1】と同じく、平面の写真と一対一の事実関係によって、世界のどこかで起きている状況――普段のニュースやTL上で流れてくる話題の見出しや短文のそのまた奥にある実態を知らしめてくれる写真展示である。

本作がメディア報道よりも更に報道色、速報色が強いのは、イランで起きている人権抑圧、言論や表現の制圧が警察権力による市民殺傷という異常事態を鮮烈に伝えているためだ。

デモに集まった市民に警察が発砲して頭から大量の血を流した仲間を引きずって助け出す、血を流した多数の死傷者が病院に担ぎ込まれる、こんなことが令和の今に起きているのかという率直な驚きと絶望的な気持ちを催させる。それが「ヒジャヴの着用を女性が拒否した」ことに端を発しているのだというのがまた信じられない。

信じられないがゆえに認めざるを得ない。国家や警察権力は圧倒的に研ぎ澄まされた暴力権力と化し、最も身近な市民・国民を痛めつけることによってその力を増すのだと。

 

それを記録し伝えているのが、無名の、無数の、一般人らが手にしたスマートフォンSNSなどのWebツールである。映像は粗く、不明瞭だったり、動きにまみれている。臨場感と切迫した悲痛さ、それでもなお戦う民衆の極限の状況が、そのまま伝わってくる。これもまた「写真」の本来的にして拡張されたポテンシャルの一つなのか。

 

 

【10】ジャイシング・ナゲシュワラン(Jaisingh Nageswaran)「I Feel Like a Fish」@TIME’S

y軸は0に近い①。写真は平面であり一対一の現実を写していて、展開方式は建築空間に合わせて変形を加えつつ、基本的には平面のパネルによって構成されている。オーソドックスな諸要素を新しく見せているのは色と間取りのデザインの勝利か。

 

作者は昨年の「KG+SELECT 2023」グランプリを受賞し、今回めでたく「KG」本体でのお披露目となった。

 

前回の展示は直截に言うと、ポラロイドの小さな写真を横一列に並べた非常に地味なもので、ヴィリュップラムという街で年1回催されるトランスジェンダーの祭りに集まる人達の姿と影を、夜の小さな宿・ホテルの襞、片隅と共に写していた。小さく囁くような、秘められたお喋りの親密さを思わせる作品だった。

www.hyperneko.com

 

今回は大きな花が空に向かって開くように、明るく開放的な展示となった。被写体も明るい。

だが作品のシリアスさは今回の方が深度が深いかも知れない。

作者はインドのカースト制度における最下層民:不可触民(ダリット)に属している。前回はステートメントの文末で補足的に触れられていただけだったが、今回はテーマの主軸として語られていて、一族の家系を通じて否が応でも差別を継承されること、差別から逃れるために祖母の代から格闘があったという家族史、自分史と現況などが作品となっている。

祖母は革新的な人物で、引っ越して村を離れ、教育の必要性を感じ、ダリットも通える小学校を設立し(家の牛小屋だった)、作者もまた通ったという。

差別から逃れるために都会に出て、大学に通い、映画監督になったりと順調に見えた作者だが、大病を患って貯蓄が無くなり、新型コロナ禍のパンデミックで故郷に戻ることを余儀なくされた。そしてロックダウン中、家族と向き合い、家族と家が最も大切なものであると気付いたのだった。

 

家や家族は「金魚鉢」に喩えられている。物理的には目に見えないが、分厚く完璧に存在するカースト制度が、外の世界へと出ることを阻むのだ。だが写真には、金魚鉢の中で見つめ直した家族らの尊厳と美しさが写されている。それが本作のタイトルの意味だった。

 

 

 

(2)②(X-,Y-)=(平面・単一的/美的・表現主義的)

次に表現の方向性が美的、表現主義的なものを特集する。前記①の4展示は、社会性や当事者性の視座から、ドキュメンタリーとして事実・真実を扱い、総じていえば善なることを求めるものだった。

こちら②は、被写体の造形美や表現の様式に集中している。美・表現そのものへの着目が強い展示だ。

 

 

【1】Birdhead「Welcome to Birdhead World Again, Kyoto 2024」@誉田屋源兵衛(竹院の間、黒蔵)

「竹院の間」と「黒蔵」の2室に分かれた展示で、どちらも従来の「写真」の型を超えたものを追求している。

 

「竹院の間」に入ると、大きな書画や水墨画が広がっている、まさか絵画の模写なのか? だがそれは写真・「Bigger photo」シリーズだった。

東洋の歴史的抽象表現のフォームを、抽象表現の写真によってトレースしている。近付いて1枚1枚を確認すると、モノクロの都市スナップ写真の焼き込みなどで影と光に抽象化された像を繋ぎ合わせ、全体で大きな風景画となるよう演出されていることが分かる。

 

和の空間に擬態的に同化しているのは特殊な技法のためでもある。紙を使用せず、写真画像をシルクスクリーン印刷して木製パネルへラッカー塗装し、最後は漆を用いた仕上げを行う。そうしたプリント行為がモノ・空間へ即結しつつ、モノクロ × 漆の風味が、「竹院の間」の暗くて長い回廊に非常にマッチしている。

驚きの発想と表現力だ。ありそうでなかった組み合わせの発想である。

 

その奥では「Matrix」シリーズ、より写真的なスナップ写真がグリッドで並んでいて、本来はこっちの作家なのだと分かる。京都と東京で撮られた写真群からは、日本という場のイメージ、アイデンティティーを貪欲にリサーチし探索している様子が伺える。

特に「Bigger photo」の凄さと空間へのマッチングが際立っていたため、本展示の分類としては「平面性」へ割り振った。

 

一方で「黒蔵」では、より実験的で彫刻的な作品「Phototheism」の間が展開される。

サイバーとレトロが混ざった光と雰囲気が漂い、東南アジアのどこかの寺院のような空間となっている。入口には「Guardian of Light」と掲げられている。これらは空想の宗教で、「We Will Shoot You(我らは汝を撮影す)」を信条とする、という。どういうことだ。

 

ステートメントでいう「写真の神秘的な力を崇める宗教、冷笑的な概念」とはどういうことか? 円筒状のフロアには奇怪なコラージュオブジェ?の写真が並び、最上階には写真の元になったオブジェが偶像として配置されている。

 

「Bigger Photo」「Matrix」シリーズはどちらも、異なる写真同士を連結させることで、その像が造形的に繋がり、別の・新しい形や姿を得て、写された中身(個々の被写体)よりも大きな次元のイメージを生じさせるという作品だった。

その試みを物理的に拡張させ、紙の写真や他の素材や支持体も交えて立体工作・交錯させたものが本作であろう。

 

一般的な通念では、写真に写されたもの、撮影行為によって向き合ったものは、一対一の意味や事実関係を持つとされているが、その写真―真実信仰に対する「冷笑」、真実性から逸脱していくことを裏信仰とするのが本作「Phototheism」ということなのだろうか。或いは近代化・都市化で失われた偶像崇拝が写真をまとってネオ化、復活したか?

 

この妖しく民俗学的な場をもっと理解し評価できるなら、本作は立体的・彫刻的な作品ということになる・・・中国や台湾の信仰を知らない私には悩ましいところだ。

 

 

【6】ティエリー・アルドゥアン(Thierry Ardouin)「種子は語る」@二条城 二の丸御殿 台所・御清所

種子である。電球の中に封入された種子、種子の拡大写真を上から覗き込む暗箱、そして巨大な写真パネル。

 

城内は締め切られている。僅かな明かりを元手に、点在する種子の姿を追っていく。広い宇宙を彷徨うように、電球の中を覗き込み、暗い箱を覗き込んで、種子の種類と形を確認していく。顕微鏡でミクロの世界を手探りし、種子の多彩な実際の姿を掴んでいく営為とが重ね合わされた場である。二条城自体が巨大な暗箱となったようなものだ。

後半は巨大なパネルに種子の写真がプリントされている。全体としては空間とオブジェの展示=空間的、とも言えるが、1枚1種の巨大な平面パネルが主役だったため、従来的な平面展示と見なした。

 

新作として、京都の小規模農家が代々受け継いできた「京野菜」の種子が提示される。種子と植物種と人間との関わりは長い歴史を持つ。品種改良、種の存続と保存、バイオテクノロジーと企業による占有と農業の在り方、自然固有種の消滅、etc・・・。

だが社会的テーマはさておき、本作では「種子」という極めて小さな物体をいかに「写真」として表現するかに力点があった。残念ながら、本来の繊細な描画が消し飛び、像はかなりのっぺりしている。

物販コーナーで写真集を見ると、本来の写真が有している、まさに「宇宙的な」種子の姿形、平面の中に有する微細な立体性が伺えるだろう。

 

 

【11】川田喜久治「見えない地図」@京都市京セラ美術館

④(空間的/表現主義的)と見なすかを悩まされたが、写真自体は1点ずつ、キチッとマット付きで額装され、伝統的な扱いのもとで壁に掲げられているため、「平面的」とした。

写真プリントの扱いはまさにクラシカルな「写真」作品で、「KG」全体の中で最も基本に忠実な、王道的なものだ。それゆえに川田喜久治という戦後日本写真の先駆者、御年90歳超のレジェンドの扱いとして、非常に正しい。

 

空間の扱いは大胆である。美術館の広く長いフロアに太い壁を建てて6,7つの小規模な展示ゾーンに分け、ギャラリー空間が連続していく仕組み。だが特筆すべきは順路が通り抜けではなく折り返し式になっていることと、往復に伴って作品が「Los Caprichos」「The Map」「The Last Cosmology」シリーズ現在⇔昭和⇔戦後の時代をループすることだ。

「Los Caprichos」、現在の情景とテレビなどメディアに現れる世界的著名人の姿から、戦後日本「地図」シリーズへ、そして「The Last Cosmology」を経て再び現在の「Los Caprichos」に至って、終点では写真集「地図」3バージョンで折り返しとなる。

 

どの作品も力強く重みがある。元・VIVOメンバーだけあって、廃墟、象徴物への眼差し(=帝国崩壊と西欧の再流入、神話化)、高度成長・都市化への眼差し、そして映像メディアの進化に伴う画像合成への感心と感性は、凄まじいものがある。恐るべきはまさに、時を超えて貫かれる写真行為の継続性だ。それは二つの意味があり、年齢(老い)に関わらず今なお繰り出され続ける写真行為と、もう一つは、合成される写真が同時代のものだけでなく、自身のずっと昔の過去作を参照することもある点だ。

まさに世界劇場、時空の交錯はイメージの更なる謎と奥行きを深めていく。

 

過去の代表作が軒並みプレミア価格で入手困難だが、写真集『Vortex』は唯一定価で手に入り、そしてまさに上記のエッセンスが詰め込まれている。

www.akaaka.com

 

 

(3)③(X+,Y+)=(空間的/社会的・当事者性)

社会的テーマを扱いつつ、インスタレーション的な展開を強く打ちだしている展示である。近年の「KG」の最も得意とするところで、他の写真展示・写真系イベントとの最大の違いであり、存在意義ともなっている。

展示鑑賞というエンターテイメントと、ドキュメンタリー・社会的な訴えは、完全に両立可能であると示したことは、「KG」の最大の功績かも知れない。

 

 

【3】クラウディア・アンドゥハル(Claudia Andujar)「ヤノマミ」@京都文化博物館・別館

今回「KG」のメインビジュアル:強く鮮やかなブルーの中に眼を閉じて浮かぶ部族の少年の写真が、本展示の作品である。

 

展示は美的さよりもアマゾン先住民族ヤノマミ族の世界に入り込む、体験型、資料展示、ドキュメンタリーとが混ざり合った構造になっている。

 

ヤノマミ族の世界とは、端的に言えばシャーマニズムで、精霊が作り出した世界の中で、精霊と交感しながら生きていく場である。個人の生と死も、動植物らも、天地も、全ては精霊へと繋がっている。精霊と繋がるために儀式があり、シャーマンは幻覚剤を用いる。そうしたヤノマミの内面化した世界をヤノマミ族の手で描いた絵が多数展示されている。

同時に、ブラジル政府や民間企業、白人勢力の資源開発などによる土地の侵略、環境破壊、生存権の破壊に脅かされている。だがヤノマミ族はそれに抗し続けており、写真家アンドゥハルによって「戦い方」を教わることで、1980年代以降には世界各国を訪れて闘争への支援を訴えている。

 

空間構成、写真、絵、キャプション、動画映像という多数の情報が、ヤノマミ族が神秘的な精神世界と、高度に政治的な闘争世界という、極端な二面性を持たざるを得ない状況にあることがよく分かる。

 

特にメイン会場すぐ隣の小部屋で展示されている2つの映像作品は、ヤノマミ族の置かれている2つの両極端な世界への対応力を如実に物語っている。

ヤノマミ族自らが言葉と映像表現によって、シャーマニズム、精霊の世界を前提としながら、外側の人間―西欧先進国の権力に対して「伝わる」ような文体で、自身の生存の権利を訴えているのだ。

 

ヤノマミ族=神秘的で謎めいた未開部族」という印象・認識は、強まりながらも真逆の方へも大いに修正され拡張されるであろう。

 

 

【12】潮田登久子「冷蔵庫+マイハズバンド+ICE BOX」、川内倫子Cui Cui」「asu it is」@京都市京セラ美術館

京都市京セラ美術館は今回「KG」で初の会場となったが、川田喜久治と入口を併設する形で潮田登久子川内倫子の二人も展示しており、実に豪華だ。2階部分の半分・南開廊を全面的に「KG」に充てている。

それぞれの写真自体は平面的だが、展示空間の構成は凝っていて、1プログラム内で2人の展示を分けつつ、それぞれの個性を出すよう、川田喜久治の空間と同じテイストの壁面によって空間を再構成されていた。

 

潮田登久子の展示は「冷蔵庫」シリーズを力強く・かつタイポロジー的に配列すべく、フロア中央に立ちはだかるように壁面を追加、四角形の連続が強烈なインパクトをもたらす。「マイハズバンド」コーナーでは家の中の様々な物品を並べるため細長いケースを進行方向に沿って設置している。

 

川内倫子のスペースは、白い山なりの構造物をフロア中心に置いて空間を二分し動線を作り、左右で「Cui Cui」と「as it is」シリーズを展開、祖父の死、甥っ子の誕生から、自分が娘を持つというバトンの連続が語られてゆく。その前後には映像作品を流すための暗い小部屋が設置されている。それぞれを繋ぐ入口の曲線が優美で、記憶の小部屋へ入っていくような精神的な領域を感じた。

 

二人とも作品の傾向分類としては、私的な生活圏、「家族」という最小単位の社会における、その内側からの、現場当事者からの眼として解釈した。

潮田作品における家庭:作者と同じく写真家である夫・島尾伸三、後にマルチな表現者となる娘・しまおまほ、との3人のありようは、一般的な家庭のそれとは大きく異なるかも知れない。しかし日本のある時代(高度成長を終えてバブル崩壊するまでの間)の「家族」と「家庭」をしかとドキュメントした作品と言えよう。

 

川内作品に顕著な光と色味の美しさも、単なる「生命のみずみずしさ」では片付けられない。「親族」という繋がりで関わり、徐々に下りてくる生と死のサイクルのバトンを、作家自身も娘を産み育てるという形で、「家族」として引き受けることになった、その絶対非演出的な状況で撮られた写真である。

 

潮田登久子川内倫子と、川田喜久治という日本人3人の展示だけでも、戦後から復興、高度成長、バブルという昭和を経て、平成、そして現代に至る「日本」と「写真家」について考えることのできる、非常に良い組み合わせだと思う。写真家は何を見て表現してきたか、それがどう評価されてきたかの推移を表している。このことはまた別枠でやってみたいが(時間がない)。

 

 

(4)④(X-,Y-)=(空間的/美的・表現主義的)

最後に、空間インスタレーション的でなおかつ美的・表現重視の展示を挙げる。

写真でも美術でも、単に純粋に美的・表現主義的であることは、様々な暴力性や権力性の観点から、また、写真の本質としてのドキュメンタリー性を伴わないことから、批判的に避けられるところではある。

だが「KG」が視覚表現・空間体験の芸術であり、集客を求める大規模な経済的イベントである以上、美は不可欠な要素であるし、何よりも私達人間は、美を求めてやまない。よって、そちらの側へ振った表現を認めることもまた不可欠であろう。

 

 

【4】ルシアン・クレルグ(Lucien Clergue)「ジプシー・テンポ」@嶋臺ギャラリー

作者は「アルル国際写真祭」の創設者である。川田喜久治と並び、まさにレジェンド的存在で、展示も古き良きモノクロ写真の並ぶ。それゆえ傾向としてはX軸・Y軸ともに0に近い。

1934年生まれ、1950~60年代の写真ゆえ、その表現スタイルはまさにお手本のようなスナップ活写、ポートレイトから成るドキュメンタリー作品である。

展示構成もフラットに近いが、ギャラリー内に大胆に壁を設けて回廊化し、映像や派生作品への動線を展開、また写真は、当時の生プリントは額装されているが、壁紙にも現在の技術でデジタルプリントされていて、時代が重層している。

歌って踊る人々、生活者らが明るいトーンで写されている。彼ら彼女らはジブシー(ロマ)であり、アルルはジプシー一族の故郷でもあるという。撮られたのはナチスの迫害から解放された第二次世界大戦後のジプシーらの生活状況ということになるが、写真資料がほとんど残されていないという。

人々が明るい。生命力が高いのが印象に残る。その点で、民族の権利向上などを訴える社会的ドキュメンタリーとは性格が異なる。一方で写真である以上、衣・食・住の状況、生活環境が写り込んでいて、よく伝わってくるものがありジプシーの置かれた経済状況などの記録でもある。

 

だが、本展示はそれだけではない。

表現主義的という軸に振ったのは、クレルグの多才さのためでもある。

まず短編映画。クレルグは17本の映画を作成したといい、会場では「デルタ・ドゥ・セル(塩の三角州)」のシュールな、いや、60年代の実験的な映画そのものと言うべきか、ミクロとマクロのどちら側にあるのか混乱するような自然の造形が延々と映し出される。アルルやローヌ川のデルタ湿地帯「カマルグ」を舞台とした、砂や塩、波打ち際、水面が、煽情的で哀切ある節でかき鳴らされるギターとともに流れている。

 

そしてカマルグはバイオリン奏者でもあり、ジプシーのギター奏者らとともに世界各地でコンサートを行った。奥の一室ではそうした音楽活動にまつわる写真、自分で手掛けたレコードのジャケット写真などが展示される。

 

 

 

【8】ヨリヤス(ヤシン・アラウイ・イスマイリ)(Yoriyas)「カサブランカは映画じゃない」@ASPHODEL
13】(同)「KIF KIF KYOTO」@出町桝形商店街

ロッコの写真家、ヤシン・アラウイ・イスマイリ(アーティスト名「ヨリヤス」)の作品が、「ASPHODEL」と出町桝形商店街の2カ所で展開された。

どちらもポートレイトとスナップが混ざった形態だが、本人の撮影している様子が動画で示され、驚かされた。極めてパフォーマンス的な振る舞いで、しかし街中で不特定多数の、見ず知らずの人たちへと鋭く入り込んでカメラを向け、シャッターを切っている。

 

ストリートスナップ写真家の現代版というのか、かつての「掠め取る」「擦過傷」なスナップとも、不意に正面から襲撃するスナップともまた異なる。前身を躍動させシュルシュル、ヌルヌルと踊りながら、カメラの眼の攻撃性を無化しつつ、路上の人々のセキリュティも解いてシャッターを切っていく。サービス精神を帯びた攻撃性。荒木経惟は言葉と笑顔で口説く、ヨリヤスは全身の筋肉で入り込む。

時には地面などに置いたカメラに躍動する自分自身の身体もフレームインさせ、異様な視覚体験としての写真を実現している。

 

撮影自体が身体表現なのだ。

展示は、そうした卓越した身体の運動性とストリート上での予期せぬ遭遇を反映して、ウォーキングのスピード感と雑多な不特定性を最大限に演出している。パネルの大胆な傾き、そして交錯。さらに、写真オン写真、重なって飛び交うイメージ。映像表現で呼び起こされたイメージの「雑踏」だ。

写真やってる人はこの動画見るとハートに火を点けられること間違いない。撮ることは生きることなんだよ。生きろ。


出町桝形商店街での展示は、例年通りアーケードから吊るされた布プリントで、逆方向から歩くと別の作品が見られる作りになっている。

商店街内のアートスペース「DELTA」でも同じ作品のプリントが見られるが、そこで気付かされるのは写真の合成の躍動感、身体性である。写真自体が、ヨリヤス本人と同じく動きを宿していることが確認できる。

 

 

【5】ヴィヴィアン・サッセン(Viviane Sassen)「発光体:アート&ファッション 1990-2023」@京都新聞ビル地下1階

最後に紹介するのは、今回の「KG」で最高だったViviane Sassen。

この展示に関しては別格だと痛感した。①~④の分類項の全域に及んでいるのだ。ここに配置したのは特に強い傾向を選びだしただけで、本来はもう一つ「⑤すべて」と項目を設けても良いぐらいだ。

 

「美」が強烈に色濃く表現主義的で、ファッション界にも深く関わっているが、そのベースには作者が幼少期を過ごしたケニアの土地と人がある。自身の身体もある。エロス、セクシュアリティ、命そのものへの深い洞察がある。現実の重みが効いているのだ。

展示も、巨大な新聞工場跡のメタリックな質感と闇をそのまま完璧に同化させ共鳴させた劇場的な作りとなっているが、全体の構成は作者のキャリアを網羅し、各年代における取り組みと傾向を分類しつつ紹介するという科学的な形態となっている。

カニカルな工場のラインを流れるように動く映像を投影しつつ、かたや、写真は一点ずつ丁寧に見せ、カウンター型展示ケースで写真集や小品を展開するなど、横断的なスタイルがとられている。つまり展示空間には平面性と立体性が同居している。

 

更に、作品自体も、平面のプリントが主体だが、その制作には被写体のオブジェ的な組み合わせ、写真プリントをコラージュし重ねたものの複写、写真プリント上へのペインティングなどと、非常に多彩で複合的な手法が用いられている。イメージは平面と彫刻のどちらにも及んでいるのだ。

 

私の提示した、いかにもモダニズム的な二項対立による分類を超越しており、つまりは完全にポストモダン的な超領域性を有していた。

 


サッセンのキャリアを分類して全体で5つのテーマ:「内省的な旅」「サッセンとシュルレアリスム」「芸術言語の形成」「ファッション写真とその実験性」「Vivian × DIOR」で章立てが設定され(最後の「Vivian × DIOR」は単体の企画紹介ゆえ小分類とすべきか?)、それらに基づき小分類は17項目に上るステートメント数から勘定)。これは今回「KG」で最大規模だ。

 

作品世界を点で見ていても全く意味が分からない。分からないが突き刺さってくる。美しいのだが、自分の知っている「美」の基準では測ることができない。知らない星の舞踊に直面して、興奮しながら身動きが取れずにいる。

 

その作品世界を理解する鍵となるのは、まずは2歳~5歳の間に過ごしたアフリカ・ケニアの地に他ならない。その後にもアフリカを訪れて作品制作を行っていることからも、その気象・気候や風土、色味は重要なファクターになるだろう。そして22歳のときに自死した父親、その喪失感など。

 

また、章立てにあるとおりシュルレアリスム」の世界観。

「KG」公式カタログに掲載されたテキスト(MEPにおける展示カタログ『Viviane Sassen』(2023)、ドーン・エイズのエッセイ)冒頭での本人の言葉を引用すれば「おそらく私はシュルレアリストだと思います。でもスカルプター(彫刻家)でもあります。」ということだ。

 

有難いことに、作品を読解するための鍵は明確に与えられたことになるが、悩ましいことに、なぜサッセンの作品がこうも凄いのか、なぜ容易くえぐり込むように自分の視界の中へ入り込んでくるのかが理解不能である。

実際には2013年あたりから雑誌『IMA』でも盛んに取り上げられていて、度々目にしてきたのだが、ついぞ今に至るまでViviane Sassenを理解する言語を獲得するには至っていない。体系的な展示を見るのは、いや生の作品を見ること自体が、今回初めてである。10年近く出会っていながら、サッセンのことを我が事として考える機会がなかったのだ。

 

いつまでも異なる星の存在と見上げているわけにもいかないが、そうしている時が最も幸せではある。

 

というわけでまた別枠で考えたいと思います。

 

言葉で理解したところで、その世界から無尽蔵に生み出されてくるイメージの怪物を制圧できるわけではない。あるとすれば、慣れや飽きによる客観視か。つまり「よくわからない」今が一番面白くて幸福である。

 

分かりたくないなあ。わかりたくないんだよ。

 

なんなんだこの展評。

わああ。

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ということでした。なんちゅう終わり方や。

 

取り乱したのでTipsを。

KG展示を回る際は、以下のポイントを含めて組み合わせると吉です。

  • 二条城だけ開館・閉館時間が早い(9:30-17:00)
  • 建仁寺両足院は、閉館時間が早い(10:00-17:00
  • ASPHODEL、Sfera、TIME’Sは逆に開館・閉館時間が遅い
    (ASPHODEL、TIME'S_11:00-19:00)(Sfera_12:00-19:00
  • 二条城と「堀川御池ギャラリー」(KG+SELECT会場)は近い
  • TIME'Sでは「KG+」としてKGプロデュース陣の作品も見られる

 

よき鑑賞を◎ ( ´ - ` ) 完。