建仁寺塔頭・両足院と「The Terminal KYOTO」の2会場で、現代美術展「現代京都藝苑2021 悲とアニマⅡ」が開催された。
13名の出展作家のうち、特に出展数が多く、また他の作家陣とはやや異なる展示形態をとっていた美術家・写真家の勝又公仁彦の展示について書いておく。理由は、最も「個」として、『悲とアニマ』というタイトルに向き合って格闘していたからだ。
【会期】R3.11/19~11/28
- ・第1会場:両足院(建仁寺内)
- ◆勝又公仁彦《eternal commons》(1996-2021)× 鎌田東二《合一(石巻市雄勝町石神社)》(2014)
- ◆《eternal commons》(1996-2021)× 《再び森が薫る》(1991-1993年頃(2021年修復))
- ・第2会場:The Terminal KYOTO
- ◆《Panning of Days - Syncretism/Palimpseste - 3Days in 14years》(2008-2021)
- ◆《CITIES ON THE MOVIE》シリーズ(2012,2016)
- ◆《Skyline"100150"》(2002)、《Skyline"100600"》(2004)、《Skyline"101010"》(2004)
- ◆まとめ的な
- ◆物販:写真集『Compilation of photo series』、DVD、バッチ等
展示イベント名に「Ⅱ」と入っているとおり、実は第2回目のイベントなのだった。
『現代京都藝苑』は2015年3月に第1回が催され、4つのテーマでの展示(「素材と知覚」「悲とアニマ」「連続の縺れ(もつれ)」「記憶の焼結」)が5つの会場で展開された。いずれも総合的に「日本的感受性」の今日的意味を問いつつ、国際的な文化発信を行うことを目的としたプログラムである。芸術作品をただ展示するだけでなく、古い京町家や伝統的な寺社の空間と共に提示するとともに、大学も参画して多数のシンポジウム、セミナー、茶会や舞台などのイベントも催され、学術的な意味合いが強かった。
中でも『素材と知覚』と『悲とアニマ』の2テーマの比重が非常に大きいことが、当時の展示・イベント数と企画主旨のテキストからも伝わる。『素材と知覚』は1970年前後の「もの派」における「世界」への向き合い方に迫り、『悲とアニマ』は「モノ学・感覚価値研究会」の5年間にわたる活動成果の集大成として展示を行っていた。
第1回では総じて、2011年3月に発生した東日本大震災の記憶に改めて向き合い、世界的な天災や人災に対する広く大きな慈悲や慈愛の祈念と鎮魂のあり方を模索するものだった。
今回の展示は『悲とアニマ』の続編という位置付けのようで、鎮魂や慈愛のテーマを継承し、言うまでもなく新型コロナ禍、それが現代世界にもたらした混乱や悲劇に対して向き合う中で、伝統的な「日本的感受性」の現れることを期待するものだ。しかし展示構成としては、前回の『素材と知覚』にあった「もの派」を始めとする日本現代美術への注目・評価の視点が強く継承されていた。
kyotocontemporaryartnetwork.web.fc2.com
しかし今回の展示だが、このあたりの壮大かつ深いバックグラウンドは、全く知らなかった。(サイトはチラッと見たが、読みづらいフォントでテキストが多くてそっと閉じた。) 鑑賞後にこうして長々とblogを書くなどという酔狂なことをやるのに、第1回のデータを検証せざるをえず、それでようやく分かったところだ。
・第1会場:両足院(建仁寺内)
SNS等で見かけた『悲とアニマ ~いのちの帰趨~』という言葉の響き、イメージが強く先行してしまい、私は悲嘆やグリーフケア、愛別離苦、コロナ禍で生じたこの複雑な状況や負の感情に関わる作品が多数あるものと期待していた。全く違った。下手をすると、各作品とも「和」の会場へ良すぎるぐらい収まりが良かったために、現代美術品の展示即売会ぐらいのムードすら感じた。言いすぎか。すんません。「ならお前やれや」と言われたらしにます、ちんしゃ。だが収まりが良かった。それはそれで良かった。しかしそれゆえ「悲とアニマ」と結び付かなかった。
仏教的な広い意味での慈愛や慈悲、アニミズムということで観ればどの作品も関連を持ち、空間との繋がりも深まるのだろう。京都の伝統的な「和」、仏教的な美学の感性、そして日本の現代美術との融合を感じられるかどうか、まさに「感受性」の素養が問われていたのかもしれない。すんませんねサブカル育ちで。
しかしそれならむしろ逆に、『素材と知覚』――「もの派」をはじめとする日本現代美術における世界認識への探求と再評価をバシッと主題に掲げてもらった方が、ずっと納得できた。実際そっちですやんこれ。素材と知覚ですやんマジで。「ならお前やれや」と言われたら略 ちんしゃ。(京都が相手だとすごい下手に出る私。大阪もんが敵いやしまへんどす。)
そんな中で、勝又公仁彦の作品群、特に両足院の2室を用いたインスタレーションは、『悲とアニマ』というテーマに対して強烈に全身で、個人を賭して格闘していたと率直に感じた。というわけで今回は勝又作品に特化して見ていきたい。
他の作品も余裕があれば別記事で紹介したいが作品数めちゃ多いんで(両足院で23、ターミナルで38)、書ききる自信がない(小声)。有休を使う羽目になりそうである。休んでいいすか課長。あっ課長。 あっ。あっ。
◆勝又公仁彦《eternal commons》(1996-2021)× 鎌田東二《合一(石巻市雄勝町石神社)》(2014)
床の間に掲げられた写真は鎌田東二作、床板に置かれた石や折敷は勝又公仁彦作で、両者が響き合って、形なき「神」への信仰を現わしている。
これのどこが神社なのか、岩ではないかと思う写真だが、目録のタイトルにも床板のパネルにも、撮影地として「石(いその)神社」と書いてある。
石神社は1800年近く前からの由来があり、社殿がなく、背の高い塔のような巨石がご神体として祀られている。ちなみにご神体は写真の岩ではないが、石峰山一帯が聖地とされているという。この写真に漂う、神気とも表現したくなる気配は、そこに在る如何なるもの――木々も岩も、大気や陽射しそのものさえもが、信仰の最も素朴でプリミティブな対象となり得ることを物語っている。
並べられている石、貝、骨、蝉の標本などは時の流れが止まっているため、いずれも生物と鉱物のどちらにも見える。特にどうということのない、名前もない小物だが、折敷、床板、和室全体の構造や、神社の写真と合わせて配置される中で、巨石や樹木と同じく自然界が生み出した本質的な形と質を表わすもの、象徴物として働きかけてくる。
信仰や儀式といっても、これらは明確かつ単一の「神」には収斂されない。自然の気配や存在感の濃度、密度を何段か高めるに留まるだろう。そして祈る人間の側と、主客の関係は混然一体となる。
ちなみにこれら、床板に並ぶ《eternal commons》オブジェ群は、今年1月に催された鈴木崇との2人展「Synk - eternal commons / ephemeral being -」(@ GOOD NATURE STATION)で初登場した作品だ。
これまで写真プリントと液晶デバイスを中心としていた勝又作品に、人の手を介さず作られた自然物が、原初的な供物や信仰の形で登場したのは驚きだったが、こうして神気漂う神社に合わせると、切り離せないほどよく合っている。実は作品目録を見間違えて、最初は石神社の写真の方も勝又作品だと勘違いしていた。そのぐらい一体感がある。
◆《eternal commons》(1996-2021)× 《再び森が薫る》(1991-1993年頃(2021年修復))
もう一つの部屋は、勝又作品のみで構成されている。強烈な濃度と情報量が渦巻く場となっていて、人間と自然との関係、人間の様々な感情の渦、終わりのない弔いと喪、それらを浸し続ける・これまでも浸し続けてきた海などのイメージが重合する。
部屋には大量のオブジェや絵画、液晶デバイスが配されているが、構成には中心や主従がなく、目をやった先にあるものがその時々で次々に浮かび上がってくる。この情報量は大変なものだ。視線は、廊下を歩いてきて立って見下ろすところから、部屋の奥の絵を見やったり、屈んで近くの三方や石、貝などをキャッチしながらしばし彷徨う。空間だけでなく時間軸も同様に混在していて、現代人の部屋・心象と、古代人の信仰の跡とがオーバーレイされて映る。それら全てが青=海によって繋がれていて、オブジェ群は散逸せずひとつの場として保たれている。
いずれも無秩序ではなく「形」に則っている。最も手前の折敷、三方に盛られた石や骨には配置の「形」があり、何ものかへ捧げられた供物、古来の儀式を思わせる。部屋の奥に並ぶ赤や緑の抽象的な絵には樹と葉が描かれており、部屋の奥は森、山ということになる。そして海と山と有象無象のオブジェという全体は、部屋の床という平面によって貫かれており、すなわち立体物でありながら一つの大きな平面作品のような様相を呈している。
背後の絵は《再び森が薫る》(1991-1993年頃(2021年修復))、未発表の初期作品に手を入れ直したものだ。以前トークで「写真に取り組む以前には絵画を描いていた」との言があったが、思わぬ形で作家活動の原点とも言うべき作品に出会うことになった。なお、この作品群はグリッド状に組まれ、光を照り返しているが、白黒のバライタ印画紙をパネルに釘で貼り、その上からニスやアクリル、パステル、銅、鉄などで着彩し、更にその上から透明フィルムが貼られている。木々の枝や葉がかなり写実的なのはその写真の像のためだろう。
さらに言えば、作者は芸術・表現活動を行う以前の学生時代には、宗教学の方面で山野でフィールドワークを行っていたという。絵画作品と石や化石や植物が配されたこの空間は、人類の原初の信仰を現しただけでなく、作者自身のキャリア、内面の非常にコアな世界観を表した場に他ならない。
更に注目すべきは、絵画の奥で光る映像だ。一定時間で切り替わってゆくそれは、絵で塞がれていてほとんど見えない。手前に並ぶ色々なものを一通り見終わって、多量の情報が自分の中で整理されてきて、ようやく目が向くものだろう。
映像は生身の人間、若い女性だ。しかもポートレイト等の「作品」ではなく、家族写真の趣がある。なぜ自然や信仰に満ちた部屋の奥の奥で、このような卑近なイメージが挿入・展開されているのか?
逃れ難く、強烈に思い当たったのは、2020年1月の展示「わたくしのいもうと」である。(目録には明記されていないが、スライドと一部のオブジェがそこから引用されている旨をご本人に確認させてもらった。)
「わたくしのいもうと」については以下のレポートを参照されたい。事の経緯もさることながら、展示形態がかなり独特なので、作者本人の解説による動画を観ていただくのが一番良い。
これが組み込まれているということは、すなわち、本展示は人類の信仰のルーツ、自己の表現のルーツのみならず、まさしく真っ当に、人生における離別の「喪」を表わしたものとなっている。そして、そこからの救いや回復へ至る長い道を示唆しているかも知れない、あるいは逆に、物質と非物質、時の流れの大小から導かれて体感されていった、現世の向こう側が表わされているのかもしれない。光沢を帯びた濃い青の敷物は、海だけでなく仏教的な冥界をも思わせる。海と喪、冥という連想からは、東日本大震災の津波、それがもたらした現世とあの世との混交した領域をも追想させる。この場は様々なものに繋がり得る。ここは鑑賞者の心象に委ねられている。
というより、展示を見に来る前から、『悲とアニマ』というタイトルの下で作者が展示を行うならば、この作品――当事者としての体験こそ、誰よりも深く関わる話として提示されるだろうと予想していた。
深い喪失に見舞われたならば、何によって救いを得て、何を根拠に「今」「此処」に留まればよいのだろうか。私は今のところ決定的な死のルーレットに当たっていないから、圧倒的他人事でいる。だがいずれ何らかの形で必ず当たるのだ。人間である以上は。
信仰や儀式、自然との対話は、その身に起きてしまった大きな喪失と悲嘆から回復したり受け容れるために必要であるだけでなく、この先に来るべき大きな喪失と悲嘆に「備える」ためにも不可欠なのだろう。この身を超えた大きさの喪失と悲嘆に。そのようなことを想った。
いいですね。自然オブジェたまりません。急にですます口調やん。はい。
実を言うと、私も昔から山や川や海に交わるのが好きで、登山もやってたし、「何となく気になる石」や「掌におさまりのよい貝殻やサンゴの欠片」、動物の骨などが好きで。幼少期にはアホほど拾い集めてましたなあ。今でも、持ち帰りはしないけれど、たまに手にとって地味に喜んでいます。
その「何となく良い」感じがどこから来るのか分かりませんが、深い理由はなくて、ただただ生理的なものとして、自然との触覚的な接点を持つのが心地よいのだと思います。自然てどこからやねん、というと自分自身も自然やんか、ということを近所の神社に行くといつも実感するですよ。森の空気と光と影のせいかな。急に自分の話するやん。はい。
( ´ - ` )
・第2会場:The Terminal KYOTO
もう一つの会場、京町家を活用したスペース「The Terminal KYOTO」では、入ってすぐの土間で写真作品が展開された。両足院では総合的な「美術」の展示であり、写真はその構成要素の一部であったのに対し、こちらでは純粋に写真が主役の展示となる。
ここでは《Panning of Days - Syncretism/Palimpseste》《CITIES ON THE MOVIE》《Skyline》の3シリーズで構成されているが、これは2016年5月に京都市内のギャラリーでの個展「the dimensions of "Right Angle"?」(@ ギャラリー富小路)に近い取り合わせとなっていて興味深い。
今回は《Right Angle》シリーズこそ無いものの、上掲の記事にある通り、従前の勝又作品の解釈としては、都市景、立体と平面性の関係、写真という平面メディアの性質への言及、というラインであったことに賛同する。
それが今回の展示や、喪や自然、信仰についての言及を明確に強めた近年の作品に触れてきたことで、私の中での解釈としては大きく変わるところがあった。
◆《Panning of Days - Syncretism/Palimpseste - 3Days in 14years》(2008-2021)
ひときわ巨大な3枚組の写真は、屏風画と抽象画の合いの子のように存在感を放つ。長時間露光の写真が宿した光量と、照明を照り返す光とがそうさせている。だが最も光を帯びているのは、モザイクのように散り散りの白光を放つ桜の花だ。桜の下に都市がある。
こうして作品を写真に撮ると、多重露光的な前後関係:桜が手前・街が奥というレイヤーの前後としてはっきり見えるが、現場ではレイヤー感はほとんど見えず、もっと分かりづらく混沌とした光と影のせめぎ合いがあり、都市の造形は桜の根元の暗い部分で、黒い線となってのみ確認できた。都市の生気や光を吸って、桜が開花しているようであった。
《Panning of Days - Syncretism/Palimpseste》シリーズは勝又作品の代表作とも言え、大きな展示イベント、「BEAUTY CROSSING GINZA」「あいちトリエンナーレ2016」、「写真都市展―ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち―」などで度々、目玉作品として登場している。
異なる時間軸を少しずつズラしたアングルで撮って重ねることで、写真という平面メディアに空間と時間という2つの立体性を盛り込むのが本シリーズの醍醐味で、夜の都市部における人と車の往来や放たれる電光・電力が印象的なのだが、今作ではそうしたヒトの営みが暗く、桜へと吸われて影に転じていて、これまでの「都市写真」とは異なる印象を受ける。影と花が生み出す「間」に何かがありそうだ。これまでのように電力をばんばん使って疾走する、人間優位の「都市」ではありえない、ということだろうか。
◆《CITIES ON THE MOVIE》シリーズ(2012,2016)
動く乗り物から長時間露光で撮った光景で、流れ去る景色が水平のストライプ状に抽象化されている。
こちらも手法は違えど《Panning of Days - Syncretism/Palimpseste》シリーズと同様、時間と空間の立体性を写真という平面に転化して表現している。だが工程としては逆で、複数の時系列での時間と空間を1枚に内包させるのではなく、時系列はある単一の瞬間のことに収斂されている。しかしその一瞬の間に、人間では知覚し得ない量の「距離」(空間)が吹っ飛んでいる様を、平面として表している。
《Panning of Days - Syncretism/Palimpseste》シリーズが時系列の複数性(複素数?)を表わす写真なら、《CITIES ON THE MOVIE》シリーズは速度・時速の数式の写真だろう。万物を数値化し管理と効率化に結び付ける都市・資本のシステムが見せる景色を可視化したとも言える。
以前ならはそのように都市景、都市システムに結び付けて語ればよかったのだが、しかし今回の展示、そして近年の作者の取り組みを見ていると、もっと大きな、人間界の外側を取り巻くもの、認識の向こうにあるもの――「自然」というものによって天文学的に流れ出してきた「時」なるものへの触知として捉えたくなる。
◆《Skyline"100150"》(2002)、《Skyline"100600"》(2004)、《Skyline"101010"》(2004)
遠くから望む都市景を、水平線上の小さな凹凸とし、画面の大半を空で占めている。横長に切られた景色は平面性を強めている。都市空間はまるで絵や版画のように、山のシルエットのように抽象的な形象となって写真と化している。
※なんか白昼の落雷のような、縦の光が入っているのは、私の姿が反射したものです。雷ちゃいます。
都市部の具体物から上、空が非常に大きく、また写真を囲む白いマットも大きいため、その「間」が逆に作品として特徴的なものへ転じる。都市景・都市構造物を強力に平面へと転じさせた作品として見ることができるのだが、やはりこの大きな「間」は広義の仏教的な間合いというか、人類を包みながらも、人類の側からは直接触れることのできない「虚」空、そのようなものと関連付けてみたくなる。
◆まとめ的な
全体を通じて、なぜ「間」から信仰や都市批判的な読み方をしているかと言うと、やはり《eternal commons》× 《再び森が薫る》の青い空間が無視できないからだ。関連付けて「The Terminal KYOTO」の作品群も一連の展示と見るなら、都市(礼賛)論ではなく、むしろ都市文明の外やそれ以前に辿り、信仰や自然へアプローチする試みとして読む必要があるのではないか。都市文明、資本主義的な心性・感性の限界と、その外側へアプローチする可能性について考えたくなる。
なぜなら東日本大震災も新型コロナ禍も、人智や都市文明や資本主義、政治、国家の覇権やグローバル企業の限界を、様々な面で強烈に突き付けるものだったからだ。同時に、また新しい課題解決や生活様式、サバイブの方法、知の技法をもたらす契機ともなった。追い詰められればやっと変化を選択するのか? レジリエンスは社会や組織の可変性と共にあるのか? 危機と共にもたらされる変化、それは歓迎すべきなのか?
だがそこには少なからぬ犠牲や喪失があり、その都度、様々な目に見えない「喪」が繰り返されてきただろう。同時に、そこからの回復や癒しも。私はそうした営みと本展示・作品とを結びつけたいと思った。
少なくとも、作品を鑑賞する時の心情や心象といったものは、そのようにコンテンポラリーに自由に活性化されていたいと、個人的に願うものだからだ。無論、こちらから作品に読み方を強いるのではなく、往還のスパイラルの結果として。そんなわけで、今回の『悲とアニマ』『いのちの帰趨』というテーマ・フレーズは、勝又公仁彦作品にこそ当てはまったのだと実感した次第だ。
◆物販:写真集『Compilation of photo series』、DVD、バッチ等
台所の横のスペースで写真集やDVDが売ってましたよ。
写真集『Compilation of photo series』は表紙が3種類、中は2冊組みになっている。数えきれないほど多彩なテーマで、同時並行的に展開されている勝又作品の各シリーズについて、テキストと写真で分かりやすくまとめている。
めちゃ分かりやすくてお勧めです。「until 201X vol.1」なので、今後も作品が増えればVol.2とか出るのかな。
まさかの缶バッチが売られていて驚き。これあれです、火ぃ焚くシリーズです。色んな場所でサッと火を焚く、今の世の中ではなかなか難しい作品。一瞬きのこに見えた。かわいいです。
急に軽い感じで終わるやん。はい。
作品、たんのう、いたしました。はい。
( ´ - ` ) 完。