nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/KG+2020】【No.20】鈴木崇『Quiet Riot』@メディアショップギャラリー

会場入口のステートメントを読もう。『本展覧会は、トポロジー位相幾何学)の考え方に着想を得て制作した作品や、別のテーマで制作した作品を、実験的にモンタージュもしくはブリコラージュした展覧会です。』

 

本作は目には見えず、日常的感性では想像も困難な数的理論のモデルに対し、それらを連想させる野生のトポロジーを写真的に採取して見せた場であり、また展示自体がトポロジー的な柔軟性によって構成されている場であると言えるだろう。

 

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【会期】2020.9/14~10/4

 

 

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『カラミ・アウ多面体』

 

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CTS禅と幾何学』 

 

本展示では冒頭から「位相幾何学」、トポロジーに関連する話題が提起されるが、作品自体はその分野の研究のために作られたものではなく、作者もその分野をテーマとして活動する作家ではない。

トポロジーとは「位置の学問」や「柔らかい幾何学」とも呼ばれているが、その理由は連続的に変形する(切り貼りをせず、伸ばしたり曲げたりする)ことによっても、同じ性質を示す図形は同一のものと見なすという、抽象度の高い取り扱い方をするためだ。

図形の操作はゴムに例えられる。代表例に挙げられるのが球体とドーナツの比較である。操作とは、物体を引き延ばす。球体は縦や横に伸ばして平らにしても中身の詰まった円形だが、ドーナツは輪の形となり中の空洞は消えない。よってこの2つは別の図形として扱われる。同様にドーナツとマグカップを比較すると、マグカップをゴムのように引き延ばしたり平らにしても、取っ手の部分の輪=空洞は消えない。よってマグカップとドーナツは同じ図形として扱われる。

 

要は、図形や空間は穴の数によって分類される。この考え方を援用すると「地球や宇宙は球体なのか? ドーナツ型の環の形の可能性はないか?」という問いと検証に結び付く。2000年~2010年代にかけてポアンカレ予想の解決で一躍脚光を浴びたところである。

トポロジーではそのよう抽象化の操作を加え、具体的な個別のモノを大きな括りで分類し直し、繋げて考えることができる。この発想を活かした身近なデザインとして、山手線や環状線の路線図が挙げられ、個々の駅同士の距離や経路の違いを抽象化し、一つの円形の中に等間隔に埋め込まれている。

本展示ではそうしたトポロジー的な世界の捉え方を引用し、作品全体が幾何学的な話題でつながりを持つよう構成されている。また同時に本作では、写真によって外界に潜む幾何学的なイメージを催させるもの、類似したものを拾い上げ、その連想の場を提供している。

 

いわば、本来なら眼には見えない多次元や量子力学における理論上のモデルと、何の数式も介さずに(寄せ集め的な手仕事で、時には偶然に)現れた、見た目がそれらと近似したモノの組み合わせや形態とを、トポロジー的に「柔らかく」連結させたことが、本作の重要な意義だろう。

 

多くの人は、特に私のような文系学科の出身者の多くは、高校数学の数Ⅱ数Bを越えた本格的な数式は到底扱えないし、社会に出てからの数式などExcelのCOUNTIFやVLOOKUPがせいぜいで、数式から理論的に導かれる3次元を超えた世界を視覚的にイメージすることは、訓練なしには不可能である。残念だ。むりです。それどころかYouTubeの4次元多面体の動画を何度見ても意味が分からない。残念だ。むりです。

だが理論上は、この眼前に「見えている」知覚世界以上の次元、世界の姿があり、その仮説や原理に基づいてこの世の様々なサービスなりシステムは構築されている。代表例がカーナビで、相対性理論を援用して衛星と地球上との時間のズレを補正している。こうしたことは日常の感性では到底理解・納得できるものではなく、反対論者も根強いようだ。

 

数学や科学は常にこの私たちの日常的感性、すなわち五感の圏外を探求し分析し、こちら側への還元への糸口を与える。

だが、もしかすると普段の思考を停止して、外界をじっと見つめているだけでも、「今ここ」という確からしく整理された次元から、別の・曖昧な、次元のはざまへと迷入できる機会はあるかもしれない。特に、意味を持たないモノ同士が、意味を持たないパターンで立体的に組み合わさっているのを凝視すると、確からしさの保証された「今ここ」から、やや不安定な、確かでない世界へ誘われる。造形物として目の前にそれがある以上、日常の次元で整理できない何かが「確かに」存在しており否定することができない。立体として立ち現れている時にはなおさら解釈困難なまま、そこに迷い込む。

本展示には無かったが、鈴木氏が写真集『BAU』(2015)にて、500パターンにも及ぶ複数個のスポンジの立体的な組み合わせによって提示したのは、その解釈のできなさと、できなさが積み重なり延々と繰り返されてゆくことによる「今ここ」次元からの穏やかな拡張、その先の次元のはざまへの誘いでもあったのではないか。タテに積み上げられたスポンジは思索的な建築物のように抽象化されつつ、写真ならではの複数と連続性により、彫刻作品のようなサイトスペシフィックな体験とも異なる体験をもたらす。

 

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『雨沁山水』

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『Fictum cp-0262』

 

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 『phase/phenmena』

 

 

本展示で冒頭に提示された「トポロジー」に最も近いイメージの作品が『(K)not theory』シリーズで、これらは路上で偶然発見されたと思われる紐などの形態に着目している。単個では何気ない抽象的なスナップと見做されたかもしれないが、この会場内では幾何学と緩やかに連動されるため、まるで数式によって生み出された理論のモデルに見える。足元に異次元が落ちていたのだ。

 

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本作では通常は認知できず、日常の感性では想像も困難な理論のモデルを、日常の外界などから採取し見出したり、連想を呼び起こすイメージを写真によって、最小限の操作で提示してみせた。一般的には「空間の3次元+時間の1次元=世界は4次元」という構図がとても広く流通しているが、その分かりやすい構図自体が正しいのかどうかは疑義があるし、それ以上に折りたたまれている次元を合わせると最低でも9次元はあると考えられている(超弦理論により、各種の素粒子に対応する”ひも”が振動して余剰次元としてのカラビーヤウ空間が予測されている)。

写真により渉猟される野良、野生に見出されるトポロジー的なイメージが、なぜ面白く感じるのかといえば、写真表現及び写真鑑賞体験が、3次元+αの外界の光景や事象を2次元平面に無理やり詰め込んでいる、過剰なメディア体験であるためだろう。眼に近い構造でありつつ、肉眼とは異なる光学的な視座であるがゆえに、それを肉眼で再確認するときには時に(しばしば)3次元的に整った視覚を凌駕した体験を催させる。都市の複数の建物写真を横に繋ぎ合わせた『Fictum cp-0262』ではそれが顕著に出ていて、緊密に隣り合う建築物の図形の立面が前後左右のどの方向に凹凸しているのかはすぐに見失われ、「正しい」「確かな」感覚が通用しなくなる地点へ踏み込むことになり、まさに3次元以上の多面体をぐるぐる回して見せられているときの混乱を覚える。

 

2次元平面に圧縮された「像」が、平面を超えた何か狂暴な迷宮を備えている感じは、写真ならではのものだと改めて実感した。 

 

 

脳内麻薬がバシャバシャ出そうな分野であるが、幾何学と知覚、踏み込むには私の力量をはるかに超えた分野であるため、一旦ここで筆をおくことにする。どうしてもこうした「次元」の話になると藤子不二雄作品が脳裏にチラつく。幾何学は日常的感性ではない、とここまで繰り返してはきたが、本当は幾何学をはじめとする「科学」のことは、サブカルから身に付けてきた素地がとても大きい気がする。などとサブカル擁護で〆てしまってすいません。、。

 

( ´ - ` ) 完。