昨年度「KG+SELECT 2023」出場作家3名が集い、写真という枠組みの変容についてそれぞれの視点から可視化する試み。
だが、本展示は難問である。どうしましょうか( ◜◡^)っ
- 問1.「事象」(phenomenon)の射程の幅広さ
- 2.前回展示からの文脈―エッセンス性
- 3.展示空間との関係性―物性による応答
- 「写真」というフォーマットの要素
- ◆西村祐馬/「Savepoint」「Touched」等
- 骰子の出目、作家性、展示
本展示は難問である。大事なことなので2度言うやつ。
グループ展はそもそも難しいのだが、輪をかけて三者三様にも程がある(誉め言葉)。普通の写真じゃないのである。
完結しているような。断片的な。写真の体をしているけれど何を示しているか分からないような。そもそも写真じゃないような。etc。etc。
難しい理由、もとい、投げかけられている「問い」について、3点ほど挙げながら読み進めてみよう。
問1.「事象」(phenomenon)の射程の幅広さ
大本の意味を押さえるには、タイトルやステートメントに立ち返るべきだ。
タイトルの「事象」とは、辞書的には大きく2つの意味が出てくる。
1.特定の状況で起きる現象、出来事
2.数学的な試行の結果(さいころの目)
非常に射程が広く、捉え難い語を冠した展示であることが分かる。最初から分かってはいたが、改めて前提から「事象」として考えると、特定のテーマや主張を排していく、作品があるがままに見せている何かを見ることが肝なのではないか、と思えてくる。
三者の表現が「写真」の可能性としての何らかの側面、すなわち「目」を呈しているということか。
事象=さいころの目、という理解は具体的なイメージを促した。
写真(領域や概念)という大きな事象を「賭け」とするなら、表現行為やアウトプットされたものとしての「写真」が骰子、作家がツボとなってそれを振り、その場に出た「目」の組み合わせが、本展示の表現であると言えるだろう。
写真それ自体がとれる姿形のパターン、展開の幅には限りがある。完全無限ではなく、ある程度の結晶体のようなコアが存在する。まずはそう仮定する必要がある。
しかしどの目が出るかの組み合わせは膨大になり、また、持ち寄る骰子がそもそも、各作家によって形や目の数、重心が異なるとしたらどうだろうか。ツボに入れて振る時の動き、ツボに入れる骰子の個数もそもそも異なるかも知れない。
そうした偏りや変形、歪さを作家性と呼ぶのだろうと思う。まず各作家の作品を見ていく必要があるだろう。
2.前回展示からの文脈―エッセンス性
だが本展示を難解にしているもう一つの要因が、文脈性(の切断)にある。
三者のうち、西村祐馬、高橋こうたの作品は、昨年度「KG+SELECT 2023」展示内容(あるいはその前後の個展など)と同じテーマとスタイルを継承している。むしろ文脈を継承しつつ、点数を更に絞り込んだ、言わばエッセンス抽出版が今回の展示となっている。
すると前回「KG+SELECT」ほどの念入りな説明がない今回の展示では、ストーリー性より先にかなり即物的、実験的な結晶面だけを見せられることになり、前回展示を見ていない人にはかなりソリッドなものになったのではないだろうか。
ただ本展示の狙いとしては、各人の個展で出すにはそぐわない「攻め」の試みをやることにあるので、これはこれで正しかったりする。
ちなみに「KG+SELECT 2023」各作家の展示内容はこちら。
西村祐馬、高橋こうたは「堀川御池ギャラリー」、小池貴之は「京都芸術センター」で展示していた。
基本的には前回内容を知っていれば大体OKということになる。私もそのノリで見ていたのだが、改めて展示タイトルと向き合ったとき、果たしてそれで良かったのか?と考えさせられた。
作品の、展示イベントの、作家それぞれの文脈から距離を置いて「作品」を再配置した時に、表現物それ自体は一体どのように見えるのか?
3.展示空間との関係性―物性による応答
これは一番目にもってくるべきかも知れないが、本展示の難しさは展示空間との関係によるところが大きい。
ホワイトキューブで完全に全ての文脈から切り離してソリッドに並べた方が、まだ「モノ」「物性」「平面性」としてスムーズに捉えられたかもしれない。
だが今回の会場「Now & Then」は、ギャラリースペースを備えたカフェ、お客様くつろぎの間である。
「作品」は場と混成されている。三者とも、写真の定番のフォーマットを様々なポイントから脱した試みをしているため、物性が高い、拡張性が高いなどの特性を備えており、するするとカフェのインテリアへ接続していくことになる。
どれが作品で、どれが調度品かが区別される領域が曖昧になる。その事態を、恐らく作家らは自覚的に仕組んでいて、「写真」がどこまで空間と応答可能かを試している。
「ホワイトキューブに置けばいいのに」という発想は、美術館という文脈、美術館と作品と鑑賞者の力関係に投げ返すものである。「警察の許可をとって、場所や時間の指定を受けて、迷惑にならないように路上ライブをやる」という感覚に近い。
また「KYOTOGRAPHIE」本体プログラムの場合は「写真表現を空間全体に拡張させる」大規模インスタレーションの形をとる。本展示とは似て非なるもので、KGは写真で場所を支配し、占拠するのだ。ホワイトキューブの権力性を写真側に政権譲渡させた形態といえよう。
本展示の試みはもっと分かりにくい形で、例えば「ごく狭い敷地を買い上げて私道にしたうえでそこを一般通行者にも開放する」「ストリートで無音で溜まってるように見えて実は無線で音を鳴らしてヘッドホン越しにライブしている」のような趣がある。
作者らのキャリアや考察力を踏まえると、表現物、「写真」自体の物性を高めることに加えて、表現者・表現物と場所の領域を拡張させ、混成させようとしたのではないか。
ただなんせ「カフェ」なので、一般のお客様が普通に茶ぁしばいてくつろいではるのですよ。すんませんちょっとすんません等と談笑してる前をうろうろ闖入しながら作品一点ずつ確認しながら観る人って、たぶんKG+記事を請け負ったライターとか、作家トークショーを請け負った人に限定されるのではないか。作品・展示のガチ読解を唸りながらやっていく場ではないので、ここには作り手と受け手の間に相当なギャップはあると思う。
「写真」というフォーマットの要素
展示物について、「写真」として明確にジャンルが区分されているものもあれば、そうでない形態のものが多い。物性を高めたがゆえに、インテリアの一環として溶け込んでいるかに見えるものも多い。私もいくつか見落としている気がしている。
物性、物性とばかり叫んでいても、掴み損ねるところがある。
従来的な「写真」という規定のフォーマット、フォームの約束事としてはどのような要素が挙げられるだろうか。考えられる要素を挙げてみる。
①「被写体(対象)」の存在、構図の完結性
②「時間(事実)」の存在
③「物性」(撮影、制作~アウトプットにおける)
④「平面性」(アウトプット、展開における)
⑤「可算性」(単数、複数)
あくまで私の経験則や推論であって、写真評価機構や国際写真基準協会などによって認められた基準ではないが、概ねこうしたものになるのではないか。
つまり通常、私達が想像する「写真」でいうと、
①被写体や構図がある。
②撮影した際の時間や、像が指す出来事と記憶とが照合できる。
③フィルムを現像したり、スマホの液晶画面に表示。
④平面の紙へのプリント。像そのものが平面。
⑤写真1枚と数えられる、コラージュで複数枚繋げている。
・・・と言えるだろう。
本展示の作家3人とも諸要素を満たしているが、全5項目を忠実に満たすわけではなく、それぞれに欠落や過剰さを伴っていて、そこが本展示の難題さであり意義となっている。つまりそこで鋭く切り出された「面」が、写真という「事象」の一端を示すのではないか。
では各作家の作品と傾向を見ていこう。
◆西村祐馬/「Savepoint」「Touched」等
小瓶に写真を封入した「Savepoint」シリーズは、作者の私的な時間=感触や記憶を瓶詰めにして他者へ渡すものだ。
瓶の中に写真1枚ずつが封入される、瓶の形状や曲面越しに写真を見るため、瓶という物性が前景化している。
そのため、②時間性は隔絶され、それ以外の①③④⑤は満たされはする。
特に②時間性については、瓶の物的強度によって、作者の私的な記憶のショットであることを完全に断たれ、誰の記憶でも記録でもないシーンへ宙吊りになっている。
また、瓶によって④平面性、⑤可算性は揺れ動いている(=写真は紙?瓶?どっち?)。人によっては強調されたとも見えたり、写真から奪取されたとも見えよう。
剥き出しの人肌を模した「Touched」シリーズは、③物性、⑤可算性以外を棄却していて、特に③物性にステータスを全振りしている。
もはや何かの写真ではなく、写真というメディウムを身体・皮膚として再立ち上げさせたものだ。複写された側の指示対象が、オリジナルに到達しようと受肉する。複製イメージからの反乱である。
だが経年的に触られ続けることで、改めて摩擦情報に露光される=写真的である、という読み方もできよう。
また、本作が新型コロナ禍で他人との接触を規制されていた時期に発表されたものと考えると、発表当時は②時間制、コンテンポラリーな性質も高かったことは見逃せない。
▪高橋こうた/「80°05′」
南極点へ挑むも果たせずに終わった100年前の冒険家・白瀬矗(しらせ のぶ)と、その姿を追う現代の冒険家・阿部雅龍(あべ まさたつ)の姿を並置し、重ね合わせながら物語を編む。
①被写体、②時間性、⑤可算性は一つに定まらない。
主軸は阿部雅龍の現在進行形での挑戦を追うのだが、白瀬矗というシャドウがぴったりと伴走しており、登場人物が二重に複層化している。よって当然に用いられる写真、資料も複層化する。特に白瀬矗のイメージは過去に撮られた写真資料を参照しており、もはや作者が撮ったものですらない。
しかも阿部はまだ挑戦途上であるため、歴史的事実としては「未完」という完結を迎えた白瀬矗の方が強くなる。主格の主従関係すら定まらないところがラディカルな特徴だ。
そして展示品で特徴的なものは、額装の中に複数枚の写真を配した作品だ。「写真」フレーム(額装)内に、小さな写真を複数枚入れたり、その他のメモや書き込み、資料などを配置している。コラージュではなくフレーム内再配置で、言わば一人の人間に複数の顔がある状態だ。このオーバーフロ-は③物性を刺激し、④平面性を破り、⑤可算性を無効にする。
更に、南極大陸を象徴する身近なイメージ/品物として、ロッテのクールミントガムがフレーム内と壁の隙間にも投入される。壁や天井にはライトボックスが伸び、写真を内側から光らせている。
フレーム内、写真の一要素であるべきものが、空間に物理的に投げ込まれて侵襲していることから、オーバーフローは③物性を更に強め、⑤可算性を破っている。
ちなみに作品のコアとしては同名のハンドメイド写真集である。展示はその派生形であるという構造ゆえ、メタ的に言えば写真集を起点として展示①~⑤の要素をその都度全て変数化できる可能性があり、この点も非常にラディカルである。
なお、文中で「阿部雅龍はまだ挑戦途上」と書いたが、今年2024年3月27日、脳腫瘍のために亡くなった。阿部氏の冒険は、終わってしまったのだった。次回以降、「80°05′」はこの結末も踏まえて物語られるだろう。ご冥福をお祈り申し上げます。
◆小池貴之 / 湿板写真シリーズ
湿板写真は古典写真技法だけあって、どれも①~⑤を忠実に満たす。「写真」のお手本にして祖とも言うべき性質を有している。
だが完全にアナログな工程で作成されるため、同じネガを用いて同じ手順で制作しても、毎回必ず違いが出てしまう。古典技法は化学薬品と化学反応の連続から成る。僅かな薬品の量や濃度、扱う際の気温や体温、反応時間・・・etc、物理のあらゆるものが変数となる。
すると本作は、①~⑤を担保しているメタな総合要件と向き合った作品と言うことができる。①~⑤を当然に満たすのではなく、①~⑤を満たすための条件をその手で作って揃えていくこと、まさに「写真」を一から化学的・光学的に成立させていくことが、小池作品の要点なのだ。
これはフィルムであれデジタルであれ、基本的に指示&外部委託で成立している現代的な「写真」の在り様とは一線を画する。
ちなみに本作では感光剤を塗布したガラスをカメラに入れて直接撮影するのではなく、35ミリやデジカメで得た像を元に、感光ガラスを印画紙代わりに引き延ばし機にセットして、像を照射している。そのため、同じ像の複製が可能となっている。
古典技法ながら同じ像が複製可能であること、それがデジタル由来であっても古典的な形態で現像可能であるという、時間(時代)のハイブリッドさを有した工程であることも特徴的だ。
また、制作に当たっては現地の臨場感を重視しているため、作者は可能な限り自分で現地に由来する素材を集めたり、コンセプトを差し挟んで写真化する。それらは③物性において関連付けされ盛り込まれる。
「KG+SELECT 2023」の作品「Домой(ダモイ)」:シベリア鉄道でのウラジオストク~モスクワの旅の写真は、一般的なフィルムカメラ撮影&暗室プリントで制作されたが、「ドイツのカメラ(Leica)にロシアのレンズを着けて、日本人が撮る」という、国際的な接続(融和)を込めた行為でもあった。
前作「浜さ」では、湿板写真の制作に必要な塩を、舞台となる実家、北海道の海の水から煮出して取っていた。
骰子の出目、作家性、展示
3者の作品、それぞれの骰子を振ったときに出る「目」の面が、いかなるものかが見えてきた。
「物性」や「拡張性」というキーワードである。「彫刻的」とも言う。
写真が従来の「写真」の枠に囚われないことを標榜し、また受け手がそのように感じるとき、必ずそれらの言葉が登場する。
技術的には何でも可能である。立体物への画像転写は全く可能であり、写真を立体物に加工することも、立体的な写真を作ることも全く可能である。むちゃくちゃ大量に出力することも、積み上げたり燃やしたり激しく扱うことも、物理を脱してWebやゲーム内で写真を撮ることも、電波通信での送受信、NFT、etc、etc、可能である。
ただしそれが「写真である」かどうか、「写真」家の行為としてどうなのかということが、常に問われ、評価、考察、評論され、選定されている。
写真世界という賭場で、その行いが「賭け」として通るかどうか。
物理的技術的には何をやっても良いはずだが、何をやっても良いというわけではないらしいことが分かってくる。いや、誰もが分かっている。写真における万能感と、それを制御する力との相克のようなもの。
既に周知の、暗黙の領域のことであるが、3者の作品と展示、「事象」というタイトルによって再認識したのだった。
一つは作家性。
その手に骰子を握っているかどうか。賽を振るのか否かの主体。
もう一つには「展示」というもの。
「写真」が物理的に外部の世界と接点を持ち、関係性的にも写真世界の外から来た人間の目に触れ、別の言語に曝されるとき、汎・拡張性への万能感は夢から醒めたかのように消え去ってしまう。
逆に、様々な眼と言葉に曝されることで、当初企図されていたのと別の変化を促されたりもする。
ここまで写真行為の主体側から見てきたが、賭場に座る外からの他者もまた賭けによって参加している。その賭けとは、鑑賞、感想、情動、読解、評価、拡散・・・などだ。
写真の拡張性について考えるには、展示という場が孕む外部性についても考える必要があるようだ。
( ´ - ` ) いったんここまで。
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<R6.4/28(日)作家3人トークを終えて>
さてトークをしまして。
タイトル「事象」=「Phenomenon」は「現象」、三者三様に「出てきたもの」を表す言葉として選ばれたという。それが写真の様態が可変的であること、写真の枠が幅広いことを表すため、トークでは「変態」(metamorphosis)という語が最初から最後まで多く用いられていた。
また冗談交じりにかつマジに「変態」は「アブノーマル」、作家らの偏った志向性や情熱を指す言葉としても用いられていた。あながち冗談ではなく、三者ともにそれぞれに強い拘りと問題意識をもってやりこんでいることが伺えた。
話は中盤から、展示と観客との関係、観客という存在にどこまで照準を合わせるか・どの層に向けて照準を合わせて展示を組むべきか?の話題になった。
「変態」的な作家の目からは、他人の展示を観に行っても、場の建築性、設営・装置的なところに目がいってしまい、一般の観客と同じように展示そのものをピュアに見ることができない、という話だった。
あるとすれば、文字情報をあまり入れないようにし、先入観を排して展示・作品を見るようにしている、とのことだった。
私もその点はうにゃうにゃしていて、自分の観方のスタイルが固定されてしまったので、一般の観方を捨ててしまった。私は後から記事化することが念頭にあるため、文字情報が不可欠となる。どんなに難解でチャレンジングな展示・作品でも、文字情報でしっかり伝えてくれるものがあれば見るし、逆に言えば、何ももたらされないものや、解釈の余地がない・カルタ的・符号的に完全一対一の対応しかしていない作品なら、観る意味がないとしている。
展示を評すること、批評の話が出た。
展示に対してなあなあでなんとなくふわっとしているより、自分の感じたことを身近な相手と、言語化することがまずは大切ではないか? と。
言語化、言葉を交わす場がなければ、観るという行為が成立していかないし、広がりも出ない。
X(Twitter)で言葉の上に言葉を重ねていても実体がなくてだめだと。身体性が伴う必要があるのではないか。本展示はどれも身体性を伴い、観客に「動き」を要請する。小池作品は反射率が高すぎて正面から普通には写メで撮れないし、黒バックからガラス面を離してみたときに初めて湿板写真の意味が分かる。高橋作品は身体を動かして見ていかないと入れ子構造の細部と全景が捉えられず、更にその周囲を取り巻く天井吊りの作品をも繋げていくことができない。西村作品も瓶を追う、瓶を手に取る、瓶の中の写真を覗くという行為が不可欠で、回る貝殻とプロジェクター映像とを結びつけるには三半規管の工夫が要るだろう。
だからこうして積極的にトークの場を設けるなど(同じ展示内にもかかわらず今回で3回目のトークだった)、場づくりをしているという。
場の生成と活性化には、作品を作ること、観られることの周辺・その先に、作品や展示が「語られる」こと、更には作品が売られ、買われることも含まれる。
写真が作品として売られていることすら知らない人もまだ多い。
買われて、他の人の手に完全に渡って初めて、それは「作品」となる。
作家は無限にものを作り続けることができてしまう人種であるから、どこかで切り上げる、手を離すところが必要になる。それが展示であり、批評であり、売買である。
そのような話をした。
有意義な会でした。ありがとうございました。
( ´ - ` ) まる。