nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】第45回木村伊兵衛写真賞 受賞作品展 片山真理・横田大輔 @ニコンプラザ大阪 THE GALLERY

2020年3月半ばに木村伊兵衛写真賞・受賞の発表があってから、本来なら約1カ月後に展示が催されるところ、新型コロナ禍に見舞われて授賞式は中止、展示は無期限延期となっていた。

一年越しでお目見えしたのは、片山真理・横田大輔の二人展という形態だった。コンパクトな展示室で二人の活動を振り返る。

 

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【会期】2021.2/25(木)~3/10(水)

 

 

違和感のない二人展であった。どの作品がどちらのものであっても、特に不思議ではないという意味で。

どこがどう似ているのか/共通項なのかはまだ言語化しきれないが、二人の作品が「写真的な写真」ではないことは確かだ。言い換えれば、従来の写真における「良さ」の質や形態とは異なるところに本質的な価値を持っている。

両者とも、「作品」の意味として表されるコンテンツと、「作品」として意味を持つ主体が、映像としての写真の内側にではなく、写真の外皮や装丁を含めたフィジカルな全体像にあるところ(写真に写されたものではなく、写真という物性そのものを鑑賞するというコンテンツ)、それが共通点なのでは、と思い返している。

 

 

1.受付(金屏風の前のふたり)

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ニコンの会場入口・受付です。

おや。

 

 

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仕掛けてきはりました😋

 

今回の授賞展を二人展の形にしようと持ちかけたのは片山氏。「相性良いと思うんだよね」と。このあたりの経緯は本展示のキュレーター・西田祥子氏のテキスト『シャドウ・ワークとコロナ禍の10ヶ月』に詳しく、目録とともに会場でフリー配布されていて一読の価値がある。

 

片山氏は授賞式の場で、金屏風をバックに横田氏とのツーショット写真を撮ることを楽しみにしていたが、その機会が失われたため、わざわざ金屏風を持っているレンタルスタジオを探し出して撮影したという。

 

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というわけで、このめでたげで、マイペースで不思議な祝祭の金屏風2ショットは、新型コロナ禍によって生じた幻の、自撮り的な祝賀会なのだった。金屏風の輝きが支持する「祝賀」が不在という、めでたさの異様な空中分解、これぞまさに2020年的だ。 

 

 

2.横田大輔(Matter、Sediment、Room)

 

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横田大輔は3つの作品シリーズから出品。フロア中央を占める『Matter』(2016)は、大型のプリントが大量に重なって形を成したもので、体をくねらせるサンショウウオに似ていた。岩屋に入り込んだ鑑賞者を待ち構えている。

 

これはオブジェなのか写真なのか/そのどちらでもあるのか。

「写真」のあるべき型から逸脱し、1枚1枚の像を見ることは不可能で、それらはそれら同士で堆積・結合し混ざり合っている。しかし全体で一つのまとまった彫刻の「作品」と割り切ることが出来ず、どうしても近付いて1枚1枚の中身を見たくなる、その誘惑が実に写真的だ。

破れたり縮れたりした写真の重なりから出来ていることをまざまざと確認したのち、再び遠目にこれを見た時には、燃え残った写真の山の端っこのように見えてくる。実際に中国・厦門での2015年のフェスティバルではこの山を燃やすというパフォーマンスを敢行しているし、「あいちトリエンナーレ2016」では黒い写真の山がフロアにうず高く積もっていた、室内の闇に半分同化したそれは燃えた後の「写真」の灰を思わせるものだった。そんなことを思い返した。

 

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近付いて細部を見つめると、夥しい情報の物量に目が追い付かない。中心のない色と形。

デジタルの画像情報が物質化=紙へのプリントを果たされることなく眠り続け、ハードディスクやクラウド内で堆積し続けたまま忘れ去られたり、消去処理されぐしゃぐしゃになっていく様相を連想させられる。ワックス処理によって皺が光っているからか、紙というよりも画像情報という実感がある。

 

横田作品における制作作業と成果物はとても物質的で、モノと化学反応が全てなのに、それらが指し示すのは、なぜかモノであることを通り抜けて、見えざる画像情報の量や質のことに至る。画像情報の量と質と堆積が生まれ移り変わるのは、個人のデジカメやスマホ内に留まらない。GAFAの巨大なサーバーセンター内でも刻々とそれは可変しているだろう。そんな静かでダイナミックな不可逆の一点を連想する。

単に情報の堆積に留まらないのは、同じタイトルで展示が繰り返されながらも量や形態はその都度可変し、全く同じ場が再現されないという一回性、そしてそこに「熱」が関与し変性が加わった(ような外観を持つ)不可逆性によるもので、それこそが「写真」的なリアルをもたらしている気がする。

 

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『Sediment』(2019)シリーズは今回の受賞の対象となった私家版写真集で、80部限定、お値段2万円(もう売り切れ)。

「堆積物」の語意の通り、それは1枚の平らな写真ではなく、色の堆積の高低差が織り成す地形のような作品で、凹凸があり、影があり、溶けた肌着が圧着されたり、菌類が過剰に繁殖してコロニーを形成したような生々しい形が溢れている。本当に肌着だと思った。

いくら見ていても制作プロセスは不明で、近付いて凝視したところで写真なのか立体面を封じ込めたオブジェなのか判別できなかった、そのぐらい立体の物質的なリアルがある。おそらくフィルムを高温現像し、薬剤もろとも溶けてくっついたフィルムを引き剥がして混然となったものだろうとは想像した。「溶ける」「剥がす」という行為とエネルギーによって生じた独特な造形だが、これらが元は何らかの像=画像情報を有していた「フィルム」かと思うと、単なる抽象絵画とも片付けられない

 

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現像は、画像情報をモノとしての「写真」へ到達させる化学反応の工程だが、本作はその工程の途中を物質化させた作品だ。と、理屈で考えたところで、圧倒的なビジュアルの前にすんなりと納得はできない。なまめかしい襞はやはり下着のゴムの部分にしか見えない。乳剤を取り扱ったこともないので、現像処理でこのような現象が起きるとも知らないし、これがスキャン画像だとは信じられず、反応後に冷やして固着させた生の造形物なのだと思っていた。

 

この『Sediment』は、『Color Photographs』という長時間の熱湯現像を行うシリーズの派生作品で、そこで剥がれ落ちた乳剤の断片をフィルムの上に重ねてスキャンしたものだという。

派生シリーズは他に『Scum』(熱湯現像によって乳剤が一部剥げ落ちたフィルム)と『Dregs』(そこから乳剤を削った後のフィルム)と全3作あり、それぞれ現像処理と材料を物性へと極端に振り切ったところで得られたイメージを表している。現像という工程を扱っていることを知らなければ、塗料を塗り固めた平面彫刻と見えるだろう。

 

「写真」が生成される過程を物質化させた先には何があるのだろうか。私は画像データのこともさることながら、美術系教育のいち分野として扱われる「写真」の歴史やカリキュラムの言葉や理論や理念が、熱と融解によって全て剥ぎ取られたところに見えてくるもう一つの「写真」、徹底的な物理化学の極地に本作はあるように感じた。教育の賜物としてではなく、それを食い破りかねない力そのものとしての写真である。

 

白状すると私が横田作品を生で見たのは、これが2度目でしかない。たったの2度目。致命的である。1回目は「あいちトリエンナーレ」2016だ。2010年代初頭から話題になり、ZINEとインスタレーションとパフォーマンスで度々話題になってきたにも関わらず、その頃私は写真界隈にタッチしておらず、登山だの廃墟探訪に明け暮れていたので、横田大輔の瞬間最大風速をリアルタイムで体験しそびれたのだ。くああ。

写真集『MATTER / BURN OUT』とIMAの特集号(2020春_Vol.31)は辛うじて持っているが、日常的に開くものではなく、今回改めて読み返した。この10年間のことを何も知らなかったことに驚愕しつつ、関西でも展示もっとあればなあと思わざるを得なかったりした。ないねん。東京ばっかりや。ぐう。

 

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『Room』(2019) は片山真理の作品かと思った。ラブホテルの一室を写した写真が2枚。部屋をモチーフにした作品と展示は、横田氏の定番であると後に知った。

横田氏は一人でフラッとラブホテルに行き、目的もなく時間を過ごすのが趣味だったという。写真制作のプロセス自体を極端に物質化させる独特な作品群と思考、そして作者の超人的な制作ペースを知ると、作者自身が感光・現像機構の一部であるように思われる。するとこの「部屋」は闇を湛えた暗室そのものに見えてくる。現像・プリント作業の合間、稼働していない暗室内には全く何もない時間がある。そんな空洞としての暗室=休止中の作者、のメタファーに感じられた。

 

 

3.片山真理(cannot turn the clock back - surface、shell、beast

片山真理もまた2010年代に登場し実績を積み上げてきた作家で、自身の身体と義足をモチーフとしたインスタレーションとパフォーマンス的な表現から写真そのものの作品へと移行し、今回の表彰では写真集『GIFT』が対象となった。 

 

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会場に入って鑑賞経路である右手を見やると、『cannot turn the clock back - surface』(2019)シリーズの巨大な3枚が目に飛び込む。

大きなプリントに大きく光を帯びているのは、作者自身の背中だ。しかし女性の生の肉体、裸という感じがしない。鈍く黄金に光る背景と相まって、19世紀末絵画へのオマージュのように見える。写真としてのリアリティや解像度、ヌードとしての艶めかしさなどとは別の観点から作られている。言うまでもなくそのことは、少なくともこれまで男性目線から撮られてきた様々な女性のグラビアやヌードと比べれば一目瞭然だ。

 

白く浮かび上がる背中は特別な思いを抱かせる。裸ではない背中、ということは、目に見えない何かを負っているのであろう。それは何だ? 聖性か?

 

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これに対置されるのは過去作品『shell』(2016)beast』(2016)だ。自己演出のセルフポートレイトとして、過剰な装飾物が画面中・部屋全体を覆い、義足も肉体も区別なく、ひいては空間自体も身体と区別なくオールオーバーに装飾で埋め尽くされている。身体の疑似的な拡張性が、写真の指示対象をも逆転させている。それは痛みと絶望を持たないフリーダ・カーロのように、過剰に輝きと身体を産み出し、消耗・摩滅すら追い付かず、生のエネルギーが滞留している。

 

それが、『cannot turn the clock back - surfaceでは、作者の素肌、飾らない体だけが写っている。

この変貌は「KYOTOGRAPHIE2020」の展示『home again』でも明らかにされたものだ。大きい要因として、いちアーティストから母親になったことで、生活環境そのもの、そして自身の身体との向き合いかたが根底から変化したことが挙げられよう。

 

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立ち戻って、その背中が象徴するものについて思うとき、とにかく逞しく、頼もしさを感じたことが第一印象だった。

それは作者の目と手と意識が「私」のペルソナ・チューニング(=顔、服、義足の演出)を手放して、目や手の届かない背中や腰回りに真の「私」が宿っているという、自信とエネルギーを獲得した姿に見えた。

それは、陳腐な物言いになるかもしれないが、我が子を背負って育てる、子供と最も密着する地点として、「背中」が重要な場所性を帯びたことと無縁ではないのではと想像した。作者が自分自身の身体と、そして子供と、確かな信頼関係を取り結んでいることが表れているのだと。

その自信や、命を育む場所性が、直感された聖性の正体なのではないかと考えた。

この変容と成果は、たとえ作者が男性であったとしても起きていたのではないかとさえ思った。根拠はないが、そういう説得力のある背中だった。

 

 

 

決して広くはない会場だが、落ち着いて観られて、よかったです。

食わず嫌いをせずに、話題の作家や作品については、話題になり始めた頃からキャッチアップしといた方がいいなあ、と改めて思いました。ええ。ふう。

 

( ´ - ` ) 完。