nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R3.11/11~R4.1/16_キュレトリアル・スタディズ15:八木一夫の写真(2021年度 第4回コレクション展)@京都国立近代美術館

京都国立近代美術館・コレクション展のワンコーナーとして、陶芸家・八木一夫の撮った写真が展示されている。1960年代前半~中頃に、散歩中や旅先で撮られたもので、その数は100点にも及ぶ。八木一夫のことは全く知らなかったが、会場に置かれた陶芸作品と合わせて観ることで、その独特な感性の眼が写真にも生きていることが伝わってきた。

そして写真を観ていて純粋に楽しかった。

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【会期】R3.11/11(木)~R4.1/16(日)

 

 

まず八木一夫という陶芸家について、ただの陶芸家ではない。1918年生まれ、戦前からシュールレアリスムなどに触れ、1948年に前衛陶芸家集団「走泥社」を結成。陶器としての実用性を捨て、従来のやきものでもなく、彫刻でもない、そんな陶芸(どんな陶芸や、)の造形を目指した作家である。

 

同館における過去の展示(なんと1980年!)に分かりやすい人物解説があるので参照します。酔いそうな企画だ(良い)。

www.momak.go.jp

 

 

◆展示の全体像

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このたび八木家に残る作品の調査を行う中で、写真アルバム14冊、写真類・数千カットが現存していることが分かり、本展示ではそのうちから100点をセレクトし展示している。

 

美術館のサイトに解説と写真があります。どうぞ。

www.momak.go.jp

 

写真は作家活動としての、作品制作や展示の記録、息子を撮ったものだったりするが、単なる記録ではなく、素朴な(わりとガチな)スナップ写真が散見される。スナップフォトグラファーですやんか。そしてさらに、路上スナップを撮る人種が逆に撮らない、不思議なカットがある。これらの写真群の種類を見ていきたい。

 

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展示構成が良くて、写真を主役にしつつ、5点の陶芸作品も提示している。これにより「八木一夫という前衛陶芸家の作った陶芸は本当に前衛的である」ことを否が応でも実感することになる。「前衛」の意味もおのずと知れるだろう。その認識のうえで素朴なスナップ写真群を見ると、ただ写真を見る時の態度とは異なり、スナップ写真群に宿る眼と前衛的な造形物を生み出した眼との共通項について、自然と意識が向くようになる。

 

なお、写真プリントについてはフィルムネガをデジタルで起こして即席でパネルにしているのか、奥行きがなくザラザラとしている。本展示は写真の質を味わうものではなく、記録・資料の意味合いが強かった。もしこれでまっとうなプリントだったら鑑賞時間が倍に伸びたことだろう。。。

 

 

◆彫刻的な陶器作品

八木一夫の解説には確かに「陶芸家」と書いてあるのだが、その肩書を疑うレベルで作品の攻め方が際立っている。静かにそれらは孤高の地に立っていた。今まで見てきた「やきもの」と根本的に異なり、しかし誘惑に負けて「彫刻」と呼んでしまうと思考停止していることを晒しそうで、私は謎の葛藤に耐えていた。

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《ノー》(1972)、左《白い箱 OPEN OPEN》(1971)

 

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《黒陶鳥》(1965)

 

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《踊り》(1962)

 

ご覧くださいこのわけのわからぬ形状を。仮に彫刻だとしても理解不能である。特に黒陶の方は自然界の事物でもないし、心理描写でもない、これだけでも相当な読み甲斐がある。

外観と雰囲気だけで語るなら「彫刻的な」造形作品で良いだろう。だが素材と製法が「やきもの」である限りその本質的な由来は無視できない。知識がゼロの私でもこの異様な立ち位置がどれほど凄いかは理解できた。ましてや昭和30~40年代、権威と伝統が業界を分厚く、法のように支配していたことだろう。その戦いは想像を絶する。

 

まさに前衛、「攻め」の作品を世に送り出してきた芸術家が、どのような眼でシャッターを切り、何を手元に収めてきたのか、その検証と発見が本展示の面白さである。

 

以下、大まかな分類ごとに気付きを上げていこう。

 

 

1.写真アルバム

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まず最も特徴的なのが、アルバム形式でまとめられた写真だ。

今のいわゆるZ世代なぼっちゃんおじょうさんは知らないかも知れないけんども、昔はクラウドストレージなんてないですから、こうやって全て紙ベースで、アルバム台紙に写真を貼り、余白に撮影年月日や場所、一言コメントを書き添えていたんですな。しらんやろ。親御さんがデジタル世代なら見たことないかも知んねえども。今なら画像データのプロパティを見れば分かることが、当時は手作業記録が全てだった。アルバムの端にフィルムの種類やレンズのミリ数などが書き込まれていて面白い。

 

だが、高名な作家(しかも故人)とはいえ、なかなか私的なアルバムをしっかり公開する例は珍しい気がする。本人がまめに作り込んでいるから面白い。

 

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普通ならこれらは普通の家族写真、ファミリーアルバムということで話が終わるのだが、前述の通り八木一夫は一般人ではないので、撮られたイメージは全て本業の作家活動、つまり前衛陶芸家としてのアイデンティティーに紐付けられる。作家活動として展示や制作のために移動したり、現地で焼いたり作ったり、仲間と時間を共にしている様子が写っていて、その活動を支持するものとなっている。

要は写真が作家性を担保・証言している。写真によって作家性を成り立たせ証明し続けている「写真作家」と全く逆なのだ。普通の写真とはそういうものだが、スタンダードが逆転しているから、逆に新鮮だ。

 

と言いつつ、絡み合う木の根など、アブストラクトな造形にもしっかり目がいっているのが面白い。この点は後述する。

 

2.陶芸活動での記録・撮影

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まず最も分かりやすく、点数も多いのが、陶芸家としての作家活動において撮られた写真だ。制作・展示の状況だけでなく、移動時にも積極的にシャッターを切っている。これらが記録・記念のために撮ったのかは不明だが、キチッとした無味乾燥な写真とは少し違う。記録性もありながら、場の状況、目に映るものの造形的な面白みを即興的に形にしている。

陶芸の制作現場を知らない人間からすると、円筒形の物体が積みあがっていたり、窯がこんもりしているだけで、何かしら可愛い異様さを感じる。作者からすれば日常的な、慣れ親しんだ風景だろうが、そこに妙味を見出しているのも興味深い。

 

 

3.子供(息子)

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面白いのが、小さい子供がけっこう登場する。距離感と頻度からして息子さんで間違いないと思う。

すぐ傍で暖かく見守る、親としての視点あり、幅広い層からエモーショナルな共感を呼べそうだ。そして親子関係とは無関係に撮られたカットも多く、構図だけから成り立つイメージ、まさに「スナップ写真」だ。総じて優しい写真で、温もりで見つめる目線にある。前衛陶芸家というからもっと変なもんばっかり撮ってるのかと思いきや、全く変ではなく、むしろ真正面からまっとうに「子供」の存在を見つめている。

だがしかし、その中でも更におかしな、奇妙な造形のものがあり、単純なスナップとも呼べないカットが紛れ込んだりしている。名状しがたいカットにこそ私としては注目したい。

 

 

4.純粋にスナップ

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時間と空間の織り成す瞬間芸、眼前で起きる風景の移り変わりの中で生まれる平面的視覚の造形美としての、まっとうな「スナップ写真」だ。社会的・文化的意義、あるいは事実の証言などと別のところで撮られる時間の造形。今となっては懐かしさすらある。しかし枚数が多い。予想以上にしっかりと「スナップ写真」をやっていることに驚く。ちょっと手遊びや気分転換で撮りましたっていう撮り方じゃないですよこれ。かなり撮っている人の写真です。しかもフィルムでマニュアルカメラの時代です。アマチュアスナップ写真家の皆さん、これどうですか。真似できますか。しなくていいですが。

 

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作家仲間や息子を撮る時にもスナップの視点が存分に生かされていて、要は全てこの「スナップ」の枠に括って良いとも思うが、中でも特徴的な「ガチの」スナップとして見なせるものを取り上げた。ではその中身だが、60年代の街の風景や人物が記録されている、ということで記録性に価値を見出すことも出来なくはないが、意味はあってないようなものだ。それがスナップというものだろう。ここはシンプルに「写真家でもない前衛陶芸家が、実にまっとうなスナップ写真を撮っている」ことが意味であり、驚かされる。

 

2020年を過ぎた今となっては、スナップ写真はもはや百年以上繰り返された古典的技法と呼んでも差し支えないだろう。めちゃくちゃ粗く言うなら戦前のヨーロッパと戦後昭和日本で探究され尽くした文体の上澄み、印象的な成功例(もはや広告だ)を模倣し続けているのが、現代スナップの実情だろう。

だが八木一夫の時代にはまだ成熟の途上にあって、街頭など生活上でスナップを撮ることが、ある種の「攻め」、暮らしと「表現」の境界線を揺るがし、「表現」を日常の身体に食い込ませる意味があったのではないだろうか。

 

 

5.純粋な造形

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構図の瞬間芸としての「スナップ写真」として括られるものとは逆のイメージ、言わば、時間の流れがなく、何らかの造形だけがある写真だ。木の根や幹、金属や瓦礫の廃材、増水で道路を浸す水、風化した岩肌など、それ自体は簡単な名詞で示せるが、それが現わしている姿形を形容する言葉がなく、しかも人間の情緒とも無関係に、私達の外側で作られたものである。

これぞ八木一夫ならではの「掴み」だと納得する。戦後多くの前衛芸術作品が、インスタレーション的な展示のためにモノとして恒常的に残すことが出来ず、写真の形で後世に伝えられていったが、その逆で、何気ない外界に人間の意識を介さず現れた造形を、人間の直観によって捉え、写真の機能を用いて固形化したものだ。

 

これらの写真は、上述してきた類の写真群に紛れて提示されているが、地味ながら異様なので「なにこれ?」とすぐに気付くだろう。華やかさはないが、一言で言い表すことのできる言葉がなく、言葉に詰まってしまうのだ。造形が見事なのか素晴らしいのか価値判断すら通用しない。何なら一般的な「美」の尺度が通用しない。

 

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だが写真表現に命を懸けた作家ではないので、これらの写真は総じて「軽い」。実に気楽に観ることが出来る。現像とプリントを高い技術のある写真家が手掛けていたら話は別だったかもしれないが、本展示は「八木一夫という前衛陶芸家の写真的側面」を物語るというポジションに収まる。

 

瞬間の着想で撮る、瞬間の撮影により着想を得る、という行為性が感じられて面白かった。写真をやっている方ならお判りいただけよう。写真は撮って初めて先へ進めるのだ。シャッターを切る瞬間なくしては外界に触れたことにならないのだ。そういうことを思い出させてくれる。

 

 

( ´ - ` ) 完。