大阪府富田林市の古町並みが残る寺内町で展開された、大阪芸大の学生らによる「じないまちフォトプロジェクト2021 旧杉山家写真物語展」。学生とはいえ17人(教授ら2名含む)もの写真家が同じ歴史的建築物を撮影し、町中に展示するのは珍しい企画かと思います。和の建築空間について否が応でも向き合うことになり、だんだんと理解が進んだ気がします。気のせい? 和こぇぇす。
後編は「旧杉山家住宅」以外の3会場の展示をレポです。
【会期】R3.11/6(土)~11/28(日)
- ◇寺内町センター
- ◆呉 沖(Wu Chong)
- ◆辻理葉奈(Tsuji Riyona)
- ◆余 虎(Yu-Hu)
- ◆徐 瑞雪(Xu Ruixue)
- ◇じないまち展望広場
- ◆眞鍋晏奈(Manabe Anna)《馴染む》
- ◆奥田基之(Okuda Motoyuki)(准教授)
- ◆松原瞳《壮麗》
- ◆辻陽大(Tsuji Youta)
- ◇じないまち交流館
- ◆玉木和葉
- ◆楊 以楽(Yang Yile)
- ◇寺内町のようす
前編:「旧杉山家住宅」とその展示はこちら。
地図みましょう。
あと3カ所、「寺内町センター」「じないまち展望広場」「じないまち交流館」の順に回っていきましょう。時代劇みたいな屋敷が立ち並ぶ街です。同時に電柱が普通にあるし車の往来も多い。
これらの施設は古民家を模している。元々が古民家なのか。知らへんけど古民家です。江戸時代的な立派な外観で、やはり観光に力を入れている。
前編でも書いた通り、出展者全員が「旧杉山家住宅」を舞台・主題として撮影し、作品を制作している。このお宅を先に回って体感しておくと、各作品が何をしようとしているかが分かる。
◇寺内町センター
4名の作家が展示。駐輪スペースみたいな、建物外側の展示スペースと、建物内のギャラリースペースで展開される。自販機やトイレ、休憩スペースが完備され、わりと豪華。なぜか鬼瓦が大量に並んでいた。
鬼ストック。火の鳥の我王を思い出します。我王、元気か。火の鳥ループに負けんなよ。
◆呉 沖(Wu Chong)
外の掲示スペースで写真を並べている。素朴な印象。すごい素朴です。
オーソドックスな写真展示で落ち着く。邸宅の屋根や床を、いい角度とフレーミングで切り取っている。シンプルにうまい。記録と印象の間のような。自分が歩き回った時にはこういう画角で撮ると良い感じになるって気付かなかったので、ある程度時間をかけて屋敷に滞在してポイントを探さないとこうは撮れない。青空と雲のカットいいですね、好きです。
一方で、写真としての通常のフォーマットで「和」を撮ると、どうやっても「和風建築の光景・造形を切り取った」という行為的事実だけが強く残る感がある。和に入れない。どないしたらええんや。
◆辻理葉奈(Tsuji Riyona)
縦長で余白があることに加えて、上部で固定している木材によって掛け軸を思わせる。前編で見たインゲンテツの作品や、尤嘉楽の作品など、極端に縦に切り詰められた細長いビジュアルに比べるとかなり肉厚で、その分「写真」としての情報量というか、質的な確かさがある。
一つの部屋を障子・襖で間仕切ることで複数の部屋を内部に生成する、和室に特有な構造を、「面」のレイヤーが前後左右に控えているような形で切り出している。同時にそれらの「面」操作を可能にするための敷居、柱、鴨井などの「線」が縦横に多数仕込まれている様子も切り出している。
その重ね合わせの奥、写真の奥に光源がある。この画角は非常に的確に和風建築の内部と光源=外との関係を物語っている。庭や玄関から自然光が引き込まれ、諸室を照らしていて、巨大な照明装置のように「外部」が効いていることが分かる。
◆余 虎(Yu-Hu)
プリントサイズは上述の辻理葉奈と同じだが、余白が切り詰められている分、こちらの作品の方が体感的にかなり大きく感じる。縦が1.7m近くあり、そのほとんどが写真の像なので鑑賞側を飲み込むサイズ感だ。そのイメージ内で影・黒が占める割合がかなり大きく、建築構造をやや抽象性に包んでいるところに惹かれる。心は、見えている正解よりも、何か分からないものへと引き寄せられるのだ。
しかしこのように和の空間・建築を扱うにあたって、サイズの巨大化、余白の断ち切り、「縦」への大胆な転換を試みるのがことごとく日本人ではないのが興味深い。説明的なアプローチを乗り越えて核心を掴むには、手続き上の何か飛躍が必要だとは頭では分かるが、それを可能にしているのは何だろうか。使い慣れた文法の差か、アイデンティティーとの程よい距離感か?
◆徐 瑞雪(Xu Ruixue)
こちらも掛け軸状の作品。やはりバリバリの伝統的な「和」を扱うとなると、自然とそういう発想になるのだろうか。確かに通常通りのプリントにマット・額で挑んだ場合、呉沖の作品のように「和風建築の光景・造形を切り取った」という、記録性とキリトリの美に留まるだろう。
「和」の空間の性質が、辻理葉奈の作品が示すように障子や襖といった平面の操作と、それを稼働させるための縦横のラインによって、部屋の中に部屋を作ったり解消することが自在に可能であるということなら、和の建築のビジュアルは特に縦の「線」によってどこまでも分節が可能ということになるし、むしろそうした方が元の姿に再帰されるので説得力を得るということになる。ただそれは建築上のフレーミングを写真上で再度、マトリョーシカのように繰り返しているに過ぎないとも言える。どうあがいても「和」は手強い。
しかし印象的な作品だ。本作は切り取り方が光と湿度を含んでいて、建築物を生き物のように捉えているところが独特だ。建築物と割り切ると、このように寄り添うようにして陰影を撮ることは出来ないかもしれない。
◇じないまち展望広場
展望広場というだけあって、少し高い崖のようなところに建っている。寺内町自体が高台にあったのだ。眼下には川が流れ、遠くを見やると山に囲まれている。金剛山地だ。村でやっちまった咎人が逃げ出したとしても、確実に山に阻まれてしまう、逃げ出せない土地だと思ったりしました。しかし写真が残っていない。なんでや。えてしてそういうものではある。
唯一残っていた、展望広場からの景色。下へと下る道路沿いの建物だが、石垣で高低差を埋め合わせている。寺内町はこの上に位置している。
展望広場は通路の左右に部屋を持ち、こうして茶屋のようなくつろぎ空間になっていて、展示物を掛けることができる。古民家風に作ってあって妙に凝っている。地元民の憩いに観光客への配慮がプラスオンされている。
この会場では大掛かりな作品が掛けられない分、4人の作家がほぼ四切程のサイズで、古典技法の作品を展開している。サイアノタイプ祭りである。
◆眞鍋晏奈(Manabe Anna)《馴染む》
「旧杉山家住宅」滞在で「馴染む」感覚を覚えたことで、そのような親しみを写真に表したという。失われた祖父母宅みたいな描写がなされている。穏やかなサイアノ。マジでじいちゃん家ぽい。観光客の立場や建築の勉強では、こうは撮れない。情緒。
◆奥田基之(Okuda Motoyuki)(准教授)
展示数は1点のみだが、描画のメタリックでがっちりとした質感は他の作品と一線を画していた。サイアノタイプは皆同じように、褪せてかすれたブルーの中にレトロみが生まれるものと思っていたが、本作は通常の写真に近く、写っている物体の輪郭が実にしっかりとしていた。使用する薬品、調色時に他の人と何か違う手が加わっているのかもしれない。
◆松原瞳《壮麗》
4点とも茶色っぽい灰色で、全く青くない。サイアノタイプは鉄の化学反応を用いてブルーの像を描くが、工程の最後にタンニンを加えると青が引いて茶色になるらしい。作り方は皆さん調べてみてください。
この作品では邸宅の階段や襖、窓、瓦といったパーツの表情に注目している。かすれ具合が強いのは、感光紙を作る際に感光材を刷毛で塗布する際の筆致で決まるという。古典プリントはこの手作業に作り手・一人一人の個性が宿ると言える。本作は古い映画のフィルムを回した時の映像のように横線でかすれが入っており、記憶・想起などと関連付けられそうだ。
◆辻陽大(Tsuji Youta)
感光材を塗布する際の筆致を活かして、カメラのフレーミングを更に筆致で追い込んでいく、筆のトリミングが面白い。庭から竹垣や笹越しに屋敷を見たときのような、視界への干渉を連想した。サイアノタイプって大人しいイメージがあったが、制作過程で色々と応用が利いて、勢いをつけることも出来るのか。作り手によって全く違うものになるんだなと実感。
◇じないまち交流館
最後の展示会場は交流館です。寺内町の古風な街並みの中にあり、謎に迷子になりました。そしてまた外観や内観の写真がない。悪気があったわけではなく本気で忘れていた模様。請負仕事でないとなると途端に手を抜く私。テストで80点代ぐらいまでしかとれない人間の性質がよく分かっていただけよう。
交流館は市民センターって感じ。4施設の中で一番機能的で、集いの場。コロナ禍でなかったら土日祝日は地元の方々で賑わってるんだろうなと思う。
入口の受付カウンターでアマビエ護符が可愛かったところだけ反応している。わかりやすい性質。そう、カウンターとか小物売り場的なものがあるんですよ。
奥にギャラリースペースがあります。文化活動に意識が高い。いいですね。
◆玉木和葉
壁の一角を埋め尽くす巨大作品が2点、縦が2.5m以上あり、やや狭い展示室では、全体を俯瞰で見るのではなく部分で視点を合わせることになった。作品自体にそもそも像の中心がない。それが「何か」ではなく、写真のフレーミングにより切り取られて生じた造形であり、和室や庭の平面に走る線形の組み合わせで出来ている。抽象性と具体性は両立する。
何かもっと語れそうなのに思ったほど言葉が出ない。テクスチャー的な描写の先が見えると話が見えてくるのかもしれない。そのためにはサイズと枚数が必要か?
◆楊 以楽(Yang Yile)
切り取り方と仕上げの雰囲気が徐瑞雪の作品に似ているが、より具体性のある造形、「絵」が撮られている。眼で見た時に入ってくるままに近い。つまり視覚を導いた調律がある。惹きつけた形の力というのか。右半分が影に隠れた石の写真が面白い。屋敷に入ってまず思ったこと:季節や時間帯や天候によって見るもの全てが変わるだろう、という印象を裏付けるカットだ。取材・撮影期間が長期であれば、同じモチーフや部屋での定点観測によって、和を成立させる「陰影」自体を扱うということも出来ただろう。
スペース中央には畳の台があり、座ったり展示物を置いたりでき、ここは同作者の葉書が並んでいた。告知用のDMかと思ったら、聖書の一節の引用である。
『悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい』(ローマの信徒への手紙/12章21節)、『知識のある人はさらに力を加える』(箴言/24章05節)といった一言が添えられている。この意図は? 作者の考えている本作の在り様とこちらが見ているものとは、かなり断絶があるかもしれない。
◇寺内町のようす
せっかくなので最後に寺内町の様子を。電柱・電線、道路標識などを取り除けば時代劇の舞台になりそうな町です。倉敷美観地区や金沢の東茶屋町とも違って、作られた観光名所ではなく、あくまで地元の生活がある。なのでフォトジェニックさは部分的で、建築物や街角から象徴的な部分を切り出していく必要がある。私はどっちも好きですが。
撮るものが別段あるわけでもなく、淡々とした街並み。シンプルに歩くのが楽しい。思ったより店が少なく、やはり観光地に針を振り切っているわけでもない。
カレー( ´ ¬ ` )
スパイスカレー食べましょう。
店名が2つも3つもあって謎だったが、「たびもぐらカフェ」という雑貨屋・カフェの店内で、週末だけ「アジア食堂 もぐの木」さんが間借りしてカレーなどを提供するというスタイルだったのだ。あっそういうことなるほど。座敷席にいったら店内は日本と東南アジアの雑貨が混ざりまくってて国籍不明で面白かった。そしてカレーは美味しかった。あふう。味覚を表す語彙がない。来世でがんばります。イェア。
全体を通じて、「和」の建築空間に対して写真がどう関われるのか、アウトプットの仕方によって何が見えてくるのかが示されていたと思う。
具体的には、縦位置の写真を掛け軸のように縦で切ると、「和」の中に無数に走る強力な縦の構造線がスライスチーズのように切り出され、違和感なく、むしろ強度を増した「風景」として現れる。一方でそれは建築上の構造を写真のフォーマットによって反復しているだけとも言え、「和」の実態に迫ることから逆に遠ざけられているとも言えるだろう。
無視できないのが「陰影」と「光源」の関係だった。自然光を基調として見た時、建物内を満たす光は庭や塀の向こう、つまり構造の外からやってくる。襖や障子を開け放って内部を一に、同じ部屋と化してしまうと、光は屋敷内を満たす。閉じて陽射しを遮れば影が生じ、陰の間ができる。かたや、光が強すぎると事物の表情は失われる。陰によって絵や調度品は表情を得る。
主従や中心がなく、外部の自然作用と共に伸縮しつつ、気候的な影響を減衰させて定住を可能にしているのが、和の空間である。柱や廊下や鴨井といった縦横の構造線と相まって、それらは個人の喜怒哀楽や主義主張を表出させないし、受け付けない。全ては構造線と陰影によって曖昧に散らされたり沈められたりするだろう。余坤鵬の作品は、その陰影に全身で突っ込んでゆき、被写体として対象化せず陰の内側から光を撮ることで、構造線の呪縛から逃れたビジョンを表していた。それは面白く美しかった。
といったことを思いながらの寺内町探索でした。面白かったです。
( ´ - ` ) 完。