大阪で台湾の文化を知ろうイベント「We TAIWAN」、マルシェのすぐ傍で巨大な人形が登場。そして夜のVR体験型イベントへ。VR没入しながらあたまを振る参加者はみんなでひとつになっており、信仰を感じました。
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「大阪・関西万博 番外編~台湾」と言うべきな規模。夢洲会場外でどっかの中華人民共和国に気を遣わずデカデカと展開していて良いですね。国交というのは難しいので私には楽しむぐらいしかやり方がわかりません。
アート・文化展示「台湾スペクトル」レポはこちら。
中之島公園の「TAIWAN PLUS 2025 台日新風」マルシェはこちら。きみは魯肉飯にありつけたか?
マルシェをだいたい見て回って、19時からのVRイベントが18時半開場なので、早めに並んでおこうと、中央公会堂の横断歩道へ向かうと、人間よりも遥かに巨大な人形が座っていた。
◆芸術報国『アイラ:中之島の出会い』@中之島公園
でかい。

「We TAIWAN」イベントを調べると必ず出てくるのがこの巨大な少女?の人形だ。私にはアウィーちゃんの次に「We TAIWAN」のアイコン的な存在感がある。
「アイラ」という少女だという。南方系の浅黒い肌をした、ウエーブのかかった髪の少女は、言うまでもなく異国の、外側から来た存在(その作品世界においても、我々観客=日本人、関西人にとっても)だ。目を閉じていることで更に異国の印象を強める。いま「ここ」には居ない、ここに所属がまだない=漂着した異邦の存在として映る。
手足や胴体が長いので大人びた印象を受ける。日本の多くのキャラクターは頭部が異様に膨らんで首から下が異様に省略された「カワイイ」の化身、あるいは頭身バランスはリアル寄りでも厚さ0㎜・重量0gの超薄く浅く透明度がやたら高い女子の表象がとても多い、だが、「アイラ」はリアルな人体の構成比としっかりした骨格と人間が中に入れるほどの奥行きから出来ているので存在感のリアリティがあり、それが他者としての尊厳になっている。
人形の周りを黄緑色のオーバーオールの劇団員らが動き始める。体格がやたら良いので日頃からよく動いてよく舞台装置や道具を持ち運んでいることが分かる。
急に風が吹いて人形が飛ばされて転びそうになった。
身体の諸要素は「こちら側」へとダウンロードされてはいるが、肝心の魂・自我がまだインストールされていない。不完全な姿ゆえに印象に刺さる。両手は地面に伏されている。これから何が起きるのか、恐らく中に入って操作するのだと思うが、成人男性の身長の倍以上あり、こんな巨大なものでどう振舞うのかが気になって立ち止まって、ずっと見ていた。異国から流れ着いた、異形の存在が、いかにして「モノ」から「ヒト」に目覚めるのかを確かめたかったのだと思う。

あっ、めっちゃダイレクトに装着するんですね。
団員の中でも小柄な人が中に入る準備をし始めた。他の団員がベルトで彼の両足を丹念に固定している。竹馬ではなく自身の足の延長物となっている。中の人が操作するのは足だけで、手・腕は肩に引っ掛けられたものの別の団員が黒子となって棒で操作する。目の開閉も背後の操作で行っている。



立ち上がった。水の中をかいでいるようにゆらゆらとしている。3mはゆうに超える。離れて観ているが非常に大きい。団員のガタイが良いの大きさが実感できる。テントウムシが飛んで、それによって覚醒した。左右の観客に向けて手を振る。私の中では服を着たカルコブリーナだ。あれも自キャラ比で相当な大きさがあったので共通している。世界観は無関係。そもそもこの「アイラ」が台湾とどう関係しているのか謎のまま観ている。人外に「大きい」というだけで人は好奇心を掻き立てられる。
そしてテントウムシを追って一歩ずつ歩き出した。
歩行は、ゆっくり観客の輪を回るぐらいかと思ったら、観客の列の中をまっすぐ歩いていく。団員がテントウムシとなって先に道を開けていく。



それは宙に浮かぶアウィーちゃんを求めて歩き続けているようであり、異世界の者同士が邂逅しようとする姿として、新たな物語を生じしめたのであります。中之島転生記。
結末どうなるか見てないですがそういうことにしまして
時間がないのと暑いので切り上げて公会堂へ~
◆「フリーユアヘッド ~脳を解放しよう」@中央公会堂
脳の解放か、身体の追従か。

中央公会堂3階中央、中集会場が会場で、フロア中心に黒い演台、その周囲を椅子が円形に取り囲んでいる。


まるで指揮者と演者だ。参加者らにVR内の映像を一斉に追わせることで、参加者らの身体の動きは同期可能であり、まるで全体を楽器の演奏のように操ることが可能となる。今から行われるのは「フリーユアヘッド」、脳を解放せよ、というメッセージに従うことだが、100%主体性を発揮する状態と、100%の客体として調律されるという矛盾した状態が同時成り立つ地点へ到ることなのだ。実際そうなる。

公会堂はやはり美しいですね。昔はこういうところで美人のおねえさんを立たせて単焦点でポトレして悦に入っていました。みんなそうだったんだよ。そしてテクノロジーとネットワークがカメラと写真の絶対性や権威を駆逐した。
開演まで30分待機。予約者が少なく、当日客がやたら多い。なんだこの差は。マルシェで盛り上がった人たちがワンチャン狙って集まってきてる?

予約者の方が圧倒的に少ない。
後にアナウンスがあり、イベント予約者と、当日参加の先着順で空き席に座れた人はVR体験が可能で、それ以外の人もVRゴーグル無しで会場全体の状況を観ることは可能とされた。何名かの当日参加者はVR体験が可能となった。
だが外から観ていた勢も全く無駄ではない、むしろその立ち位置こそ本質が見られる。VR内部に没入した人間らをパフォーマーらは如何にして操っていたか、物理空間ではどのようなパフォーマンスが繰り広げられていたか、VR内に主観を入り込ませていた人間の方が、周囲・全体で何が起きていたのかを知ることができない。外側から見る方が、この会の実態を知っていた。

円です。中華料理でも食べますかね。
この台でダンサー(作家)が踊り、作家がVR内の「点」を操作する。
このイベントでは、参加者は「点」を追う。席につくと壁の大きなモニターで「フリーユアヘッド」宣伝動画が流れ、大体のことが分かる。どの会場でもスタイルは共通していて、場の中心にダンサーが立ち、パフォーマンスとして踊っているようでいて、手にしたコントローラー?を縦横無尽に動かしている。コントローラーを激しく振り回す動きはVR画面内に連動していて、画面内の点、的が動き回る。被験者は全員それを追う。ダンサーは指揮者として振舞い、VR参加者はその指揮によって全員揃って同じ動きを見せる。
その光景はまさに宗教だ。あるいは新手の催眠療法のセミナー会場。一体どんな流体の神に帰依したというのか、全員が見事に乱れぬムーヴを繰り出す。椅子に座ったまま、頭部と上体をぐるぐると、ぐねぐねと前後左右、上下左右に揺らす。



簡単なレクチャーとレッスンを受ける。VRの中で動き回る的、大きな点を眼で追うこと、体を、頭を使って思い切り追うことを短時間で学ぶ。
点数ゲームが始まった。球体はかなり広範囲に動く。眼球、視線だけでは動きの幅が足りない。首を頭ごと降り下ろさなければ的の移動距離に追い付かない。的・球体の動きは更に鋭角的に、フェイント付きで高速になり、一瞬で視界から消滅してしまう。
両目の視線の中央に十字マークがあり、それを動く的に合わせ続けることで得点が加算されていった。十字は小さく、的に当て続けるのはかなり難しい。単純明快すぎるゲームだからこそ意識は強くロックオンされ行動が追従する。男性小便器の排水口付近にハエの絵をあしらうと、それを的と見なして尿を当てようとし、便器に数歩近づいて放尿するので足元が尿で濡れることが減ったと昔テレビで言っていた、あの現象に近い。ゲームが生理や習慣を、意識を支配するのだ。私達はゲーム的なルールと反射の連続で組みあがった生き物だ。俯瞰する間も思考する暇もなくゲームに最大限適応し、ゲームに勝つことが至上命題となっていく。半強制的に意思がジャックされていて、客観視を失っていく。
ガイダンスが終わり、イベントが始まる。
画面内に球体が現れ、それを追う。球体は細胞核のような、遺伝子のカプセルのようなものでもあり、ゾウリムシやボルボックスなどのプランクトンにも見える。生物の素になる原点を表現しているのか。
続いて、それらは青い鳥の群れになっていった。ポリゴンで削り出された鳥は大きく弧を描いて飛んでいる。これは完全にダライアスバースト、紛うことなき視線入力式シューティングゲームで、既に私の意識は標的と完全にリンクしている。ゆえに全体像は憶えていないし、前後関係、ストーリーなど、理解していない。ただただ、動きを追っていた。
VR内の映像と動きの雰囲気はアーティスト「vmstudiotw」、狠主流&狠劇場 VMstudio & VeryTheatre のInstagramで少しだけ掴める。会場全体の様子にVR内映像もオーバーラップされている。
チュートリアル時と違って、焦点を的に当てても点数は出ないが、既に「焦点を正確に的に当てて追従させることで得点を得るゲーム」と身体が学習してしまっているので、ズレをいかに減らし、予測不能な動きをいかに予測し、瞬時に反射するかに意識が集中している。
なので映像世界への没入か、ゲーム性への没入か、どちらをとるかは、今までどれだけゲームへ慣れ親しんできたかが決め手になるだろう。とはいえ構成としてはどちらも両立させようとしていて、最初はゲームに引き込み、後にVRならではの様々な空間を見せようとしていた。
YouTubeチャンネルは映像が6年前で止まっているのでそれ以降は定かでないが、作者らはゲームクリエイタ-ではなく映像作家であることが分かる。であれば世界観の表現の側に軸足があるだろう。
(記録がないので詳細は忘れたが)続く映像では、暗黒空間の中に等間隔で縦横に照明が並び、その前を100円玉硬貨が浮かんでいる。生物から通貨へ。このジャンプは意表を突いた。ただのシューティングゲームでも生命の神秘でもない。本来なら映像の世界観や作家の思想を読もうとするのだが、今回はだめです。なぜならゲームにロックオンされているからだ。私がゲームをやっているのではない、ゲームが私を動かしている。意識がゲームになる。
実際、全員がVR内で主観的に選択・行動しながら、同時にVRの動きによって調律されていて、その様が「作品」なのだった。

終了後にその状況が映像で流された。自分の意思で鳥を追ったり100円玉を追いかけていた私達は、同時に、ただただ主催者の一挙手一投足によって同期されていた。まるで新興宗教やマルチの傀儡だった。解放された脳は、個別具体性を失い、複数が全体で一つのものとして振る舞う。オープンソース化された脳/意識をここに見た。開かれた麻痺の中で私達は意識を集中する--これはSNSの仕組みと言説に囲まれた私達の姿でもある。
そうするために、VR内の的は、個々の意識を逃さず、より強く惹き付けておけるもの、なおかつ皆が安全に参加し楽しめるよう、ネガティブでないものがアイコンとして選ばれている。コイン=通貨はまさに潜在的な欲望の対象であり最適な的(まと)と言える。
不意に、暗闇が薄れて視界が一部解除される。正面の円台に乗ったアーティスト、その周囲に輪を成して座る参加者らが、暗視スコープ越しに見たように映し出された。アーティストの背中が見える。VR映像世界の中にいながら物理現実へ1/4だけ接続された気分だ。
現実物理とのリンクが見事で、この面白くも何ともなく煩わしい現実物理世界をVRでサイバーに味付けして再没入させる。またゴーグルに閉ざされた視界を一旦解いてリラックスさせるような効果がある。現実への回帰ではない。麻酔がまだ効いていることの確認のようなものだ。
次に、新聞紙に囲まれたステージが始まった。
まず手が出てきた。指が出てきて、どこに焦点を合わせていいのか判らず戸惑っていた。的は、人差し指の指先・指の腹か、手の全体像における中心部なのか。ルールはもう既に「ゲーム」から次の段階へ移行していたようだ。
暗闇を背景に、新聞紙が張り巡らされた空間に突入した。新聞は巨大な断崖、海溝の壁のようにずっと続いていて、その中を飛び回って照らし出してゆく。記事の中身には気付かなかったが、後から見ると、毛沢東やら世界の過去の記憶/記録が掲載されている。
VRというとデジタルで組み上げられた仮想の立体空間の中を主観的に体験し、中を自由に動くのが典型例だが、本作では視点と行動が強く固定された、的を追うゲームというアクションの性質上、空間の奥行きを作り込んだステージは少ない。この新聞紙ステージくらいだと思う。記憶が曖昧だがステージのほとんどが暗闇だ。
高速で的の動きを追うというゲーム性が薄れ、何らかの世界観へと移行している。
「FREE」という4文字のブロックが現れ、1文字ずつ崩れてゆく。
最後は光点の臍の緒に繋がれた胎児が浮かび、右へ左へ飛び回っている。私達は時計の針を戻され、先祖がえりしたということだろうか。
約15分、VR体験は終了した。



ゲームに脳をロックオンされていたという点で、フリーにはなっていない。極めて単純化された自我無きマシーンだった。しかしそこに自我はあった。集中と没入によって、要は知覚や認識の選択肢が極端に絞り込まれる状態になる。痛快であった。その代償として、途中から何も覚えていないし、胎児のアイコンを見ても凄いとも生命感とも何とも思わなかった。ただ的の狙いがつけにくいとだけ思った。私は一つのマシーンとして知覚していた。それは心地良かった。
台湾でこういったイベント、アート、エンターテイメントがどこまで普及し一般的な層に享受されているのかは、今後の探索のテーマとします。私はモダニズムのガチガチな作品も好きだが、こういうAIやらVRやらも好きでしてね、まあ、台湾にいきたいです(休暇とお金がほしい)(泣いてる)
楽しかったです○
( ◜◡゜)っ 完。