大阪・関西万博が終幕に向けたラストスパートで白熱しているが、その裏で愛知では「国際芸術祭「あいち2025」」(旧・あいちトリエンナーレ)が開催されており、国際的な感覚・視座と、人間が自然界の一部となって環になる感覚とを体感できたのだった。

- ◆回り方と日数 ~1泊2日でOK~
- ◆エリアの違い ~中心と瀬戸市~
- ◆作品の傾向 ~写真がない~
- ◇動画映像ひかえめ
- ◇中東という「主役」
- ◇「日本の漫画」の存在感
- ◆トップ3(※個人の感想です)
- ◇3位.バゼル・アッバス & ルアン・アブ⹀ラーメ
- ◇3位.冨安由真《The Silence (Two Suns) 》
- ◇2位.大小島真木《明日の収穫》《土のエクリ》
- ◇1位.是恒さくら《白華のあと、私たちのあしもとに眠る鯨を呼び覚ます》
- ◇1位.アドリアン・ビシャル・ロハス《地球の詩》
短観をまとめていくぞ。
( ◜◡゜)っ
◆回り方と日数 ~1泊2日でOK~
今回は会場エリアがぐっと絞られて、愛知芸術文化センター、愛知県陶磁美術館、そして瀬戸市エリア(瀬戸市美術館をはじめ街中の会場)と、非常にあっさりした構成になった。
そのため、1泊2日でラウンドができた。
行程としては、1日目に愛知芸術文化センター、夕方に移動して多治見で宿泊。これは、名古屋市内の宿泊代がバカ高くて泊まる気になれず、誰が名古屋1泊1万6千円で泊まるんや。あほか。瀬戸市も宿が少なくて全滅。ああん。少しでも瀬戸市に近いエリアで妥協策を探った結果、多治見になったのだった。岐阜県やないか。
そして2日目に瀬戸市エリア、1日フルに使った。
瀬戸市エリアを半日で回るのは現実的でない。陶磁美術館含めて1日フルにかかる。展示は微妙に離れているが車移動するほどでもない距離感ゆえ、結局歩く方が効率的で、移動と鑑賞の積み上げでまあまあ時間がかかる。
そして瀬戸市美術館。芸術祭の連動企画で写真展示があり、ここで時間を食う。飛ばしながら慌てて見て回った。さらに、愛知県陶磁美術館。複数の建物と屋外敷地に作品が広く点在するので短時間で回りきるのは難しい。行程上いちばん最後になってしまったが、17時閉館までのわずか30分でコンプリートするのは不可能だった。なんとか駆け抜けた。何点か見落としたが及第点とするしかない。
夜22時に帰阪。まるで無駄のない行程だった。翌日は疲れ果ててよく寝た。みなさんも有給をうまくはめるとよいですよ。
鑑賞時間を切り詰めるのはこれ以上無理という回り方だった。映像作品も多すぎない分量だったし、鑑賞もほどほどで切り上げていたので、実際のところこれが限界値だと思う。ただひとつ、ギリギリになった大きな要因があるとすると、瀬戸市の中心街で「せともの祭」が催され、大混雑しており、駐車場を出て陶磁美術館に向かうのに、車がビタ止まりで死にかけたことだろう。商店街も人人人で、祭りがなければもっとスムーズに回れたかもしれない。(※ただし祭り自体は堪能しました)(よかった)
あいちトリエンナーレ、国際芸術祭「あいち」ともに従来は、愛知県内の複数市に展示エリアが点在し、普段は寄ることのない各地域を散策するのが非常に面白かったが、その分、ラウンドするにはかなりの時間がかかり、最低でも2泊3日は必要だった。名実ともに「旅」であった。
今回はショートトリップにとどまったが、芸文センターの展示ボリュームもさることながら、瀬戸市の広い範囲を「せともの祭」と共に散策・鑑賞できたのは、非常に印象的な体験となった。瀬戸物の町としてのポテンシャルを知った上で、展示を観るのは格別だ。行ってよかった。
◆エリアの違い ~中心と瀬戸市~
今回は会場数が少なく、名古屋市内も愛知芸術文化センターのみと非常にコンパクトなので、エリアでの比較というよりも展示会場ごとの違い、役割分担を見ることになる。
愛知芸術文化センター(芸文センターと略す)の展示はいつも通り、芸術祭のコアとして、ワールドワイドに現代美術の現在形=問題意識の現在形を示す。後述するが今回の芸術監督はUAE(アラブ首長国連邦)出身のフール・アル・カシミで、作家セレクトが中東、アフリカを軸としていたため、普段は観ることのできない非西欧・非アジアの視座が示され、時宜を得た問題意識の共有の場となっていた。
対してそれ以外のエリアは地元のフィールドワーク的な、それぞれの土地の歴史や風土、特徴について作家が応答するものだ。
ただ今回は瀬戸市でも国際色豊かだったので、単に瀬戸市の土地と歴史をリサーチした地元密着型展示、というわけではなかった。それぞれの会場(小学校跡、鉱業工場、商店街など)の特性をうまく使った展示作品ということで、芸文センター展示の延長上にあったとも言えるかもしれない。
愛知県立陶磁美術館はその名の通り瀬戸市ならではの大規模な陶磁器専門ミュージアムであるため、館内・敷地内で展開される作品は彫刻、陶磁器が主で、独自のワールドを展開しつつ、芸術祭全体のテーマ性をやっていた。かなり空間を広く贅沢に使った、良い美術館/展示だった。もっとじっくり観たかった。中でも「デザイン館」は独特で、加藤泉の絵画や木組みの彫刻を大々的に展示し、実質的に個展のような様相だった。
瀬戸市美術館は大型のレリーフ様作品が2つだけだが、芸術祭との連携企画展「瀬戸の原風景―陶都瀬戸の記憶を辿る―」が催され、これがほぼ写真展でしてね、画家の北川民次、映像作家の加藤雅巳もあるが、東松照明、土門拳、臼井薫の撮った戦後昭和の瀬戸市の写真が豊富で、山を削って陶土を採取する鉱業現場や、その地元民らの暮らしを撮った写真が数多く展開された。このことは現地で初めて知ったので、嬉しい誤算であった。
◆作品の傾向 ~写真がない~
写真が全然ない。
芸文センターの杉本博司、ムハンマド・ガゼムくらいで、あとは絵画、彫刻、映像、空間インスターレション。本当に、写真が無かった。インスターレションの一部として、ミクストメディア形式で写真が部分的に使われたり、あるいは作品の素材や下地として使われるということもなかった。マジで写真がない。
杉本博司作品は、ニューヨーク自然史博物館でのジオラマシリーズ。氏のキャリアにおける初期作品で、太田三郎、宮本三郎、水谷清らの「猛獣画廊壁画」とマッチしていた。太平洋戦争の空襲が本格化する中でほとんどの動物が処分・病餓死した名古屋市東山動物園において、終戦後に動物らの不在を穴埋めすべく描かれた、異国猛獣ファンタジー的な地球各地の動物群である。猛獣画廊壁画と杉本作品との合わせ技によって、 動物園や博物館、動物のいる風景という身近な題材を元にして、人工と命、自然と人間界、動物と人間との距離感、関係性が問いかけられる。この投げかけがそのまま次の大部屋、大小島真木の巨大作品へと見事に繋がり、こちらのマインドが一気に作品世界へ開かれた。



ムハンマド・ガゼムは作家自身を画面に投じるパフォーマンス的作品で、《旗のある写真》は旗と虚無的な砂漠めいた空き地と作者とが写っている。旗は開発予定地を示すものだという。そこがどこなのか分からない、発展後に荒廃した地なのかこれから発展するのか判別できない。《方位》ではGPS座標を記した木の板を海に流している。どちらも、ある地点の記録であるとともに、現在地が移ろいゆく不確かさがある。


今回のテーマと写真との相性が悪かったのだろうか?
「灰と薔薇のあいまに」という芸術祭のサブタイトルは「現代アラブ世界を代表する詩人・アドニスの詩の一節からとったもの」で、「灰(終末論)か薔薇(楽観論)かという極端な二項対立の議論を中心に据えることなく、その『あいま』にあるニュアンスに富んだ思考で世界を解きほぐそうと試みます。」との意である。特段に写真が不得意な思考/試行とも思えない。むしろ二項対立を中和したり分断の橋渡しをしたり緊張を解すことに、写真は大いに寄与してきた。曖昧さ、語れないものを語ること、数字や言葉で表せないものを扱うことが、写真の存在意義であり、現代美術における生存戦略でもあったはずだ。
ましてや戦争や環境破壊や分断や対立、自然との関係性、人間の居場所…etcのコンテンポラリーな問題意識や現状把握と「写真」が無縁であるわけがなく、常に最前線で写真・映像は大量に駆り出され、情報伝達や思考の仲立ちをし、あるいは逆に詩(に代わる力)としても機能してきた。はずだった。私の贔屓目だったのか?
いくつか可能性を考えてみる。
1.芸術監督が写真に対して不得意、専門外であった
フール・アル・カシミのキャリアを詳しく追ったわけではないので分からないし、ここでは深掘りしないが、専門外であって、語れないものを語らないという可能性はどうだろうか。
が、若くしてシャルジャ・アート・ファンデーションを設立し、シャルジャ・ビエンナーレのキュレーションに関わり、国際ビエンナーレ会長も務める身で、「写真」を知らないということがありえるだろうか。氏の、中東と国際的な舞台での活動キャリアを考えると、個別のジャンル云々というよりもアート表現の各領域を交差させて、現代性と伝統、場所性への関心を高め、ある地域と国際的な動向や状況を接続する、といったキュレーションを行ってきたとざっくり想像できる。
中東のアート界における写真の存在感がどうなっているのかは分からないが、写真と無縁ということはあるまい。「アート」の場で扱われるものは全て網羅し把握したうえで取捨選択を行っているとみるのが妥当ではないか。
すると次の懸念が浮かぶ。
2.アート領域での写真の意義、鮮度が下落している
私は「写真も現代アートの一つ」という前提が既に出来上がった状態で2000年代以降を生きてきたわけだが、その前提が今や薄まってきているということではないか。つまり、写真の旬が過ぎて、終わりつつある。いや、根拠や統計はない、ただの投げかけだ。だが、もし写真がアート市場から徐々に退潮していて、写真界なる独自の領域に閉じているとしたら?
私は現代アートの現場関係者ではないし国際的な動向を知らないので、ごく僅かな鑑賞体験からしか言えないが、たまに行く国内アートフェアで写真が扱われる割合はどうか? この2~3年のフェアで一体何点の写真作品を見たか? その割合と今回の国際芸術祭「あいち2025」での写真の登場率は相関がないと言い切れるか? 自信がなくなってきた。
公立美術館のコレクション展(関西の代表例として、国立国際美術館、兵庫県立美術館、京都国立近代美術館)では、写真作品を必ず目にするから、「写真は現代アートの主要な一分野である」と信じて疑いもしなかった。が、それらは90~2000年代に制作ないしは収蔵されたもので、制作年代で言うともっと以前の1960~80年代であって、2020年代の現在形で制作・収蔵されたものではない。
動画映像作品は今回の芸術祭でも、どの展示や芸術祭でも豊富に溢れているが、写真はそうではない。写真家が映像にシフトしたのか? 並行してどちらも作ることはあっても、完全シフトしたわけではないだろう。
写真(家)が、写真界隈が、何をどう語ろうとし、何をどう評価しているかの主軸、つまり「写真」の世界線と、現代(と現代アート市場)の世界線とにズレが生じているのだとしたら、けっこう大きな話である。
アンドレアス・グルスキーの宗教画的な作り込み、トーマス・ルフの脱領域性/領域侵犯するデジタル技術の猛威、そしてヴォルフガング・ティルマンスの日常性・身体性と政治へのアプローチ、適当に思いついたところを挙げたがこの3者が「写真」の旬の頂点だったとすれば、その次の新たな世界線を提示しなければならないことになる。その姿を想像するのは、難しい。
3.写真の権威、信頼、価値が相対的に下落している
なぜその3者の「次」を想像するのが難しいかというと、一般庶民も写真関係者もまだ(今だからこそ)「写真」の扱い方自体が、よく分からなくなっているからではないか。「写真」の現在形を定義できていないというか。
実際のところ何が「写真」なのか、日々展示を見ている側としてもよく分からない。その写真をどうすれば納得でき、あるいは納得を得られるのかもよく分からない。過去の正解を繰り返しても古典技法、モダニズム写真といったところでとどまり、写真の現在系とは話が離れていく。スマホで流通している今ここにあるこれらの画像は恐るべきスピードで、それらの権威ある写真とは別のものとして流通していく。
AI生成画像、デジタル加工によるフェイク画像だけでなく、そもそもスマホやデジカメが吐き出す写真すら、既にAI的な集合知から計算されて補整(補正)された後の画像データであり、加工が既に入っている。外側の現実などない。全容の見えないグローバル企業の敷いたルールとアルゴリズムに沿って処理され出力され流通される画像が「正」で、恐らくそれに代わるそれ以上のものがない。写真家らの個々の活動や思想は置いておくとして、一般生活者が扱う写真は定義が流失していて、撮影機材、カメラの概念は蒸発している。他の表現手法・ジャンルに比べてひどく「正」の姿が見えなくなっている。
これまで一定の価値のあった「写真」というメディア、表現手法が、ここにきて信用を失っているのではないか、という念にかられた。信用の低い国の通貨は売られ、買われず、使われなくなるのと同じく、今、写真の信用度が他ジャンルに比べて低いために、積極的には表に出されないとしたらどうか。
真と偽、正と誤、オーガニックとケミカル、信じられるべき(あるべき)価値が揺らいでいるのならその逆をあえて掴んで、信用ならず捉えどころのなさ自体を示すことでダイナミックでカオティックな価値を創出する他はないのだろうか。読めないぐらいゼロの並んだインフレ紙幣を額に入れて飾るような自虐的で陳腐な行為だが、思いつくのはインフレの加速=AI生成やデジタル編集、3D出力の加速といった、価値喪失の乗算によるデノミ化だ。
だがそれは新しく、現在系と言えるのか? 誰が納得するのか?
このような状況下で、写真(と写真家)は、今まで通用してきた、評価されてきた世界線をひたすら繰り返すことで内側の評価を強化し、延命し、結果として保守的に閉じ籠ることになってしまっていたとも見えなくはない。一体いつまで多様性やマイノリティや家族の絆や被災の記憶を紡げば良いのだろうか。永遠に、というのが答えだが、しかし、市場はそうではない。
私にも答えはないし、写真界自体は正常稼働しており、たぶん的外れなので、ここでは芸術祭の短観をまとめるべく、写真の話はここまでにする。
◇動画映像ひかえめ
動画映像作品もやや控えめだった。特に、瀬戸市エリアの街中では映像がなく、愛知県陶磁美術館で大型の映像作品が1点(ワンゲシ・ムトゥ)あっただけだ。(時間が無さすぎてこの作品は観ていない、残念)
芸文センターでは映像系を8階に集め、10階は映像なし、8階の展示13組中6組が映像だった。なので芸文センター全体では4分の1以下ということになる。これも控え目に感じた。過去の割合についてデータを上げる手間は省くが、すっきりさせた印象がある。
映像作品の尺と点数が、各会場の滞在時間を決めているのは間違いない。思い返してみると前回「あいち2022」では各市エリアどこに行ってもまあまあな映像作品があり、滞在時間がどんどん長くなっていった記憶がある。それはそれで得難い経験だったが、時間にも限りがあるので、「こんなん見きれるか」と途中で席を立たねばならなかった。なかなかちょうどいい映像分量というのも難しい。そういう点では今回はすっきりしていて良かった気がする。
それでも長尺の映像は飛ばした。ロバート・ザオ・レンフイ《森を見る》の映像《フクロウと旅人たち そしてセメントの排水溝》は、第60回ヴェネチア・ビエンナーレ出展作品を再構成したもので、シンガポールの二次林に来る野生動物を観測する映像と、二人の旅人の語りとが交錯する、詩なのか歴史なのか自然観察なのかが捉えどころなく絡み合った作品だったが、45分43秒も成り行きを見守っておれず、意味を解せないまま退席。眠気が勝る結果となってしまった。

ジョン・アコムフラ《目眩の海》も、海を巡る壮大な作品で、「ニューファンドランド沖での捕鯨の暴力的な光景、北極の流氷上でのホッキョクグマ猟、ヨーロッパを目指して海難事故に遭う移民と漂着した遺体、奴隷船の映像、核実験場や深海石油掘削の場としての海といったイメージを並置して」、「ベニン王国出身の解放奴隷であり、後に英国の奴隷制度廃止運動家、海商人、北極探検家となったオラウダ・イクイアーノ(1745頃ー1797年)の驚くべき物語を語」るという、手に負えない規模の歴史と地理の厚みを備えた48分30秒の大作となっている。3画面で海の表情、ホッキョクグマ猟、昔の英国紳士風の男の出てくる創作シーンなどが続き、こちらの教養が全く足りず、全くよく分からないまま後にした。パンパン熊を撃っていた。



映像で素晴らしかったのはバゼル・アッバス&ルアン・アブ=ラーメ《忘却が唇を奪わぬよう:私たちを奮わせる響きだけが》、恍惚的な音楽が暗く青く光るフロアに響く。夜明けへと貫くレイヴの恍惚を思わせる機械音のリバーヴは、聞き慣れたトランスやテクノではなく現地の人々が鳴らす楽器や歌声や放送のような音声にビートが刻まれたものだろう、ブレス音がビートとなって重なり連なっていく。
「パレスチナ、イラク、シリア、イエメンのコミュニティの人々が日常的に歌い、踊るアーカイブ映像やオンライン上の動画を素材とした記憶の集積は、パレスチナの電子音楽家およびダンサーであるマキマクク、ハイカル、ジュルムッド、リマ・バランシとの協働によって生み出された新たなパフォーマンスと融合されます」複数のパネルが折り重なり、反転した映像や各地の若者が歌う姿がプロジェクター投影され、それは夜明けであり、時と場所を超えて陽の光がやってくるように、断絶された様々な政治的状況から壁や境界を越えて歌と音楽が響き合い連なっていくのだった。一体感。離れた者同士が一つになる地点が続いてゆく。揺さぶられた。



◇中東という「主役」
先述したが芸術監督フール・アル・カシミの、UAE出身でありアラブ圏でアート界を牽引してきたキャリアが、今回の芸術祭に大きな特徴をもたらしている。つまり中東の作家が多く登場する。日々刻々と報じられるイスラエルーパレスチナと周辺国の状況に象徴されるシリアスな世界情勢を鑑みると、これらの作家/作品は「現代アート」の実質的な主役といえる。
先に触れたバゼル・アッバス&ルアン・アブ=ラーメ、ムハンマド・ガゼムもそうだし、レバノン出身ダラ・ナセルの巨大インスタレーション《ノアの墓》は「災厄と再生の物語を体現する箱舟の三層構造を思わせる設計となっており、その円環状の形は自らの尾を飲み込み永続性や再生を示す『ウロボロス』を基にして」いるという。ノアの箱舟なら知っているが「ノアの墓」は知らないというかよく分からなかったが、実際に私が(恐らく多くの日本人にとっても)分からないのが、隣接し合った中東諸国の関係性や差異で、「版築はレバノンの墓を、ドームはヨルダンの墓を、土嚢袋はトルコの墓をそれぞれ象徴しており」と、言われても象徴しているものもされた結果も分からないというマジな異文化交流。分かるものだけしか目に留まらないのが日常であるから、分からないものに向き合う場こそアート。。こうでなくてはいけない。


そしてバーシム・アル・シャーケル《スカイ・レボリューション》《新たな誕生》《空の寓話》の3作は、美しい花火、宙に飛び散る花、あるいはエメラルドグリーンの海中に見えるサンゴやイソギンチャクのようなエキゾチックな装いをした絵画だが、イラクのバグダッド生まれの作者が描いたのは「2003年のイラク戦争での爆撃直後に目撃した光景」であった。これほどに説得力のある作品/視座も他にないだろう。当事者性だけでなく、爆撃そのものを描くのではなく爆撃後の残響としての煙と、その煙に反射する光が描かれている。爆煙と反射し蓄えられた光は、まさにTV画面、スマホ画面越しに見る「爆撃」の光景のリアルだった。私達は常に、事後を画面越しに見ている。当事者性(紛争被害者)と遠距離客観視(消費者目線)とが絡み合う極点を表した絵画だと感じた。興奮した。


スーダン生まれのカマラ・イブラヒム・イシャグの絵画シリーズは、自・他の認識、自然と人間との関係性が私達日本人、あるいは西欧の感覚と全く異なり、たじろいだ。人間が繭のように並び、木々に糸で接続され大きな回路図となっていたり、人間が樹の幹に取り込まれて無数の顔がうろや模様の代わりに浮き上がっている。俄かには理解し難い関係性だが、「自然や憑依信仰『ザール』からインスピレーションを得た」「歪んだ表情と身体をもつ女性たちは、ザールの霊に憑依された女性たちのトランス状態を暗示し」とあって納得した。精霊、憑依・トランスとくれば、私達が常日頃触れている「自然」とは全く異なる、もっと恐ろしく迫ってくるものになる。自然が人間に、人間が自然に、それぞれに内へとダイレクトに入ってくるのだろう。


UAE出身のメイサ・アブダラの絵画《あなたに負けるわけにはいかない》シリーズも、実に理解を超えていてよかった。「恐竜のメタファーで、母という存在の内的・外的な葛藤と、人類全体が抱えた罪悪感や人間と環境との関係を浮き彫りにします。」と、全裸で股を開いた人間が、股から恐竜を産み出している。出産どころではなく、恐竜が腹を食い破って出てきているようにしか見えないし、母体である人間女の方が人間離れしていて、全裸で髪の毛もなく虚ろな目をしていて土着の爬虫類みたいに見える。そんな調子でトリケラトプス様の恐竜と人間(母/女性)との生死の流れが描かれる。母になる/なった女性が一体どういう罪悪感を抱くものなのか、全く分からず、怖い。だが何かしら女性/母になる者の真理を言い当てているのだろう。怖い。日本人の女性らにも共通する感覚なのだろうか?



◇「日本の漫画」の存在感
だが今回、とりわけ存在感を引き上げられていたのは、日本の漫画ではないだろうか。
まずもって芸術祭のメインビジュアルが漫画家・五十嵐大介で、これがドはまりしていた。勝ちが確定。生と死、人間と動植物、肉と骨、灰と薔薇とが、境界線を踏み越えて混ざり合った姿が描かれている。すなわちいつもの五十嵐大介である。まずこれに惚れた。会場での常設展はなく、会場エントランスと広報物、芸術祭グッズでのみの登場だが、巡回展示「ポップ・アップ!」で特別出品がなされるようだ。
イラストだけで実質的に作品であり、芸文センター10階入口で大きく展開される異種混合的共存のユートピア像は、ムルヤナ《海流と開花のあいだ》と対になり、毛糸で作られた海洋の多彩な生態系、岩や鉱物などの非生物と生物との境が混ざり合って無くなっていく世界観と強くマッチしていた。



そんな五十嵐大介の世界観とこれまた完璧にマッチし相乗効果で力を発揮しているのが大小島真木《明日の収穫》だ。大部屋に吊り下げられた帆布は縦4650㎜ × 横9860㎜にも及び、空間そのものである。作品を「見る」というより作品内に「居る」ことと同化している。
山や水や太陽や火、農作物と動物、植物らが巨大な循環を成し、そして私達「人間」もまたその一部として完全に組み込まれている。それぞれの動植物らも物理的に図鑑的に目にするような個体ではなく、まさしく五十嵐大介世界と同様に同じ元素から生じた同族であり、移ろいゆく精霊であって、火水風土と融合し、或いは別の生き物と混ざり合い、或いは死・骨と相を同じくしていく。人間が科学と経済によって分割し管理した世界から、原初の力へと立ち戻らせた世界がここにある。

五十嵐大介と並んで重要な漫画家が諸星大二郎である。ここに来て同会場で原画の展示があるというのは完璧な狙い撃ち方で、こんなによく「わかってる」中東の芸術監督というのも恐ろしいものだ。勿論、単独の原画展ではないのだからコーナーは限られていて、氏の恐ろしく深い呪術的な世界にどっぷり浸ってきた身としては、嬉しい反面物足りなくもある。とはいえ絶対不可避の名作コマ(「ぱらいそさ いくだ」「カオカオ様」「生物都市」「闇の客人」など)が揃っているので、やはり監督「わかってる」人なのか?


五十嵐、諸星に並ぶのがpanpanya。同じ異世界探訪、、異界送り・送られ系(※独断と偏見による呼称)でも、雰囲気的には諸星大二郎=昭和~平成初期、五十嵐大介=平成後期、panpanya=令和という世代のグラデーションがあり、それが一つの芸術祭で集まってるのが素晴らしい。おい監督これわかってやってたら凄い話やぞありがとうございます。
展示は瀬戸市エリア、せと末広町商店街の元・旅館「松千代館」にて、焼き物の町・瀬戸市の過去と今を巡る異世界探訪をやっている。相変わらず味わい深く、良い。展示としては2つのストーリーの原画を、厚紙を台紙にして天井から表裏で吊り下げている。瀬戸焼で碍子(がいし)が作られ西欧化する過去、落として割ったちゃわんの代わりを買いに行く現代の2話である。コラージュ風の作りになっているのが印刷物とまた違った良さを醸す。ZINEは会場での閲覧限定で販売はないが、芸術祭の公式カタログに収録される予定とのことだ。



また、漫画ではないのだが、山本作兵衛の描き残した数多くの炭鉱労働の記録画、これも絵の形態としては漫画の原型のような形をしている。作者は1892年生まれ、7歳の頃から各地の炭鉱を渡り歩き、1955年に退職。それから1984年、92歳で没するまで1000点以上の記録画を描き続けた。独学である。脱力感のある滑らかなタッチだが、現場で生きてきた豊富な経験、知見を盛り込んだ、実に多面的な記録となっていて、「炭鉱」という世界をつぶさに伝える重要な資料となっている。




◆トップ3(※個人の感想です)
多種多様で面白いですね、国際問題や見えざる存在について可視化や知覚化がなされ、世界のことが少しだけ分かりましたね、と〆て終わるのでは学生のレポートみたいでへちょいので、あえてここで極めて私的なトップ3を発表します。順番つけにくいけどつけないとな~しかたないな~~ うーん(よろこんでゐる
◇3位.バゼル・アッバス & ルアン・アブ⹀ラーメ
先述した通り、夜明けへと突き抜ける音楽と歌声の響きが官能的で、情感を掻き立てられた。登場する人達が中東の若者で、困難な状況に追い詰められている人達の存在と生の声をダイレクトに、空間に直結させた。この切実さと恍惚感はたまらない。
◇3位.冨安由真《The Silence (Two Suns) 》
悩んだが同列3位としました。なやむよ。だって作品の世界観は今芸術祭の「灰と薔薇のあいまに」を完璧に体現しているのだから。五十嵐大介のイラストと真逆の地点で、芸術祭の象徴であると思う。


瀬戸市エリア・銀座通り商店街の空き店舗、外からは何も見えない。中に入ると、マジックミラーで、中からは外が見える。店舗のあった空間には白い砂が積まれて山と道ができている。石のような塊は全て、灰色の薔薇の花だ。
文明や生活が灰と化した場所に立っている。椅子やテーブルが、灰に足を埋もれさせている。ガラスの外では、いつも通りの世界が通常稼働していて、平和に皆が往来している。こちらからは、それを一方的に見ることしか出来ず、灰色の世界は、誰にも気付かれない。
詩的である。が、それ以上に、現在の中東の――パレスチナの置かれた状況へと身体が転送されたように感じた。ウクライナもそうだ。こちらからは、見えない。分からない。向こうからは、無関心に通り過ぎてゆく私達が、見えているだろう。死屍累々、命や文明や文化が、花が散っていく。遮断された廃墟の中に立ち、心を奪われた。



◇2位.大小島真木《明日の収穫》《土のエクリ》
今回の芸術祭を象徴する代表作で、そして五十嵐大介の描くキービジュアルと完璧に合致し、増幅し合う世界観だ。
巨大作品《明日の収穫》は先述の通り、人間と動物、植物とが、そして生と死とが、生物と四大元素と気象や地形とが、明確な区分なく、まるで精霊が姿を変えてゆくように連なっている。動物が人間のように漁や作業をし、巨大な山や木の根や光とともに、植物を摘む腕が大きく描かれ、農耕という営みの大きさを示している。万物は流転し、循環し、文明と自然とも繋がってダイナミックに関わってゆく。色とりどりの動植物と、人間らしきフォルム、そして骨が混ざり合う。仏教観と原初の信仰とが混ざり合ったようでもあるし、生物としての直観を突き詰めた際に辿り着く感覚世界のようでもある。


大きな帆布作品を前に、フロアの床には《土のエクリ》、陶製の顔の彫刻と、小説や哲学などの一節を引用した陶板が並ぶ。どれも含蓄に富んだ、豊かで深い文章だが、全て農耕、農業に関連したテキストで、丸山眞男『日本ファシズムの思想と運動』から鈴木大拙《日本的霊性》、伊藤野枝『転機』、宮本百合子『青田は果なし』等と、実に厚みがある。


もう一つ、愛知県陶磁美術館の茶室「陶翠庵」にも作品《土のアゴラ》があるが、残念ながら時間切れでそこまで回れていない。どうも映像作品らしい。「メキシコでの出産経験を踏まえて土と生命、環境と種間関係を再考する」と、テーマは共通している。観に行きたいが…。
◇1位.是恒さくら《白華のあと、私たちのあしもとに眠る鯨を呼び覚ます》
個人の作品としてこの規模で、この作り込み、そしてリサーチの分厚さは尋常ではないとして、畏怖に値する作品だ。
最初、部屋に入った時には、水色の大きな布が垂れていて、その下で陶器や土管や骨が並んでいて、鯨の骨格を模していることが分かる。初めはそれだけだと思った。が、見ていくと鯨に関する知見の深さに引き込まれる。作者はアラスカ大学フェアバンクス校で先住民藝術を学び、鯨と人との関わりについて世界各地でフィールドワークを通じてエッセイ、詩、刺繍作品の形で発表してきた。少部数の刊行物『ありふれたくじら』シリーズと刺繍を見て、只者ではないと感じた。
布の裏に回り込んだ時に全体像が見えた。布は、鯨の身を輪切りにした絵を刺繍で描いたものだったのだ。



胴体、鰭、頭部も刺繍で描かれているが骨が丸見えになっていて、白い骨に重ねて赤い糸が細かく編まれているが、血や筋肉というだけでなく、捕鯨によって生活を営んできた昔の人々の姿が骨の向こうに描かれている。鯨の肉体に、その恩恵によって成り立ってきた人間の営み、産業の姿が重ねられている。鯨の肉体としてのスケールと、経済・文化のスケールとが表されている。
解説によると、愛知県の渥美半島に縄文時代の貝塚が多数あり、漂着した鯨を食べて骨を道具に利用してきたことや、知多半島南端の師崎(もろざき)は、突き取り式の捕鯨技術発祥の地であるらしい。技術は和歌山県の太地ほか各地に伝わっていったと。太地町の捕鯨の歴史は有名だが、もとは師崎の漁師から伝授されて1600年頃から始まったのだと。初めて知った。こうした捕鯨と愛知の歴史、鯨と人との関係を、巨大な刺繍と資料と陶器との配置をうまく編集し、物理よりも大きな「鯨」を浮かび上がらせていた。
鯨とは動物個体を指すだけではなく、文化圏・経済圏そのものでもあるのだと知った。
それを伝える力量と労力が本作の刺繍にはあった。すごい。

◇1位.アドリアン・ビシャル・ロハス《地球の詩》
同列1位とします。どっちかを選ぶなんて無理無理。
旧瀬戸市立深川小学校の1階部分と2階へ続く階段を、超未来の壁画群のように塗り尽くす。ストリートグラフィティとも騙し絵とも空間まるごとパッケージした印刷物ともいえる、異種混合の絵は見境なく知覚を飲み込んで攪乱させてくる。古代と未来の直線が曲げられて一点で接着された、その時空ワープ面に投げ込まれた光景を見ている。
元・教室や職員室、給食調理室が反復、増幅、反転され、壁の中でさらに疑似空間が続いている。かと思えば類人猿の進化系、『猿の惑星』を彷彿とさせる原初的な人物らが写真のように色と闇の渦の中に立っている。絵は抽象的な部分が多く、例えるならコラージュの貼り合わせ面、グラフィティの筆致が唸りペイントが伸び、掠れる部分、シールや張り紙を剥がし絵を削り消したような空白、そしてデジタル画像処理が起こす澱みや処理中のままフリーズしたような直線の列、波。こうしたノイジーで混線されたビジュアルが繰り返され、ジャンルもモチーフも時系列も混在した空間がある。
路上のグラフィティとPC画面内のデジタル画像とゲルハルトリヒターとヘヴィメタルやロックのCDジャケ画像などが移動するごと次々に移り変わってゆく。




その中で、古代、人類の祖先へと立ち返るイメージ像は明確に打ち出されている。しかし写真のように写実的でありながら不気味な印象がある。その顔は皆、まるで認知症患者のように意思が欠落し、主体や感情がない。外形的にはそれっぽいが中身が宿っていない人物像――AI生成画像だ。何を考えているのか分からない、未来化された類人猿の像は、私達が辿ってきた進化の歴史ですらないのかもしれない。似た起源を持つ異なる亜流の存在が残したイメージなのか、私達の住む世界とパラレルに存在するもう一つの次元が出力する人類―生命―文明の姿なのか。
それらは私達のカゲなのか、光なのか。誰がこの亜・人類史を見ているのか。私達ではないのかもしれない。AIか、異次元のパラレルの私達に似た知性体が見ているのか。
叫びを上げる口、あるいは大笑い、あるいは大声を上げる口のヴィジュアルが繰り返されるところに、AI生成画像の不気味な歪みと正対する歪み、野蛮と理性とが混ざり屈折するような歪みを感じ、心地よかった。



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( ◜◡゜)っ はい。面白かったですね。
詳細をたぶんレポするいとまがないので、ひとまずザザッとまとめました。
また行きたいな(むり)(白目