nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】2025.4/11-10/13_「Study:大阪関西国際芸術祭」@大阪・関西万博、大阪文化館・天保山、船場エクセルビル

4回目となる「Study:大阪関西国際芸術祭」。いよいよ大阪・関西万博と合わせての開催となる。とうとうスタディが本番を迎えたのだ。

 

 

◆ふりかえり

本芸術祭は、2025年開催の大阪・関西万博を契機として、世界最大級のアートフェスティバル(仮称「大阪関西国際芸術祭」)の開催を目指すにあたって、実現可能性をスタディするための芸術祭として、2022年から始まった。

 

・・・という大前提を、2022年当時の記事を読み返して思い出した。しかし今回、本番の位置づけの年だが、「Study」はそのままとなっている。展示としても会場が増えたぐらいで企画の枠組み自体が大きく変わったわけではない。当初はもっと壮大な、国際的な展示やアートフェアの開催を思い描いていたのかもしれない。

まあこのままゴールをもっと先に再設定して「Study」を続けてもらっても、こちらとしては何も支障ありませんので、楽しみにしております。(今年で終わらないよね?)

 

ここで過去3回の内容をふりかえりましょうね。

osaka-kansai.art

2022年に1回、2023年に2回。2024年は無し。

 

私は皆勤賞で3回とも鑑賞していたのだが、なぜかVol.2の記録ブログがない。

飛田新地 × 落合陽一作品など、ツアーで真剣に飛田新地の歴史の説明を聞いたり、釜ヶ崎を散策したりしたのだが、同時期に他の展示イベントがあって追われていたのだろうか…。

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<Vol.3>

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◆全体

先述のとおり、展示構成の大枠は従来のものから大きく変わっていない。会場、会期、イベント数など、規模全体が大きくなったことは今回ならではの特徴と言えるだろう。ただ、通例は1~2カ月の会期だったところ、今回は大阪・関西万博と連動しており、プログラムの一つが万博会場での作品展示となっている。そのため会期は大阪・関西万博に合わせてある。

(なお、船場エクセルビル会場は当初の会期(8/24)から、万博と同じ10/13まで延長された。)

 

展覧会プログラムは6章構成。

第1章 多様なる世界へのいざない @大阪・関西万博

第2章 人・命への考察 @大阪文化館・天保山

第3章 都市とアートの関係性 @梅田エリア(JR大阪駅周辺)

第4章 変容する街でのアートの可能性 @釜ヶ崎エリア

第5章 東西南北、文化の交差する街 @船場エクセルビル

第6章 クリエイティブ・エコノミーと地球の未来 @グランキューブ大阪

第7章 コラボレーション @国立民族学博物館、CASO

 

①②が新規追加された。万博開催年ならではの拡大版という感じで、①は万博会場内に13組の作品が点在している。②は天保山海遊館と道を隔てて隣に建つ、かつての美術館「サントリー・ミュージアム」(2010年12月閉館)である。天保山から直接には万博会場に行けないが、位置的には近く、大阪湾ベイサイドエリアとして共通した場所性がある。

 

③④⑤は従来と同じで、⑤船場エクセルビルが②天保山と並ぶ、まとまった規模の展示  だが、③は通例のグランフロントではなくなり、ルクア建物内でのサイネージにとどまり、規模が縮小した。④はいつもの釜ヶ崎芸術大学(ココルーム)とkioku手芸館「たんす」に、新しい施設「山王ハモニカ長屋」が追加された。プログラムとしては過去に展示を行った「プロダクション・ゾミア」キュレーション。

 

⑥は、7/21-23の3日間限定イベントで、日韓合同のアートフェアやサイエンス・アートアワード、シンポジウム等で、展示ではない。

⑦も、国立民族学博物館では展示1点のみ(アーティスト「のん」が手掛ける、こけしにリボンを巻いた作品)。シーサイドスタジオCASOでは5/2~14に映像作品展示イベント「EUROPEAN DIGITAL ART EXPERIENCE : THE IMMERSIVE IN OSAKA 2025」が催されたが、気付いた時には終わっていた。KYOTOGRAPHIEと時期がかぶっていたから手が回らんかったんや(泣いてる)

 

で私が回れたのが、①万博会場のごく一部、②天保山、⑤船場エクセルビル、の3か所。

これらがいわゆる「芸術祭」としての作品展示なのでmustです。

⑥⑦は期間限定イベントだし(そもそも会期に気付かず終わっていた)、④は従来と大きくは変わらず、③はサブ的と思うと、時間が限られている中では絞り込む必要があったので、すんません見てない。

 

では回った3プログラムについて短観をレポしていく。

 

◆第1章「Study:大阪関西国際芸術祭/EXPO PUBLIC ART」

見て回るの無理。

 

( ◜◡゜)っ みなさん万博行きました? 

 

あの状況で、パブリックアートを探して回ってコンプするというのは、「TDLで自販機コンプしようぜ!」て言ってるぐらいクレイジーで、どこに何があるかよくわからない状況で、ただでさえパビリオンを次どうしようか、どこにどの館の行列が出来ているのか、目を血走らせながら狂騒的競争状態でやってますから、むりです。

パス買って20回通ったとかいう人なら余裕もあると思うが、私は残念ながら計2回しか万博に行けなかった。

また、本格的な「アート」は「シグネチャーパビリオン」内の展示の一部であるため、塩田千春の赤い網とか観れていない。これらは「Study」の範疇外なので気にしなくていい。どうやって予約とるんだよ無理だろ(怒

 

かろうじて歩いてて偶然出会った作品が数点あるので紹介しましょう。

 

名和晃平《Snow-Deer》

「Study」のプログラム外ではあるが、どう見ても代表作にしか見えない。東ゲート入場すぐに正面に立っていて、背丈はわりと小さいのに、存在感がある。が、それはアートとしてではなく「かっこいいオブジェ」としての存在感だった。それはポケモンガンダム、ミャクミャク様とどう違うのか問題が発生。

白い鹿は、東北・石巻市牡鹿半島の作品が巨大で、象徴的なアイコンとなっているが、他にも東京ガーデンテラス紀尾井町にも出現しているらしい。幻の鹿が増殖していく。といったことを考察する暇もないぐらい慌てて帰路で見かけて撮影。

 

◇檜皮一彦《HIWADROME: type_ark_spac2》

大屋根リングへのエスカレーター下にあり、西ゲートとのアクセス道で繋がっているので、最も発見しやすい所にある作品ともいえる。造りも大きく、一見して車椅子の塊であることが明らかで、要は目立つので、見つけやすい。

車椅子なら東ゲート側の「大阪ヘルスケア」と親和性が高そうに思うが、現物を見ると、真っ白に塗られた車椅子は役割性から漂白されていて、うまくオブジェ化している。写真部分に鏡のプレートが取り付けられているので、白い四角体に銀色の円盤が幾つも輝いている。

 

◇ミヤケマイ《水心》

たこ・・・。

いつどこで出会って撮ったのかも覚えていない、綺麗だったのでとりあえず記録的に撮っていたが、「Study」の作品だったことに今気付いた。これ以外にもいくつか絵柄があったようだ。(それぐらい余裕がないのが万博!)

位置は「静けさの森」休憩所付近。 

大阪と言えばタコ、ということで作られたそうだが、自分が大阪人なのに言われるまで気付かなかった。生物種のタコというと明石で、たこ焼きと言われると大阪になる。かわいい。

 

 

金氏徹平《Hard Boiled Daydream》

西ゲート付近、公式ショップの逆側、トイレの前あたりで遭遇。これぐらい派手だと一発で気付く。なんせガンダムとかミャクミャク様とか吉本パビリオンの顔アイコンとか、重要かつ目立つものが視界に色々入ってくるのでたいへんなんすよ。

ポップであり、印刷物の平面性を空間/立面へと過剰に拡張された様は、リキテンシュタインとかあのへんの現代版解釈にもなりそう。身近なモノに見えて、モノではなく、これらはマンガ的表現であって、平面に超フィットした記号なのだ。立ち上がり積み上がる記号は何を示すか?

 

◇ジュン・T・ライ(頼純純)《フラワー・オブ・ホープ》(希望の花)

これも「Study」の範疇外だがめちゃくちゃそれっぽくて困るねんな笑。結局こういうなにげないディテールの作り込み、随所の無名の仕掛けが「アート」「作品」を飲み込んでいくし、逆に実際には誰かの作家のアート作品であるかもしれない、ほんとにそういうレベルで、「アート」「作品」級の何かがひたすら溢れかえっている。万博はバグっている。

※10/2追記:作品の作家名などが判明

つまりですよ。

ぶっちゃけ万博は、全ての建物やオブジェクトが意味を持ち、その体験は「アートイベント」「芸術祭」を飲み込んでもっと包括的な場となっている。要は、万博は芸術祭の上位互換なのだということが分かってしまった。アートを置こうがポケモンガンダム置こうが異国の石や草木を置こうが全て等価になり、美術の特権性、美術品のアウラは無化され、もっと得体の知れない興奮の中に叩き込まれる。ある意味で弱点を突かれた格好。

アートエリアを別に用意するとか、万博美術館を建てるとかをあえてしなかったことで、アート(アーティスト)の存在が無化され、そうした「万博という上位互換の体験」に気付かされた。これは地味に大きな話だと思う。

 

 

◆第2章「リシェイプド・リアリティ:ハイパーリアリズム彫刻の50年」@大阪文化館・天保山

みんな万博に行ってるので、天保山自体が空いており、そして館内はもっと空いていて、万博との差が極端だった。もちろん「Study」は万博プログラムではないが、万博に関連付けて展開されているアートイベントであるから、もう少し皆さん注目してみてくださいや折角なので、、、

 

立体彫刻、しかもハイパーリアリズムの人体造形ばかりが揃う展示は、初めてで、実に刺激的だった。こういう企画展はぜひ他でも試みられてほしい。逆になぜこういう企画展が今まで無かったのか不思議だ。(ありきたりすぎ、分かりやすすぎて誰も思いつかなかった?)

 

規模は元・美術館の2フロア分を用い、5つのセクションで構成。28組の作家で、1組1~2展の大型作品なので、あっさりと観て回れる。しかし、ハイパーリアルの人物彫刻というものがここまで重厚な存在感を有するものとは知らなかった。作品への対峙は、生身の人間と向き合っているかのような重みがあった。

 

まず会場(5F)に入って「セクション2 潔くシンプルに:モノクロームの彫刻」の、やや抽象度の高い――古典的とも思える色彩なき彫刻と、「セクション1 幻想を生み出す:人間の複製」の超リアルな等身大の人物彫刻とが続く。

ブライアン・ブース・クレイグ《Executioner》アースカラーの全裸で立つ国籍不明の――恐らく古代のアフリカ?の女性、蛇を巻いた左腕、小鳥を掴んだ右手で、腰に両手を当てて立っている。目を伏せていて、こちらからはいかなる干渉もできず、いかなる消費の対象ともならない存在として、生身の人間にはない威厳と神秘があり、たちまちに虜になった。視線を無限に引き受けて吸い込むのに、彼女は1㎜も崩れたり減ったりしない、永遠に、大地の化身のように立ち続けているのだ。

隣を覗くとジョージ・シーガル《Early Morning: Woman Lying on Bed》、真っ黒の部屋、真っ黒のベッドに窓、椅子、上着、そしてはだけたシーツと裸の女性、全て黒く、作り込みは実に写実的なのにとても抽象的で、油絵具の厚みと塗りが上下突破した回がが空間に立ち上がってきたような迫力がある。

その少し先に、ソファに座って小さなテレビモニターの映像作品をずっと見ている女性がいる。薄手のコートと肩幅、括った髪の感じから西欧人観客が熱心に観ているか寝落ちしているのかもしれないと思ったら、映像の中にいる女性と同じ姿をした彫刻作品で、そのリアリティに目を疑った。ほんとに?人間でなくて? チルダ・デア・ハイネ《Ne me quitte pas(私を離さないで)》、映像は《Mathilde,Mathilde
(マチルダ、マチルダ)》。

映像には作者と瓜二つのマネキン彫刻が、作者と共に登場し、手荒く扱われたりする。「女性やその社会的立場が虐げられている状況を取り上げ、作品を通じて、これらの場面を暴力的に再現することで、こうした表現から自らを解放しようとする。」荒々しさはそこに。

 

至近距離にこれまたリアルな人物の背中がある。ドゥエイン・ハンソン《Bodybuilder》、こちらはさすがに人間とは見間違わない。上半身裸・短パン姿で、ジムのトレーニング中に一息ついている姿だからだ。美術館で裸で筋トレをするキチガイはいない。しかし本当に・・・人間のようだ。膨らんだ筋肉、肩や腕や、やりきって疲れて脱力した白人男性の表情、その後ろ姿は完全に人間だ。人間よりも人間らしい気がする。

その先の通路に1人の女性が背を丸めてうなだれるように立っている。ダニエル・ファーマン《Caroline(キャロライン)》、顔と両手を緑のセーターの中に突っ込んでいて、後頭部、髪と背中、尻を見る。やはり生身の若い女性にしか見えない。彼女が彫刻である根拠は?パフォーマンスアートかもしれない。無防備にならざるを得ないほど、何かに気をとられている、「苦悩や絶望の瞬間にある若い女性の姿」というが、スニーカーで普段着で尻を向けている様はもっとライトで、もっととりとめもなく、ゆえに具体的に埋め難い距離感を感じさせた。

ジョージ・シーガルの裏側にも超リアルな彫刻が人間模様を見せている。グレーザー/クンツ《Jonathan(ジョナサン)》、強烈である。大怪我で車椅子に乗っている男性は、手足が白い石膏で作られているので両手両足をギプスでぐるぐる巻きにされた重傷者に見える。解説では「美術品品とその市場価格について語り、どうやら美術鑑定家であるらしいとわかる」とあるが、頭部も包帯をぐるぐる巻きにしていると、もうイスラエルによる爆撃で重傷を負ったパレスチナ人や周辺国の人にしか見えなかった。

 

階をひとつ下る。

「セクション3 ひとつひとつ:身体のパーツ」「セクション4 視点の変化:スケールの遊び」「セクション5 操作された自己:デフォルメされた現実」が展開される。引き続き超リアルな人物彫刻だが、サブタイトルの通りセクションごとに切り口が異なる。

カズ・ヒロ《Andy Warholアンディ・ウォーホル)》はポスターにもなっていた本展示アイコン的作品だが、周囲に他の作品があり、背後も鑑賞動線が続いていて、作品への没入感が乏しく、実寸大での体験に留まってしまった。ウォーホルの頭部と片手だけがリアルなのに対し、首から下はトロフィーのように金属質の流れとなっていて、非常にミステリアスと神秘があり、表象・アイコンになりきったまま去ったウォーホルそのものをよく表している。

左隣に控える、首と肩から上だけの伏し目の美女、ジェイミー・サーモン《Lily(リリー)》は、確かに完璧でリアルな美女なのだが、異様だ。FF7リメイクに出てくる人工的な美女キャラクターをそのまま人間として再現したような、そう、人工的な美女としてのリアリズム。顔面フル整形とアプリ補正によって作出されたセクシー女優や夜職アカウントのような、自分というものがあるのか、誰なのか分からない人物。「誰か」の願望をそのまま結晶にしたような人物像。ウォーホルとの並びは必定かもしれない。

マーク・サイジャン《Embrace(抱擁)》はその真逆、人間の行き着く先の極限状態で交わされる最後の姿として、二人で抱き締め合っている。究極のリアル、例えばアウシュビッツホロコースト、例えば…。聞いたのは大学時代だったか、ナチスにより絶滅収容所へと強制連行される列車の中で、最期を悟ったユダヤ人らが性行為に及んだ…とか、それは人間の究極の生き様ではないかと、その話を生々しく思い出した。老齢の男女二人が裸で慈しみながら抱き合う姿は、私達が人間であることの最後の証明として映った。

ジャルコ・バシェスキ《Ordinary Man(平凡な男)》も、人間の究極的な姿のひとつかもしれない。土から巨人が生えてきたように、腰から上だけの裸の男性が両手を床に付いて立っている。上半身だけで2.2mある「平凡な男」は、もう既に尋常でない存在で、360度+αからつぶさに、痩せて浮き上がった胸椎や喉元、斜め上を見上げる顔の細部を見る中で、人間とは何なのかが見えたり見失われたりする。

サンティッスミ《IN VIVO(M1)(生きたままで(男)1)》は、最後に現れる展示品。半透明のケースに直立する全裸の男性は、冷凍保存された人間そのものだ。ケースは内側から光り、プレキシガラスの白い霞みは男性の細部を覆い隠し、男性器があることだけは分かる。これもまた人間の行き着く地点の姿に思える。

視覚的表現の拡張を試みる彫刻がある。エヴァン・ペニー《Panagiota: Conversation #1, Variation 2》《Self Stretch(引き伸ばされた自己)》では、人物の顔が奇妙に引き伸ばされたり、反復・連続している。

デジタル画像記録でお馴染みの平面表現を立体化し、特に後者の作品は、どの角度から見てもその地点ごとに見える「1枚」の画像が連続されている。これは奇妙な体験で、全体像を何となく見ているときには「歪んだデジタル画像」だが、立ち位置を変えながら凝視していくと、その地点ごとの視座は「1枚」のシーンとして完結している、それが移り変わってゆく。前者の作品も、友人・パナギオアタ氏との会話シーンを記録した写真から描き起こし、複数の顔を横に連ねている。これらは、写真の宿業ともいえる「一枚一視点」の完結からビジュアルを解き、平面性を有した立体体験として立ち上げている。古くからあった鉄腕アトム、矢吹ジョー、スネ夫の髪型問題(他の視座を許さない超完結された平面表現は、別角度からどう見えるのか/表せるのか?)への解答の一つだと感じた。

平面性、記号へと遡る彫刻もある。メル・ラモス《Chiquita Banana(チキータ・バナナ(若い女性とバナナ))》、アレン・ジョーンズ《Refigerator》は女性の立体彫刻ながら、これまで紹介した作品と真逆に、その人物像は記号的、ポップな広告そのもの、凹凸や皺や襞は間引かれ、体毛もなく、虚ろである。これまで観てきた作品はどれも、人間以上に「人間」の重みがあって、尊厳とでも呼ぶのだろうか、生身のヒトを超えた「居る」重量感があった。これら2作は逆に、広告の看板の中身が人間を模して平面の外へ飛び出してきたようなものだ。当然それは消費される客体としての女性への指摘がある。

紹介しきれないがとにかくでかい裸、人体がずらずらと並んでいるので迫力がすごいんですよ、どうなってるんだこの空間。

 

 

◆5章「Re:Human―新しい人間の条件」@船場エクセルビル

「Study」毎度恒例の会場で、空きオフィスビルの2~6階を用い、計8組の展示。新旧の世代が入り混じり、ジャンルもテーマも多彩、総合的な表現の場となっている。そこには生命や科学、テクノロジー、未来に向かう考察がある。

 

入口入ってすぐの部屋、シュウゾウ・アヅチ・ガリバー「A.T.C.G.」シリーズは、生命の原点、DNAを構成する4種類の塩基配列を題材とした絵画やミクストメディアを掛け合わせたインスタレーションとなっていて、2台のベッドがYの字に合体した《甘い生活/乙女座》が目を引く。生殖行為と染色体とが重なる。絵画、印字、黒板に「A」「T」「C」「G」がひたすら連呼されている。この4文字の組み合わせは無数の生命の出力・分岐に繋がっているのだろう。作品が生まれることと生命のそれとは直結している。

目に見えないミクロの現象が人間の生命に影響を及ぼし、断絶をも生む。新型コロナ禍でウイルスに目を向けたのは金サジ《AMAーウイルスとおよぐー》一連の作品だ。大型スクリーンの42分の映像作品を中心に、海の波の打ち寄せる映像、様々な感染症によって顔を中心に身体に異変を来した人達のポートレイト写真(演出)で構成される。ウイルスによって変調、変異を来した人は、元のその人から異なる姿になるのと同時に、コミュニティにおける異物ともなり、忌避され、隔離されたり追放される。本作ではその先にある共存や新たな世界への漂着、生まれ直しの可能性が描かれていた。

映像を見た断片的な記憶では、感染症によって変異し、弔われた女性が、海に還されるが、海から現れたアマビエ(をもっと地母神のように人間女性化した存在)と出逢う。二人は交わり、器官を濃密に交わらせる。受精、乳の代わりに放出され飛散された胞子、サンゴの卵のような玉が、世界に降り注ぐ。これが感染症を引き起こし、様々な身体の変異を引き起こす。虹色の噴火。新たな始まり。まるで、ウイルスの感染によって私達が、真に人類となったかのように…。

次世代へ変異した人物像は吉田桃子《Ee.p. Ecume sharing》などの絵画シリーズにも登場するが、こちらではゲーム映像内のキャラクターが最も近い。少し昔のプレイステーション映像を更に暈したような、疑似的に3次元化した質感の映像に、中性的な人物が主人公として映る。「自己の消失と呼応するように現れるのは、彼女自身の憧憬や欲望、フェティシズムが投影された若者たちの別世界での姿」、同じ類型に沿ってスリム化され美化された十代半ば位の淡いビジュアルで、デバイスの内に自在に漂う。リアルの自分を失うことが願望を叶えた姿ということか。

石原友明「I.S.M.-代替物」「透明な幽霊の複合体」などの作品群はもっとフィジカルかつ客観的に、突き放して試すように、「自己」の一部を切り出して計算にかける。前者は3Dスキャンした身体を3Dプリンターで出力したパーツを積み上げているが、上下左右も、体の何処と何処とを繋ぎ合わせたのかも謎で、まさに「断片化されたからだを寄せ集めてもうひとつのからだを作り出そうとするフランケンシュタインの怪物のような状態」だ。後者は作者の毛髪の写真を超アップしているが、スキャン後にベクターデータへ変換し、フィルム出力、折り目を付けた立体的な印画紙に焼き付けてキャンバスにプリントしており、デジタル抽象絵画か、顕微鏡写真かジャンルを判別し難い大型作品となっている。

身体や自己がデジタルによって記録・記述されるようになったことの意味を過剰に推し進めれば、画像上の加工編集にとどまらず、原理的にはどこまでも――想像したこともない新たな/極端な/無意味なまでの再構築が原理的には可能なのだ。その怪物の姿を試行しにいくのか、それとも見慣れた「私」の理想像を理想的にアプデし続けるのか… それが「未来」の選択肢というわけだ。

美術、絵画においても「未来」が示されている。川田知志《太郎の色とカタチ×パブリック》は、絵画(壁画)の移動という技法自体を作品にし、その絵も岡本太郎にインスパイアされたものであるから、技法のテーマ性だけでなく絵画のDNAの継承についても言及していることになる。

具体的には、滋賀県立陶芸の森に描かれた長大なフレスコ壁画(本作だけでも235 × 2303cmある)を「ストラッポ」という技術によって、絵の上から膠を塗って布を貼り付け、絵を剥がしてしまい、別の支持体に貼り付けてしまうというもの。記録映像で見事に絵が元の壁から剥がされ、壁が真っ白になる過程を見た。本当に剥がせるとは驚いたがフレスコ画ならではの強度あってのものだ。1970年大阪万博の象徴であった岡本太郎太陽の塔にインスパイアされた巨大壁画が、2025年大阪・関西万博の地へと移動することのダイナミックな力は、もっと知れ渡っても良いところだ。

万博、美術表現という観点では金氏徹平インスタレーション作品群がまさに「小さなパビリオン」を標榜している。なんだか分からないものを寄せ集めた小さな集合体、知的なブリコラージュ的な群れ。正直言って、全体を見渡しても個々に見ても意味は全く分からない。図録を見て、それぞれのコーナーにパビリオン名が付けられていることに事後に気付いた。それぞれは作者の旧作・新作から成るという。

「海のパビリオン」はカラフルな透明のケースにカラフルな透明な容器(マウスウォッシュか?)が並ぶ。「抽象彫刻のパビリオン」は万博会場内で展開している作品と似ていて、文字ともアイコンともつかない形の平板を立体的に張り合わせている。「人間のパビリオン」はアスリートやボクサー、力士、ラッパー、アイドルの古く懐かしいカードがずらっと貼ってある。そんな調子で「地獄のパビリオン」「こどものパビリオン」などと続く。「これらは、歴史・経済・技術・文化的潮流といった大きな構造の中に、小さな抜け穴や接点をつくり出そうとする試みです」、だがその「大きな構造」が既に、小さな抜け穴や接点を、無数に豊富に、入れ子構造のように備えていた場合、どうなるのか。そのことをまさに今回の大阪・関西万博は問うていると思う。

 

1970年大阪万博は不動のレガシーとして語られ、当初は今回の大阪・関西万博を比較し批判するために度々持ち出されていた。しかし思いのほか今回の大阪・関西万博が好評を博し、絶賛と熱狂を増すごとに、1970年大阪万博は過去の遺産として、それはそれ、今回は今回として、両者は冷静に切り離されていった感がある。だが、1970年大阪万博は、まだ終わっていない。遺された「万博の森」には100年後の未来が託されていることを考察し、リアルとAIによって、映像と音楽から未来像を立ち上げるのが、畑祥雄+江夏正晃+江夏由洋「奇跡の森 EXPO’70」シリーズだ。

 

本作については2024年10~11月に個展が催され、今回の展示はそのうち映像作品をクローズアップしている。

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1970年大阪万博の終了後、遺された跡地利用を巡って方針が一転、緑豊かな都市公園「万博の森」が作られた。しかしそれは人間が手入れし続ける必要がある人工的な森で、自立循環が可能な森に達するにはおよそ100年後になるという。作者らは、その「2070年」という遠い未来をAIを活用して描き出す。その裏には作者の膨大な取材、写真家としての撮影行為がある。

大阪・関西万博は2025年現在の延長線上から想定される近未来を提案するが、1970年大阪万博で結集された文化や知の力は、作者らの取組みを通じて、更にその先の超・未来を呼び起こすのだ。二つの万博が、長短の「未来」をスパイラル状に編み出してゆく。大阪・関西にはそうした大きなポテンシャルがあることを、忘れてはならない。

 

最後に、釜ヶ崎芸術大学存在自体が表現である。毎年恒例の出展、いや釜ヶ崎ココルームからの出張展という趣き。広いフロアを埋め尽くす段ボールと参加者らのお習字や色とりどりのペイントは、昔はカオスで情報過多と感じたものだが、見慣れてくると「大阪の顔」としてすっかり自然に思えてくる。習字、習字、習字・・・発せられた地声が鳴り響いている。同じ磁場が東京で作り出せるだろうか? ないんじゃないかな。剥き出しの生命力、人間力が、関西にはある。これらをアートと呼ぶのかどうかは分からないが、大阪を語る上では欠かせないだろうし、なにより、釜ヶ崎に住まう人々の多くは、かつて1970年大阪万博の建築、設営に、労働者・技術者として力を尽くしたはずだ。過去と現在、影と光とが、この会場で合わさるのだ。

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( ◜◡゜)っ はい。面白かったですね。

点数がそこまで多くなかったので、天保山船場エクセルビルを1日で回れたこと、船場エクセルビルの会期が延長されたことが、たいへん有難かったです。

特に船場エクセルビルの展示は、大阪・関西万博と合わせて鑑賞することで、過去と未来への接続、深掘りができるのでおすすめです。せっかくなので観た方が・・・いいすょ。。