2025.11/1-2026.2/15「プラカードのために」@国立国際美術館
作家:田部光子、牛島智子、谷澤紗和子、笹岡由梨子、飯山由貴、志賀理江子、金川晋吾(掲載順)

展示図録をはじめ、レビューサイトでの建付けは決まっている。展示タイトル「プラカードのために」の由来である田部光子の思想と人生を起点として、フェミニズム、家父長制その他権力への抵抗という本展示の主要テーマを打ち立て、各作家へ接続、その紹介とセレクトの必然性(必要性)に落とし込む。これが正しい展示概要だ。ここでいう正しさとは文字通り文芸や現代美術の言説としての正しさをいう。
ならその通りに観て書けばよいだけなのだが、イズムの答えを丸写しするのは生理的にイヤで、どうしても「家父長制反対」のスローガンをそのまま復唱することには抵抗がある。(自民党反対を叫ぶリベラルの声がどれも脳死にしかみえないような衆院選のSNS地獄が傍らにあったことも大きい)
どうしたものかと思案していたが、実際に鑑賞してきた際の実感や気付きを直視すると、やはりそれが最も正しいアプローチだと再認識した。なにより田部光子の言葉と人生が想像以上にパワフルで、展示の根源となっていたことに何の疑いようもなく、他の作家セレクトも実に正しかった。
この「正しい」とは、そのような始点と思想の軸から作家・作品を繋げたときにこそ、最も意味のネットワークが強まり、それぞれの真価が強く引き出せるということだ。それは作家・作品を主題へと紐付けるだけでなく、連続して力を励起していき、展示全体が必然性に満ちた力を帯びるようになる。
テーマがネットワーク化し作品の意味が強度を増す展示という点では、京都国立近代美術館で同時期に催されていた「セカイノコトワリ」展の課題を完全に克服したものといえる。
展示タイトル「プラカードのために」は「九州派」設立メンバーだった田部光子のテキスト「プラカードの為に」から引用されている。最も起点になる言葉のわりに、誌面における掲載欄も、展示会場での紹介も意外なまでに小さい。作家紹介パネルの下部に添付された、1961年9月発刊の会報誌『九州派』、その隅、全文わずか270字に満たない小さな囲みにその言葉はあった。
「大衆のエネルギーを受け止められるだけのプラカードを作って見ようか。」そしてただちに、「そして人工胎盤ができたら、始めて女性は、本質的に解放されるんだけれど。」と畳みかけてゆく。短い、しかし凝縮された、闘争のマニフェストともいえる言葉の力、読み返すにつれて血が沸き立つような興奮を覚える。

プラカードというといかにも学生運動、労働争議、組合運動という時代性を感じる。実際、1933年生まれの作者が歩んできた道は、闘争に満ちている。作家紹介文で、美術方面での活躍に続いて記述されるのが、これだ。
私生活では女学校卒業後に石炭会社に勤務したのち岩田屋百貨店に入社。岩田屋では組合に加入し労働争議を経験しています。1958年に結婚、62年と66年に出産。主婦であり母でもあり、絵画教室の指導者でもありました。1988年には「主婦定年退職宣言」をし、美術に邁進、旺盛な活動を続けました。
幼少期には台湾で戦争を、労働者として岩田屋闘争でロックアウトを経験し、出産や子育て、そして主婦としての経験を持ち、女性の美術家として活動した田部の作品には、生活と地続きの社会的問題へのまなざしが通底しています。また、社会の周縁に置かれてきた人々への共感と、家父長的・権威主義的構造への抵抗の意志が見出されます。
なんとなく今の我々とは前提が全く違うことを察する。闘うしかなかったのだと。女性が自分の人生を選ぶことが難しかった、妊娠・出産・育児をしながら社会的活動を両立させることが、芸術家として生きることが極めて難しかったことを察する。


「人工胎盤」という刺激的な、しかしどこか懐かしい響きのするワードも、そんな抑圧に満ちた世界への抵抗から生まれたアイデアだった。
<人工胎盤>は、無数の釘が打ち込まれ、内部に真空管が貫通する3体のマネキンの腹部から成る作品です。母性神話や幸福なイメージとともに語られがちな妊娠や出産について、田部は自身のつわりの経験や社会で直面する困難を踏まえ、その痛みを生々しく可視化しました。田部にとって「人工胎盤」は、妊娠・出産に伴う身体的苦痛からの解放とともに、社会における男女不平等からの解放への願いを託したものでした。
強烈である。強烈な痛みによって共感する。戦後昭和の力こそ正義みたいな社会において、まともな人間として扱われるためには、自身の何かをごっそり差し出さなければならない、文字通り女性を捨てる―しかしそんなことができるはずもない。果たされることのない願いとスローガンゆえに「人工胎盤」はSF・サブカルの設定やテック系の描く進歩的近未来とは一線を画したシリアス、悲哀、そして血の熱さがある。
戦後昭和の女性、ことに女性芸術家の置かれていた冗談にならない状況が、下記リンク上の寄稿文:井上絵美子「田部光子の今日性について」でより深掘りされている。男性は女性(の身体)を搾取すれば反骨的表現となりうる、だが女性が自身の身体を用いれば男性の領域を侵すものとして否定される。少なくとも菊畑茂久馬に失望した。大きな収穫だ。これぞ真の「家父長制」なのだと実感した。天然記念物級の直球だ。
◆国立国際美術館ニュース 259号
https://www.nmao.go.jp/wp-content/uploads/2025/10/news259.pdf
前置きが長くなったが、田部光子の言葉と人生を血の土壌として本展示は生い茂る樹々となって繁茂しており、鑑賞者(私)も妙にボルテージが上がっていて血液が沸いている。富裕層のテックでハイコンシャスなビジネス・概念遊びではない、どうしても乗り越えられない身体的差別の壁を超えるための飛躍的闘争のスローガンとして「人工胎盤」はあったのだ。低所得層の女性らを集めて子宮を貸し出させて妊娠出産を外注化してキラキラ活躍できますよ的な輝かしいベンチャープレゼンではない。人並み=男性と同等に扱われるための、およそ不可能を以ってして不可能を可能に換えるという超抵抗の産物、それが《人工胎盤》なのだった。そして本物の家父長制。女性は子供を産み、男性に酌をする存在。半端ではない。もう戦場だ。これが本物だ、血が沸いた。
それ以外にもコラージュ作品が非常にかっこよく、刺激的だが、ボリュームの都合上詳細は割愛する。マネキンの髪と黒人の写真、キスマークの乱打・・・全てが抵抗に満ちている。





この田部光子の痛みと檄が会場全体を貫く。入口から陽気に歌声を鳴り響かせる笹岡由梨子の装置、音声が漏れ出す飯山由貴と志賀理江子の映像コーナー、谷澤紗和子と牛島智子の動線と展示物が混在した大型作品による空間作り、それらの間を密やかに結ぶ金川晋吾の写真群は、いずれも田部光子の血からつながり脈動している。これまで大半の作家については別の展示機会を通じて出会っており、テーマ性も了解していたが、今回は真に迫って意味が濃くなった感がある。
7名の作家のうち全く知らなかった1人が牛島智子だ。田部光子と25歳差だが活動拠点が九州・福岡であるためか、DNAの近さを感じさせる。実際どこか表現の煮え滾るような力強さは共通している。



大型インスタレーション《ひとりデモタイ 箒*箒*ろうそく》が顕著だ。書き連ねられた言葉の筆致と圧はまさに檄文、「美」術というより運動そのものだ。一体何の? 箒=家事、家屋の上に座る女性、デモ(デモ隊)という連鎖はまさに田部光子に連なる、女性の置かれてきた立場、固定的に担わされてきた役割への指摘と抵抗がある。牛島智子もまた結婚、離婚、妊娠・出産・子育てを経ながらも画家としてキャリアを重ねてきたので、生活の場、家という場が象徴的な戦場として描かれているのかもしれない。


一方で、四角形を逸した絵画の型破りな形態には、既成の文法に挑む前衛めいた「美術」の格闘がある。作品《フェミニズム》はこれまで見たことも考えたこともないフェミニズム像を提示していて、言葉を失った。物理学の計算思考のように見える。菱形、ストライプ、斜線、円形、弧、輪郭などが様々な色で折り重なる、時空の展開図のような図形の連なりだ。よく見ると正三角形から順に正九角形までの7つの図形が組み合わさっている(うち三角形と四角形は九角形の一部として組み込まれている)。解説では多様性と連帯を読み取っていたがこれは一体何なのか、未だに謎だ。
谷澤紗和子も初めての作家。1982年生まれと田部光子から50年近く後の世代だが、制作においては田部より更に遡って、今から約百年前の作家・高村智恵子へとコンタクトする。作品は、高村智恵子への手紙という体裁をとった切り絵で、ひらがなの一文字一文字が切り抜かれて造形されているところに声が響いてくる。たがファンシーと言う勿れ、高村智恵子は高い表現力を持った作家だったが夫・高村光太郎とのペアとして、あるいは夫の視点から描かれ語られるばかりで、彼女には自立したキャリアと人物像が与えられていなかった。いわば本展示では源流の源流を指している。


また切り絵については、西洋中心の美術界では正統なジャンルとして評価されてこなかった歴史があるとともに、高村智恵子が精神を病んでいた時に、心の慰めとして手掛けていたというエピソードがある。谷澤は正統なものと見なされてこなかった表現の営みを通じて、同じく正当な芸術家として見なされてこなかったであろう高村千恵子に、一人の表現者として敬意をもって語りかける。
また、《ちいさいこえ》シリーズのように、見逃される抗議の声を小さいままに提示する作品もある。小さい陶紙( 陶芸用の窯で焼くと紙の形をとどめたまま、陶磁器になる陶芸材料)にごく短い言葉が刻まれ、「うばうな」「ころすな」と囁いてくる。美術館の空間では、この小ささが逆に目を引き付ける。


笹岡由梨子の作品はフェミニズムの要素、権力への抵抗があるのはあるが、思想や運動だけの産物とは到底言い難い複雑怪奇な要素が多分に沸き上がっていて、化学反応が継続中の高分子化合物となってそこにある。


《イカロスの花嫁》は笹岡作品の中では相当にフェミニズム寄りと思うがそれでも割り切れない剰余数が極めて大きい。西欧人男性の神話成就、一人前の男性になるためにと捧げられる日本人女性(第二次大戦中にあった、戦死者の霊に花嫁人形を嫁がせる風習に由来している)、その力関係を覆す「啓発せよ」=不平等な支配を自覚し覚醒せよ、の連呼。ここまでは分かりやすい、だが連呼を受けて死んでいたイカロスが再び天を舞うラストなどは単に社会改良、男性権力・西欧批判の話に収まっていない気がする。論旨を理解していないだけかもしれないが、それにしても綺麗に整数で割り切れないのが魅力だ。
《Working Animals》も、労働者として人間に使役されてきた動物らが「こんにちは 今日から君は僕のお父さんなんだ」と、その従属先のバトンを急に鑑賞者へ切り替えてくる。これを渡された鑑賞者にとって、「お父さん」は客体としての批判・打破すべき権力ではなく、新たな重たい責任主体として自覚させられるものとなる。
本展示にはないが《ポロニア》(2026.1/17-3/22「笹岡由梨子のパラダイス・ダンジョン」滋賀県立美術館にて出展中)が、まさに谷澤紗和子の作品とリンクする。「キュリー夫人」でお馴染みのマリア・スクウォドフスカ=キュリーの生を複合的に表現したインスタレーション作品だ。高村千恵子と同様に夫とのペア、夫ありきの存在としてノーベル物理学賞を受賞していて、自分の名が単独で世に出るには2度目となるノーベル化学賞受賞を待たねばならないが、彼女のポーランド人、妻・恋人・母親、研究者、といった様々な面を取り戻すことが試みられている。
これ以降に取り上げる3名の作家は、より一層、父権、家父長制、男性原理への異議申し立てや抵抗といった分かりやすいイシューを超えて、広範かつ複雑な社会、国家、あるいは一般人が備え持った価値観へのアプローチを行っていて、一言では語りきれない。
飯山由貴《In-Mates》が2022年の個展「あなたの本当の家を探しにいく」にて、東京都人権部による検閲を受け、上映禁止となり、作家側も抗議を行うなど色々と騒動があった作品であったことを、鑑賞後に解説を読んで知った。
東京都が在日コリアン、朝鮮人関連の作品の扱いについて、検閲・禁止し、騒ぎになっていたことは記憶にあったが、こうもすんなり当該映像作品を観られるとは予想だにしていなかったので、ノーチェックだった。鑑賞しても、なんでこれが禁止になったのか意味がわからない。どこに禁止ポイントがあったのか? 関東大震災で日本人がデマを流して朝鮮人を虐殺したというのが歴史的事実とは言えないとか、作中のセリフがヘイトを招く恐れがあるだとか。「あいちトリエンナーレ2019 表現の不自由展」の騒動の記憶が色濃くて活動家の紛争の火種を1ミリも都の施設に入れさせたくないのか、それとも小池都政のカラーとして強硬的に右派なのか、よく分からない。作中の在日コリアン人物のセリフ「俺は日本人だから朝鮮人を一人残らずぶっ殺してやる」「俺は朝鮮人だから殺してください」が懸念ポイントとして挙げられていたが、これは演技で、日本人と朝鮮人のどちらのルーツも内在しているが故に込み上げる、震災後の狂騒状態で溢れ出た衝動と葛藤の重ね合わせ、その中で反転して返されたマイノリティとしての生存の叫び、その二重性の表現、あくまで表現としての文法上の演技であるのは一目瞭然で疑いようがなかった。それすら読めない層からどんなヘイトを寄せられるのかを懸念するのはもはや安全装置を外してジェットコースター乗ろうとする狂人に備えろと言ってるぐらい難しい話なのだが、どうしたらいいんでしょうね、なお本会場では荒ぶってる人などはいなかった。
上記の騒動も全く知らなかったわけではなく、たぶん記憶のどこかには残ってて、更に国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」展での川崎重工への抗議、これははっきりと記憶していて、どうも自分の中で「作品はよく知らないけどややこしい人(活動家)」という印象が先行していたことに気付いた。
本展示の出展作はその印象を覆すものだった。まず《In-Mates》がなんら煽情的でもなく日本(人)に責任を詰め寄るものでもなく内省的で、在日コリアン内部の主格の二重性と揺れが主題だったので驚いた。
更に驚いたのが《あなたの本当の家を探しにいく》《海の観音さまに会いにいく》、2013~2014年の最初期の作品で、作者の妹をより深く理解するために対話やアクションを通じてその世界観へアプローチしていくものだった。これには衝撃を受けた。妹は統合失調症を患っていて、不穏になると「本当の家」を求めて電話をかけ、夜でも雨でも外に飛び出そうとする、作者はそれを「症状」として片付けず、共に外に出て会話しながら歩き続ける。


そして、観音さま。映像は、妹の幻覚・幻聴の中でも理想とするビジョンを、父母と共に着ぐるみを着てリアルに体現したものだ。映像を見たとき、ダボダボのムーミン?のような一家と、天使?妖精?に扮した妹が、小さな観音にお参りに行く。正直意味が分からなかった。だが妹から聴き取った言葉の、作者手書きメモを読んで、愕然とした。統合失調症による幻覚・幻聴と、衝動で突発的な行動のブラックボックス化した、いわゆる狂気や病態という言葉でしか記述されていない部分が、本人の中で一連の流れ、必然性を持った現象として現われていることが語られていた。ムーミンの世界の人物らが、呼んでいるのだと。それは、現実にはいないと分かっている、けれども呼んでいて、それは助けてくれる・自分が助けを求めていて、その呼び声があって、家を飛び出す。それは幻聴ではない、嫌なものではないと。そしてキャラ(飛行おにとモラン)が、明るさをくれれば、笑う姿をみせてくれたら、昔の自分を取り戻させてくれる・・・そんな非現実的な話はバカにされるだろうと思ったから主治医にも家族にも言えなかった、などといったストーリー、いや実体験としてのメカニズムが綴られている。全て繋がっていて意味のある話だった。
こうした精神疾患と有病者と医療の状況、歴史をリサーチし、発展させていく中で、戦前の精神医療と朝鮮人入院患者の存在に行き当たり、彼らが歌っていた朝鮮語の歌と、言葉を解さない日本人医療者が抱いた「自分たちを否定する言葉」という受け止め方の摩擦などをふまえ、《In-Mates》が作られていった。強い言葉は発せられてはいないが飯山作品の裏には国家の裏側というか、表に現れてこないが確かに「いる」人が主格として登場している。


国家の暴力性への抵抗を全力で声にしたのが、志賀理江子《風の吹くとき》、映像作品だ。予想外だった。飯山由貴がそのポジションだと思っていたら志賀理江子だったのだ。制作は2022-2025年と最近だがテーマは東日本大震災、そしてその復興事業のありように対する抗議だ。上下2画面の映像では、上部にイメージカット、下部にマイクを持って歩きながら現地レポートを続ける若い女性と他数名、いずれも志賀カラーとでも言おうか、極端に色温度を下げた青白く透明な、X線や紫外線など不可視光線によって浮かび上がらせた人物らとなっている。
撮影禁止のため手元に記録がない。幸いにも同名の作品が「さばかれえぬ私へ Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023 受賞記念展」(2023.3/18-6/18)で展開されており、作品の発表形態はかなり異なるようだが、展覧会ハンドアウトPDFに映像内でのレポートの全文が掲載されている。これは図録にも載っていなかったので超ありがたい。
www.tokyocontemporaryartaward.jp
真っ黒い闇を背景に、青白い光に照らされ歩きながらレポートし続ける彼女らは、死者を孕んだ「東北」の地(landでありraw body)の声が、人の姿を借りて現れたものだと感じた。彼女らをゴースト・レポーターと呼ぶべきか、悩ましい。また忘却するのかと怒られそうだ。復興事業は着実に行われた。物凄い速度と力で東北を、震災というものを埋め尽くすようになされた。それは圏外の人間には、やむを得ないこと・当然なされるべきことと映っていた、あるいは何も見えないところで進行していて、いつの間にか震災から15年が経過していた。
作者/ゴースト・レポーターは想像以上にダイレクトな言葉を打ち返す。
「惨事便乗型の大資本の誘致活動」(「惨事便乗型資本主義=ショック・ドクトリン」、ナオミ・クラインが提唱)という、これまでになく強く直接的な用語を発し、また被災で助かったもののその後の復興の過程で自死してしまった人物のエピソード、被災の死者数(15,900人)・行方不明者数もといまだ見つかっていない遺体の数(2,523人)を報じ、東北が歴史的に「中央政権による支配と搾取の構造」が続いてきたことを報じる。
遺体は食物連鎖に繋がり、体の意味を変え、今もどこかで生きている
今日の人間社会では、あまり成し得ない次元の死です
この過程こそ、カタルシスそのもの
けれど、その光景は秘密を暴いてしまいかねません
近代社会には都合が悪い内実です
本来ならば、私たちはイメージになるべきだから
「東北」は膨大な死を擁したまま、都市(首都)に従属した総エネルギー生産地、下請け工場であるための修繕、のみならず復興それ自体を市場とされ、経済のために根こそぎ駆動されているが、弔われることすら追い付かなかった「死」の量は、都市の近代的管理を超えたものを循環し、立ち現わすことになるぞ、そのことを、その力を、決して忘れるな、そんなメッセージを受けた。
それでもここは、とても見晴らしが良くて
海も、陸も、遠くの山も、地平線までも、よく見渡せます
波もよく見える
波を見ていると、今が、過去と未来にどう繋がっているのかよくわかる
それを繰り返し、ずっと見ていれば、私がどのように命を燃やしているのか
よくわかる
さっき見えなかったものが、今、見えるような気がする
「東北」が、それ自体として、主体となって、立ち上がるのだ。ゴーストと言ったが、死んでないのだから間違いだ。今まさに生きている存在感、オーラというのかファントムというのか、地理、物理的な土地を超えた、生と死の輪転する巨大な「東北」が人格を持ってそこに立っていることを突き付けられた。
最後に、写真家の金川晋吾。本展示で最も注目すべき作家・作品だと思っている。
《明るくていい部屋》《祈り/長崎》の2シリーズが、ともに写真とエッセイ的な文章のハンドアウトとセットで提示されている。写真だけではその複雑な、交錯した背景や大胆なようで丁寧に積み上げられた関係性は十分に読み取ることができないし、文章だけでも十分面白いけれども小説やエッセイではなく現在進行中の現実のドキュメントとして写真が不可欠、という構成の作品だ。


金川晋吾という人物は実にユニークで、知れば知るほど奇特というか貴重な存在に思えてくる。
理由は、一般人と表現者の狭間、すなわち、一般的な規範意識やモラルと、自由でリベラルな感性・生き方との狭間に立ちながら、その埋まらない溝に対し、その身と多数の言葉を尽くして、架橋しようとし続けているからだ。
簡単にいうと、保守・現状維持寄りな多数派・一般人と、対する左派・リベラルな文化人やアーティストとの間に生じがちな対立軸を、正義の主張や教育によってではなく、作家自身の戸惑いや問いかけや共感の丹念な模索をもって、答えのないところから自分なりの仮縫いで解を連ねていく。これは今最も求められている姿勢、作家活動ではないだろうか。
自分が《明るくていい部屋》を何か誤解していたことに気付く。ポリアモリーな暮らしというのは、社会改革のアートとして価値観の改良を志向し、その中心にセクシュアリティやジェンダーの問題を扱ってきた百瀬文がおり、そこに共鳴、伴走する形で金川晋吾が参加していたのだと。そういう簡単な枠組みではなかった。思想的枠組みがなく、枠組みを嵌めないことによって親密な関係が連なっていった結果、男2人+女1人の3人組が、そして男3人と女1人の4人組がともに生活するという形に至ったようだ。
性的関係を経つつも、性的関係を介在させず、「家族のような」親密な関係を作る。その過程で、恋愛関係、友人関係、家族、といった諸々の大きな関係性について、モノガミー(一対一での異性愛)の規範・正しさを前提にせず、それを交えず、ただ親愛さと対話を以ってして関係性を構築していった結果が、本作の表わすポリアモリーな関係なのであった。
金川晋吾はこうした状況が到来し、状況が移り変わっていくごとに、対話とともに内省し、意味を考え、言語化する。それは翻訳と言ってもよい。作者の中にある一般人サーバーからリベラルサーバーへのデータ変換プロセス、いちいちその作業を丁寧に行っていて、それを我々観客が見ているようだ。事後的かつ共時的に向き合うテキストはまさに写真(家)だと実感した。
そして写真は、何気ない日常のスナップぽい雰囲気をしているが、非常に注意深く撮られている。男女の役割の固定が生じることを避けている。しかし野放図に自由なのではなく、「男女」の身体・ファッション上の記号性は一部残されていて、髪型や髪の長さや身体のフォルムや服装といった様々なパーツの記号に対して、3人ないしは4人のメンバーは「男女」の中身をシャッフルする。モノガミー的価値観から期待・予想される「家族」「恋愛」関係を内側から突き崩すのだ。また、人物自体も等価というか、誰が誰とどういう関係かを固定させない。誰もが重ね合わせの状態にある。記号性を親密さ・親愛によって権力から奪取し、枠組みの中身を入れ替える。


記号性を用いながら、指し示す中身を固定させない、あるいは記号自体をブラす行為は、《祈り/長崎》の彫刻家・北村西望作「平和記念像」へのアプローチでも大いに活用されている。世界には正解や規範の結晶として「記号」が先行して存在していて、それに合わせて生き方や美意識が選ばれる、この力の構造を内側から崩すのが金川晋吾であろう。記号的実在論からの揺さぶりが見事だ。




テキストは我々「一般人」にとって通訳的であり、意味の架橋となり、しかし写真は想像以上にラディカルな動作を行っている。今の時代こそ面白い作家・作品であると分かった。
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作品についてもっと言うべきことがあるだろうと思うしもっと掘り下げてみたかったが、ひとまず以上とする。時間がなくて会期が終わってしまうんや。
時間が掛かったのは気持ちの問題もある。
冒頭で、正答へのためらいと拒否感を示したのは、自分でもこの数年来かなり悩ましさを抱えていたためだ。
今、「家父長制」、男性性の権力性・暴力性を指摘されても、困るというのが実感だ。そんな強くて叩き甲斐のある権力構造がどこにあるのか、個々人は既に全方位的にキツい責任を負わされている中で、誰がそこまで責任を取れると言うのか。だがリベラル側、アーティスト及びアーティストを支持する層の言説は受け容れる必要がある。本展示のテーマと、現状への実感とにどう折り合いを付けたら良いものかという悩ましさがあった。
しかし田部光子の人生と思想を源流に触れて、真の家父長制のヤバさを実例として掴んだ、そこで発火した問題意識や憤りや共感から各作家の個別テーマへ、スムーズに入ってゆくことができた。そして各作家は、現在系としての様々な話題と問題意識に分化・発展していて、必ずしも家父長制・男性性を非難し批判するものではなかった。むしろもっと多彩な領域での生き方や権力性について、慎重なリサーチと考察と試行がなされていた。
それは、刺激的な体験だった。刺激がなければ、思考はできない。現在形での刺激が必要だ。

( ◜◡゜)っ 完。