キュレーターに建築家の青木淳、キュラトリアル・アドバイザーは多摩美大の教授・家村珠代。SUNAKI/木内俊克、砂山太一がヴェネチアから建築を平行移動、映像作品は藤倉麻子、大村高広。




難解である。
これを初見で来館一発で正確に理解できた人は超人というほかない。
会場の「桜水館」は非常に小さな建物なのに、異様に難解である。こんなに苦労する展示もなかなかない。
<会場と展示の構成>
- 1F左:動画(出展者らによる展示コンセプト説明)
- 1F正面・階段下スペース:リングの平行移動の説明
- 1F右:斜め動線リングと日本館地面の平行移動インスタレーション、
現地の植木鉢、iPhoneの展示サンプル
(担当:SUNAKI/木内俊克、砂山太一) - 2F:動画(Human Video、Construction Video)
(担当:藤倉麻子、大村高広)
4部屋だけで、しかも建築展なので、なんとでもなると思ったが、建築自体は改修工事に着手して中をカラにされて足場を組んだりされた桜水館そのもので、何を観に来たのか入る前からもう分からなくなっている。
難解さの要因が複数あって、どれかが欠けるとけっこう致命的に解釈の材料が抜け落ちる。書き出してみようか。
<難解さの理由>
- ヴェネチア・ビエンナーレでの展示再現ではなくアレンジ(平行移動、再配置)
- 現地(オリジナル)展示が何なのか体系的説明がない
- そして本展示の全体像、各パートの相関関係などの体系も説明がない
- 空間は桜水館(改修工事着手Ver.)=何を観てるのか不明
- 最重要の「穴」がない
- 1Fの2室と2Fの映像との繋がりが不明
- 2Fの映像の説明がない
- 2F映像は2枚構成だが同時に見えず(かなり離れた対壁にそれぞれ投影)、確認だけで最低2周必要、関連を掴むのが物理的に困難
- AIとの関係性やAI生成の即興性がどこにどう絡んでるか不明(ヴェネチアではWeb上で展開)
- AIの重要性が小冊子テキストを読まないと分からない
- 1Fの動画(出展者による展示説明)と小冊子を通読すれば意味が分かるが現地でそこまでできない
散々である。ヴェネチア現地での作品展開と受容がどうだったのか逆に気になる。
どちらかというと、無思慮とか手抜きというより焼き直し再現展となることを避けすぎて意味不明になっている印象がある。項目上から4〜5点くらいは完全に帰国展ならではの計算で、日本(列島)からヴェネツィアの「日本館」を見ることの意味を逆転写する試みだった。のだがそもそもヴェネツィアも「日本館」も我々は知らないので、きつい。
2回観に行って、自分なりに理解できたつもりだったのだが、小冊子を改めて通読したらそれが展示の一要素、一場面を拡大解釈していたにすぎなかったと気付いて、愕然とした。気付いただけ収穫があったともいえるが。
建築と映像とAI導入によって試みられていた思考・構想は私の理解よりもっと大きなスケールをもっていた。ステートメントを改めて読んだら、コンセプトの全体像も書いてはいたが、展示の意味構造と直ちに結びつくものではなかった。
本展示の全体像を改めて描き出してみる。区別のためにヴェネチア・ビエンナーレ側での展示をBV、今回の京セラ美・桜水館の展示をKSと付す。

まず展示はBV・KSどちらも「日本館」という建築物についての対話を書き起こしている。BVでは常連の約30か国が自前のパビリオンを保有していて、毎回それを使って展示するらしく、「日本館」は日本固有の建物として1956年に建築家・吉阪隆正の設計でジャルディーニ(公園)に建てられたものだ。
日本館は大きく3つの要素から構成される。建物自体と、建物2階の床から下のピロティに向けて開けられた「穴」(1.7m四方の正方形の開口部)、建物・ピロティ・庭をぐるっと結ぶ「動線リング」(可視化されていないが設計上存在する楕円)、である。
対話の主題は、「日本館に関わる人間と非人間のすべてを巻き込みながら、『この穴、どうする?』ということをやっている」(大村)に尽きる。穴は1956年、つまり建てられた時点から開けられていたもので、ビエンナーレの度に展示の一部として活かされたり、逆に塞がれたりしてきたらしい。あえて戸惑いを生じさせているようにも見える。普通は建物2階の床に穴は開けない。あえてそこに「在る」ことが企図された、存在なのだ。
建築物の一部であると同時に、関わる者にとっては問いそのものである「穴」、本作はこの穴に主格を持たせ、なおかつ他の要素と対話させようというのだ。何を言っているか分からないだろうが、穴を巡る問いを、建築の機能性、日本館の特性、そして日本の歴史の特異性から主題化し、主格化している。
映像「Construction Video」は、建築の諸要素と人間とがそれぞれに序列のない平面に立った主格たちとして会話を繰り広げていく。
「今回の展示のすべての基盤になっているのは、日本館を構成する事物と人間の対話の脚本」(砂山)という通り、そこには割り当てられた演者と脚本が流れていた。
対話の主格=アクターは、人間5名(10代、30代、40代、70代、90代/実際の映像では名前が表示されていた)、「日本館」の主要構成要素である「4本の柱」、「壁」、「煉瓦テラス」、「階段庇」と「動線リング」、そして「イチイの木」、の計12名である。イチイの木は現地で日本館が建つ以前から土地を見守ってきた者として、また更に遠く神話的な歴史へ貫かれる存在であり、自然界の象徴でもある。
その映像は難解だが真理を突いている。会話に合わせて生成と展開を淡々と続けるデジタル・オブジェクトの世界。オブジェクトの側から見た「人間」達の世界。これについては後述する。

だが大前提、特に「日本館」なる建築物・空間のことが展示KSの鑑賞者には共有されていないので、観賞行為を積み上げる土台がないまま観て回ることになり、詰む。1Fの映像を丹念に観ていくと前提が補完されたのかもしれないが、まあまあ観たけどよくわからなかったし、2階に模型はあったけどあれがリアルな日本館なのか映像とリンクした仮想的なオブジェクト(キャラクター)なのか不明。そして最も重要なこととして、KS展示空間には「穴」がないから、このKS展示は何なのかが致命的に分からない。
AIも重要なテーマだがなかなかそうと気付かない、分からない。
今回BV展示の構想にあたっては、「生成AIのことを考えてみようと思ったと記憶している」(青木)と、近年のAIの急激な進化と普及、生活への浸透をふまえて、AIと人間との関係についての問題意識があった。そこに「中立点」というキーワード/概念が素晴らしい距離感と視座をもたらしている(ということがものすごく後になって分かった)。

本展示タイトル「中立点」は、日本の伝統的な「間」の概念に着目したもので、主客二分論をとらない立場である。人間と自然とAIとの関わりについて、それらのどこにも主体を置かず、それらの「間」自体を主体として浮かび上がらせる。具体的には、「人間とこの日本館を構成している様々な事物とが分け隔てなく、『日本館の未来』について話し合い考える、そんな未来を思い描いてみよう」(青木)というのが、本作の試みだ。
そんなことが可能なのか?
全てのものに主格を認め、主体性を回復させて語らせ、対話させるというコンセプトは、いかにも現代美術(現代写真)的な、多様性の尊重と確保といったよく聞くテーマ、スローガンに思えるが、映像作品「Construction Video」で実践された光景は確かにこれまでの常識にはない領域での主体の世界だった。人間と非人間とが対等に対話し、建築や国家や歴史や自然やらを知的にやりとりしていて、そこに優劣や中央はなく、モノの擬人化というより人間の方がむしろ平板にスクリプト化していた。
それらは情緒や目的を持ったコミュニケーションとはかけ離れている。話したいから話すとか気持ちを共有したいとか共感してほしいから話すといったコミュニケーションとは質の違う、スクリプト(=台本)そのものの対話であった。台本を喋っている。メタだ。その進行に応じて映像内ではデジタルのオブジェクトと擬似的3次元空間が音もなく重量も摩擦もなく次々にAmazon物流倉庫のロボット群のように動いていき、視点もまた自動操縦ドローンのようにスルスルと音も情緒もなく動いていく。
非人間の、自律的な世界。
このスクリプト的対話言語と自律的デジタル生態系には、AIの進展と実用化によって開かれた現在形の世界観が織り込まれていたのだ。映像内で12名のアクターによって交わされ続ける難解な言葉と、目まぐるしく展開してゆく無音の非人間的オブジェクト世界の謎解きに集中せざるを得ない、未来から降ってきた天啓を読み解くような興奮と謎に叩き込まれ、世界観の大前提に気付くことができなかった。情報量が多い。嬉しい、大歓迎だ、しかし意味不明だ。意味不明なのは歓迎だが、前提の積み上げがなされていないので、読解どころではない。
映像の幾何学的かつ艶を帯びたオブジェクト世界は、モノそのものというよりも、情報の影、世界の影という感触すらある。意味や物語や質量そして情感を持った表の世界に対して、何も持たない、しかし全ての可能性がある。アクターらが交わす会話と同時並行で生まれていくこの世界は、完全自律した演算が会話のやりとりを受けて自動的に照射・生成した世界なのではないかと感じる。
知性の影とでも言うのか。
オブジェクトの実在性を人間の存在込みで、なおかつオブジェクトの側に立ったとき(間とは言うものの)、そこで交わされる対話が輻射的に、自動的にイメージや構造を生み出してゆく。これはAIによる生成動画ともまた異なる次元で、我々が人間同士の会話の中でその密度や質や展開に世界観や知性を自然と見出すのと同じように、超越的オブジェクトの視座に射した知性のようなものが生成されている、それを見ているのだと実感した。




対話の話題は、掴みどころなく、しかしふんわりとした言葉の中に強く国家が現れる。「日本館」の建築としてのありようから、日本について西欧で語ること―西欧に対する日本の歴史の決定的な地点としての、植民地支配、太平洋戦争、そして原爆投下に触れて、西欧自体の歴史にも触れつつ、またふんわりと何を言っているのか概念的なやりとりになり、多様性への接続が仄めかされて、終わる。
会場で観ていて私が理解できたのは、「西欧から見たときの日本」あるいは「西欧と対するときの日本」の主体には「穴」がある、それは原爆投下によって歴史と主体性がゼロ/虚無へリセットされたことの象徴で、「日本館」の天井/床の「穴」はその象徴でもあるが、逆に穴を介して一方向にとどまらない複数(多次元?)の視座を拓くことから、多様性をもたらすのだと・・・
これも間違いではなかったが、非常に局所的読解に留まっていたことに気付いた。掴みどころなく意味不明な冒頭と終盤で交わされていたのは、まさに建築物の各部位同士によるオブジェクト世界の、人間不在・非人称の視座を展開していたのだった。それこそAIがもたらす地平である。生成AIはあくまで人間向けのサーバントだが、もっと演算装置として突き放した視座と関係性が試みられている。
対照的に映像「Human Video」は人間が中心の視座で、卓を囲んで5名の人物が食事をしながら、自分のパートが来ると言葉を発する。人間といっても全くドラマはなく感情もない。スクリプトに即した人間たちである。これも「中立点」=モノやAIと人間との「間」から見たときの世界ゆえだ。

そうして「穴」は自らを語る。日本という特殊な主体性と、建築における特異展であり、内と外、裏と表、人工と自然、こちらとあちら、無と有、私と非私・・・それらを二分せず、並べて繋ぐ場の可能性となってゆく。これを多様性として提示していたのがヴェネチア・ビエンナーレでの展示だったようだ。
概要を掴むだけで大変な時間が掛かってしまった。
これ以上時間をかけられないので、「斜め動線リング」については省略する。これも大変だ。


「日本館」現地で動線として想定されていた楕円リングを、桜水館で帰国展とするにあたって平行移動させて重ね合わせている。ただし平行とは地表面をスライドさせるのではなく地球という球体上で平行移動させるので、ヴェネチア日本館と桜水館の角度差84.7169518度分だけ傾いた=ほぼ垂直に立ったリングが、桜水館1F内に現れる。
一体何を表しているのか本当にわからないのだが、リング解説の冊子によると、遠く離れた地で再展示することの意味が強く問われる中で、「見えない構造だけは移動できるのではないか」との考えから、地球規模で移動させたという。
私たちが人工知能と対話するとき、触れているのはクラウド上に浮かぶ断片だが、その背後には遠い場所と時間に蓄積された厚みがある。直接はそこにないものを、創造力によって現在の場に呼び込む態度。建築もまた目の前の物質を扱いながら、重力や地球規模の時間を同時に施行する営みである。
そうなのは分かるが思考の詰め込みプレゼンに全く付いていけない。知的訓練の問題か建築の話法の独特のクセなのか、しかし分からないなりに面白かった。分からないという状況が面白いのかもしれない。


本稿を書いている最中に、展示の全体像を記した展示レポを見つけた(遅い)ので、参考に挙げておく。
どうやって一発で正答を把握できるのか分からないが、本来の取材と記事というのはこういうものをいうのだろう。しかしそれだけでは語れない無茶苦茶さがあり、総じて、意味不明だが、面白かった。

( ◜◡゜)っ 完。