nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】2025.12/20-2026.3/8「#WhereDoWeStand?―Art in Our Time セカイノコトワリ―私たちの時代の美術」@京都国立近代美術館

個々の作品について語りたいのを我慢して総論だけサッとまとめる。

コレクション的な展示ということについて。


1990年代以降から現在にかけての、いわば「失われた30年」に活躍した20名の国内作家のグループ展で、国立新美術館「時代のプリズム:日本で生まれた美術表現 1989-2010」展(2025年9月〜12月)と会期が近く、取り上げる時代やテーマ設定などの枠組みが非常に似ている。だが特徴的なのが、本展は会場である京都国立近代美術館のコレクションからの出品が多いことだ。

 

出展作家20名(50音順)のうち、下線を引いた10名が収蔵作品となる。単純計算で1/2、本展示はハーフ・コレクション展の様相を呈している。

青山悟、石原友明、AKI INOMATA小谷元彦、笠原恵実子、風間サチコ、西條茜、志村信裕、高嶺格、竹村京田中功起手塚愛子、原田裕、藤本由紀夫、古橋悌二、松井智惠、宮島達男、毛利悠子、森村泰昌やなぎみわ

(うち、原田裕規は出品3点中1点が収蔵品)

 

本展示には明確な章立てがない。入口から、「この展覧会は『一つの島から次の島へ渡る』ように構成されています。」とある。美術館の空間構造上、順路があり部屋の作りの違いがあるので、各部屋で区切って章立て的に、小さなクラスターでの視点を提示しているが、終盤、長く大きなフロアが連続するあたりで、区分けは蒸発する。田中功起の大型作品のあたり、それ以降がちょうど意味拡散のポイントになり、理解や共感や没入感の分かれ目になると思う。

私には厳しかった。作品が拡散し広いフロアに散らばって置かれているのを見て、それがそこにある必然性、結び付きを無意識で求めてしまうのだが、強い意味の繋がりは設けられていないので、何を観たのか曖昧なまま観終えた。

 

これが半コレクション展であると割り切ると、鑑賞後の曖昧さは是で良い。展示全体の論理あるいは物語としての一貫性、起承転結をパワフルに作り、作品間の結び付きや文脈から逆算して作家・作品を厳密に選び揃えたのではないのだろう。ある程度の時代区分だけを設定し、時代を語りうる収蔵作品を選び、あるいはそれらに呼応する作品を呼んでくる、その緩やかな群のうちから何を見出すか、想起するかは、作品と観客側の相互作用に任せてみる、そのような趣旨と構造であると解した。しかしそうした前提を知ってて観に行っても、そうはうまく観られなかったので、難しいものだなと思った。

 

各部屋に置かれていたガイドパネルが、セレクトの意図や見るポイントを示唆してくれている。厳密なものではなく、部屋も意味も緩やかに入り組んでいる。書き出すと以下のようになる。

1.入口前:毛利裕子、AKI INOMATA

2.1部屋目(日常に潜む脆さや壊れ):竹村京、藤本由紀夫、宮島達男

3.2部屋目(90年代デジタル通信):石原友明

4.2・3部屋目(現実と虚構、寓話):小谷元彦森村泰昌やなぎみわ、松井智惠

5.4部屋目(身体性、パフォーマンス):松井智惠、古橋悌二、西條茜、高嶺格

6.4・5部屋目(他者の経験への想像):青山悟、田中功起

7.5部屋目(グローバル、地球):風間サチコ、笠原恵美子

8.5部屋目(近代日本、グローバル):原田裕規、手塚愛子、志村信裕

 

体感的には1~5まではかなり明確にテーマ、メッセージが絞られていて、部屋の構造ともマッチしており、特に3→4→5でテンションの高い展開がなされ、80年代から90年代、90年代からゼロ年代への社会変容と日本現代美術の動向などを一気に想起させられ、至福だった。明確な問題意識を持たされると人間は快感を得るらしい。過去に様々な展示や記事で出会った作家・作品と立て続けに再会できたことの興奮も大きい。

 

逆に6~8の構成では一気に拡散がなされるが、空間構成だけでなくテーマ性も拡散していて、グローバル化、世界、と言われてもよく分からない。

リアリティがないのだ。たぶん作品自体にはそれぞれの問題意識から何らかのアプローチが為されているのだと思うが、展示としての明確なテーマ性や一貫した主張を避け、観客が自由に歩きながら様々なことを連想できるように…と設定した時点で、世界やグローバル化はリアリティを失う。

それを我々に分かるよう浮かび上がらせるには特殊な文体が必要になる。日本の中から出たことのない人間(=外世界が何かという認識を持たない)にとっては、外から侵略される、今まで守られてきたものが壊される、といった脅威や暴力性を警戒したり批判するよう語ることでしか機能しない概念なのだ。そのため、テーマの強度を持たせないようにした本展示においては、リアリティを持つことがない。図録の論考ではうまく作品・作家のエッセンスとグローバル化×植民地支配×日本の歴史を繋げ、一貫した流れを作って論じていたが、実体験としてはそうではなかった。単に展示褒めとけば良いのにとは思うがそうもできず。

展示最後に置かれた志村信裕《Nostalgia, Amnesiaは、他作品から切り離された一角で、約40分という尺を持つために、展示会場とは別の閉じた構造を持ってグローバル化の暴力性や破壊的さを物語ることができた。長すぎて掻い摘んでしか見ていないが、日・仏の羊毛産業について、「バスク地方の山岳地帯で伝統的な移牧をつづける羊飼い、南西仏の小さな村で羊毛を紡ぐ女性、日本初の牧羊場があった成田市三里塚で土地を守る有機農家が交互に登場する」。ここではグローバル資本主義による労働と物の価値激変が破壊的であることが示される。今や誰が手間のかかる労働に従事して製品を作るのか? 「羊の毛を撚る理由は私たちにあるのだろうか」、氷柱のような問いを残して幕を閉じる。

 

展示全編がこうであったら分かりやすく刺激的で(半強制的に)面白かったと思うが、それはいつもの現代美術展=説教というか、本展示はそういう構造を避けたので、拡散・散乱の中で観客個々人のマッチする世界を想起する、もしくは拡散や散乱に可能性を見出す姿勢が必要になる。そんな「場」をリードして創出していたのが、入口受付の毛利悠子《パレード》と終盤の田中功起の映像作品シリーズだった。本展示の象徴、鍵となる作品だった。

毛利悠子《パレード》は、相変わらず掴みどころがない。過去にも「横浜トリエンナーレ」や「日産アートアワード」などで観てきたが実に面白くて掴みどころがない。キネティックと評される通り、常にどこかが動いていて音を立てる。

1対1で作品と鑑賞者が向き合い作者の内面や技巧=特権性に思いを馳せるという旧来の鑑賞法は解体される、生態系や体内の器官系を捉える目線が必要だ。楽器と日用品?がゆるくコードで繋がれていてモノ自体が演奏者となったライブステージ上を見るようでもあり、各種器官とそれを繋ぐ神経系が提示されているようでもある、つまり心や意思あるいは権威を持たないものによる表現は可能かという問いだが、デュシャンを想起させられる一方で、モノが何でもBluetoothWi-Fiで接続し合う現在の情報通信環境と照らし合わせるとその意味はまた拡張されうるだろう。

 

田中功起の映像は大きく3点、過去作『PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015』出展作であった《一時的なスタディ:ワークショップ#1「1946~52年占領期と1970年人間と物質」》の再提示と、それから10年後の2025年、当時出演していた高校生らが社会人となって再登場した《10年間》、同じく2024年に制作された《tag game》 だ。

実質的には本展最大の核といえる。

作品としては3点なのだが舞台装置めいた映像の囲み、床に板を置いて観賞場が設けられ、壁も作品の一部なのでこの10年間の年表があり、映像にリンクしてクリスト風の布が掛けられていたり、壁の裏側もフロアに露出していて、不可算名詞的に「作品」のボリュームがあって個々に切り分けられない。また映像の音声がフロアの先の方まで響いてくる、空間が映像の延長上にあるかのように余韻に満ちているあたり、展示テーマと空間構成を固定しないという本展の趣旨に適ったものになっている。

映像の内容も多声的、群像のダイアログで、それぞれの映像は複数の語りの糸を撚り合わせて出来ている。過去作は旧・京都市美術館(=前回の展示場)に重なり合う歴史――戦後の米駐留軍によって接収され娯楽室としてバスケットボールのゴールが置かれたり、駐留部隊はその後沖縄の基地へ移ったり、また1970年の「第10回東京ビエンナーレ―人間と物質」展という日本の現代美術史において重要な展示が催され、かつてのバスケットボール場はクリストの布に覆われたり、戦争・米軍と芸術が重なる場であったことをふまえ、日本人高校生らに2日間で5つのワークショップを行った。そこには作者の戦争への危機意識があった。

 

この作品はVimeoで公開されている。長いのでWeb鑑賞できるのはありがたい。

vimeo.com

今作《10年間》では、前作から10年後の彼ら彼女らに戦争や在日米軍や震災やコロナ禍のことを問い、語らせている。

その場にいる人が皆参加者であり被鑑賞者であり、美術史的な価値や文脈を脱したところで自由闊達にテーマが拡散してゆく。今や、なぜこれが美術なのかという疑問を抱くことがないぐらい参加型・対話型・協働型・社会課題的・関係性、等といった、一般人を交えて社会課題に関する自由なコミュニケーションをとれるような場づくりの芸術が敷衍していて、疑問にも思わないのだが、確かに「コロナ禍での生活はどうだったか」「ウクライナは」「戦争は」といった直接的な話を他の誰かと行うことは、実は慎重に避けられている。揉めるからとか意味がないとか疲れるからとか話がそもそも合わないとか知識や主義主張のマウントが起きるとか多数の要因があり、それらを「対話」の場として作品化させ直接加わっていない鑑賞者すら内面では参加するような場にしているところが作品なのだということで、制度や政治の力から外れたところでそれらを個々人の言葉で関与する、まさに世界というよりは「セカイ」を展開している。

 

とりとめのない書き方になってきたがとりとめがないのでこうなる。が田中功起作品はとりとめのなさにこそ映えるというか、この作品を終盤に置いたからこそ多声的で脱軸した、緩やかに各自自由スピンするような展開が最適となったのだろう。それって本当の意味での「コレクション展」なのでは、と思って一人で腑に落ちたりした。

 

個人的には高嶺格《Baby Insa-dong》が再度観られたのは非常に感慨深いものがあったり、これは「六本木クロッシング2010」、私が現代アートというものに初めて本格的に被爆し大量摂取したときに出会った作品で、在日朝鮮人2世のパートナーとのプライベートな感情、出来事、イベント(結婚式)をがっつり作品にしていることに当時深いショックを受けたのだった。生きたまま自分を刺身にして提供するような生々しさが。こんな写真の使い方があるのかということにも。

笠原恵美子《OFFERING-Collection》シリーズは「世界85ヵ国にあるキリスト協会に設置された献金箱を、10年以上にわたって取材・撮影した写真作品と、それらに基づき自作したオブジェを含む」作品群だが、キリスト教の力そのものとしての「隠蔽されたイデオロギーや制度の片鱗であり、世界のすべてを把握することの不可能性」があるという。

確かにそうなのだが、言葉に納まりきらないものがある。その形状ごとに写真25点を1フレームとして分類され、本展では17枠がクレジットされているが、ナンバリングの最終は55番、つまり少なくとも55種類以上のパターンが存在する、一体これは何なのか? 献金箱、信仰、集金、植物のような多様性を見せるこれをどう捉えたらいいのか? キリスト教というものの捉え難い生態の問いを宿題として渡されたのが、心地よかった。



( ◜◡゜)っ 完。