nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/KG】2026.4/18-5/17_KYOTOGRAPHIE 2026「EDGE」

「KYOTOGRAPHIE 2026」開幕。おすすめを速報しましょうね。

結論としては、「森山大道を行け、京都市京セラ美術館に行け。」です。

今年のテーマは「EDGE」。

全14プログラム展示(⑥は2カ所展開)あり、常識的なボリュームなので、朝10時から高速で回れば18~19時には観終わると思われる。※なお「KG+」は狂気的な展示数なのでここでは考えないことにします。

 

踏み込んだ読解をするとべらぼうに時間がかかるので、まず粗々で「おすすめ」をやりましょうね。

 

(参考)昨年2025年のKG。面白かったですね。

www.hyperneko.com

 

KYOTOGRAPHIE 2026 MAPはこちら。以下、記事ではMAP番号に従います。

なお、iPhoneユーザーは、iOS用のKYOTOGRAPHIE・KG+アプリからMAP確認が可能。私のようなドコモやアハモな人は従来のWeb地図か紙地図で頑張ってください。

www.kyotographie.jp

展示エリアが散らばっているものの、バスと地下鉄で繋げられるので、意外とアクセスが良い。

御所の隣の⑦(有斐斎弘道館)と、⑬⑭(東本願寺、重信会館)が離れているが、いずれも中心部(インフォメーションや嶋臺ギャラリー等)からは、地下鉄烏丸線の1本の線上で移動できる。

むしろ⑧⑨⑩(京都市京セラ美術館)はバスで接続するしかないので、バスに不慣れだとしんどいかも。

 

こうして、展示内容とアクセス面から併せて総合的に考えたとき、絶対欠かせないマストな展示、優先順位は導き出せる。個人的な主観も交えると、以下の通りとなる。※私の個人的な好みバイアスをかけています。

 

【1位】⑧森山大道「A Retrospective」@京都市京セラ美術館
 (⑨アーネスト・コール「囚われの地」、⑩ピーター・ヒューゴ「光が降り注ぐところ」

「絶対に行かねばならない」展示。

本展示は「森山大道」という写真家のまとめに入っている。写真家としての「歴史」の編纂である。写真史上、欠かすことのできない存在であることが本格的に明示された、回顧展としての要素が極めて強い展示で、スタイリッシュにして、歴史的だ。

展示空間がそのまま年表であり、氏がこれまで発表してきた作品シリーズ・写真集をスタートから順に追っていく形態。これはKG 2024年に同会場で開催された川田喜久治「見えない地図」と似ているが、そちらが美的なギャラリーを複数連結させた構造だったのに対し、森山大道展示は空間の年表化、情報アーカイブ化、高密度化を図っていて、東京国立近代美術館「中平卓馬 火—氾濫」(2024.2-4月)を舞台化した感がある。

 

氏は存命中(87歳)である。にも関わらず、来たるべき時に備えているというか、戦後日本写真史における位置づけを確たるものにする準備が整った、そういう展示だ。

映画「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい 写真家 森山大道」(2021年)でもそういう感想を率直にもった。いつか近々来るであろう、来たるべき別れに備えているという感じだ。

 

それでいていつも通りの森山大道展、すなわち既に見慣れた懐かしいカットも、並びや選択の取り合わせによってまた新しく、予期せぬイメージを喚起するという、真に写真が写真へと立ち返るための構成も採られている。

全7ゾーン構成のうち、ゾーン4までは歴史・回顧の資料的な見せ方をし、最後の3ゾーンは写真ビジュアルを空間全体にオーバードライブ、下地の壁紙に写真群をプリントした上から額装した写真をオンして混合させ、写真と複製、複製の複製から成る都市の表層イメージの増幅加速、ぺらぺらな平面の表層だけが延々と重なり連続して作り上げるシュミラークル多面体、それだけがリアルの全てとなった現代都市空間という「いつもの」森山大道が体感できる。

各ゾーンの中央を貫通して置かれている写真集、雑誌などは、歴史的資料はケースに保管されているが、近年復刊したものなどは一般開放され自由に閲覧できる。生プリントもさることながら、印刷物としての写真こそ森山大道の本領発揮というところがあるので、代表的な刊行物を手に取って観られる環境というのは大変価値がある。

そして、同じ美術館2階の別フロアで、⑨アーネスト・コール(Ernest Cole)「囚われの地」と⑩ピーター・ヒューゴ(Peter Hugo)「光が降りそそぐところ」もまとめて回れるという、アクセス面でのメリットが非常に大きい。

両作家の作品を国内で、生で観られるレアな機会だ。⑨アーネスト・コールは日本国内での展示は初となる。⑩ピーター・ヒューゴもまとまった規模での過去の展示情報が見当たらない。今この機会に観ておかねばならないことは間違いない。

 

それにこの2者は、今回のKG「EDGE」で特集するもう一つの各論テーマ「South Africa in Focus」の主要展示でもある。プログラム①②と合わせて、南アフリカの歴史、ひいては中東以西の世界の姿について、何が起きてきたか、そこで写真はどんな力を発揮し、どんな役割を果たしたかを見ることができるだろう。

アーネスト・コールのモノクロ写真は、1960年代の南アフリカの黒人、アパルトヘイトの状況を生々しく伝える。1940年に南アフリカ首都プレトリア近郊に生まれ、1958年に雑誌『DRUM』誌にて南アフリカ初の黒人フリーランス写真家のひとりとなり、27歳でアパルトヘイトに意義を呈した初の写真集『House of Bondage』を発表する。写真の1枚1枚が、拭い去ることのできない強烈な歴史を宿している。社会との格闘そのものだ。

ピーター・ヒューゴは同じ南アフリカ(ヨハネスブルグ)出身ながら、1976年生まれ、生まれが30年も違うとここまでビジュアル表現は変わるのかと驚愕させられる。テーマはよりパーソナルな次元に入り、一見してそれらが何を伝えているかを言語化するのは難しい。言語化をすり抜けて、しかし、普遍的なモチーフ:人物や静物と風景と、普遍的な関係性:家族_父や子を、普遍的な軸:生と死と老いと光と影とで、克明に描き出す。強くコントラストのきいたサイズ、うねり複層する壁は、1枚を1枚のまま、複数枚の連なりを同時に生み出す。

ミトコンドリアの内部へ分け入ったような、曲線の壁に満ちた展示空間が非常に特徴だ。この構造によって、壁面に一枚ずつ写真を並べるという従来的な手法をとりつつも、前から奥へと一方向に直線的に進行する視座を解消し、同時に様々な時間空間が介入してくるという多次元が実装されている。アーネスト・コールの、主題別に図鑑的に区分された展示空間との区別が非常に際立っていて面白い。

 

だが、⑨⑩はそれぞれ単体で見ると小規模に感じ、千円ずつ支払うのは割に合わない気がする。(※展示それぞれに料金が発生するので注意。森山大道展は1500円なので3展示で合計3500円になる。) このボリューム感とコスパ感は、パスポートチケットで3展示まとめて回ることが前提になっていると思われる。

よって、⑨・⑩とも個別に順位評価するなら1位とはならないが、森山大道展とセットの展示と捉えて「1位」としました。

 

しかしですね。森山大道展は単独でも「不動の1位」だ。それだけの価値とボリュームがあり、また、こんなにシステマティックなまでの歴史資料性と、森山大道イズムである無限増殖するシュミラークルの藪とを孕んだ空間、まず肩まで浸かって長居すべきだろう。

 

 

【2位】④リンダー・スターリング「Linder:  Goddess of the Mind」@京都文化博物館・別館

私のセンスがベタで恐縮だが、巨大で美しくて圧倒的な存在には名状し難い力を認めざるを得ない。巨大な美は理性をフリーズさせる。 (余談だがちょうどこれを書いている4/18晩、「Coachella 2026」でAnymaのステージにLISA(Blackpink)が超巨大な機械天使のCGとともに現われ、非現実的な映像ショーはSNSでの動画シェアを通じて全世界に衝撃を走らせ、私もまた何かに感電させられた。コーチェラの巨大機械天使と、リンダー・スターリング展のスペクタクル性は、最新―古典との差異はあれど何か相通じるものがあった)

 

館内に入るや、木製の柵の向こうに立つ巨大な女性のモノクロ顔写真のパネルに、目が強烈に惹きつけられた。強く鋭く、眠りと覚醒の狭間を視通す眼差しに胸を切り裂かれる、コラージュの口元が現実感を微妙に狂わせてゆく。

中に入るとその女性のイメージは格子状に増殖しそれぞれが粒子となり運動を展開していく。5×9枚の「美女」のアイコンには多数の唇の形状が上から貼られていて、微妙な表情を見せる。期待される消費対象の定型を破る表情、ポップアートの文法・潮流に挿入されたフェミニズムの抵抗表現だ。

多数の豊かなコラージュ表現が、どれも見事である。上品だが風刺的。自身がモデルとなったポートレイトの美しさ、挑発的ポルノグラフィ × フェミニズムの挿し込み、バレエやオカルト等にも広く跨る領域横断的な感性。さぞ上流な家系の出であろうと思ったら、1954年・英国リバプールの労働者階級の出身で、1970年代パンクの波に乗って自身もポストパンクバンド「Ludus」を結成するなど予想を裏切られるキャリアだった。

16歳の時にジャーメン・グリア『去勢された女』に出会ったことでフェミニズムの思想に共鳴する。手当たり次第にフェミニズムの書籍を読んだという。が、作品は社会批判・社会改良の正義を訴える運動に留まってはいない。男女の役割(特に女性)を固定し反復するポルノグラフィや広告写真に、シュルレアリスム的な攪乱を蹴り込み、既成観念を、権威を揺さぶる、まさにパンクな「表現」の力を見せつけてくれる。

 

そう、思想や批判もさることながら、リンダーの魅力は、蹴りと揺さぶりの美にある。当事者性の訴え、被害者ポジションの主張とは一線を画する。権威の柱に蹴り込む自分の脚を入れて、そのままビジュアル化する、美の反抗者だ。家具や機器類と体の一部を合体され置換された人間/女性の身体には、無我のエロスさえ生じる。近年の「正しさ」を求める表現とは一線を画する、その意味でも必見だ。(田部光子のコラージュと毛色は違うがパワー近いか?)

 

【3位】③アントン・コービン「Presence」@嶋臺ギャラリー

このへんから順位が悩ましくなる。ピーター・ヒューゴの展示がこれと同規模だったらそちらに軍配を上げたか・・・ ともかく、知ってるようで体系的には知らなかったアントン・コービンの写真仕事を一望できたことの価値は大きい。

 

私には映画監督のイメージが強かった。ジョイ・ディヴィジョンのボーカル、イアン・カーティスの短くも鋭く瞬くような生を描いた「コントロール」。バンドも何も知らずに観て、謎の感銘を受けた。

tower.jp

「コントロール」のざらつきや迫力がそのまま圧縮されて1枚1枚の写真となっている。全て人物、ポートレイトだ。普通のポートレイトではない。音楽だ。地面と大気を奮わせて鳴り響く、ライヴの振動のように撮られている。被写体が80~ゼロ年代のミュージシャン、アーティストが多いのだからその印象は当然かもしれない。世界の名だたる著名なクリエイターが漆黒のモノクロームとなって、嶋臺ギャラリーの黒い影を落とす和の空間に集結する様は圧巻だ。部屋を進んでも進んでも偉大な才能が現われる。(彼ら彼女らの名を、顔を知らない自分に恥じ入る・・・) 

本展示では、音楽雑誌『New Musical Express』のフォトグラファーを1979年から5年間務めた際のポートレイトが全て展示されているという。展示目録がないので網羅するのは困難だが、物販コーナーで異様な存在感を放つ、灰色のひときわ太い写真集『Anton Corbijn: TOM WAiTS, MARleNe DUMAS, SAMANTHA MORTON ALive From My Studio』を買いさえすれば、全仕事が把握できる。3万円オーバー・・・。しかしそれだけの価値のある作家/作品だ。

shelf-bookshop.com

最後には、真っ暗な部屋に辿り着く。暗闇には墓地が並ぶ。1980年代にヨーロッパ各地で撮られたそれらはカトリックにおける死後の世界を濃厚に感じさせる。大理石の精巧な像は、聖なる存在のポートレイトとして見える。著名人も聖者も同じく内に宿す影もろとも存在感として引き出して撮る、ざらつき、ノイズ、染み、歪み、迫り・・・どこまでも音楽的だ。

 

【4位】⑫柴田早理「Dotok Days」@ASPHODEL、⑪福島あつし「灼熱の太陽の下で」@y gion

両会場は、京阪の祇園四条駅から三条駅へと続く「大和大路通」沿いにあり、アクセスの近さ、作家のキャリア、展示規模やテーマ性の近さなど、どの点をとっても2展示ペアで捉えるのがふさわしいように思う。それに両館とも閉館が19時と、KGの中で最も遅くまで営業しているのが大きな特徴だ。

 

両者とも大きくは「自然」と人間との関係性を扱っている。なおかつ二人とも、「KG+SELECT」出展からアワードを受賞し、KG本体プログラムへの出場を果たしている。柴田早理は2024年のKG+SELECTでルイナール・ジャパン・アワードを受賞し、今回の展示に至っている。福島あつしは「KG+SELECT Award 2019」に選ばれてKG 2020年での展示を行い、今回は2度目の展示となる。KGでのおかわり展示を果たした事例は珍しい。

 

◆KG+SELECT 2024/柴田早理「Anthropocene Plastics」

www.hyperneko.com

◆KG 2020/福島あつし「弁当 is Ready」

www.hyperneko.com

 

まず祇園四条駅・祇園商店街から近い「ASPHODEL」の⑫柴田早理「Dotok Days」だが、いつものルイナールのアーティスト・イン・レジデンス成果展とは趣きが異なる。

毎年、作家はフランスのランスにある世界最古のシャンパーニュメゾンで一定期間滞在し、現地で作品制作を行う。フランスの、あるいは人類の文化・歴史が、自然と深遠な関わりを持っていることを踏まえ、各作家の視点と手法から、ルイナールの文化と思想へのリスペクトという形で表現がなされる。

が、柴田早理は完全に異なるアプローチをとった。

ルイナールのランスの風土を、自身の生まれ故郷である富山県南砺(なんと)市へ転換したのだ。今回から現地滞在での制作はなくなったのだと勘違いするほどに、それは日本の地方に住む若者が仰ぎ見る青空の、青春風景だった。

作者は自分一人で、セルフポートレイトの手法を用い、ランスの地に富山の南砺市の風土と生を憑依・インストールさせたのだ。地形、雰囲気に共通点があったのかもしれないが、遠く離れた二つの土地を超接続し転換させたのは、白い和紙の切り抜きだ。作者が2つの現地で共通して感じ取った「自然」の気配が託され形になっている。紙は、神社の形代を思わせるが、小さな穴が三点開けられていて、ミニマルな目と口が漫画的キャラクター性を与えている。2つの意味でアニミズム的存在として出現し、日本の信仰とサブカルが、フランスの文化・歴史へ壮大にジャンプ&リンクする。遊戯的ながら、スピリット(魂、精霊)を繋ぐ行為だ。

 

毎回定型な回答になりがちなルイナール企画で、異質な作品だ。与えられたテーマと回答フォームが事実上ほぼ定型となっているのだから仕方ないのだが、しかし、柴田早理は一般的に考えうるセオリーではなく自身の方法論によって、自身のやるべきことをやった、この飛躍には強烈に感銘を受けた。作家性という点では見逃せない展示だと思う。

 

福島あつし「灼熱の太陽の下で」は、柴田早理とは逆に、外形上は全ての点でルイナールのアーティスト・イン・レジデンス企画と相似形であることが面白かった。ただしもっと肉体を蝕むような「濃さ」に溢れている。それを野性と呼ぶだろうか。

前作の、独居高齢者への弁当配達業が印象深い作者だが、実はかなり前に辞しており、長らく定職に就いていなかった。見かねた友人から誘われて、2018年から農業に従事していたという。(なお就農は2024までで、2022年からは沖縄から北海道まで徒歩での日本縦断を行いながら、現在、作品制作中。)

 

農業ではお客さんと化さぬよう、写真家としての撮影はしないと決めていたが、「KG+SELECT 2019」で評価されたことで次作を作る必要に迫られ、農業を撮るしかなくなり、2019年の夏から中判フィルムカメラを持ち込んだ。

よって本作はアーティスト・イン・レジデンスとは真逆の構造になっていて、作家が生活のために「農」の現場に長期滞在し、自然と対峙する中で副次的に写真が介入、人間と自然との関わりについて目にしたものとなっている。

また、本作は自然へのリスペクトや対話というより、食うか食われるかの格闘であり、写真家である以前に「農業」に従事する現場の労働者の身体だ。

それは渾然一体としか言いようのない世界だ。まず生と死の区別がない。商用に収穫された作物と商用に適さず放置されたもの、作物とそれ以外の何か名のあるものないもの、未熟なもの熟れすぎたもの腐ったもの乾いたもの、それらを食い繁殖する小動物の数々、繁殖する雑草、そこに身を投じ続ける人間・・・あらゆるものが「土」の上で、「土」の中で激しく混ざり合っている。死ですら無数の生の一部に過ぎず食われてゆく、人間もまた食う食われるのど真ん中にいる。一年で最も忙しく、過酷で、エネルギッシュな真夏の畑を撮り続けることで、自然の獰猛な力、農業の本当の姿が現われた。

この渾然一体を表わすべく、写真もまた無秩序なまでに上下左右に横溢する。全ては土のもとで等しく掻き混ぜられている。最後の部屋の大量のスナップ写真で、「写真」を農場の土にしている。

ルイナールのアーティスト・イン・レジデンス企画とは枠組みは似ているが中身が真逆なのだった。




 

【5位】タンディウェ・ムリウ「Camo」、⑤フェデリコ・エストル「Shine Heroes」@誉田屋源兵衛

同じ「誉田屋源兵衛」内で、手前の「竹院の間」にタンディウェ・ムリウ、奥の「黒蔵」にフェデリコ・エストルが展示を行う。同時に回れるのでワンセットと見なせる。普通にすごい展示なのでもっと順位を上げるべきだが、順列をつけるとどうしてもこう、おかしなことになる(今気づいて後悔してる)。

 

タンディウェ・ムリウ「Camo」は、昨年KG2025のレティシア・キイ「LOVE & JUSTICE」と性質や構造が似ている。アフリカ系、女性作家、ファッショナブルな作り込み、女性の存在と表象に対するカウンター、人物単体ポートレイト、画面全体のデザイン性の高さ、etc。

本作は写真1枚1枚の作り込みもさることながら、通常のポートレイト写真における意義と美学が「被写体個人をいかに美しく撮るか」「個の美をいかに引き出すか」に終始するところ、力学が逆転している。逆入れ子構造的に、人物から背景へ、写真のフレーム内から外へ、隣り合う写真へ、空間全体へと力が伝播しシンクロしていく。

逆流を起こすのは、被写体の女性らが各種デザインによって匿名化されている=ポートレイトの始点が正数ではなく引き込みのマイナス地点にあるためと考えられる。目には奇抜なグラス、独特な髪型、そして本作の主役であるテキスタイル。「ワックス・プリント」はアフリカの伝統的なろうけつ染めの一種で、本作では鮮やかな力を生んでいる。衣装と背景は合致し、立体性は失われ、写真内と暗い会場内とが総フラットネスで接続される。

匿名化、不可視化された女性像でありながら、強烈に個性的。絶対に無視できない存在感を持って、女性ら同士がテキスタイルと共に相互に一体となって、連帯状態を生んでいる。壁面や動線など空間デザインの巧みさがそれを実現している。KYOTOGRAPHIEは長年、アフリカ系の写真家を招き、京都/日本にアフリカ発の作品を紹介するだけでなく、京都/日本の文化・風土や地元との対話、コラボレーションを試みてきた。本作の色鮮やかでユニークなビジュアル表現が奇矯ではなく調和と洗練にあるのは見事だ。そこに両者の文化の深い接点がある――必見だ。

 

⑤フェデリコ・エストル「Shine Heroes」は、「KG+SELECT 2025」アワード受賞者で、今回KG本体プログラムでのお目見えとなった。

www.hyperneko.com

南米・ウルグアイ出身の作者が取り組むのが、靴磨き職人らが発刊し、自ら販売して収入を補うチャリティー新聞『ホルミゴン・マルマド(Hormigón Armado/鉄筋コンクリート)』とのコラボレーション。

ボリビアのラパスやエル・アルトで働く靴磨き職人との協働型写真プロジェクト「シャイン・ヒーローズ」である。60人の職人らとのワークショップを通じて、自身を街のヒーローとして再定義する物語となっている。

前回KG+SELECTでは、家族にも行先を隠して街へ繰り出し、現場でもスキーマスクで顔を隠して靴磨きに従事する職人らの姿を、仮面のヒーローとして写真で表していた。演出的なドキュメンタリーながら、現実サイドのストーリーだった。「正体を隠した姿」こそがリアルという反転した状況が痛快で面白かった。

今作では「シャイン・ヒーローズ」の創作サイドとして、物語の中見、制作工程を展開する。

会場1Fではフィクション性を前面に出し、より漫画的に展示空間で展開している。コマ割り、写真と壁面の間に貼り付く擬音

現実とフィクション、演出と出版物とが垣根を越えて前後なく展開されているが、大本にあるのはリアルな靴磨き職人らのグループによる物語演出だ。パフォーマンスを写真にして物語を編む中で、スーパーヒーローとの共通項の発見と紐づけ、そしてスーパーヴィランとの対峙、といった枠組みが生まれていった。敵が「警察と国家」というのが現地の治安や経済のダークさを物語っている。

2019年にエストルの写真は特別版コミック形式としてまとめられた。会場2Fでまさにそのプロジェクトが展開され、エストルの撮影した写真を元にコマを作り、台詞を入れ、リアルタッチ漫画の体裁をとっている。「KG+SELECT」時には、リアルか演出かの境目がまだ曖昧な、現実の労働者ドキュメンタリーの要素が強かったが、今回はその先にあるもの、エストルと60人の靴磨き職人らが展開させる物語プロジェクトの具体的な中身として、コンテンツ作成と経済的循環の仕組み作りを明かすという建付けになっている。

 

「倫理的で搾取のない循環型ビジュアルストーリーテリングのしくみ」。展示ダーツに書かれたフレーズはまさに現地での「シャイン・ヒーローズ」のスキームだが、写真の現代的な実行力ある役割をも指している。⑨アーネスト・コールの時代:真実を写して伝える役割から、経済の一部に組み込み、被写体へ還元をもたらすという役割へ、写真も写真家も新たな関わり方の可能性を見せていく。

これは「KG+Discovery Award 2025」で表彰された「SHIFT80」が注目された路線でもある。

www.hyperneko.com

 

【6位】イヴ・マルシャン&ロマ・メェッフェル「残されるもののかたち」@重信会館

まず会場が貴重だ。1930年に建てられたアールデコ意匠の古い建築物で、2001年3月末で役割を終えたままとなっている。「設立当初は真宗大谷派関係の財団の事務所として登録されたが、設立後まもなく大谷大学等の学生寮として運営された。また、教学研究書が使用していた時期もあり」との通り、2階・3階は寮の雰囲気をそのまま残している。当時の学生らの落書きやシールが生き生きと残る。ぶっちゃけ20~30年前の若者の生活の名残を見るだけで楽しい。

作品は世界各地の廃墟建築物だが、現代の滅び、近未来の滅びへと通貫している。それは「文明」の行く末を見せられている。

まず「映画館」を再利用した世界各地の建築。かつてのヨーロッパのオペラや劇場をモデルに1920年代から生まれた映像娯楽施設は、名残を大きく残したまま異業種へ転換された。次にアメリカ最大の廃墟と化していた2005-2010年のデトロイト。1950年代には人口200万人に達し、全米第4の都市となった自動車産業の中心地は、産業の自動化と分散化によってまるで絵のような廃墟となった。駅や高校の教室や教会、ダンスホールの内部が絵画のように高精度で撮られる。神話のようだ。

地下に下りて、軍艦島の昔と今を見る。また3階に上り直し、生成AIが現した残酷で美しき、廃墟化したパリの風景に至る。どの時点の未来でパリは廃墟化するのか?しかしどの分岐ルートを経てもいつかはこの光景に到達するのだという納得感がある。「アポカリプス」を感じる。写真は未来を撮れないが、写真に精巧に擬態したAI画像は未来を描くことができる。細部をよく見ればAI廃墟のパリはAIならではの不気味な描画が目立つ。それも含めて「未来」、脱現実的光景に立ち会う。

屋上では、京都の未来廃景が提示される。法観寺「八坂の塔」と東本願寺が緑に包まれ、双眼鏡の中で京都タワーも滅びに向かっている。文明・文化が滅びる光景が人を魅了するのはなぜか? 今の世界情勢と併せて見ると視野が開けるかもしれない。

 

【7位】レボハン・ハンイェ「記憶のリハーサル」@東本願寺 大玄関

昨年に続いて東本願寺では広間に立て掛けるインスタレーション型の展示だが、今回は展示室が2つ増えて4作品構成となり、ボリュームが少し増えた。このことはコスパ等満足感の面で大きい。※入場料千円は大阪人にとって非常に大きな問題意識を提起します。

ハンイェも1990年の南アフリカ生まれで、「SOUTH AFRICA IN FOCUS」企画枠の一人に数えられる。その意味では欠かせない展示ではある。

作品は個人や家族、地域の記憶や物語をめぐるものだ。写真を使っているが直接的な写真らしい写真は入口に貼りだされた組写真:家族写真の中の亡くなった母親に、作者=娘が自身の像を重ねる作品、ぐらいで、メイン作品は写真の物質化、あるいは写真ではない。(無論、私としてはこの母親―娘の同一化写真を入口脇ではなく主力として展示し、意義を掘り下げてほしいところではある)

 

広間の四隅に、衝立を物置に収納しているがごとく重ねて立てられた段ボール群がメイン作品の一つだ。白黒写真を拡大して切り抜いたものを木製の台で立たせ、舞台装置のように設えている。しかし比喩ではなく本当に片付けられた、展示前の状態に見えた。

解説では「ボール紙で作られた等身大のシルエット像によって構築された迷路は、タウンシップ(南アフリカの黒人居住区)の街路や家系図を彷彿とさせる。迷路のひとつひとつの出入口は枝分かれした家系図を現わし、来場者は光と影が織りなす道を進んでいく」とあり、どうも状況が異なる。ちょうど海外プレスツアー団体を部屋に入れて作家プレゼンを行っている最中に見たので、実際の展示状況ではなかったかもしれない。

次の部屋はライトボックス内に写真ジオラマを立てたもので、広間からスケールを大きく変え、等身大の空間インスタレーションから鑑賞者が写真の物語の中に入り込み、その中で入れ子構造的に南アフリカの灯台守の暮らしの各場面へと落とし込んだ構造となっている。写真を、写り込んだオブジェクトごとに切り抜いて空間上でコラージュ的に再配置するセンスは巧みである。ドキュメンタリーから詩になっている。

4作品目も大型作品で、家族写真のアーカイブに収録されていた人々の肖像をコットンツイルのパッチワークで再構築したものだ。写真の記録性から、手仕事と素材によって物質化し、別種の物語性を帯びるということだろうか。

つまり本作は、ある個人の家族の歴史、家庭内の関係性を普遍的なテーマへ昇華、あるいは接続させる時に動員される代表的な手法を見ることができる。一見、何をしているかが分かりづらかったが、要は「家族写真」に代表される私的な記憶や関係性(そもそも公表用に用意されたものではない)からいかに普遍的なテーマを抽出し、それをいかに公的に、しかも国を超えて対外的に伝えるかという戦略の賜物を見ている。その解法が揃いも揃って「写真を物質・空間へ転換させること」なのが、リアルな現実を見せられた感があったが・・・。

 

【8位】ジュリエット・アニエル「光の燻り」@有斐斎弘道館

事実上、優先度最下位となった。他作品と比べたとき、展示規模、作品内容、アクセス面、いずれをとっても「後回ししても良い」と判断したためだ。

 

空間は良い。和の落ち着きがある。他会場が大型インスタレーション仕込みになり、空間内に内壁を増設して建築物とは別のレイヤーで作品空間を構築するようになったため、久しぶりに「会場そのもの」を見た気がする。例年だと建仁寺両足院がこの位置にあったが、今年は役割交代といったところか。

有斐斎弘道館が使われるのは初めてではない。辿ったところ、2013年・初回KGでニコラ・ブーヴィエ(Nicolas Bouvier)、2015年・第3回KGでルーカス・フォーリア(Lucas Foglia)「A Natural Order ―自然に向かう人々」、に次ぐ3度目の展示となる。

展示は3シリーズ構成で、まずカラー写真の「石の感受性」「ダホメの精霊」シリーズが細長い和室の両サイドに並ぶ。ソルボンヌ大学の鉱物標本を丁寧に1点ずつ捉えた写真、ベナンのザンスー財団の研究用庭園にて古来から生きる植物を夜間撮影した写真。そして3点目の映像作品《悠久》は屋久島でスーパー8㎜フィルムで撮影された新作だ。

これらを通じてアニミズム思想、人智を超えた自然観を見るというわけだが、個人的には常日頃からなんというかこういう感じの視座をやっているので特に感じるものがなかった。見慣れているせいか、取材撮影に追われて余裕がなかったせいなのか。思うに鉱物でも植物でも写真の中へ入り込んで無限のディテールを追うか、雰囲気なら雰囲気で中に入るための入口が必要だ。あるいは徹底的に観察的であるか。それら両方をどちらもとるようなものであることが企図されていたかもしれない。が、難しかった。

 

 

【番外】ファトマ・ハッスーナ「The eye of Gaza」/「A4 ARTS FOUNDATION」@八竹庵

インフォメーションのある「八竹庵」内で、ファトマ・ハッスーナの展示、「A4 ARTS FOUNDATION」フォトブックライブラリー展示が展開されている。インフォメーション(ショップ、KG全体の関連書籍閲覧コーナー)と一体のものであり、独立した展示というより全体で一つのスポットなので、他の展示とは切り離して「番外」とした。

ファトマ・ハッスーナは既にいない、ということを知った上で見るべきだ。2025年4月16日午前1時、イスラエル軍による空爆で、家族6人と共に命を奪われた。展示されているスライドショーの写真は、2023年10月7日、ハマスによるイスラエル攻撃以降、イスラエルの報復反撃を受け続けるガザ地区の状況と思われる。真っ暗な部屋にミサイルの迫るような音がしている。

作品はスライドショーと、ビデオ通話のスマホ映像のみ。通話の相手は、彼女を題材とした映画を撮っていた監督、セピデ・ファルシ。ファトマ・ハッスーナという若き女性がまさにその時生きていたという事実を、過去でありながら今まさに生きているかに錯覚するほど生々しく感じさせる。痛い。痛みを感じた。

KGの他の展示作品とは全く異質で、審美、展示の巧拙や没入その他の「観賞」と別のところにある。世界で起きている事実に対して無関係ではなくなる場所が、写真によって出現した。KGがKG自身に、そして日常に穴を空けたと言って良い。それは写真の本質の一つでもある。歓迎すべきだ。

 

「A4 ARTS FOUNDATION」は「SOUTH AFRICA IN FOCUS」企画の一つで、南アフリカ関連のフォトブックが年代順にずらりと並んでいる。いずれも鑑賞可能である。取材で時間がなく何も観れずにいるが、ここだけで半日ぐらい過ごしたいスポットだ。

 

------------------------

簡単に、と言いながら、結局1週間以上掛かってしまった。

特にピーター・ヒューゴについては私自身がまだ語る言葉を持っていないことに気付いた(知っていたが)。ヴォルフガング・ティルマンスに代表されるような、サイズ、被写体、配列・配置がきわめて可変的で流動的な写真作品について、言葉をあてて語ることは困難だが、まさにそれこそ写真として語るにふさわしい。

 

個人的にはリンダー・スターリングにもっと深入りしたい。ファッションとパンクと反権力(フェミニズム)の組み合わせの力がエロスを生む。元がポルノ写真だからエロス前提の力なのだが、エロスを否定せずむしろ活かしていることが興味深い。

 

日本から遠く離れた国や地域で、こうした有無を言わさぬ高いレベルの美的表現によって自分たちの存在を訴え、上げていく活動が起きている。そこで写真が有力な表現ツールとなっている。日本で、東京から離れた場所でこうした動向を知る機会は、紙媒体では『IMA』、展示では「KYOTOGRAPHIE」ぐらいしかないのが実情だ。得難い出会いを得られる貴重な機会です。

 

また、テーマ性や課題別に抽出すべきかもしれない。

写真を物質化するタイプの作品・展示がいまいち響かなかった。現代アート寄りの場、特に、作品単体が単発的にごろごろ提示される場合は物質化にアドバンテージがあったかもしれない。が、今回のKGにおいては特に印象が薄かった。

これはKGが「写真展示」レイヤー(作品+額装+壁面)自体を物質化し、建築の構成要素として強力に押し上げるような独自進化を遂げてきたためと考える。この3〜4年くらい、建築に写真をはめ込むのではなく、展示壁面自体を建築内に増設していた。つまり写真・額装を建築空間へと拡張し、越境させてきた。その成果が今回最も明らかに出ていたのだ。これは写真(展示)にとって革命的な進化なのではないだろうか。

 

 

今年は何回行けるか・・・。

 

( ◜◡゜)っ 完。