「KYOTOGRAPHIE」サテライトイベント「KG+」枠の公募型コンペ「KG+SELECT」、選出された10組の展示。
2025.4/14、今年のアワード受賞者は、フェデリコ・エストル「SHINE HEROES」に決定した。
- 1.フェデリコ・エストル(Federico Estol)「SHINE HEROES」
- 2.リティ・セングプタ(Riti Senqupta)「Things I Can’t Say Out Loud」
- 3.西岡潔「際」
- 4.ヴィノッド・ヴェンカパリ(Vinod Venkapalli)「In abesentia」
- 5.何兆南(South HO Siu-Nam)「Work naming has yet to succeed」
- 6.南川恵利「今日も」
- 7.ソン・サンヒョン(SangHyun Song)「病院」
- 8.牟禮朱美「さなぎの中はだれも知らない」
- 9.時津剛「BEHIND THE BLUE」
- 10.奥田正治「Dig A Hole」
堀川御池ギャラリーで各作家に割り当てられた展示空間は広く、開放感がある。今回、10組とも展示形態はかなり統一されていて、向かって三方に広がる壁面に写真が掲示される。サイズや点数の差異はあるが、多くはフレームもなくフラットに貼り出されている。
共通してインスタレーションは抑え目で、壁面のプリントをしっかり見せる構成。フェデリコ・エストルはマネキン様の等身大写真、牟禮朱美は学校の机、時津剛はブルーシートのテントと、写真以外のものを床に設置していたが、どれも空間を変えてしまうものではなく、写真プリントの平面展示が主であることに変わりはない。
以下、作家10組について、オフィシャルで振られた番号順に紹介する。
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1.フェデリコ・エストル(Federico Estol)「SHINE HEROES」
素顔を見せない匿名集団、顔をマスクで、目を反射板で隠し、陽の光が跳ね返って目元は強い輝きを帯びている。鏡と反射光は写真に写ることを拒む、写真を拒むという態度が写っている。正義のヒーローなのか?それとも違法行為を働くグラフィティアーティストなのか?
彼ら彼女らは、ボリビアの首都ラパスやエル・アルトの靴磨き人である。
靴磨き=shoe shine。shine heroes=輝くヒーローたち。
なぜ顔を隠しているのか。素性を誰にも隠して靴磨き業で収入を得ているためであり、家族にすら仕事を偽っているという。また、匿名性によって排除に抗するため・団結するためであるとも。なぜ家族に素性を隠してまで靴磨き業に勤しむのか? ユニセフのホームページでは、ボリビアに関する「子ども・青少年の保護」の項目で「最も深刻な社会問題の一つが児童労働です。現在、ボリビアでは、家計を助けるために約50万人の子どもが路上の靴磨きや露店などで働いてたり、農場や鉱山などでの労働を強いられています」とある。要は、貧困、食い扶持のために働かねばならない。そして職業差別。
作者は3年間にわたり、靴磨き職人の新聞の関係者60人(かれらも職人)とコラボし、彼らは社会的汚名に抗議するフォトエッセイの制作者となり、同時に主人公ともなり、写真集やポストカード、ラップミュージックCD、フィギュア販売によって靴磨き仕事以上の収入を得ているという。紙メディア上での創作と、現実の職人のフィクション性(仮面)とが交錯する。展示でイラストが掲示されていたのはそのためか。
本作で「靴磨き人」は、経済的事情からその素性を覗き込むことを避けるインフォーマルな存在であると同時に、一方的・収奪的に見られることを拒む、強き意志を持ったヒーローである。フィクション(フェイク)交じりの、現実の職業・・・こうした重ね合わせを宿しながら、彼らは光=視線を一身に浴びつつ、照り返す、創造的矛盾をはらんだ存在として描かれている。
2.リティ・セングプタ(Riti Senqupta)「Things I Can’t Say Out Loud」
象徴性が高い作品が一列に並ぶ。正方形であることも象徴性を強めている。直接に事態・状況を記録・伝達するのではなく、演出・演技によって言語化されている。だがダイレクトにではなく魔術のように隠喩が強く効いている。
取り沙汰されているのは、家父長制の下で強いられてきた女性の役割、その再認識や確認である。またか・・・と思うかもしれないが、高度なビジュアル化と、それが厳然として「ある」ことを実感した作者のエピソードによって、現実的かつ今日的な対応が図られている。
まずビジュアルは冒頭のように暗喩かつ魔術的な演出が効いているため、具体的な告発、敵対・抗議の色を帯びていない。そのためX(Twitter)で日々飛び交うような男女論のごとき野蛮な交戦状態とは一線を画した物言いとなっている。
最も説得力、いや必然性があるのは、作者の実家がインドのコルカタで、母親がその歴史的因習の内にあると発見したことだ。パンデミックによって8年ぶりに帰国した作者は、母親と暮らす中で、家父長制が日常の細かな仕草や役割に行き届いていることを発見した。おそらくそれまで西欧で進歩的な環境に居たとすれば、あまりの落差に、色々なものを再発見できたことだろう。理由もなく継承される理不尽(時に支配、暴力)は、確実にあるものだ。
本来、そうした指摘と批判のためには、家父長制がなぜ必要だったか・温存されているかもセットで検証される必要はあるだろうが、インドにおける女性の地位は驚くほど低く、暴力的に脅かされ、暴力に脅かされる事例もしばしば聞く。相対主義的立場から見物を決め込んでいるわけにはいかない。スタイリッシュな絵作りの中にシリアスが込められている、そのシリアスの深度を見なければならない。
3.西岡潔「際」
個人的には一番響いた作品。現代の情報、映像、イメージとそれらの認識に絡む状況や課題を孕んでいる。つまり現在的な視覚と認識のワークとなっている。なぜ課題かというとズレがあるためだ。古典的映像やイメージと現在形映像・イメージ、古典的認識・価値観と現在形の知覚。これらが急速にズレていく。端的に、何が「写真」かを定義できない。何が「真実」かを判定できない。本作はそうした状況を包含する。
リアルとフィクションは光と闇、白と黒のように二分法で語られるが実際にはもはやグラデーション化、あるいはモザイク様に入り混じっていて比率や濃度の問題かもしれない。もっといえば「ルビンの壺」のように見え方の問題にまで冷酷に切り渡されて、受け手の自己判断、自己責任に帰されてしまうのかもしれない。AIのフェイク画像と「写真」の区別は本当にあるのだろうか? その個人の顔は?
本作では二分法の問題から更に進んで、積極的にAI生成・描画を主たるイメージとして扱い、「写真」との区分や判別を善悪の問題としていない。展示においてそれらは新たな「現実」として招かれているようにも見える。紫色の光を帯びて3Dデジタル的に浮かび上がる肖像たちは誰の顔なのか、いや、こうして作られた以上は彼ら彼女らは既に、少なくともデータ界では「いる」存在として扱われるべきではないのか。
更に、絵画である。写真とAI生成画像と絵画のトライアングルは、かつて絵画から分離独立宣言を果たしたはずの「写真」を「画像」へと更新(還元)し、再び「絵画」へ再帰させる。しかもそれは絵画を逆に写真的描画へと取り込んで包含し、塗り替えてしまう。
絵画と写真の決定的区別はなくなり、もはやこれらの記録や創作において「誰が」手を動かしたかの証拠を示すほかはなくなる。それは非現実的にも思える。新たな現実がやってくる。
4.ヴィノッド・ヴェンカパリ(Vinod Venkapalli)「In abesentia」
どう捉えれば良いのかを最も悩まされた作品。発している言葉(ビジュアル)の圧から受ける印象、揺さぶりは作者の狙い通りに効いていると思うが、そこから解釈を起こそうとするときに作者の意図から道を大きく外れていく恐れがある。
相当なビジュアルインパクト、圧があり、負のイメージが高い彩度とコントラストで肉感的に迫ってくる。血に塗れた魚、とぐろを巻く蛇、吊るされた骸骨、動物の手の骨、角を齧る犬、蝙蝠の死骸? 火傷で抉れた手の甲? 白目(盲目?)の男性・・・不穏で不吉な、暴力の渦の中に投げ込まれる。呪物の宝庫だ。
ステートメントで具体的に何を撮ったとは触れておらず、「神々がこの地を見捨てたことで、悪意と憎悪は隅々まで満ちている」「動物たちは拷問され、生け贄に捧げられる」などと壮大で重いことが書かれていて、ここで推察が分岐する。作者が意図した通り、「神に見放された世界」というフィクションへそのまま素直に入れると、おどろおどろしい魔界を探訪し、日本人写真にありがちな「何気ないエモくて透明でヴィヴィッドな日常」ミネラルウォーター化した清少納言とは真逆の世界線を味わうことができよう。
だが何らかの現実を明るみに出すもの、悲惨で覆しようのない下層を暴いたドキュメンタリーではないかと読み始めると話がおかしくなる。作者の拠点であるインドのムンバイに伝わる民間呪術、魔術の秘匿的ドキュメンタリーで、そこに最下層民や被差別民の歴史的・宗教的犠牲が敷設されているということなのか??と。だが作者の解説で「離婚を経験した後、作品を作り始めた」「このナラティブ自体はフィクションだが、イメージとしては神様がいなくなった世界」と概要を聞いて、まさに呪術的フィクションと正面から受け取ってよいことが分かった。だいぶ違うやんね。
だが一周回ってきて、フィクション、イメージ=現実ではない、と言いながらも、このような呪物の吹き溜まりとしか言いようのないものが溢れてくるのは、やはり社会構造、信仰、人間の居場所や扱われ方がそうだからで、死や呪いや不衛生の渦の中で生きている層が普通にいることの率直な反映なのではないか、そう思えてならなかった。
5.何兆南(South HO Siu-Nam)「Work naming has yet to succeed」
都市部の何もない壁を撮っていて、空虚さがある。上から塗られた跡がある。日本基準だと、グラフィティやタグで汚染された壁を除去して手当てした、となるが、この舞台は香港である。
2019-2020年をピークとする民主化デモによって、香港は大通りも空港も怒れる香港人の波に占拠され、力強い抗議の痕が都市に刻まれた。焦点であった逃亡犯条例改正案は撤回された。が、2020年6月30日に「香港国家安全維持法」が施行され、中国当局の意にそぐわない・脅威になりうる動きや人物を監視・拘束できるようになってから、本格的に実力行使で抑え込み、民主化運動は一気に鎮圧された。蘋果日報も周庭も失った香港は、静かに日々を刻んでいる。
平和に見える香港、民主化運動の歴史すら忘れてしまいそうになる。痕跡は消えてゆく。だが消えきれず、残っている。自由が奪われる様を、言論を奪われた後を見るのは、祖国を奪われるような気持ちになる。だがまだ皆の中には生きているだろうか。都市には拭いきれない記憶が残されている。それを忘れてしまうのは人間の側だ。写真、映像が、記憶を継承するだろう。権力に抗って。
6.南川恵利「今日も」
「1日」の中身が何をして暮らしているのか観測してみると、想像以上に(予想通り?)同じことの繰り返しなのだと気付かされる。特に子育て期に家庭に入ると、平日と土日祝日の区別もなく、ただただ育児と生活を回すことに全てが費やされる。そんなループする「1日」24時間の記録と再構成のタイムラインである。
カメラは装置として据え置かれているので、作者はファインダーの向こう側に置かれ、「家庭」の生活者、風景の一部として記録される。
「わたしがわたしでなくなっていくような錯覚」「愛する家族のおかげで得る心の平穏と安定した生活」「相反して増す退屈感と焦燥感」と端的に要点が語られている。育児・家庭における生活サイクルと役割の固定化という問題は、性差の話は抜きにしてもNo.2.リティ・セングプタ「Things I Can't Say Out Loud」とリンクする部分もあるだろう。
だが機械の眼から突き放して撮られた写真には、そうした作者の身上、心情は乗らない。淡々と、知らない家庭の生活光景が続く。それは鑑賞者にとって未知の、密室の内側を記録したものとして映る(未婚、子なしであれば猶更)。写真単体で見れば。
タイムライン化させたのは一日の閉塞とループを表すために他ならない。ここでは玄関のドアが重要な装置となっていて、外部との接点であり、閉じられたループの外縁であることを示している。他のシーンと玄関ドアの場面とは異質で、育児と家庭の所在について考えさせられる。ただ残念ながら展示形態として、長いロールペーパー状に吊るされているのが、縦も横も追いづらく、観るのに難儀した。
7.ソン・サンヒョン(SangHyun Song)「病院」
1945年に福岡刑務所で命を落とした27歳の朝鮮人青年・尹東柱(ユン・ドンジュ)。彼の日本・京都における足跡を辿る。韓国では国民的詩人として知られているという。
1917年に中国吉林省明東に生まれ、1935年・中学三年時に平壌に移り、翌年故郷に戻る。1938年からソウルに移り延禧専門学校(現在の延世大学校)に入学、そして1942年に渡日し、立教大学文学部に入学、半年後に同志社大学文学部に転入した。この間、彼はずっと詩を書いている。
同志社大学入学から僅か9か月で特高に逮捕され、治安維持法で懲役2年の判決を受け、約1年後に独房で絶命。死去から3年後に唯一の詩集『空と風と星と詩』が出版されたことで、祖国・韓国で記憶される存在となった。
同志社大学、京都造形大学高原学舎(下宿先)にそれぞれ「尹東柱詩碑」が現存している。
「病院」というタイトルは尹東柱が構想していた詩集の題名で、「詩を通じて人々が癒され、平和が訪れることを願った」という。詩が数点展示されていたが、優しい、穏やかな詩である。力強く前へ向かう意志のようなものは感じられるが、反日・抗日の気配は感じられない。これでなぜ逮捕され懲役を喰らうのか理解できない。
掲示されていた「民団新聞」に論じられているように、「戦前の日本の国体思想のもとでは、自覚的に思想を持つこと自体が悪とされた。」「尹東柱のような豊かな知識と思想を持った留学生は官憲側からすれば、。非常に恐怖を感じる存在であったに違いない。」から、見せしめとして処刑されたという見立てが正しいのだろう。
戦前の頃のことを言っても…という気持ちにもなるかもしれないが、国は違えど実際に同じことをこの2020年代に実行してみせたのが中国による香港支配で、No.5.何兆南「Work naming has yet to succeed」が表す状況である。二つの作品を繋げるとき、歴史は必ず繰り返されると気付かされるだろう。そしていざという時、誰が狙われるかは、それこそ権力によって恣意的に決まるのだ、ということも。
8.牟禮朱美「さなぎの中はだれも知らない」
学校の教室仕立てで、10代の女子学生らがスクール制服の姿で写されている。「思春期」と「制服」がキーワードで、何者かになる途上=思春期の彼女らは制服と学校という二重の繭に守られた/閉ざされた蛹のような存在である。
「撮影中彼女らは制服を着て周囲に溶け込み、戸惑いながらわたしとある一定の距離を保ち続けた」とあるように、写真は静的で、ほぼ無音である。TikTokで雑に声を上げて奇妙な声と動きを繰り返す、元気いっぱいな動物的ともいえる様相とは別次元でかけ離れている。内面はあるのかないのか。それはどんな顔をしているのか。制服の内側をレンズから覗くことはできない。小学生とは圧倒的に別の存在で、大学生とも全く違う。違うのだけれどその正体を掴めない、覗き見ることはできない。その不可視性をそのまま作品化している。
一方で、思春期の・制服の・10代女子、という属性は、そのまま消費の対象となる。一つは買い手、トレンドの主体として市場に取り込まれること。もう一つはアイコンとして、性的に消費されること。蛹は彼女らの内面を守り、一方で、強固で画一的であるがゆえに、内面や個性を度外視してアイコンーーアイドル未満の異性存在として扱うことを可能にする。終盤で掲示される顔モザイクの写真やAI生成画像規制に関する新聞記事は、そうした状況も示している。
9.時津剛「BEHIND THE BLUE」
フロア中央にブルーシートの三角形が建ち、壁を埋める大伸ばしの写真には、人類滅亡後のディストピア郊外のように緑が支配する光景が広がる。サバイバルがテーマなのか? 多摩川河川敷でブルーシートを住居とする路上生活者(路上?野外と言うべきか)がテーマなのだ。ある意味でサバイバルで正解だ。
behind=背後、ブルーシートと草だらけの河川敷の背後に、都市が拡がる。経済格差による分断と見るのは容易い。ジェントリフィケーションは「都市」の徹底的な市場化・企業経営化によって生み出された統治法で、優良顧客のマーケティングと囲い込みによってそれ以外を「お客様が迷惑しますので」と排除する論法を正当化した(しかも「お客様」は排除主体たる警備員にとって、ビルオーナーと一般来客者の二重の意味があり、正当化は強化されている)。
それはそれで正しい。都市に自由がなくなったので、自由に生きられる場所を求めて最適化した結果が、広大な河川敷でのブルーシート住居とも言える。いずれ都市がタワマン投資季節の終了によって空洞化し、管理放棄されればまたそちらが寝床となるだろう。ブルーシートは都市空間における個人の私的自由・私的利用の展開を意味している。
本作がより的確で面白いのは、ホームレスだけでなく住所のある家族らも行楽的・余暇的にシートを拡げている点だ。経済的対立というよりそれは、ジェントリフィケーションによって疎外と貧しさに蝕まれてゆく「都市」から脱した庶民・市民らが、ホームレスの人たちと本質的には同じ地平にいることを示しているのではないか。それはホームレスのみが都市から弾かれている状況よりも、冷えきった将来を暗示する。
10.奥田正治「Dig A Hole」
東日本大震災から11年経過した海岸線の風景を見て、本作は生まれた。復興工事は進み、瓦礫の撤去、道路の確保、土の入れ替え・嵩上げ、超防潮堤の建造、住宅エリアの確保・・・と進み、全ての基盤となる土地の整地ができたのだろう。
本作「穴を掘る」は、津波で荒らされた土地を整え直し、ようやく人が戻ってきてそれぞれの活動が始まったことを意味するのではないか。同時に、震災~復興工事によって塗り変えられ、消されてしまった過去の時間について、より古層の、本来の営みや歴史を掘り返していく行為でもある。
畑に手を入れる人達。メモ「殺風景だから 戻らない友人の家の庭に植樹する人」。地下に通される丸い道。地上で続く重機と人力での工事。植樹された土地。積み上げられる瓦礫。メモ「700年代のはじめに建てられた建物が初めて見た時のまま地中に保存されていた」。平らで広大な人工的な風景と、その中に人々の営為、動きが映り込む。
散文詩のように復興が展開される。
被災時から見れば圧倒的に進んでいる。しかしあまりに広大すぎて終わりも目的地も見えない。それも震災以前の歴史からすれば一点の瞬間でしかない。だがそれまでの歴史や営みを全てキャンセルするがごとく、凄まじい規模での工事はまだ続いていく。
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もういっぺんぐらい観に行きたい気がしてきたな。いいものは何度見てもいいですからね。※無料です ああっいきたいな。
( ◜◡゜)っ 完。