nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【映画】R2.5/28_羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ)@第七藝術劇場

「黒猫かわいいけど、やっぱ日本のアニメと絵柄が違うなあ」「どんなアニメなんやろう」、ということで気になっていた、2019年中国での制作アニメ『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ)』を観に行ってきました。

 

ドラゴンボールZ的な師弟の絆を筏で育み、現代の中国の大都市を舞台にNARUTO的な戦闘おっぱじめ、AKIRA的な球体が発生!どうなる都市!どうなる主人公!

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2020.5/21(木)を以って大阪府京都府兵庫県の緊急事態宣言が解除され、それを受けて第七藝術劇場では5/23(土)より営業再開となった。わあい。ありがたい。拝む。現在は観客が前後左右で近接しないよう1席ずつずらして、当日窓口での座席指定のうえ、鑑賞客を受け入れている。

 

『羅小黒戦記』(ロシャオヘイセンキ)、ポスターだけ見ると都市部の野良猫の話、あるいはこの絵柄から、ゲーム内のオープンワールドの片隅を巡るSF譚かと想像させられたのだが、もっと広いフィールドにまたがる話であった。

 

 

以外ねたばれも多いので宜しくお願いしゃす。

 

 

1.大まかな粗筋や設定

登場人物や物語については、wikipediaでもご覧ください。

 

簡単に言うと、物語の骨子は妖精同士の戦いと、主人公の成長物語。(1人、人間もいますが、妖精寄りの超人なので問題ない)

舞台は、ほぼ私達のいるのと同じ都市化の進んだ中国。古くから自然界に棲んでいた妖精(精霊のような存在)達は、人間の開発によって元の住処をどんどん追われている状況にある。

妖精たちの立ち位置は大まかに言うと二分されていて、妖精であることを隠しながら人間界で共存する派と、世界を人間の手から取り戻そうとする派である。平成狸合戦ぽんぽこ』を狸同士の仙術バトル寄りにしたものと思えば分かりやすい。

 

主な登場人物は3名で、黒い子猫姿の「羅小黒(ロシャオ)」、人間なのに妖精に近い能力を持ち、他の妖精(恐らく人間との関係を悪化させる可能性のある者)を捕えるため行動する”最強の執行人”「無限(ムゲン)」、そして最初はロシャオの兄貴分として現れ、後にその力を利用して大都市を妖精の支配する世界に変えようとする「風息(フーシー)」

 

主人公の羅小黒(ロシャオ)は生来的に稀有な空間能力(霊域を展開、その中に取り込んだもの全てを自分の意のままに操る)を有していて、本人すら気付かなかったその力の存在を狙ったフーシーが、仲間や保護者の取り入る。そこに強襲をかけるムゲン。この時点では能力の事情などが伏せられているので、ムゲンが一方的な侵略者・悪役に見える。

圧倒的な力で押すムゲンにフーシー一味は空間を離脱して逃走。ムゲンはロシャオを「館」に連れて行くと言い、二人きりの旅をすることになる。

航海の道中を経て次第に力の使い方を教わったりして、次第に絆が育まれていく。陸に着いたら自由にしてやるとか言いながら、ロシャオを「館」まで離すつもりがなく、脱走は何度も阻止される。

沿岸部から都市部に辿り着いた後は、「館」の仲間らと合流。情報網によるとフーシーは「他の妖精の能力を奪う」能力持ちであることが判明。狙いはロシャオの空間能力。

そして後半最大の見せ場、ムゲンvsフーシー戦。ロシャオの空間能力を奪い、支配空間を街のど真ん中で展開したフーシーにはさすがの強キャラ・ムゲンも勝ち目が薄い。が、死にかけていたロシャオがもう一つの空間支配の力を目覚めさせて参戦。フーシーから空間の主導権を奪い返し、砕かれた都市の瓦礫を浴びせて勝利。やったね。

最後に「館」にロシャオを送り届け、ここで暮らせと言って別れるムゲン。妖精より強い人間なので館には居づらいのだという。去っていくムゲンに「一緒にいたい」と追いすがるロシャオ。完。

そしてエンドロールでは、その後の展開となるWebアニメのコマが紹介される。

 

・・・と書いてて、なんかスマホゲーのシナリオをプロットしている気分になってきたのですが、本当にそういう感じで、きわめてライトで分かりやすい筋書きである。凝った伏線や主人公の葛藤や世界の成り立ちがどうのとかとは無縁の、真っ直ぐなクエストなのです。

 

本作には元となる漫画、Webアニメが存在し、wikipediaによるとWebアニメは28話までが公開されており、こちらが本編の扱いのようだ。映画はその4年前の物語だという。しかし少し見た限り、絵柄、世界観はかなり異なる。

 


《羅小黑戰記》CAT.1 喵(重製版)

Webアニメはコミカルに徹していて、ほのぼのとした日常の光景が主だ。絵柄としては「イラストが動く」ようなもので、動きは最小限、サンリオの風味で『よつばと』を書き起こしたような感じがした。当然中国語なので話は一切分からない。

 


『羅小黒戦記』(ロシャオヘイセンキ) 予告編


動畫電影《羅小黑戰記》宣傳短片 印象曲:容身之所 歌手:雙笙

映画版は、コミカルシーンも挟みつつ、シリアスな表情が多く、後半はスタイリッシュかつスピード重視の戦闘シーンがこれでもかと続く。見ていて気持ちがいいぐらい戦闘する。いいですね。

 

予告編では、古代遺跡のような緑と石に包まれた場所で、古代の武具を身にまとった者達が、火や木といった自然の属性の力を用いて戦いを繰り広げていたので、古い中国の伝説を題材にしたアニメなのだろうと思っていた。

確かに序盤はそうだった。が、物語は後半に入って一気に、現代の中国の大都市を舞台に戦闘を繰り広げることになる。この意外性は嬉しかった。

 

そしてもう一つの特徴として、日本アニメのおいしいとこどり、アニメ大会のようなオマージュに満ちていた。

 

そのあたりの見どころをまとめておく。

 

 

2.日本アニメ・オマージュ祭り

私は中国のアニメの系譜というものをそもそも知らないので的外れになるとは思うが、随所に、あらゆる面で日本アニメから受けた影響、オマージュが見出された。作り手がいかに貪欲に日本アニメを摂取してきたか、それは多感なティーンが目に映る全てのカルチャーを寸分を惜しんで模倣し咀嚼し取り込んでいく姿を思わせた。だが作画や動画の技術は高く、単なる模倣や、ましてや劣化コピー品などではない。

以下に引用元と感じた作品を列挙しよう。

 

ジブリもののけ姫千と千尋平成狸合戦ぽんぽこ等)

最も深いオマージュはジブリ作品だろうと感じた。冒頭の森のシーン、樹々の緑の描き方、妖精たちの現代の居場所となっている「館」は、ジブリがこれまで描いてきた数々の世界観に合致する。色の塗りといい、陰影と膨らみを感じさせる緑の質感というのは、物語後半で登場する都市部の平面的な描き方とまるで真逆で、そのノウハウはジブリ等の先行作品に学ぶところがあったのだろうと察した。

逆に言えば、ジブリは都市の内部を描いておらず、例えば都市を描く際の手本が写真となり、そのトレースから街を書き起こしていくと、「現実に近い風景だが、どこまでも厚みと重さのない光景」絵に仕上がるのだろう。

 

何よりも、「自然界」を巡る人間界との関係性(確執、奪われた側としてのジレンマ)は、まさに『もののけ姫』だし『ぽんぽこ』だ。「人間の開発によって奪われたピュアな世界・存在(自然界や精霊)」が大前提にあること、奪われた側が「人間社会に身を投げ入れて、素性を隠しつつ共存していく」か「世界を人間から取り戻す」かで葛藤し抗争する様子は、先の2作品をドッキングさせたような視点で、面白い。

 

 

NARUTO

木や火、鉄といった自然界の属性の力を用いて能力戦を繰り広げる様子は、NARUTOの忍術バトルとリンクしている。序盤のムゲンvsフーシーら4人との戦いはまさにNARUTO的な属性忍術戦だ。

NARUTOではチャクラ(気)を練って自然現象の力を行使でき、チャクラ量が多ければそれだけ巨大な力を発動できる。序盤では忍者を目指す者たちによる身の丈レベルの格闘戦が描かれていたが、終盤に近付くにつれて戦いは土地そのものを揺るがす大災害レベル、そして星の規模での天変地異を繰り出す戦いへと規模が拡大していった。

 

本作ではそこまで極端な大技はなく、ちょうど相手の体を十分に破壊できる範囲での、ハイレベルな応酬がなされる。ムゲンvsフーシーという、しゅっとした美形キャラが、技を繰り出して1体1で戦うところは『BLEACH』要素も入っている?のかも知れないが、特定の技名や技演出は描かないし(あの日本の漫画ならではの、お互い順番に技名を披瀝して大見得を切る様式は何なのだろう??)、また、みんな大好き剣・刀を主戦力としては使わない点は(手に取った金属を剣代わりに使うことはあっても)、やはりNARUTO的オマージュだと解釈している。

 

またキャラについても、フーシーは穢土転生で蘇った「千住柱間(センジュハシラマ)」にカラーリング(赤土色)や衣装が似ている。そして実質的な第2の主人公・ムゲン、お前は「サスケ」だ。あるいは『千と千尋』の「ハク」だ。

薄い青、水色のキャラって、まさに水や風のように、ひと所にいない・立ち位置が定まらない=裏表がなく自由意思に基づいて行動するが、物語の枠組みで見た時には敵とも味方とも付かない、裏切りも孕んでいる、という性格があるように思ったりする。

 

 

ドラゴンボール(Z)

前半の見せ場、まだ敵っぽい立ち位置のムゲンにロシャオが捕縛され、島からイカダで長い時間をかけて海を渡り、二人きりの監禁生活を送るシーンは、まさにDBZにおける1年後のサイヤ人戦を見越した御飯・ピッコロ修行生活を思わせる。もっとコミカルになっているし、ピッコロの何倍も人情味があるわけですが。

敵と思わしき存在に拉致され、隔離された空間で長期間一緒に暮らし、鍛えられていく中で、「この人は悪い人ではない気がする」と思うようになるのは、御飯・ピッコロ的な伝統芸というやつです。大波に浚われた時にロシャオの無意識で空間能力が出たのと、岩に叩きつけられそうになって御飯の爆発的なパワーが一瞬出たのとがまた重なる重なる。うれしいな。

 

妖精が備え持つ「能力」や属性についてムゲンが教え、積極的に鍛えるわけではないものの、放置して生活の中で次第に成長していくのを何となく見守る。その航海シーンをあえて長めの尺で描くことで、無言のうちに師弟関係が生じていくことを語るものになっています。

 

 

AKIRA

中国の人口1千万人の大都市で展開された黒い球体。フーシーがロシャオから奪った空間能力を展開したもので、外側からはいかなる戦闘力でも干渉できず、内側は術者の思い通りに動かせる絶対領域になるというものだった。大都市のど真ん中で繰り出される無の空間はまさに『AKIRA』がネオ東京で繰り広げた力へのオマージュに見えた。

1980年代の東京23区の人口は800万人台前半だが、現在は900万人台後半に差し掛かっており、規模的には作中の都市に似ている。

最も異なるのは、球体は物理的な破壊は一切伴わないことで、破壊はむしろ球体内部でドンパチやっていたムゲンvsフーシーが引き起こしていた。その空間能力が展開されて人間界が実際どうなるのか、効果がよく分からなかったが、意思や行動を操作されたりするのだろう。その割にはムゲンが動きまくっており、BLEACH的な絶対支配の空間とはかなり異なる。力に馴染んでいないからだろうか。

 

なので球体はイメージとしての引用に留まり、「80年代の日本で生じたAKIRAの球体を、現在の中国で発生させてみたい」という想いだったのかもしれない。とはいえ、球体の結界が張られて外部と分断され、結界の内側で主力キャラが死闘を繰り広げるという設定は割とありがちなので、AKIRAに即・飛びつくのは少し早計かも知れない。

 

 

たぶん見る人が見れば、他にも細かい点で随所に日本のサブカルの系譜を見出すことが可能だろう。ここでは「中国アニメは日本の産物」と言いたいのではなく、2010年代以降の中国のアニメ文化で、何が起きているのか、どんな力や可能性を孕んでいるのか、を見る上で、日本のコンテンツの成果を豪華な海鮮丼のように、惜しげなく盛り込んでいる点が興味深かったためだ。

 

 

3.ジブリ化した森、画像データ化する都市

先述の通り、神秘的な森、遺跡、神殿(「館」)といった、反・人間界とも言うべき自然界や精神界においては、ジブリ調の自然や屋敷が盛り込まれている。それらは豊かな色彩と膨らみ、そして陰影を持っており、アクションシーンであっても色に奥行き感が伴う。それらはキャラを包み込む「世界観」であり、写真的ではない。

 

一方で、後半の大都市で繰り広げられるバトルでは、都市の描写は写真のように「平らな風景」と化し、球体空間での戦闘で破壊されるにつれてますます画像データ化してゆく。

ショッピングモール内での戦闘のように、建物を内側から描く際には構造体・空間としての陰影や奥行きが描かれるが、キャラクターの背景に並び立つ建物群と道路、といった扱いになると、一転して重みと厚みのない絵になる。これはアニメ作画上の書き込みの省力化に他ならないのだが、割と違和感なく「写真ぽいフラットな都市」像が描かれているのは、まさに写真データを元にトレース、あるいは写真を見ながら、写真の中の都市像を書き起こしていくためだろう。新海誠ほどのシズル感に満ちた描写ではないが、写真に近い「背景」であり、キャラと並ぶ「レイヤー」的なものだった。

 

空間能力・球体の内部での戦いでは、念動力で都市の構成物を総動員し、弾丸のように飛ばし合うが、それは写真ですらなく、ガレキでもなく、画像データ、ピクセルの集合体としてモノ化した情報の塊であった。

これはより速度と迫力のある動的な絵を効率よく大量に処理したための結果に過ぎないと思われるが、私には象徴的なシーンだった。キャラクターを取り巻く環境が、厚みや質量感のある絵的なものから、情報量は持つが重みや温度は伴わない写真的なものとなり、更には、生で削りだされたばかりのデータの鮮度、デジタル処理の勢いの電荷をまとった状態へと段階を上がっていく。それは温度と質量のある物理世界側の環境から、温度や質量とは別のエネルギー、デジタルの電子的な世界へと、私達の日常的に属している環境そのものが、徐々に移行している状況を表しているようにも見えた。

温度という概念のない世界でのエネルギー感をどう表現すれば良いのか分からなかったので、「電荷をまとった」という比喩を用いた(科学的には多分誤り)。映像内では運動エネルギーに満ちたモノが躍動しているが、こちら側の世界でいう「熱」は一切発生せず、零度のまま画像処理上のエネルギーだけが膨張してモノでも絵でも写真ですらもなくなった描画は、何だか新しかった。本作の終盤・都市の瓦礫を無数にぶつけ合うシーンで見られたこの点は、まさに私達の新しい「環境」を巡る描写として、何かを示唆していた気がする。

 

 

4.中国の都市ドキュメンタリーとして

本作は現代の中国の大都市を舞台に描いたこと、それも人口1千万という、まさに新型コロナ禍・最初の舞台となった武漢市クラスの都市の内側を描いたことは、物語の良し悪し以上に、観る側にドキュメンタリー的な当事者意識をもたらした。今回のような異常事態でも起きない限り、日本のメディアでは中国の都市部の暮らしについて知る機会はあまりないのが実情だ。ましてや感染が一段落した後では、再び都市の様子は伝わってこなくなった。

 

その街は、日本の郊外の都市を、横に何倍も平らに伸ばしたようなスケール感だった。道路の車線を2,3倍に、車両の量を5,6倍に、脇に並ぶ建物をこれまた何倍にも増やして・・・ 決して東京のように、縦に高いものを密集させる集積型の都市ではなく、広く厚い光景だった。

 

面白かったのは、公安や軍、市当局の存在が一切描かれていないことだ。勿論、中国の都市の代名詞でもある監視システム網も、全く触れられていない。

フーシーが空間能力を発動した際に、電子機器などに多大な影響が及んだのか、交通網は停止し、車は全て止まり、都市にパニックが走るが、即座に妖精たちが力を合わせて民衆をテレポートさせ、安全な丘へと次々に転送させていった。建物内にいて脱出の遅れた民衆はサーチ能力で探し出し、仲間に指示を出してこれも迅速にテレポートさせた。こうして民衆に直接の被害が出ないよう、妖精たちは極めて高い機動力で避難をこなしていった。

 

つまり本作では、妖精が市当局や公安、軍といった公権力の代理人として高度に機能している。現実の権力への批判も、追従・肯定もしない。ただ徹底的に言及を回避し、描かない。ここを何と読むかは一切、鑑賞者に委ねられている。

それは例えば、この世界では古来から居場所を奪われてきた妖精たちが人間界に溶け込みつつ、人間社会の危機の際には陰ながら能力を駆使し、繰り返し護ってきたがゆえに、人間側でそういった権力システムを備える必要がなかったとも言える。その他、超人的に優れた個人が自発的に能力を発揮し、彼ら彼女らのコミュニティによって力を増幅する仕組みがあれば、暴力的な公権力など無くとも有事への対応は可能である、という風にも読めるかも知れない。

 

妖精の話、つまり伝説のお話、という体裁を取らなければ、作品を発表できないどころか、下手をすれば制作者の身に危険が及ぶのは言うまでもない。

この点において、デザインや設定においては日本オマージュ海鮮丼風であったとしても、どこまでも日本のサブカルとは全く別の系譜として中国アニメが発展していくことは想像に難くない。日本発のコンテンツでは、アニメや漫画、ゲームに限らず小説でもドラマでも、公権力との戦い、公権力の破綻、あるいは権力内部での葛藤が定番として繰り返し描かれるからだ。それは選挙制度やマスメディアの監視と報道では自浄しきれなかった、社会的な課題や病理や闇を、サブカルが請け負っているようにすら見える。

日本のような明け透けな警察や官僚、政府批判・戯画化ネタを中国において描くことは命がけで、やるとすれば相当高度に擬態する必要がある。100人、1,000人のうち何人が気付くかどうかという・・・それでもSNSで流布し話題になれば終わりだろうが。

 

中国で『パトレイバー』のような作品が世に出ることはあるのだろうか。

 

 

他にも指摘事項は沢山あると思うが、ひとまずここで

 

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マスクが世の中にだいぶ出てきたな。でもかつての定価ほどには安くはない。まだ値崩れしそう? どうだろうか。

とにかく映画館が復活して本当に良かった。日常とは実りに実った果実のようだ。コロナ第2波、来たら、ゆるさん。じあえんそさんなんとかを撒くぞ。わああ。

 

( ´ - ` ) 完。