【写真展】澤田育久「substance」@howse(大阪市西区京町堀)
光を帯びた、白い空間が出現した。建築物の内装のように見えるのは、全て写真である。無重力の宮殿は、いかにして生まれたのか。
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【時間】13:00~19:00
【会期】2019.4/9(火)~4/27(土)(日、月休み)
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GoogleMapのナビを頼りつつ、ギャラリーを探して歩き、向かいのビルに迷い込んだりしてしまった。まさか眼鏡や上着を陳列しているショップ店内の奥で展示されているとは思わなかった。
会場は「howse」という、アイウェアブランド「BuddyOptical」(バディオプティカル)直営のセレクトショップ内にあった。意表を突く展開である。
ショップ内、試着室のような扉と壁の向こう側に、青白く光る空間が秘められている。この光の源は、写真と蛍光灯だ。室内の壁は全て白く大きな写真で覆われていて、蛍光灯の光を幾重にも反射させる。異次元の宮殿のようだ。
靴を脱いで中に入ると、居心地が良い。何時までも居られる。零度の陶酔感を伴う。
ここは無重力状態となっている。
被写体、造形の情報は一切無い。撮影場所などの属性は不明。抽象的。だがモノとしては非常に具体的で、階段の手すりや天井、壁面のタイル、床、段差、凹凸などで、他の何かに喩えることはできない。これらの造形、モノの群れはパーツとなり、上下左右を問わない組み合わせで貼り合わせられ、空間が再構築される。
これらの被写体は、地下鉄の駅構内だ。
これまでの写真の系譜であれば、匿名化した乗客やラッシュなどの群像、あるいは構内に溢れる矢印や駅名や乗り換え案内などの情報の氾濫、あるいは駅という都市インフラの構造・空間そのものが、テーマとして扱われてきたことだろう。
澤田作品は、人々の意識がスルーしてきた「間」を撮り、組み直し、名前も所有者もない宮殿を構築する。
なぜ意識をすり抜けるのか? 地下鉄の内装はステルス化されていたのだろうか。我々の意識に引っ掛からないよう、違和感を持たないように。視線を受け止めず、利用者をスムーズに歩かせ、流すために。
思えば地下鉄の駅というのは、やたら暗く、汚く、古いものだった。今も陰気なままの所が多いものの、最近では内装を一新した駅が増えてきた。その多くが無機質なものだ。
無機質で抽象的なデザインに至った経緯が、法令や規制に基づくものなのか、安全性や清潔感を重視した結果なのか、都市の住人をスムーズに歩かせ続けるためなのか、コスト削減の賜物なのか。そのいずれの要素も関連し合っているだろう。
駅構内は、交通機関という皆が利用する公共の場でありつつも、鉄道会社の管理・経営する私的な場でもある。その運営は地方自治体、あるいは地方自治体から民営化した組織が担う、公的な事業の場である。そしてサービス業であるから、顧客を満足させ増やすための取組は欠かせない。されど広く万人のための公的サービスとしての色合いが強く、顧客ターゲットは限りなく広い。そこに、様々な「私」を有した客が集まっては通過している。公共と私的が重なり合う、白でも黒でもなく灰色でもない、誰にも紐付けられない場であることが、地下鉄駅構内の特性なのではないだろうか。
澤田作品が無機質な抽象的さを豊富に宿しているのは、地下鉄駅構内という「場」がそもそも宙吊りになっていることと無関係ではないだろう。それは誰のために作られた空間なのか。誰のためでもある場なのか。
澤田はその宙吊りの場の中でも、より透明性の高い具象物を切り取り、撮り、再構築する。人々の意識にも留まらない、ステルス化された「間」をあえて捕まえにゆく。そこが本質だからだ。立ち上がったのは、無重力の宮殿である。清潔で明るく安全なように、公共のために及び顧客サービスのために考慮された空間である。皆のための、誰もいない場である。企業や行政としての仕事が結晶された場を澤田は突く。
なぜ作品に美しさを、零度の陶酔感を得たのか。
場から写真として切り離され、作品として再構築されることで、場を管理運営する行政や会社の、見えざる力を切り離すことに成功しているためなのではないか。
その力は「皆のための」という方便の中に、その組織の想定する「みんな」というターゲットを潜在させており、それ以外を警戒し、排除する。公共とは誰のためのものなのか。
構成・編集の妙は、管理者不在の、無重力の宮殿を作り出す。それは都市生活における数少ないユートピアであるかもしれない。澤田作品には誰もが立ち入り、留まり、陶酔することが許されている。
都市に埋まっているオブジェや空間、構造物を撮影しただけでは、恐らくそれらを管理運営する力の存在を切り離すことはできない(むしろ力の潜在を示すドキュメントとなるだろう)。見えざる力の糸を切り離す、無神論の眼と手の技が、澤田作品の妙なのではと感じた。
都市は本来こんなにも美しいのか。
「これJR北新地駅の天井に似てる」「この階段はどうのこうの」などと言いながら鑑賞するもよし、誰のものでもなくなった都市の力を愛でるもよし。無重力、無神論の心地よさが溢れている。
KYOTOGRAPHIE 2018の華々しく催される片隅で、このような面白い企画が咲いていることは、重要だと思う。もっと知られてほしい。
ちなみに、展示会場の「howse」では、かなり尖った写真集がセレクトされ、澤田育久だけでなく伊丹豪なども陳列されている。
その上、蝶の標本も扱っていて、この日は奄美大島のカラスアゲハとコノハチョウの標本を見せてもらった。美しい。たまりません。わああ。
わああ。
わああ。
写真集も含めて、今後とも何かと気になるショップである。うふ。
( * ´ ▿ ` )完