シンプルに成功していた面と大きな課題を突き付けた面とがある。

「あ³」、国立大学法人奈良国立大学機構(奈良女子大学、奈良教育大学)と奈良市写真美術館とが連携して取り組むアートコミュニケーション人材育成プログラムで、今回で3年目となる。
今回は、育成プログラムの集大成としての成果展という位置付けで、奈良女子大学の学生を中心とするプログラム受講者が森山大道展のキュレーションを行っている。森山大道写真財団の協力のもと、作品セレクト、構成、設営、広報など展示全体の企画運営を担っているのが特徴的だ。もうひとつ、本プログラム招聘作家であるモニカ・オルピック(Monika Orpik)の展示も行われたが、本稿では森山大道展に注目する。
(参考)過去の展示
今回はあの森山大道ということでして、一体どうなるんやと。



なお先に言っておくと、より正確かつフラットな展評が必要な方は『美術評論』サイトにて三木学氏の評をごらんください。
展示についてはマジで上記リンクに書かれている通りでして、会場で配布された解説のハンドアウトの通り。現地に行けなかった御仁もこれで把握可能。もうこれで終わっていいすかね。はい。終われない一部の方は以下をどうぞ。
本展示は「森山大道」を若い世代が新しい感性で解釈し、展示の形に現わすものだ。新しい感性とは? 森山大道を写真体験の前提、あるいは写真家の前提としていない点だ。この差は大きい。例えば90~ゼロ年代には森山大道あるいは荒木経惟あたりがある種の映像的感染症として猛威をふるっていて、「写真」に触れた者を伝い、我々の「写真」の基本コード、視覚遺伝子情報を書き換えてしまった。それは国語のようだった。
本展示を立ち上げたプログラム受講生らは明らかに世代が違う。感染がない。直撃の終わった後の世代で、心身の外側から「森山大道」を見、一から関係作りをしているように思われた。そう感じたのは展示とハンドアウトの解説文だ。展示の各パートについて、それぞれの担当者が展示意図や気付き、工夫点を書いている。この書きぶりと展示内容が、皆、課題図書の勉強会を通じて得た学びについてレポート報告し合っている、そのものだった。「森山大道」という深刻な感染からは距離があり、逆に新鮮だった。大学生が中心でなおかつ教育プログラムとしての取組みだから客観的態度というのは当然なのだが、それが却って、従来の展示・読解からではない角度での切り口を開いていた。
展示構成は、ハンドアウト上ではA~Ⅰまでの全9パートだが、鑑賞したところ大まかに3部構成となっていた。いずれも、森山大道を代表する写真集(『にっぽん劇場写真帖』『狩人』『写真よさようなら』『光と影』の4冊)の掲載作品から、各パートを担当する受講生らがその視点によって作品をセレクトし、展示を構築している。
まず第1部は、写真集ごとにセレクトした作品について、額装されたプリントを壁面で展示するもので、各写真集の世界に対して学生らが応答する形となっている。
第2部は、森山大道作品への関心、興味、理解、問いかけを基に、「プリントを壁に掛けて正面から見る」ことから踏み込んだ展示―鑑賞方法を試行している。写真を「見る」行為自体を編集し、森山大道写真への新たな接触の回路を開こうとしている。
第3部は、約6分間のスライドショーだが、制作に関する説明がないので生徒作か作者作かは不明。また都合により鑑賞できず。ここでは割愛する。
第2部は意図と展示がかみ合い、そして新奇さもあり、成功していた。森山大道の写真の特徴、見え方、見方に角度をつけて、新たな感触や意味の広がりをもたらしていた。
・写真の上に写真(イメージの複製と連鎖)
・プリントの前にルーペを置いて写真の質感を拡張
・大道セルフ写真の鏡化により鑑賞者が反射し、見る主体が撮影者、被写体へと遷移
・写真をAIにより動画化、シャッター瞬間の先(後)を想像(創造)
・多数の写真のコピーを置き、それを来場者が選んで更にコピー




これらの仕掛けによって、「プリントの美」「ざらついたノイズ感」「像への没入感」「都市の表面、イメージの無限増殖」等といった、従来の森山大道世界への入口以外から、別の入射角から切り込んでいた。無心で眼を投げ入れての快楽が全てだと思い込んできたが、それだけではないことに気付かされる。
特に、ルーペによって像の滑らかさ・艶めかしさを引き出す試みは、森山大道の像の質感が持つ特性をピンポイントで抽出していた。光が皮膚を持ったような、ぬらりとした艶やかさ。事物の、視界の表面だけがあり、表面だけであるがゆえにエロスが宿る。
そしてAIによる動画の生成。意外なまでに良かった。なぜかすんなりと受け入れられた。瓦礫まみれの狭い路地に裸足の女が走り抜けてゆく、傘をさした女性がそのまま宙に浮いてゆく、トンネルの向こうから国籍不明の機関車がやってくる・・・森山大道に直撃した世代ならばこんな、瞬間の擦過芸を無に帰すような恐れ多いことは出来ないだろう。だが今の世代にとっては森山大道もAI動画生成も、映像の考察やキュレーション手段においてはワンオブゼムなのだった。
それが更なる艶めかしさ、艶を生み出す。エロティックなぬめりがあったのだ。なぜAIの作った蛇足のはずの延長映像が艶めかしいのか。徹底してフェイクだからか。都市という表面にはりついたイメージ=フェイクの写真という薄っぺらいフェイク、そのまた更に時間軸を伴って続くフェイクの連鎖、それはもはやフェイクであることを突き抜けて、映像の極地へと戻れない道を開く。



繰り返しになるが、年代的にもプログラム参加者は恐らく「森山大道」を知らない、知っていたとしても直撃世代(どこを直撃とみるかは所説あろうが90~ゼロ年代は十分該当するだろう)の体験よりも距離があって、レジェンドとして名を知ってる・コマーシャル的にアイコン写真を知っている程度か、写真史の知識として知っているぐらいか、という印象がある。森山大道に胸を撃たれその背を追ってスナップ撮影に血道を上げてきた人達という感じはない。「写真」自体を知り始めるところの、初学者の状態にあり、まさに今回、教育プログラムを通じて写真/森山大道との関係作りを行ったことが伺える。
第1部においてそのことが予想だにしなかった結果を露わにしていた。4冊の写真集をそれぞれ特集したセレクションの展示コーナーにおいて、森山大道を森山大道たらしめるような力場が全く無く、別人かと見紛うぐらい大人しい写真だったのだ。






しばらく理解不能だった。
森山大道の写真とは、まさにスライドショーのようなランダム性、断片化と再接続の中で異様な力を発揮し、常に新たなイメージを生じ続けるカオティックな機構であって、それはいかなるセレクト、アレンジ、オーダーの元でも特に変わることなく発揮されるものと思っていた。
違った。
なぜ森山大道の写真が「森山大道」を出力しないのか? 私はうろたえた。別の人が撮った写真にすら見える。
本展示のしつらえは写真展としては何も間違っていない。標準的なもので、学生らが学びの成果を発表する形態としては当然のものだった。写真集の個別の研究、歴史的評価に則った解釈というより、学生らの関心、着眼点に基づいてセレクトされていることも、初学者が「写真」にアプローチしている様として何らおかしくない。
だが「森山大道」が消えたのはなぜか? 各パートで組まれた写真を見ていると、共通点に気付いた。整いすぎているのではないか。小さな箱に詰め合わせたような感じ。
本展示の諸要素について、本展示とこれまで自分が体感してきた「森山大道」との差異をざっくり挙げてみる。
・【個別の形式】小さなサイズでのマット、額 ⇔ 視界を吸い込む/拡張する大伸ばし
・【間隔】写真同士の距離は少し ⇔ 間隔なし連続面 or 十分な間隔
・【全体】小さくまとまった群 ⇔ 空間を覆うインスタレーション
・【セレクトと配置】意図と着眼点、シークエンスが明確 ⇔ 意図を感じさせない・完結がない
まとめると、本展示では、似たイメージ、解釈や共感可能なイメージによってそれぞれのパート(クラスタ)が構成されている。意識的にか直感的にか、写真集から選び出されたそれらは、意味のまとまりとしてのクラスタを形成している。人の形、物の存在感、形状や風景のストーリー性、シークエンスetc…といった「意味」の枠。そして、作品の外から客観的に把握することを可能としてしまう、没入機会を消失させるような鑑賞(干渉)「空間」の枠。これらの枠が「森山大道」を見失なわせたのか。
逆に今まで私が見てきた「森山大道」は、どこにあったのか。こうなると結論はシンプルで、「ディレクター、キュレーター、批評家、研究者など、作品・展示に関わる多くのプロ達が『森山大道』という写真的人格空間を構築し、その価値を高めてきた」、私はその文化的産物の粋に触れていたに他ならない。
枠ではなく、粋。
『森山大道』生起プログラムとしてのセレクト、配列、配置、サイズ、空間、文脈、etc…が、存在するのだ。厳密に。この20年間ほどの間に浸透した、森山大道「らしい」展示スタイル――大規模インスタレーション寄りの、時にコマーシャリスティックともいえる「型」、あるいは列記とした美術品であることを体現する美しきプリント×上品な額装という「型」は、鑑賞者個々人の鑑賞・感動・悦楽の自由を受け入れ、いかなる鑑賞(干渉)態度も許容するが、その作品・展示は鑑賞者個々人が有する認識・意識の「枠」をはるか超えたところで練り上げられた「粋」によって構築されているがゆえに、個々人の枠を吸収し埋没させてしまっていたのだ。そして理解の域外の情動を引き起こす。
つまり『森山大道』とは、単なるランダムでもシークエンスでもストーリーでもなく、前衛や実験というだけではなく、また単なる教養や歴史や権威というだけでもない。それら諸要素が渾然一体となり、より得体の知れないものであり続けるよう、大胆かつ厳密さをもって逸脱と精選を繰り返された構造体が、これまで触れてきた『森山大道』という写真的人格であり写真的空間であったのだ。
そのプログラムの外で小さな「枠」を設定したとき、逆転が起きた。ある意味で今まで見たことのなかった森山大道の姿のひとつが現れる。
それは単なる欠落や不足なのか、それとも別の純度へいざなう切断面への入射角となるのだろうか。
様々なことを思った。
<追記>
展示インストール担当をされた成田貴亨氏から、当日観られずにいたスライドショーについて、VimeoのリンクURLを送っていただいた。(全く同じ動画が使われたかは不明)
whaaaaa( ◜◡゜)っ
あっこれ
これです。これ。
これが『森山大道』ですわ。あー完璧にこれ。
まさか学生がこれを・・・ いや。クレジットみたらプロ集団でした。
Executive Producer :町口覚
Producer:石井朋彦
Film Director:関根光才
やはり『森山大道』というコンテンツは、それ専用の起動プログラムコードが存在するのだ。
流通・普及したこのコードをいったん置いて、分解、枠の再考をすることは、次の『森山大道』像に繋がるかもしれない。
完( ◜◡゜)っ