写真を見ることが、写真の中の不在を見ることに繋がる。

作者・裵陳姬(ベ・ジンヒ)は韓国・ソウルの写真専門出版社「mug」を運営し、同じく韓国のギャラリー「gallery the C」と協力し若手写真家の支援としてポートフォリオレビュープログラムなどに取り組んでいる。本展示は「gallery 176」と「mug」そして「gallery the C」の交流展・第一弾という形態だ。
この繋がりは、gallery 176と交流展などで関わりのあった「TOTEM POLE PHOTO GALLERY」メンバー・姜美善(カン・ミソン)が作者を紹介・仲介したことで実現した。
本展示はいきなり尋ね人から始まる。


まず階段を上ってすぐ目に飛び込んでくるのが3枚の「人を探しています。」、新聞記事の人探し広告風の作品。意表を突かれる。3名の日本人女性らに何があったのか?
だがメッセージには、2006年、ロンドンのFrances King語学学校で作者と出会ったこと、当時の簡単な年齢層や出身などとともに、顔写真と下の名前(ローマ字)だけが手がかりとして挙げられているだけだ。事件でも失踪でもない。
なんだか雲を掴むような話だ。人物の手がかりの少なさだけではない。行方不明はフィクションなのかリアルなのか、人探しは作品の入口なのか肝なのか、構造も謎めいている。
本作は、作者の10年来、20年来の人間関係を辿り直すプロジェクトである。
2006年のロンドン留学時に出会った人達を撮影し、将来また何処かで出会って再撮影をすることを企図し、伝えてもいたが、その時点では連絡先を交換してはいなかったという。「運命であれば10年後に会えるはず」という確信と、当時流行し出したFacebookサービスがそうさせたのだった。
雲を掴むような話は、国境を越えて繋がり合う文字通りのクラウドデータ:各種SNSサービスによって世界中に飛び散った旧知の人々をトレース&接続可能とし、物語化する。展示室に入ってすぐ手前の壁には、人物写真が糸で張り巡らされ、写真の下には断片的な世界地図が見える過去の出会いを今・ここへと再結晶させている。雲の全体像が示されるのだ。


糸の繋がりは「ロンドン留学での撮影から10年後、その人は何処にいたか」を示し、空間と時間の両方のネットワークを可視化している。最初見た時は、自分の知り合いから更に別の共通の知り合いを発見してその繋がりを糸で結んでいく取組みだろうかと想像したが、もう数段奥行きがあるものだった。10年という月日によって皆、風貌や雰囲気が変化していたので、同一人物と思わなかったのだ。
これらの「糸」は、物理的な空間上の移動と結びつきだけではなく、先述の通り10年の時を遡って再接続された人間関係が、ソーシャルネットワークという情報インフラによって為されたこと、ひいてはソーシャルネットワークが個人の人間関係の記憶と人生そのものを構築し支えていることを、そのまま体現している。作者の記憶や繋がりというよりも、これはグローバル通信網によって支えられた「私」という時空間領域の構造図のようでもある。
糸は日本にも伸びていて3人の女性の写真に行きつくが、それらは入口にあった尋ね人広告の3人で、どうやら現在も再会できていないらしい。ロンドンと日本とで同じ写真が使われ、写真の上から「?」と書かれている。この3人は世界をまたぐSNSによっても検索に上がってこず、再接続されないまま、20年が経過しているため、写真は据え置かれているのだ。写真の指す「現在」と作者/鑑賞者の立つ「現在」とが大きな段差、落差となる。
世界を厚さゼロナノメートルで覆っているかに思えたインターネット、ソーシャルネットワークが、この3名のunknownによって急に無限の滝のように切れ落ちて見えた。


反対側の壁には、大伸ばしされた3人の女性のカラー写真。こちらも「人探し」中の3人だ。
3人とも自室の中で、しっかりとカメラの方を向いて撮られているのと、写真の画質が確かな質を備えていて、劣化=喪失に結びつくニュアンスが皆無のため、20年にも及ぶ不在や行方知れずという印象が全くない。大伸ばしであることも、現在ここにいるという実在のニュアンスを譲らない。これらが20年も前に撮られた写真だということを忘れてしまう。
だが見つかっていないのである。
世界のどこかには物理的に生きているのだろうとは思う(仮にそうでなくてもそう信じたいところ)。しかしインターネット、SNS上に浮上してこない人間は、作者の私的な繋がりから抜け落ちた存在に他ならず、いや、世界の「存在」の受け皿にすら乗ってこない。
こんなにも明らかに写っている/写したのに、現在において存在として作者/私達と交差しない。空想やフィクションではないのに現実味が遠い。
本作の制作意図としては、初回の出会い・撮影時にかけた「声」が、10年後に再会という形で返ってくるという、遠くて長い人生のエコーを表すことだろう。しかし本展示が表しているのは圧倒的に「ソーシャルネットワークから抜け落ちた人物の不在感」である。展示ボリュームの大半は不在の3人のことに割かれていて、写真に形はあるけれども接続不可能なerrorを放っていて20年前の像が「現在」であるかのように存在を主張し、されど3人の相手方の本当の声は返ってこないのだから作者が20年前にかけた声が行き先を失っている状態で、今ここにあるのは作者の声と写真の外形とが織り成すエコーの共振だ。
ネットワークの強度や継続性、あるいはその限界に向けて、作者は検証を行っているようにも見えた。FacebookのごときSNSによる人間関係のWeb接続状態、接続網は今やスマホ、インターネット通信と並んで、水や空気と同じくあってしかるべきもの・無ければ成り立たないものとなっている。が、ライフラインでありつつも本質的に異なる面があって、参加する・しないが個人の選択制であり双方向性であるため、「見失われ、途絶される関係性」というものもまた存在する。声の届かない崖の断面を露わにするように、本作はネットワークの双方向性の片側が欠けた状態のことを可視化している。普段は繋がらない=見えないので意識されることすらない。だが写真を振り返って糸で時空を結ぶとき、その不接続は目に明らかなものとなる。繋がる本質と繋がらない本質、本展示からは、繋がらない先の谷の底を覗く思いがした。
もう一つ、本展示が語るのは写真の現在性である。
こうした本作の取組み内容や意図を知ると、ネットワークに参加・存在していない人物らの写真は、まるで寓話のように宙に浮いてゆく。だが写真は、写されたのが20年前だろうが去年だろうが今日だろうが、画質に瑕疵や劣化がなく、写された中身が時代を特に語らない限りは、常にビジュアルの提示された時点を以って「現在」を表す。
過去の現実において撮った写真が大きく掲げられ、しかし展示において対応すべき(実在すべき)「今」の彼女らが存在していない状況は、写真は写真像として「現在性」を自動的に現わそうとするのに、その中身を埋めるべき現在系がないので、写真に写った3人はまるで実態のない谺(こだま)のように空間に響き続けるのである。
これは人探し、人間関係ネットワーク再接続への試みというよりも、もっと本質的な写真論が示されていないだろうか。写真は写された像・被写体だけではなく、写っている像と、その中身としての情報やストーリーから構成されるという2層構造になっていて、中身が充填されず逆にロストしていることを強調された場合には、写真の像は強力な残響、現在を漂う谺(こだま)、空虚な現在性となって「今」を漂うのである。つまりこの展示会場には、写真の記録性が生み出す現在性の谷間が開かれている。
ソーシャルネットワークに繋がらずに落ち込んだ谷間、そしてロストされた写真の生み出す谷間という2つが重なり、作者の声は私的なエコーを超えて、より大きな谺を呼び起こす。そこに見えるのは何か。
( ◜◡゜)っ 完。