nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】2025.2/8-3/1「Roots」@BLOOM GALLERY

「BLOOM GALLERY」が2009年に開廊して以来、特別な関わりのある作家として、内倉真一郎、林直、北義昭、田中一泉、福島耕平の5名が集うグループ展である。

 

5名の写真家は関西をベースに活動しているという。だが展示・作品を観たことがあったのは内倉真一郎と林直の2人のみで(まさに同ギャラリーで鑑賞したのだが)、北義昭、田中一泉、福島耕平の3名は未知だった。私がギャラリー巡りを始めた2017年頃以前に取り扱われていたのか、逆に近年、展示を回れずに漏らしてしまっていた?のかと思ったが、ギャラリー側もこの3名については展示を行ったことがないのだという。そんなわけで今回は貴重な出会いの場となっている。

 

本展示のタイトル「Roots」は双方向の意味を持つ。作家にとっては「与えられたテーマ」であり、各自がその幅広い意味について自由に考え、撮り下ろした新作を展開している。一方でギャラリー側にとっても、この5人の作家は2009年の開廊以来、特別な関係性の繋がりを持った存在、すなわち「ルーツ」そのものである。統一されたものではないが、根底で共通するニュアンスを感じる、そういう作品群だ。

 

 

内倉真一郎「Mother」(仮題)

展示スペースに入って正面に掲げられた1枚の縦長の写真:若い女性とその腰にしがみつく子供の写真は、親愛とも不安ともつかない不思議な印象をもたらす。写っているのは自身の妻と娘だという。 ※2025.2/23、作者自身のご家族ではないとのご指摘をいただき、修正しました。補足説明をいただいた際に完全にそうだと思い込んで思い込んでおり、家族というバイアスの強さを自分自身に実感しました

しかし説得力あるです。本当にリアルの「家族」にしか見えなかった。その距離感、個人ドキュメンタリーか、一般的・抽象化された「家族」か、どちらを思わせるのかが、語り方・説明と写真によって大きく揺れそうな作品と感じました。ふうー(へんな汗が出る

 

本作はまだ構想中で、タイトルは仮題、テキストも冒頭から「これはステートメントではない。この展覧会Rootsに寄せたストーリーである」と但し書きがなされている。つまりプライベートに近いショットで、作家として非常に自覚的で慎重な姿勢に、却って意味深いものを感じる。テキストの末尾も、本作から他の家庭の「Mother」へと展開させていくかどうかは不明としつつ、「作家の人生としての制作過程を見てくれたらと思う」と述べている。

良い写真なのだ。

だがテキストには極めて個人的な、家庭の事情が綴られている。2010年代後半に名を知ってからというもの次々に展示、新作発表、写真集発表と目覚ましく活躍している作者だったが、2024年春に中学生の娘が学校でいじめられていることを知り、そこからは制作もストップして自分の時間すべてを娘のために使ったという。本作「Mother」は展示の1ヵ月前に制作し始められた。

 

快進撃を続ける写真家の裏に、制作を一切行わないことを決意させるまでの事態があったとは、予想だにしなかった。

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しかしこうも言っている。「制作とは、シャッターを切らなくても日々の生き様そのものが制作に繋がる」と作者は至った。確かにそうしてこの「作品」は、生み出された。作家とは動きを止めてもなお作家なのだと思った。

 

 

◆林直「きおくの記録」

展示フロア入口横と奥の部屋で計3枚が提示されている。大判で撮ったと思われるモノクロ写真で、コンクリートの隆起に生えたカタバミの葉、花咲くレンゲ畑、塗装の剥がれ落ちつつある波板。

全てが、何気ない。

これまでも作者は、何気ない身近な品物から「家族」の記憶を浮かび上がらせるなど、過ぎ去った膨大な「日常」を厚みをもって「今」へ折り重ねる作品を発表してきた。

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本作のミニマムな世界は一体なんだろうか。例えば福原信三の、日常に在る自然物を絵画調にリズムよく構成して仕上げる世界観から、絵画を減算し「写真」の比率をぐっと満たしたような写真だ。モノでも風景でもなく、絵画でもない。最小限に切り詰められた被写体がある。しかしそれは確かに「ある」。言わば、日常の中でも最も日常の光景だ。

「日常」に内在している何かを「写真」によって表そうとしている。いや、日常と写真とは、存在の領域においてリンクすることを示しているのではないか。

 

ステートメントでは、近年の大きな変動によって、日常が唐突に失われることへの危機感と、それとともに、逆に高まる写真の価値。現像で浮かび上がる像に「永遠の時間」を実感することが語られている。

 

不安定に変動し続ける世相は、皆さんご存知の通り。

コロナもウクライナパレスチナも台風も地震も、そう。ある日を境に、唐突に、どこかでまた日常が破壊される。戦争が起きる、侵略される、正義が暴走する、正義が反転する、物価が跳ね上がる、燃料や米の流通が止まる、通貨が下落する、過去の言動が炎上する、大切なものが損なわれる・・・色々とある。

情報や言説が、告発や対立が、常時接続状態であまりに強烈な速度で飛び交っていく。それらは文字と動画と写メやフェイク画像などの同時接続・混在の奔流となって、経済性を極限まで高めるアルゴリズムに調律され加速され、「日常」の最上部レイヤー=世相として流れている。

 

作者が選んだのは、身近にあるものを見つめ、本来の「写真」をやることだ。

撮る、というより現わす。カメラとフィルム写真はより下のレイヤーへ眼をやり、TLの暴風の底にある日常の姿に触れようとしている。情報や経済や作為を超えて、像が現れ、姿を成す。それは「日常」と呼ばれるものの基底部が、何にもよらず「ある」ことと同一の事象ではないか。世界と写真との連関、繋がり合いが、示されようとしている。

 

 

◆田中一泉「Family and Family」

霞がかった、古めかしい和装の結婚式写真は、3D加工がなされているかの如く微妙な陰影が付いている。肉眼で近寄って見てみるとドット絵ではなくデジタルの波のようで判別不能だが、入口で渡された虫眼鏡を使うと、写真の画像は夥しい量のコードをコラージュして描いていることが判明する。

フォトモザイクの逆、文字コード・モザイクで写真を再構築している。元々は1920年代の家族アルバム写真、すなわち紙プリントだが、デジタルカラー写真へデータ変換する際にバイナリデータ化され、その2進数データを更にバイナリエディタで16進数へ変換したものが、この写真画像を構成するモザイク源となっている。

一枚の画として完成・完結されて見えるデジタル写真だが、その通信と生成は数値データの組み合わせから成り立っていることが示される。あまりに微細で膨大なので、この再構築のコラージュ描画作業は言うまでもなく、人力ではなく何らかのソフトによる置換処理なりが為されている。

更に、カラー化はAIによって行われている。AIはそれまでの蓄積、学習に基づいて「尤もらしい」回答を出力するだけで、実際に100年前の人物らがその色味の風体、服装をしていたか、背景や周辺が本当にその色をしていたかはまた別の話である。

本作は、100年前にこれらの家族アルバムが撮られた際に起きていた技術革新、西欧からの技術や価値観の流入と、現在における技術革新や価値観の急変とをリンクさせる。そして当時と同様、「当たり前」の世界が根底から一変してゆく最中にあることを物語る。

写真とは何か? もはや何から生まれていても、写真は物質や成分の領域を超えて憑依し、写真らしさの姿を現してくる。マイクロ・オーロラのように、掴みどころなく現れて…

 

 

◆福島耕平「hello sleeping my sun」

今回の展示で最も作者のテーマ性や制作に関する工程や技術的ヒントが乏しく、謎のままになっている。横一列に並ぶ6枚の作品は何をどういう意図でどうやって撮られ、何を示しているのか、正解を示すことは出来ない。タイトルも詩的だ。

写真を見ながらステートメントを咀嚼していく中で、読み取れるのは以下のようなことだ。万物における起源(archi)を考えた際に「形」が存在すること、自然界には重力が及ぶため直線がなく「曲線」で構成されているということ、しかし人類は効率性を求めて「直線」を求めて活用し、JANコードのような「データ」、記憶領域の世界を新たに開拓した。すなわちこの世界は曲線と直線の2つ、人為と天然とがパラレルに混成されており、本作はそのことを現すのだと。

 

非常に納得のいく論だ。

関数や図形問題を解いた時のことを思い出してみる。直線とは生活上当たり前にありふれているが、実は不自然なものだ。万物を最もシンプルな形に還元した理論値である。かたや、自然界には美しく理論的な曲線や円が溢れている。それらは内在された計算式で描画したかのように自然発生してくる。直線は万物を人為・理論の世界へ変換し、曲線は自然の内から際限なく溢れてくる。その両者がこの宇宙から「私」までを貫いている。

 

◆北義昭「無為の視覚(Visions of emptiness)」「AGUNIMANI(アグニマニ)」

雰囲気の異なる2つの作品は「時」を超える。どちらも作者が世界各国を旅する中で心に刻まれた様々なもの:文化や風土、風景、人々の存在などから得られた視覚体験による「原始の記憶」をテーマとしている。それは私達が共通して有している、普遍的な記憶であるという。

言葉が難しいが作品もまた難しい。「無為の視覚」の3枚は掠れた水彩画のように、像に具体的な姿形がなく、何が写っているかを見ることができないのだ。あるのは色と、描いたり拭ったり塗ったり膜を張ったりしたような、印刷工程の途中で出てきたような抽象度の高い何かで、写されたものには見えない。だが掠れ擦れの色の向こうに何かがありそうだということは分かる。視線を奥へとやってその実像を追おうとする。辿り着かない。繰り返し。

プリント工程の定着時に何度も擦って掠れさせた、例えば印画紙に絵具を塗って布で拭き取る「雑巾がけ」を、写された像が霞むぐらい強く施したようなタッチになっている。

写されたものが見えない、抽象化しているため、外部への言及を持たない、どれだけ視線を当てても這わせても、擦れ掠れの奥にあるべき像の輪郭や形に辿り着かないので、視線の結ぶ先は泳ぎ、鑑賞する側の内部を逆に投射しようとする。元は何らかの写真で、確かな像があった。それが抽象化されていて正体が掴めないので、ああではないかこうではないかと連想を当てることになる。いつの間にかこちらの内面に備えられたイメージを当て込んで投射して、視線はそれを追うようになる。「原始の記憶」とはこの工程で出会うイメージのことをいうのだろう。

 

また、本作は二重化された視覚体験をもたらす。画面の奥にある原・写真像と、表層の色・拭いとにはレイヤー間の物理的な距離があるため、3D立体視の要領で焦点を調整すると手前が浮き上がって見えるようになる。するとそれまで単に平板な、抽象的な色の掠れだったものが、突如として疑似空間的な視覚として広がりを持つようになる。眼が明らかに奥行きの中を泳いでいる! この視点の切り変わりに気付かないと本作の真価は掴めないだろう。

 

像、イメージの点でも、奥行きの点でも、直接には見ることのできない写真作品なのだった。

ちな、下の作品は私には白いブダイや遊泳中のイカに見えました。

 

「AGUNIMANI(アグニマニ)」サンスクリット語琥珀や浄化、生命力や光を意味する。まさに琥珀としか言いようのない黄金の1枚(1体)の写真がアクリルに封じられている。

今の時点では樹脂だが数百万年を経過すると化石化し、琥珀になるのだという。琥珀は太古の昔からもたらされる時の産物で、古代人もその性質や輝きに注目し様々な形で扱ってきたが、ここでは将来の琥珀として、現在から未来に向かって過去を投げ返している。

なお、北義昭は長らく海外を拠点に活動していて、従来作も見せてもらったが、日本人離れした感覚のモノクロ写真だった。黒、陰影に曖昧さがなく、影を深く掘り込むところが西欧の写真言語だと感じたのだ。モチーフも極めて明確で、主格・人称が主題だ。それが、目では見えない(見えているが直接には視認できない)作品を作るとは、驚きである。

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( ◜◡゜)っ 完。