nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】2025.2/4-16_林勇気「すべては遥か彼方に そしてその中間にあるものについての物語」@豊中市立文化芸術センター

「メディア」の意味に立ち返る。作品数たった2点ながら、大規模な個展。

チラシのステートメントにはこうある。

豊中市初出展となる本展では、「メディア(中間にあるもの)」をテーマに、代表作のアップデートに加え、豊中を舞台にした新作に取り組んでいます。

また、

情報伝達の手段や技術を指し、時には媒体・媒介者とも訳される「メディア」。ふたつのものを隔て中立でありつつ、二者に属しあいだを取り持つ両義的存在といえるでしょう。

展示では2つの大型映像作品が展開され、最も単純な字義的解釈で言えばこの映像という手法自体が「メディア」とまずは呼ぶことができる。

 

だが、小さなアイコンのような画像が大量に右から左へまっすぐ流れていく《landscape -quiet time》では、それが指し示し媒介する意味や実像はもはや無いも等しく、アイコンのような物体らはゲームのように独自の時間軸の中にある。

ハンドアウトに簡潔に要点がまとめられている。

landscapeシリーズは「風景」という単語を数十ヶ国語に翻訳し、その単語を検索ワードとして画像検索し収集した写真を素材として制作しています。作品イメージと制作のプロセスから画面の向こう側にある風景を可視化します。

無数のアイコンは写真なのだった。これは投影された映像の解像度からでは読み取れない。そもそもアイコンが小さいので写真かどうか・写真であることの意味を斟酌する意味はもはやあまりない。

作者の代表作をアップデートしたこの映像作品は、通常の「メディア」というよりも、伝達の中身が自走して駆け抜けていってしまう(しかし無限ループのようにそれらは目的地を持たないスクロールの中にある)=伝達の器、スクリーン的な幕だけが取り残されて逆照射されているという点で超・メディア的でもある。

写真が写真として機能していない、すなわち撮影されていないので由来も指示対象を指し示すことができないところからして、この作品は「可愛くて気持ちのよい映像」として受容するか「具体的なのに意味や参照項を持たない、自律起動するメディアそのもの」と見るかの際にあると言ってよい。また説明書きのとおり制作過程を知ったところで、知ったがゆえに、よりいっそう像と実体との隔絶された距離感を知ることになる。

 

《unseen》は今回の展示にあたって、豊中市を舞台に作られた新作だ。作者がかねてより見たいと思っていた「キツネ」を見てみようとし、目撃証言を得ながらリサーチを重ねてゆく。が、目撃者の写メや大学による監視カメラでの定点観測でその姿は捉えることはできたものの、作者自身はついに「キツネ」と出会うことはなかった…というドキュメンタリー仕立ての構成となっている。

ここでは「キツネ」という存在の外周、外観は、各種のメディア=人々の証言、昔の伝承資料、写真、動画映像によってもたらされるが、その情報の本体、メディアが指し示す「キツネ」それ自体を作者は見ることなく、出会えないままで終了する。つまり(やはり)鑑賞者は伝達される情報とその中身とが合致するところを見ることができず、代わりに伝達の流動や行為を見ることになる。伝達される中身はずっと不在であり、「メディア」が逆に露わになっている。

また、作者自身を模した語り手も映像に登場するが、他の出演者:「キツネ」の存在についてリサーチ源となる協力者(=メディア)と異なり、作者は映像作品内のパーツのように振舞う。生身のいち個人ではなく映像内のイメージカットとして写し出されるので、本作で語られる「キツネ」と同値のような存在になっている。しかも実はこの人物、作者自身ではなく演者(おそらく俳優の吉田凪詐)で、ここでも「作者」という実体は媒体の奥に隠れている。どこに目をやってもそれらは媒体なのだ。

この点が他のリサーチ系映像作品と一線を画していて、豊中市千里中央公園におけるキツネの棲息の歴史・自然環境の現在系を語っているようでいて、指示対象の不在とメディア=語りや伝達それ自体が浮き上がるところを映し出している。

《landscape》よりももっと、語る主体と語られているものとの「間」がたっぷりと、容量をもって提示されている。「キツネ」という言葉と像は「出会うことができなかった」という「間」を限りなく膨らませるようにして機能する。つまり、私はメディアを鑑賞していたのだ。

 

( ´ - ` )ノ 完。