nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R4.12/13~25 熊谷聖司「心」展示&全作品プリントビューイング@ギャラリー・ソラリス

2020年の写真展<こころ>で発表されてからも、継続して制作されていたカラーフィルム写真のシリーズ。2022年8月に写真集 『心』(蒼穹舎)の発刊と東京での展示を経て、12月にはこの大阪での展示となった。

写真集は59点、本展示はその中から20枚の作品で構成されたが、実際には400枚超の作品を制作しており、その全点を「プリントビューイング」という形で1日限定・別室にて、予約者限定で公開した。

【会期】R4.12/13~25 / プリントビューイング:12/18

 

東京を中心に、世情がコロナになろうが円安だろうが何だろうが、とどまるところを知らぬ勢いで活動し続ける写真家・熊谷聖司。2010年台から年1~3冊のハイペースで写真集を発刊しており、2020年以降も休まることがない。大阪でもほぼ年1回のペースで展示が催されている。活動をフォローアップ出来るのでありがたい、そういう機会がないと振り落とされて後ろ姿を見失ってしまいそうだ。多分そう言うと「いや。やっていることは何も変わってないよ。」とまた不意に本質を突かれてたじろいでしまうのだろうけれど。

「軽くて持ちやすい」「縦撮りしやすい」と、EOS kiss(フィルム版!)を操ってみせる作者の図。一眼レフでコンデジのような挙動を繰り出すのであった。簡潔である。簡潔すぎて謎が増し、一体どうやって作品が生まれてきているのか余計に分からなくなる私達。うおお。ぎゃああ。ひめいがこだましました。謎しかない。

 

 

◆「心」ギャラリー展示

本当は、先に2時間みっちり全作品プリントビューイングを経てからギャラリー展示を観たので、体験としては普段の展示鑑賞とはかなり異なるものになった。一旦ここでは展示の方から書いていく。

2020年、2022年の東京での展示を観ていないので比較はできないが、まず写真が色と光に溢れていることが目につく。前作<眼の歓びの為に 指の悦びの為に この大いなる歓喜の為に わたしは尽す>は同じ版型の写真集、同じカラーフィルム写真と似ているが、そこで提示された写真は身が引き締まっていて、写真の身体として「被写体」の質感や形状が強く出ていた。

比べると今作<心>は多くのカットで色と光が像のボディから溢れて、面全体を浸している。

 

展示1枚目の写真はその中でもボディの締まったカットで、像の輪郭がくっきりしている。グリーンの光が全体を覆っていて、色彩が陰影をも超えていて、現実の――私達人間側が触れている世界から離れた視界のようでもある。画面左下の三輪車が告げている、これはエグルストンに繋がっている――「ここは写真の世界である」と。

この写真が表す(現す)のは、日常でも非日常でもない、エグルストンの三輪車が開くのは写真という光の画の世界に繋がる扉だ。

<心>の作品群は光に溢れているが、曖昧で感傷的な雰囲気のポエムではない。光と色の奥に、あたかも書き言葉や話し言葉のように引用や参照、比喩、連鎖や指示・示唆といった文法的な働きがある。書き言葉や話し言葉とは異なる次元の領域にあるものだが、明らかに文法的な運動が奥行きを構成して「世界」を展開してゆく。その奥行きの構成要素の一つには「写真史」も数え上げられよう。

様々な角度の線が組み合わさって面の折り重なりを生み出してそれが空間を成してゆくように、熊谷作品も写真内言語の構造を湛えていてそれが奥行きを作る。書き言葉・話し言葉との直接的な連携や転換を避けているため、一見、ピュアでポエティックな写真に見えるのだ。「心」という言葉が更に取り違えを促すだろう。しかしここにあるのは、人間―作者の日記的な主観ではない。徹底的に「写真」の世界だ。

 

「作者」はむしろ影となり虚像となってその世界へと投じられている。

2枚目の写真では濃い緑色の輝きの中に作者が立つ。観客側からは、向こう側=写真の世界へと去って行く後ろ姿と、そこへ入ってきたところの正面の姿を同時に見ている。影は写真の中で実の存在として動き出す。物理的な肉体は「写真家」、撮影者という特権的な立ち位置によって、カメラとともに物理世界に留まる。「写真」の内側からすればそちらこそが暗箱であり、実像的な影である。実体は反転している。

 

画面に溢れる色と光は絵画を思わせる。印象派のように――だがメディウムの厚みもマチエールも存在しない。あるのは紙の厚さと光沢、あるとすれば光が触れて感光したという化学反応の過程だけだが、像は自分がどうやって描かれたのかを証言することが出来ない。陽が射したと同時に影が現れるのと同じように、あまりに速すぎる現れのために、光学反応の結果としての像、光、色だけがそこにある。絵画や詩のようでいて生成の痕跡を持たない。気付いた時にはそこに起きていて、現れていたのだ。

 

そのように考えていると、展示ステートメントの印象的なフレーズに思い当たる。

末尾はこうだ。

 

「写真の前に立ち、何かを感じても、心が何も動かなくても全然平気なんですよ。」

 

当初はこの言葉について、自身の作品に対峙する鑑賞者を想定したものとして、「感動してくれてもいいし、別に感動しなくてもいいよ」「感動するもしないも、それは自由。本当にどっちでもいい」という、いつものクマガイ節をそのまま書き表したものと思っていた(実際、作者は投げやりなのではなく、いつも本当に自然体でそのように言う)。ステートメントは作者の偽りのないスタンスとして額面通りにその通りなのだろう。

だが本作に現れているような「写真の世界」の領域に向き合うとき、こうした作者の言葉、ひいてはタイトルとステートメント「心」と呼ばれているものは、鑑賞者側の感受性や感応とはまた別の視点から意味を持ち得る。

写真との関連で言うと一般的な「心」とは、写真の外側にある物理的な世界から写真を見た際に、写真がどう見えたか・どう感じたかを話し言葉・書き言葉によって言い表したものである。あるいは、そうした話し言葉・書き言葉を心理・心情の絵柄へと変換し仮託した写真に込められたもののことを指すだろう。

だが本作を「写真の世界」の内側へと至った視座として見るとき、ステートメントの言葉や「心」という単語は、写真の起こる起点、契機に関連しているように思えてならない。色と光に溢れた像がなぜそこに現れたのか、いつから現れたのか、その始まりの運動や現象について触れているのではないか。

 

「写真」に「心」があるとすれば――。つまり真っ白あるいは真っ暗な中から、光を感じ、感じたものが像として浮かび上がり、色や形を帯びるようになった経緯そのものと出発点こそ「心」と呼ぶにふさわしい。

写真が生成される際の、始原的な露光や感光の現象そのものであり、それを催させた本能的な反応のメカニズムであり、それを促すベクトルとして、写真的な好ましさ・写真史的にありうべき像とフレーミングを継承し反復し更新せよという、遺伝子の声にも似た引力の作用。それらはどれも人間個人の感傷や感動を超えたところから来る。ニエプスが拓いた瞬間から繰り返されてきた露光と感光の衝撃・衝動を、「写真」を内包し体現した人間(=写真家)らがそれぞれに継承し、その黎明を繰り返すのだ。

 

ニエプスの黎明を「今」に向かって繰り返す衝動と行為が、写真の「心」なのではないか。

一般的な、心の好ましい情動を「感動」と呼ぶなら、作者は感動してシャッターを切っているのではないだろう。同様に、自身の写真に感動してプリント、セレクトしているわけでもないだろう。感動より得体の知れない、プラスマイナスどちらの振れ幅でもない、しかし明らかに「写真」が「これ」と望む瞬間のために発火した「心」の動き。写真の領域へと裏返った、写真の世界に投じられた主体が露光し感光した、その瞬間の何かが、像となり現れて永遠になる。

 

熊谷聖司が書いていた、短くも印象深い文章は、これらの写真たちの像がどこからやってきたのかの原点について触れているような気がしてならない。その謎は写真行為としてはきわめてシンプルであり、しかしこうして書き言葉・話し言葉で解き明かそうとすると、鏡の中や影の中に手を入れようとするぐらい難しい。

 

ニエプスの拓いた瞬間は今もそこにあり、膨張し続け、更新され続けている。

 

 

◆全作品プリントビューイング

写真集『心』の掲載点数は59点だが、手元で制作された作品は400点を超えている。今回、1日限定で催された「全作品プリントビューイング」では、その全点を自由に手に取って閲覧できた。

 

写真仲間ら3人で観に行ったが、予約の時点でギャラリスト・橋本氏から枠を2時間でとることを勧められていた。結果、全点に目を通すのに2時間きっかり掛かった。

文字通り桁違いの物量、情報量である。めくってもめくっても、ある。最後の方は「あ、この山まだ見てない」「あかんこの山は2度目なのに1度目のような気がする」と3人揃ってわけがわからなくなっていた。アート・表現は時間のリニアな流れを狂わせる。若返り効果すらあるのではないか(期待)。

 

幸せだが終わらないあああ( ´ ¬`)

1枚1枚と手に取りながら、作者に制作方法、暗室ワークの工夫について話を聴きながら作品を観ていくのは非常に面白く、学びがあった。私も昔は暗室に入ってフィルム写真を焼いていたがモノクロしか経験がなく、カラー暗室ワークによって生み出される本作の独特な色と光に溢れたフィルム写真の世界は、身近でありながら「潜ったことのない海」のような世界なのであった。

その海に浸る行為が、この「プリントビューイング」に他ならない。若返り効果もあるのではないか(期待)。

 

これでもかとスター級が来る。

 

写真集(と展示)にセレクトされていたような写真はやはりスター級というか、めくっていても手が止まる写真で、存在感がある。色味が深く、光が強く、現実の1シーンというより現実を幻想的な別の場面へ転換したような写真だ。

光が美しいだけの写真、キラキラに溢れた写真ならInstagramTwitterに大量に溢れている。だがそうしたSNS需要の多い・評価の高い写真は、これまで成功してきた「美しい写真」の「型」を、過剰なまでに盛りながら反復しているものが多い。言わば「美しい」という外部評価のフレームを反復している

対して、ここにある熊谷作品は先述のとおり「写真の世界」そのものを現したものと言えよう。露光と感光の原初的な姿と力を帯びている。そしてこれらは「美しい写真」の手本的な「型」を逆算的に踏襲したり、瞬間を「切り取った」「狩猟した」りするのとは逆に、像が「写真」としての実体を得るべく半ば自律的・本能的に選ばれた画角・構図を獲得している。今・見ている/見られているものが像として姿を現してゆく中で、あるべき姿に向かって、「写真」が始まる。始まっている写真がここにある。

行為としては事後的なのだが、光景・像としてはあくまで現前している。「撮った」というより今そこに「在る」のだ。そこには「今」という唯一無二の現前性に加えて、過去の写真家らの紡いできた色と光の系譜すら織り合わされている。やはり奥行きが深く、写真家個人、機材ひとつの職人仕事を超えたものを感じさせる。

ただ、これら写真群は写真集(と展示)よりも遥かに表現・世界観の幅が広く、雑多で多彩で面白く、より手に負えない規模の世界だった。

写真集を作る際のセレクトによって純度が高められたということなのだが、そもそも作者が蒼穹舎の編集者・大田通貴氏に手渡したのが150枚程度で、そこから太田氏がセレクトして写真集を作った、つまり作品全体から大きく絞り込まれたものを更に絞り込んで写真集が作られたわけで、この「プリントビューイング」での世界の大きさ、手に負えなさは当然だった。

 

むしろこの手に負えないポテンシャルの洪水こそ、本作の真価だと実感した。とにかく全てが無意味でなく、繋がり、共鳴しながら、重要な輝きを帯びている。振幅がまちまちで、写真の声は大きなライブのうねりになる。

この強力なうねりを写真集で何とか表してほしいものである。最近、大容量の写真集が出ていて、代表例でいうと川田喜久治『Vortex』(赤々舎、2022)が544ページ、伊丹豪『PPCC vol.1』(We Are Lucky Friends、2022)が600ページと、そういうのもアリだと思った。あるいは『EACH LITTLE THING』のような連作というのも良い・・・。

写真集『心』だけでは勿体ないと痛感したのだ。時間限定ゆえにテンションが上がったというのもあるが、写真鑑賞の体験として「めちゃくちゃな量」というのはそれだけで何か基準を狂わされる(良い)。

ごく一部だけメモ撮影したのだが、これがまた難題とポテンシャルをもたらした。2枚、3枚と並べて撮影しようとした時、隣り合う作品の組み合わせによって写真の持つ意味や表情が変わることに気付いたのだ。手に負えなくなった。

 

アブストラクトなまでに「色」と「光」が横溢している作品、色や光それ自体を写した作品は、並び替えによって最も意味が揺れ動きそうであったが、逆にミニマルさゆえに自立した存在感を持ちそうでもあり、力強さを改めて感じた。具体物と組み合わせると、ペアによってはイメージの主従関係が生まれ、しかし従属するだけでなく時には具体物を自分の色に染めたりもする。

 

熊谷作品で「光」「色」と並んで重要なモチーフ/テーマが「エロス」である。あまりに使い尽くされた言葉なので本当は使いたくなかったのだが、従来作品でも本作でも女性の肢体や顔が度々登場する。しかもスラッと引き締まった清涼感と肉感を持ち、理想的なモデル体型である。日常で遭遇する様々な光景や人々のスナップを集めた石川竜一の個展・写真集『zk』が分かりやすい比較対象になるが、両者に登場する「人間」や「女性」は、単語レベルの言葉の上では同じだが、それらを同じものと見なすことは全く不可能である。個としての人間であるか否か。政治や社会と関連する存在であるか否か。

熊谷作品で登場する「女性」は、色や光のある好ましい質感を持った流れを体現し内包するものという、モチーフとして登場していると思われる。個人の女性を写しているのではなく、ニュートラルに近いエモーションを色と光とともに宿した媒体を撮っているのだろうか。他の素材や事物ではありえない質感と存在感を持つ、唯一無二のモチーフとして。色と光を自ら放つ存在として。エネルギーの媒体に近い。

「エロス」の意味と解釈については、荒木経惟をしっかり理解していないと言及しにくいため、このあたりは今後の宿題にします。「写真の世界」において「女性」がなぜ登場するのか、なぜ女性らが一定の傾向を強く持つのか、これを「作者の個人的な好みだから」と勝手に言うとただの男子高校生トークになってしまう、さりとて教祖のように神聖視して有難がるのも間違いで、ただ、「写真」においては人間の女性が放つ色と光の質感が、何か他では(男性でさえ)代え難い重要な生命力や精神性を意味してきたのではないか、それが黎明期からずっと反復され追求されてきたのではないか、そういった観点から何かを読み込めたらと思う。

 

しかし2枚ペア、3枚トリオで写真を組んで見た時の、意味や響きの変容・変質は大変なことになった。写真の山から1枚1枚を手に取って単品で見ていた時はまだ1枚ずつの質感や色味で楽しめていたが、組になるとイメージの掛け合わせによって意味や世界観が加速度的に増幅する。増幅が手に負えない。恐ろしくさえあった。それが「面白い」と思った。

写真の可能性とは人間の理性で制御できなくなるところにある。撮るときも、プリントの際も、そして読むときも、どこかで理性のコントロールを超える・脱するとき、写真の価値が生まれる。政治的な制度の枠組みを「写真」が内側から食い破るためだ。制度を超えて、世界が現れる。

 

これら全てを写真集にしたら、2枚1組で固定されて自由度は減ずるわ、極太冊子になってページがめくりにくいわ、重くて手に取らなくなるわで、今回の鑑賞のようにはいかないだろうとは思う。だが組み合わせ方によっては謎の力が出るはずなのだ。写真の声を大きなうねりへと昂らせてゆくようなやり方が・・・。何気ない写真のランダム極まりない連続と配列に、強い魅力を感じ、別の世界を垣間見てしまった。酩酊に似た興奮と期待。理性の箍を揺さぶられ、制度の檻に閉ざされた外世界が一変してゆくのを見たのだと思う。

 

かわいい。

 

中には写真の周囲、本来白くあるべき紙の部分まで色が付いているものもあった。謎が多い。

これは消費期限切れ・年月の経った印画紙を使ったことで起きる現象だという。期限切れフィルムかと思ったが、そういうフィルムだと本当に制御が効かないから使わないそうだ。型にはめず、高い自由度で写真制作を行うが、あくまで守るべきところは制御している姿勢が興味深い。光学的な反応自体は正しく生じさせなければ、意図・変形も加えようがないということだろうか。

 

例によって結論も格言もないままレポを終える。写真の可能性と底力を思い知ったので、それで満足したのだ。若年層の人格形成期にこういう「力」のあるものに触れていたら、「将来は〇〇になりたい・〇〇をやりたい」の選択肢に「写真(家)」が入ってくるだろうと思った。私のような古い世代はもろにそうだ。今ではデバイス、生活インフラの事情から、ゲームやアニメ、動画が圧倒的で、写真への接点は微妙なところだ。

写真には力がある。本作でそれがよく分かった。その先のことは考えていないが、力というのは、良いものです。

 

 

( ´ - ` ) 完。