nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R4.12/7~R5.1/28 林直「いのちのとなり」@BLOOM GALLERY

様々な制限を強いられた新型コロナ禍の「日常」を見つめる中で、大いなる生命力を見出し、作者=写真はより大きな世界に辿り着く。冒頭の古い地球儀はその気付きの象徴である。

 

【会期】R4.12/7~R5.1/28

 

大判フィルムカメラで撮られたモノクロ写真の展示である。展示数は11点と聞くと少ないように感じるかもしれないが、そこは大判フィルム、作品によっては質感・奥行きが段違いに深く、点数以上のボリュームがある。

こうして会場記録の写真だけで見ると、ディテールが潰れることで白と黒の中に荒々しい抽象的な造形が刻まれているのが印象的だ。屋外にあるもの・自然が織り成す不規則な造形を表していて、戦前の前衛写真表現のようでもある。

だが直に写真と対峙し、画面の中に入ると、写されたもの・植物や石や木や土は質感と奥行きを持っていて、身近な「日常」の時間そのものを掴む行為であることを知る。それは前衛表現と要素の似たセレクトでありながら、「今」の時間と空間の奥行き、手触りを重視しているために全く逆のものとなっている。前衛は生活を突き放す。本作は「生きる」ことが写されている。

 

本作は新型コロナ禍で様々な行動、移動を控えることが求められていた時期に撮られたもので、作者の身近な土地・場所、物を被写体としている。直接に生活風景を写し取るような、セルフポートレイト的なスナップとも全く異なる。写されているのは作者にとって身近でありながら、実は外部にあるものだ。ここに前衛写真との要素の近接がある。

だが前衛写真が形状・造形に特化した零度の表現だとすると、本作には日々を生きることの時間と体温の奥行きがある。これ以上ウェットになれば郷愁となる、その手前で仕上げられているのが見事だ。

 

本作のテーマ性を最も感じたのが、田畑の土が無数の帯状になって掘り返された一枚だ。撮りようによっては抽象的な造形になっただろう。だがここには微細な奥行きがたくさんある。それはかけがえのない身近な田畑の営み、作者の生活を含めた大きな輪の中で、日常が生きていることの表れである。

 

2021年12月の二人展(@ BLOOM GALLERY)で発表された<きおくの記録>シリーズも、本作と同様に新型コロナ禍という異常事態の中で身近な日常や記憶を撮った作品である。だが実は撮影時期の違いがある。

<きおくの記録>撮影時は新型コロナ流行初期、今よりもずっと外出制限や自粛が厳しい異常事態だったこともあって、外には出ず、自宅内で家屋や家財を撮り、作者自身の記憶を見つめるという内容だった。

www.hyperneko.com

 

今作では同じ新型コロナ禍でも、屋外に出て撮影を行っている。

2020年の夏前までは誰もが本気で感染を恐れ、神経質に警戒していたが、1年経ち、2年が経ち、東京五輪が敢行され、緊急事態宣言と第〇波の回数と「過去最大の新規感染者数」とが更新されてゆくにつれて、人々/私達はどんどん順応していった。流行の波は回を重ねるごとに感染者数を増大させ医療の逼迫は深刻化し、家で亡くなる者も報じられた。首相も2人代わった。だが、身近な人や自分自身が感染することはいつしか当たり前のこととなった。言わば、ウイルスによって変性された異常な日々を生きる中で、それが新しい「日常」へと書き換えられていった。

 

「日常」の変異。それは日常/私達の生命(力)を肯定しきったところにある、新しいステージのひとつなのだろうか。

 

本作のフォトブックには各写真の下に1~2行の短い文章が綴られている。詩のようなエッセイのような文章である。新型コロナ禍に曝されたことで、「日常」を維持する社会システムの疲弊や限界が露になったこと、もう元には戻れないこと、もっと大きな力によって日々を生かされているのではと、感覚を新たにすること。そのような言葉である。

感染の恐怖と強い行動制限という異常事態は「日常」を顧みる眼差しを与えたが、単なるノスタルジーや感傷ではなく、本当に日常そのものが根底から変わってゆく過程でもあった。それは写真には写らないだろう。だが作者の言葉と写真の提示方法には、何かが変わってゆくことが表れている。身の回りの風景を撮るに留まらず、何かが。

闇を湛えた水面のただならぬ波の写真と、古い地球儀の写真は、田畑や木々の豊かな郊外でのスローで平和な「日常」から一転して、もっと大きなものへと接続している。文字通り「世界」、日常の根本的な変異によってもたらされた、個別具体的な地元や懐郷を超えた感覚なのか。日常の生命力を肯定したことがここへと繋がったのだろうか。

 

勿論それをもたらすスイッチとなったのは、新型コロナ禍という未曽有の危機であり、捉えどころのない「日常」を確かな質として形にし、社会的制約から解き放った写真の力でもある。

写真の力とは何か? 作者はその力を再認識し、魅入られている。静かな歓喜の写真だ、そう思うととても腑に落ちた。よかった。

 

 

会場入口に置かれたルーペとライトボックスで覗いたネガは、最初、どこかの山脈かと思った。あまりに雄大で起伏に富んでいてスケール感が全く分からなかった。展示を観ていく中で、トラクターが掘り返した田畑の土の波だと分かった。だが再びライトボックスに戻ってきてルーペを覗いたら、やっぱり田畑だとは思えなかった。

そこには依然として写真の世界の山脈が連なっていた。

 

写真は「日常」の光景、ありようを変性させる。その力はウイルスよりも根深くて強いかも知れない。

 

 

( ´ - ` ) 完。