謎めいた作品だが、作者の意図は明確である。ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』ではなく、自身が幼少期から患っていた「不思議の国のアリス症候群」を作品化したかったのだという。
【会期】R5.5/9~6/11
「不思議の国のアリス症候群」の症例については、作者の体験した症状が展示ステートメントに列挙されている。大手メディアでも記事があるのでここでは深く触れない。原因はウイルスによる炎症とも言われるが不明で、幼少期に幻覚や視覚の変調を来し(色、サイズ、遠近感が狂って見えるなど)、その後多くの場合は一過性で症状が消える。だが稀に成人にも症状が見られるという。
だが症状に囚われてはいけない。ステートメントの言葉は病状に対する距離感があり、作者はその上に乗って歩みを進めていて、前向きである。病状を再現して苦しみを訴えたり社会的認知を図るためにではなく、特異な体験を切り口として独特な表現世界へ――今や症状の減退した作者にとっては古い故郷の記憶のような世界へ、至ることを試みたものとして見ることができる。不思議な世界と言えば避け難い代表作『不思議の国のアリス』を経由せずに、「不思議の国」を木村オリジナルで写真によって表出しようという試みとも言える。
本作における「不思議の国」の不思議さとは、静かで整った中に生じた狂いにある。フレームは一切曲がっておらず写真の形はしっかりと保たれている。写された像もまた歪みがない。矩形、水平・垂直の律が乱れることはない。例えば統合失調症、LSDやマジックマッシュルーム、飢餓や睡眠不足、事故のPTSDなどがもたらす幻覚や知覚異常のような、混乱と恐怖で認知のフレームが歪む、侵される、破壊されるといった類のものとは一線を画する。
病状は入口である。もしくは記憶であり、憧憬である。本懐は正常な律の中に生じる狂いの妙味だ。DJが曲の途中で一瞬別の曲にスイッチさせたり巻き戻して反復させたりフェードイン・アウトを繰り出すように、フレームを保ったままその大小や配置がまず操作される。
本展示が特徴的なのは、しっかり矩形を保った写真が様々なサイズで、大胆な大小差によりリズミカルに展開されることにある。インスタレーションと通常の平面的な写真展示との間ぐらいにある。写真よりも壁面の方が大きく、写真の中身を観ているというより、写真間の接続や配置の意味を見ることになる。
個々の写真は独立しているのか、連なっているのか、狭まったり細長く伸びたり縮んだりする写真の連鎖は、「不思議の国のアリス症候群」の特異な知覚体験を参照していると知れるが、非常にスタイリッシュかつ抑制が効いているため、病状ではなく映像文法上の変容として捉えられる。トーンを抑えたモノクロ調、しっかりした矩形、ブレのない像は、写真の文法を守った状態でその語りの中から「不思議の国」へ至るものとなる。整った水平線とフォーカスの内側に生じた異変は、東西南北の定義が部分欠落したGoogle Mapのように、確からしい狂いを見せる。
写真が導く「不思議の国」とは、見るもの全てがあるべき姿から前後左右なり奥行きなり、あるいは像の一部や意味のどこかが、例えて言えば90度ないしは180度ひっくり返って現れる。
餅?生地?に掌を乗せた1枚はその典型例だ。
この作品を会場で見た際にはあまり違和感はなかったが、こうしてPC画面から確認すると生理的に何だか気持ち悪く、何かが猛烈におかしいと感じた。調べていたら本来の作品から上下逆、180度ひっくり返して展示されていた。
世界のどこかが90度/180度傾いて、意味や規則・法則が部分的に/全体的に狂っている、だが世界の型そのものは強固に従前通りのために、その狂いに気づいた時には、私達はその中に入り込んでいる。キューブリックの『シャイニング』の如く、いつまでも続く廊下の矩形の強固さゆえに取り込まれて、館内で起きる狂気から逃れられずに硬直したまま目を開いている観客のように。
幻覚や視覚、スケール感の狂いというともっと気持ちの悪い、酔うような不安定さと歪みがつきものだと思うが、本作ではフレームと文法の調律が強調されていて、目と意識が完全に醒めたまま異世界に立ち入っている。ついには本来の視界/写真には映ることのない世界線すら姿を現す。
文法と認知のメタな基底部を取り結ぶ約束事の線、そこから先は夢でも現実でもない、もう一つの第三世界へ、すなわち創作の世界へと続いてゆく。だが誰が作った世界なのか?作者の意図と手を離れたところから生じてくる外部に他ならない「不思議の国」は、誰のものともつかず、閉ざされていると同時に開かれてもいる。
この世界は誰のものなのか?アリス不在のままに歩き続ける。
写真は壁に対して水平面を共にして寄り添うだけではない、90度立ち上がって直交もする。日常のワンシーンが立体となって真横から刺さってくる。上下左右の空間認識を無視してやってくる、真ん前を見ているのか足元を見下ろしているのか、天地無用の約束事は失効していて距離感は掴めない。ですがお使いの視界は正常です、引き続き日常をお過ごしください。
創作とは何なのか? アリスがいないのでその答えは自分自身に返ってくる。木村和平に対してではない。木村は不思議の国の建築物を作ったのであって、その中にいるのはいつの間にか「私」である。これは自己の外部と内部の掛け合わせから生み出された世界のことだと思う。それは分かっている。
外部とは? 内部とは? その境界は。それらを分界し、あるいは統御する「私」が前後上下左右の定義を失う中においては、何が「世界」であろうというのか? そこに線を引こうとする行為が創作なのか? 光輝く線はどこから来たのか。
外部と内部ともう一つあるとすればそれはやはり作者が引用するように、ルイス・キャロルやヤン・シュヴァンクマイエルといった先行する作家の拓いた創作の世界なのだと思う。それらは時代を超えて連鎖して呼応し、個人的認知や記憶の基底部にメタレベルの構造として宿り、そして次の創作世界を呼び起こすための文体を形成する。
たぶんそれらは全般的に祝福されている。創作の世界の喜びへ、ようこそ。だから本作は症状や病気の作品ではなく、もっと開けた、得体の知れなさを喜ぶためのものなのだと思う。
( ´ - ` ) 完。