nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R2.12/18_内倉真一郎「私の肖像」@BLOOM GALLERY

内倉氏の名と代表作は写真新世紀やEMONの受賞などで、Web越しに度々目にし、神秘的なムードを湛えた赤ちゃんの写真が印象に残っていたが、まとまった数の生作品と対面するのは初めてだった。

本作では表情以前の表情、喜怒哀楽のどれにも当てはめられない、意識の追いつく前の顔と身体が現わされている。それは仏像のような佇まいだった。

 

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【会期】2020.12/5(土)~12/26(土)

 

何の情報も持たず作品と向き合うと、実に奇妙なポートレイトだった。

人物をスタジオ撮りした作品ということ、ポーズや衣装から演出的な作品であることは分かったが、一人一人の表情が不思議なズレを起こしていて、直截に言えばどこかが「狂っていた」。内面から興る狂気ではなく、外部・他者=我々の了解の下で「あるべき」相貌から、微妙に外れていた。それぞれの人の内にある個々の時間が震えるように止まる、その振幅のひとコマが写し取られている。

 

会場の奥の入り組んだ部屋は、肖像がずらりと並び立つ。モノクロの人物らに囲まれて部屋に立つと、緊張感と静けさがある。

 

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ステートメントに撮影方法と、そこで生じていることが明確に書かれており、独特なのも納得した。

私は写真館で働いている。記念写真を撮り、その後、お客様にお願いをして作品を撮る。(略)私は、約5分から10分の間に、500カットから1000カットの連写撮影を行う。すると思いもよらない、無意識の中にある表情が写真に現れてくる。それは、肉眼では確認できないさらけ出された表情、あるいは体の原始的な微妙な仕草。

街頭でのスナップ写真に置き換えると解りやすい。予期せぬ瞬間の、誰のものでもなく、何の表象でもない無所属・無属性の時間を彫刻のように切り出したり、狩猟のように捕獲・狙撃する行為がスナップであると定義するなら、内倉氏がスタジオで挑戦したのはかなり近い意図・行為だろう。商業的なスタジオ撮影だから正解例しか撮ることができないというわけではなかった。ごくごく限られた空間とセットの中にも、誰にも所有できない、予期せぬ2つの時間が隠れていたことになる。

 

一つは身体の時間である。まさに個人の意思や反射の及ばない、身体が意識に置き去りにされたところの姿が現れている。被写体にとってはどこを切っても「私」であるはず、あるべきはずが、写真は冷徹に時間を分解し、「自己」と身体とが必ずしも合致していないことを暴く。意識とは身体に遅れてやってくるのだろうか? 

もう一つは、流通外の写真の時間である。流通する写真、すなわち商業目的で納品される写真は、クライアントの期待と要望に応じるために正解分をセレクトされた後のものだ。だがここで作者が試みるのは、あるべき正解から外れた、本来は棄てられていた時間――流通しなかった大量の写真から、無為で無意識なる瞬間を選び直す行為だ。

 

ここで、写真の再選択に動員されている選択基準は、絵面のインパクトや面白さだけではなかった。どのカットも特異な表情はしているが、静謐な力があった。本人の見た目のキャラクターや属性、区分を裏切り、かわしつつ、いち私人として手の届かないところに居るような、精神的な遠さを感じさせる。そういう、空虚の方角を見る眼をしていた。

 

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彼ら彼女らを凝視する私=鑑賞者に対し、被写体の人々らは非対称的である。姿かたちを克明に写し撮られ、顔もそこにありながら、その眼はこの世界のどこにも向けられていない。ポーズもまた視線と同様に言語として効果を発揮していない。確かに像としてはそこにいるのに、存在感としてはこちらをすり抜ける/こちらがすり抜けてしまうような不確かさでそこにいる。

 

似たものを思い出した。仏像である。

寺社仏閣、三十三間堂などで対峙した菩薩、仏像、神将らと似ている。こちらからはその姿かたちがはっきりとモノとして見えている。手を伸ばせば触れられるだろう。だが向こう側の眼には、私のような者は眼中にない。見ているのは現世ですらない。半眼の向こうは、虚空だ。

本作の立ち並ぶ肖像は、被写体の主観と、その意識の追い付く前の身体とのズレに着目し、モノクロ写真によって時間性を奪って凍結させ、眼を虚空へと連結させている。現在にいない、私とは出会いながらすれ違う、その感覚は仏教的だと思った。

瀬戸正人『Silent Mode』(2018や2020の方、山手線の乗客を撮影したのではない方)が、長時間露光によって被写体の存在を朧気に、嗜眠のように表したのとは対照的であった。それはあくまで被写体に内面があり、その個人の中で揺れているようなイメージだった。内倉作品では頭頂部から膝ぐらいまで、ほぼ全身を撮って暗闇に浮かび上がらせているところが、より仏像らを連想させたのだろう。

 

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ギャラリー手前のショールーム側の壁面に並ぶ小さい写真群も、個々人のユーモラスな、自由な自己演出に委ねながら、奥の部屋と同様に、不可思議な表情が撮られている。まとまった点数と向き合うことで、作者が生まれたままの/生まれる以前の、意識無き彼方と体とが繋がる、原初の瞬間を求めてシャッターを切っていることを理解した。『baby』(2017)、『十一月の星』(2018)では生まれて間もない我が子を被写体としていたが、本作では不特定多数の老若男女を相手にしているため、一気に舞台が広がった感がある。

 

面白かった。

 

 

( ´ - ` ) 完。