【写真展】赤鹿麻耶のオープンスタジオ @ビジュアルアーツギャラリー大阪
名の通り、学校のギャラリー空間を作家の常駐作業場とし、滞在自体を作品化した取り組み。空間が写真に覆われる。
【会期】2020.1/20(月)~2/26(水)
会場は前室と本会場の2室から成る。前室はアメーバのように意味と額を越境して溢れ出す「写真」の営みが、容器いっぱいに薄く広がっている感があり、物理としてはすっきりと平面である。平面だが、作者の撮影した写真だけでなく印刷物も混在し、連想ゲームより先に次の意味が次の意味が押し寄せてくるので意味的には無意味、無秩序に近く、イメージは隙間を確保され配列を施され、つまり秩序を宿しながらも、スピード感と小刻みなジャンプによって並び・構成は編集の地形として立ち現われ、イメージ群の意味を考える行為自体がアクロバティックに自立、意味と記号に迷い込むことのトリップ感が爽快さを帯びる。
壁と床は写真だらけだ。会場のどこを切り取っても全体は掴めず、だが部分を任意の意味の塊で切り出すことは難しく、部分と全体の定義が流動している、その中を眼で歩いてもその中で眼を留め置いても、写真を見ても写真だし写真を観なくても写真がある。その場に居ること自体が写真なのだろうか。「写真」とは撮影行為、現像・プリント行為、そして出来上がった平面の映像自体のことを主に指す。本展示ではその定義を延長させ、平面の映像を展示すること・空間に張り巡らせること自体をも「写真」として表している。が、ここには作者の作による「写真」だけでなく前述のとおり既成の印刷物もふんだんに混在し、文字も多い。なので空間を写真で覆う、写真のオーバーフローつまり前衛のようでいて、写真の域を更に拡張した「編集」の空間化、理路整然とした試みだと実感する。
本室は広い。写真が額装もなく配置は壁面の全域に及び、大小のイメージは瞬くように散りばめられているのは前室と共通している。だがイメージの密集した前室とは打って変わって壁面にはテーマ、撮影地ごとのゾーニングが、かなりの秩序が存在する。写真同士の間合い、リズムや強弱、テンポ、部屋の中に居ると一見無秩序めいたイメージのきらめきの中を歩き回ることになる。イメージを渡りゆくとき国の違い、風景の違いは感じるが国境はなく、空気もどこか均質だと思う、これらの写真は現地そのものをドキュメントしていない、撮影した作家のことも語らない。写っている人物たちが自分で撮ったセルフィーの群れのように表示されている。
至近距離では無秩序に見えた写真の配列は、時間をおいて少し離れて見てみるとコンテンツとメディウムの関係、個々の写真同士の関係が調律されていると分かるので、氾濫・破綻した空間、あるいは物理が溢れる場にはならない。やはり編集の場だ。展開されている写真は一枚ずつの写真としての可算名詞で、壁や床と「写真」とは分別ができる。この展示は前衛やインスタレーションではないと。雑誌やZINEの編集行為にかなり近い空間で、撮影の眼よりも編集の眼が効いてくる。紙面において行う編集としての写真行為を空間の立面に置き換えているのならば、なるほど歩を進めながら目で追う際に何となく流れや起伏が感じられるのも納得だ。
写っているのは滞在先の海外の都市、スナップ的な人物写真が主だ。ポートレイトよりも更にフラットな、人物のスナップ、それは瞬間の擦過傷ではなく、掠め取る狩猟行為ではなく、現代では不特定の外界を作家が受け止め、留める姿勢のことを指している。ファッション誌の一コマのようなスナップには、被写体との合意形成があり、それぞれの写真には被写体の主体性が姿として出現する。
だから様々な地域の様々な人達が生きている状況がこの一室の壁面に点在し、一斉に表示されている様子は、拡張されたSkypeルームのように同時多発的な通信の状況を呈している。作者はその管理人となり、接続の安定稼働と次の新規接続先を表示させるための整備を担う。実際の作者は今、そこにいる。現場に滞在して作品を作り続け、展示を増殖させる。背を向けて端末に向かうその姿はサーバールームでネットワークの保守を行うように静かで匿名的で、オーラとは無縁だ。この空間は前衛ではなく通信に近い。ただしどこまで行っても写真は写真で、写真同士においての共鳴はあるだろうが、通信とは個人的な比喩だ。写真自体は、窓だ。被写体となっている当人らは通話状態を知覚できない。ただこの空間を内部から俯瞰する観客のみがその被写体らを接続し、通信としての状況を成立させる鍵となる。
同一壁面で並ぶ写真の左右や上下における関係性を想像する、想像しても埋め合わせがうまくいかないのは、作者と被写体との間にある私的な関係を読み取ろうとするがゆえだろうか、それでは通信が成り立たないのではないか、被写体を被写体としてではなく、それはTwitterやLINEグループ上のアイコンのように自らトーカティブに立ち上がっている主体、インターフェイス上のユーザーとして見る方が適当なのではないか。向かい合う壁面同士で、バラバラな人々を空中接続してみたときに、どんな会話がありうるだろうか。写真そのものは無音でも、観客側に搭載された通信インフラのしぐさによって、声を想起することは今後さらさらと可能になるかも知れない。
W・ティルマンスの次の時代へ向かうための試みとして想像する、もちろんその系譜上の子孫としての編集行為として見るのも大いに正しい。人間の内面および創作物を規定するのは、インフラだ。2020年代にはそれなりの、20年前、30年前とはまた異なる創作と解釈が可能となる、そうだと信じたい。
本作は作家の滞在によって新陳代謝が為され、日々、内容が変化したことだろう。私が居合わせたのは会期のちょうど真ん中頃で、この後会場がどうなったのか、自己増殖からカオスへと傾倒したのか、この間隔を保っていたのか、想像するのみである。
( ´ - ` ) 完。