眼を閉じて、瞼の裏に浮かび上がる闇と像を油絵で描いた本作は、写真機の介在できないゼロ距離での「見る」行為や現象を可視化したものだった。心象光景ではなく、具体物もない、色と明暗の中にある視界である。生理的印象派、という造語が思い浮かんだ。
【会期】R3.8/31(火)~9/18(土)
それは具体的なモチーフを持たず、色とも言えず、景色と闇のあいだ、物体と空間のあいだにあるもの――視界として漂っている。全体が濡れて波打っているのが肉感的でもあり、「眼を閉じたときの、瞼の裏」という状況にふさわしかった。
作者の作品を以前に観たことがある。2017年「KG+」での展示《essence/風景》である。映像作品だが、それよりも置かれていたポートフォリオにあった、女性のおぼろげな後ろ姿の写真作品に強く意識を奪われた。作品名を記録していないが恐らく《jewel》か《SURFACE/フンイキ》だと思う。数百枚の写真データをそれぞれ不透明度1%のレイヤーとして重ね、合成して1枚の画像にしたそれは、「見る」「撮る」「写る」といった写真的な話法ではなく、不確かな光の靄の中で浮かび上がる気配、「見えてしまう」何ものかについて語っていたように思う。
本作は《jewel》《SURFACE/フンイキ》の路線を継承しながら、その先にある「見えてしまった」現象、意識を介するよりも先に知覚されたものを表している。色を順番に塗っていくことで作られた平面作品なのだが、ピントの合わない眼の働きを強く連想させる。瞼の裏の様子や、真っ暗ゆえに浮かび上がる視覚の知覚経路を描いているものと捉えることができる、妙な生々しさと抽象的さがある。
福田作品の紹介には常々『本来とは異なる時間軸や時間幅、空間層について発表している』との解説が付されている。「異なる 」とは何だろうか?
それは「見る」ことと「見えてしまう」ことの違いであり、作者がこれまで後者に着目して作ってきた、ピントの遠近の飛躍に起因するあろう。
《jewel》《SURFACE/フンイキ》では、女性の後ろ姿という「像」を「見る」=「撮る」ことがスタートであり土台となっていたが、今回では写真機が介在できないほど網膜に肉薄したゼロ距離からのヴィジョンを求めている。
それは「見る」という意識的行為に先立つ、あるいは意識より遅れて入ってくる「見えてしまう」という知覚の生理現象だが、外部から測定できず、共有もされ得ない。それが本来/一般とは「異なる」時空間という意味なのだろう。
言うなれば、生理的印象派。
他者との共有や比較、他者への提示が不可能ゆえに「印象」に限りなく近い生理機能の結果であり、同時に、それをポエジー抜きに表そうとする筆致の科学的な態度が、本作をメタ・写真行為のようなものとして浮かび上がらせている。そう考えると、これは絵画なのか写真なのか、カテゴライズが揺らぐところが興味深い。
仮に、眼の代わりにカメラを搭載したとしても、このヴィジョンは撮れないだろう。眼の機能自体を客観視しながらトレースして写すような機構が必要で、むしろカメラを諦めて、網膜に印画紙や映像素子を埋め込むべきか。それでも、本作のような色や揺らぎは出ないだろう。眼より奥の、脳にあたるところが「見」ている知覚、その生理現象が引き起こす印象のヴィジョンなのだから。
毎回blogで言っているが、写真にすると実際の作品・鑑賞体験とまた違ったものになってしまう。本作は顕著で、肉眼ではこんなに明るくないし、新印象派のような質感ではない。もっと曖昧模糊とした体験で、こちらから観るときのピントの置き所のないようなヴィジョンであった。
( ´ - ` ) 完。