nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【ART】R3.9/7~9/25_森栄喜「シボレス|鼓動に合わせて目を瞬く」@Calo Bookshop & Cafe

影が街の中でコミカルに動きを見せる。誰に向けてそれは放たれているのだろうか。誰にも向けられてもいないのだろうか。誰がキャッチするのだろうか。公の空間に投げ込まれた影と信号が、人のいなくなった都市に響く。

個人が支払い続けている犠牲としての公的な言葉から、そっと抜け出すような映像だ。

 

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【会期】R3.9/7(火)~9/25(土)

 

私たちの小さなサクリファイスから、パブリックに向けて。

栄喜のコミカルに動く「影」を見ていると唐突にそんな言葉が衝いて出た。

 

 

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影は静かに立っているが、おもむろに手旗信号のように胸から上、特に手と腕を動かす。動きは単発で、振り下ろしたり振り上げる一動作で留められる。遠目にも分かりやすい。日常動作でも屈伸などでもないその動作は、映像作品だと分かって観ているから意味を求め期待して見ているわけだが、もし屋外で目撃したならより一層、何らかの目的があってのものだと読み取っただろう。

 

よく影の伸びた、明暗のはっきりした天気と時間帯だ。作者のみならず街そのものの影もしっかりと伸びていて、街という空間が複層化したように見える。影の密度ゆえに、公共の場としての確かさはほつれ、紛れ込ませた一人称単数形「私」(作者)は、私的さから離れ、記号や標識に近づく。「手旗信号」の喩えはそのためだ。

 

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この「街」は平常ではない。本作は2020年3月~5月、新型コロナ禍というものに本格的に直面し、初回の緊急事態宣言の出された東京の街中で撮られている。新規感染者数、重症者数、病床利用率などの数字上ではあらゆる面で、2021年7~9月現在から思えば比較にならないぐらいささやかな状況だったが、しかし国民の精神的には最も警戒し緊迫していた頃だろう。

我が身を守るだけでなく、人からうつる・人にうつすという「感染」の疫学的な原理に基づくため、公(パブリック)の安心・安全という健全さを取り戻すために大号令がかけられ、個々人の外出、行動には大きな変容と自粛が求められた。あくまで自発的行為を旨とするアナウンスを巧みにあてがわれながら、しかしそれはロックダウンを回避しながら社会全体の動きをコントロールするための、実質的な社会的指示である。

ガラガラの通勤電車で出社するのも、出社を禁じられて家から電話やZoomで定時連絡を入れるのも、マスクを買いにいき着用するのも雇用先から配布されたマスクを着けるのも、体温計を買うのも計るのも、自由意志というより誰かからの要請であり、ルールであり、実質的には義務であった。現在であればワクチン接種が類似のトピック(要請)である。

 

個人的には、コロナ禍にあったこの1年と数か月は、私的な犠牲の積み上げを、自発的意思へと偽装しながら支払ってきた実感が強い。誰のために? なにものかの――「公」:政権でも都道府県でも、リアル警察でもマスク警察でも、社長でも同僚でも近所の人でも、見ず知らずの通行人でも乗り合わせた他の乗客でも何でも良いが、そうした「私」ならぬ「公」からの、何かしらの要請である。そして同じぐらい他の誰かに、私的な犠牲を積み上げさせてきたということも、また然りだ。

 

本作はその渦中にあって、誰にも犠牲を積まさせずに、つまり公用語による公的なニュアンス:自粛的犠牲の要請を含むことなく、日常生活を確かに生きていることを伝えるための秘められた言葉として繰り出されている。

 

会場では文字の印刷された黄色いペーパーが配布されていた。詩だなとしか思っていなかったが解説をよく読むと、映像内で繰り出される手旗信号的な動作は、この15項目のシーンを身体の動きに変換していることが分かった。

 

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万人に共通するコロナ禍での日常生活のワンシーンのようであって、そうではない。初手から『眩しいまつげにおはようを落とす』『チューリップを片手で包む』『2つのマグカップを運ぶ』と来るが、例えば私個人であれば、朝日の差し込みの悪い部屋に独りで寝ており見るべき睫毛はなく、花など勿論咲いておらずガジュマロの鉢しかないし、当然マグカップは1つで足り、ましてや面倒くさいので水道水を掌で掬って直接飲んだりしている。牛乳を「ミルク」と呼ぶのはコーヒーを注文する時ぐらいだ…

このセンテンスの群は一見、誰にも共通する汎なるシーンのようでいて、実はかなり個別具体的な関係性と文体であって、詩であり、映画のように特別に選択され磨かれて映し出された、作品としてのシーンである。

 

だからこれらの15のシーンは、作者がこれまで写真集《intimacy》(ナナロク社、2013)などで表してきた、親密なる人・大切な人との時間と関係、その間に流れるものへの想いと考察が、写真の領域を越えて総合的な手法でアウトプットされたものだと読むことが出来る。

 


写真作品においては、それが性別・性差を越えたもの、同性パートナーとのひととき、愛のようなもの(そして狂気か?)であることが明示され前景化していた。本作では性差の話題には触れられていないが、これまでの森栄喜の活動を知っていると、15のシーンは文字からすぐ写真の映像となって連想されるだろう。

 

私は見逃してしまったのだが、本展示のひとつ前の会期にて、同じテーマタイトル《シボレス》を冠する、音声のみの展示《シボレス|破れたカーディガンの穴から海原を覗く》があった。動画は別会場のものだが紹介する。

 

 

雑踏の中で何かが語られている。いや、かき消されそうな中で、不明瞭にたどたどしく、読み上げられている。自分の言葉ではないかのように。これは、年齢や性別、国籍などバラバラの出自を持つ作者の友人・25人が、それぞれ母語ではない言葉を発話しているという。

 

「シボレス」の意味は、本作では「合言葉」として用いられている。もう少しその語彙を確認してみると、「(特定集団の)特殊な言葉・発音」や「政党などの標語」といったニュアンスがある。

特定の人種や民族などを判別するために用いられる言葉のこと。シボレテは歴史上しばしば、虐殺の対象を選別する際に用いられてきた。シボレテはヘブライ語で「穀物の穂」や「川の流れ」などを意味する語だが、「士師記」によると、ギレアデ人がヨルダン川を渡って逃げてくる人々にこの語を言わせて、「sh」の音が発音できなければエフライム人だと判断して殺害した。

<引用> シボレスとは何? Weblio辞書

 

公的な場で、公/社会からやってくる言葉、そして私達が社会の構成員として誰かに伝える言葉が、種々の犠牲への要請を孕んでいる現在において、親しい間柄の誰かに向けた、私人間にしか通じない身振りによって、さりげない伝達を行うこと。物理的な移動・外出、そして集会や交流さえ制限されている今、その意味するところは大きい。言葉やコミュニケーションは誰のものなのか、という根本的な問いかけである。

 

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vimeo.com

 

作者のHPから本展示の動画作品を部分的に観ることが出来た。じわっとしていていいですね。盆踊りやパラパラの練習ではない。

でも分解すると動作としては似ている。あの「内輪ノリ」の集団的熱狂には、「身内にしか通じない親密な(脱公的な)言語」が高速圧縮されていたのだとすると、それもまた本作とは逆ベクトルで「公」の要請を突き抜けていくものであると言える。そして逆に身体動作の記号性を規律・管理すれば、北朝鮮ナチスドイツの軍律の美にもなる。様々な気付きを催させる作品だ。

 

 

( ´ - ` ) 完。