アートホテル「BnA Alter Museum」でのアーティスト・イン・レジデンス公募・展示企画。アーティスト5組(みょうじなまえ+林航、Teom Chen + INTA-NET KYOTO、阿児つばさ、藤田クレア+白石晃一+石川琢也、久保田荻須智広)が各階のギャラリースペースで作品を展開する。
- ◆エントランス:みょうじなまえ+林航「ファミリー・ゲーム」
- ◆Gallery1:Teom Chen + INTA-NET KYOTO「干渉」
- ◆Gallery2:阿児つばさ「a? Fê G pop (簡)」
- ◆Gallery3:藤田クレア+白石晃一+石川琢也「過干渉の行方」
- ◆Gallery4:久保田荻須智広「12 white inventories」
アートホテル「BnA Alter Museum」では毎年、毎日、だいたい何かの展示が行われていて(会期が比較的長期に亘るためでもある)、デジタルとアナログの入り交ざった3D空間的な、平面や動画やオブジェやらが相互作用的に組み合わさった作品がエントランス脇の展示スペースに出されている。ジャンルは何と言えば良いのか、大雑把に言えば若手、気鋭の「現代アート」と呼ぶことになるが、ミクストメディア、なんでもありの自由度の高い作品が展開されている。絵画単品を並べるような展示はない(今後変化球はあるかもしれないけれど)。
今回の「AIR3 SCG」もその路線にあり、気鋭の若手アーティストらが自分達の表現したいことをわりと自由に展開していて、エントランス横の展示は準備中か完成形か分からない 。「AIR3」というのはレジデンス展示企画の3回目にあたり、「SCG」は「stairscase gallery」、ホテルの階段型ギャラリーの名称だ。展示名からして電子記号的に情報が圧縮されていて容易ではない。展示の敷居が高いという高低差ではなく入口そのものが分散・散逸、蒸気化している感じがある。会場も作品も。
展示品を単体で見ているだけでは全く分からない。同業者とか美大上がりならコンテクストや系譜を掴めるのだと思うが(どうなんですかね?)、私はそういう出自を有していなくて写真齧った勤め人なので非常に一般的な(アート界隈から切り離された)モノの見方と文脈しか持たず、大人しくステートメントを読みながら見ます。まあ日本語が読めれば大体のことはわかる世の中です。そこはアーティストも心得ている。
なお入場料は千円、売上の20%がアーティストに還元されるという。
ちなみに1F・2Fでは別のアーティストの個展(BALL GAG「Hype(Loop)Core」)が同時開催されていて、うっすら反射している裸の人物の群れの写真だが、ただでさえどこからが誰の展示なのかが分からない中で別の展示まで混ざっているのだから、一層の混線状態にある。実際、2Fまで見てそのまま帰りそうになったが、サイトの説明文を何度か読み直して「AIR3 SCG」をまだ見ていないことに気付いたのだった。あぶねえ。
「AIR3 SCG」のアーティスト5組の展示場所だが、ホテル入口の展示スペースと、建物外側の非常階段にある踊り場を拡張したギャラリースペース4ヵ所になる。ギャラリーと言っても中には入れない、展示物を入れた部屋(2階層分の縦長なスペース)が全面ガラス張りになっていて、それを外から見上げる・見下ろす形で鑑賞していく。
では順路通りに紹介していこう。
◆エントランス:みょうじなまえ+林航「ファミリー・ゲーム」
エントランスから何やらスーツケースがぶちまけられ、鎖がのたうち、上を見上げると家のオブジェが鎖に巻かれている。モニターでは陣取り合戦のように左右から手が伸びてきて「家」を作ったりどけたりしている。共同作業で家を作っているようでもあり、時に激しく互いに譲れぬ我を競い合っていたりする。どうもポップさの中に不穏さが刺さっている。
この不穏さの謎はステートメントで明かされる。作者とパートナーの作者の姉とは20年近くも共同生活をしていたが、今回のレジデンスで1週間家を空けた際に姉とパートナーが大喧嘩をし、帰る「家」を失ってしまうような感覚に襲われたことが作品に反映されているという。
「家」・家庭や家族は当たり前のように、不動のようにして日々そこにあるが、実は構成員らの感情や政治などの力関係、バランスによって成立していて、些細なことでバランスが失われると「家」の形は簡単に崩れてしまうことが表されている。家族も、血の繋がりがあろうがDNAがどうであろうが、他者同士の集まった社会であることに変わりはない。作者は皆が大人の対応コーティングで隠蔽しているそうした関係性の歪なリアリティを、こちらの負荷にならないぎりぎりの丸みと柔らかさで表出してみせる。
「みょうじなまえ」というアーティスト名と作品には不明確ながら覚えがあり、恐らくは旧態依然とした男性優位的なジェンダー観や家庭・家族観に対する疑義が表明されており、それはフェミニズムの文脈に則るものでもあった、ような気がする、といううろ覚えと直感で展示を見ていた。大まかにはその通りであり、フェミニズムだけでは語れない部分も過分にありそうだと思った。
その直感が是であったと知ったのが同時期に大阪・南森町で催されていた個展「I'll give you a name」だ。
この鎖に巻かれた宙づりの家に刻印されたQRコードからは、今回のレジデンスで京都に滞在した作者の日誌(日記)が読めたのだが、読み進める目と指を止められなかった。先述の姉とパートナーとの揉め事に加えて、極度に生真面目で、対人関係が苦手で、しかし何とか人と交流しようとする様が克明に記されていて、私がそういう体験をしたかのような重ね合わせ体験を催された。
実際私も作者と似たような感じで、少しでも慣れない人と関わるとなると、変な汗をかきながらフリーズ寸前でぎこちなく生きているのだが、社会人生活が長くなるとそういった外れ値を拾うようなことはせず、全部雑に流すライフハックだけ身についた気がする。
◆Gallery1:Teom Chen + INTA-NET KYOTO「干渉」
本来は観客参加型かつ観客の干渉結果を学習する作品だったが、会期の終盤だったため、その関与の成果(録画)をアウトプットする形となっていた。
観客は磁石のついた棒をセンサーに近付ける。するとプログラム/画面内で踊る二人の熊的な仮想人物「ボーグオ」が干渉によって動きを変える。身体動作の生成には既存のAI学習モデル「chor-rnn」や「dance 2 dance」が部分的に用いられ、特定の特殊なダンススタイルを生成するために台湾のダンサーのモーションキャプチャーも学習に取り入れられているという。
事前に集められた動き・踊りの学習と、不特定多数の観客がもたらす予期せぬ「干渉」とが相互作用して「ボーグオ」は新しい動き(踊り)を獲得していく。ぬるぬると手足を動かす、やはり重み(人間に宿命的に強いられている体の重さ、重力に圧倒的に支配・制約された動き)は乏しいが、各部の関節を軸として動いているので人間ダンサーとしてのリアリティも持ち合わせている。人間を完全に正確に再現するよりも、CG、演算くささが残されている方がキネティックアートとしては面白い(初音ミクはなぜ愛されたか?)。
作品紹介インタビューで作者がゲーム制作、プログラミングを通じた作品制作について、庭や水槽を作ることに似ているとして、生態系という言葉を用いて語っていた。データ世界側にも当然に「自然」があるという感覚は、私(の世代)では持ちえないもので、非常に興味深い。その自然観は落合陽一に連なるか。
◆Gallery2:阿児つばさ「a? Fê G pop (簡)」
手前に鳥籠のような木箱、背後の展示スペースには長い木の幹が立てられている。ガラス面が外の風景を反射していると作品とは気付かないかもしれない。木材は「木簡」で、もう1フロア分上がったところからよく見ると白い文字が書いてあるのが見える。
小箱の中には和紙でできた冊子があり、来場者が自由に描きこむことができる。木簡、和紙、自由記載という発想は、2011年の東日本大震災の原発事故以来の電気を使うことへの問題意識も触れられているが、素材として「木」(木材)へ強い関心があったのではないかと思わされる。作品解説インタビューの大半が木、紙と、それを育てたり記録メディアとして用いてきた人との関わりについてである。
「AIR3 SCG」会期前の2023年8~9月の個展「scenario」、会期中12月の「day scenario」を見るとよくわかるが、作者は間伐材の切り株をギャラリーに並べている。また鑑賞者と1対1で「作品解説のようなもの」ツアーを行う、「風景を共有するための」パフォーマンスを行うなど、木材、鑑賞者、コミュニケーションを軸とした「場」そのものを作品としているようだ。このスタンスは今回の作品に通じる。
てなわけで和紙の寄せ書き集に筆ペンを添えられて「ご自由にお書きください」などと言われたら、そら、書くですよ。しかし会期末なので宿泊者らがさんざんページを埋めた後で、僅かに残った隙間を探し出し、忍び込む、hyperneko。みんな芸達者で、絵がうまい。和紙は上品でよいですね。やる気がDELL。ウオオ。
しかし駅ノートといい、こうした訪問者の寄せ書き集はよく考えると謎だ。時間差のコミュニケーションということになるのか、書いた本人はそれを読む人と直接にリアクションを交わすことがない。何に対してコミュニケーションしているかというと、自分の場合は書き溜められた不特定多数の絵と言葉=思いに対してだったと思う。時間差ライブ会場と言うべきか、蓄積、保存された熱に対して反応した。紙メディアは時間差で同時性のあるコミュニケーション場の生成を可能とするらしい。
コミュニケーションの場。それが作者の作り出すものだったのか。
展示スペースは2階層分に及ぶ背の高さで、ガラス面に風景が反射して何が入っているのか視認しづらく、作品本体のはずの木材がよく分からないことになっていた。ギャラリースペースで直に提示されたら迫力が違ったと思う。(アートホテル=宿泊者向けの会場、夜に見るべき会場ということだろうか)
◆Gallery3:藤田クレア+白石晃一+石川琢也「過干渉の行方」
円形の台座に刺さった石がゆっくりと回っている。縦に長いスペースの天井からは石が吊るされている。石の回転速度は皆まちまちで、大きな変化はないように見えるが恐らく10秒後、20秒後、30秒後にはそれぞれの石が最初とは異なる面を見せていて、別の風景があると思う。だが最初からそれぞれの動きを追おうと凝視していると逆に全体の変化に気付けず、変化を見落とす。
よく見ると石には半透明の色のついたプレートが差し込まれていて、これを元にすれば「石が回転する」以上の、色、絵画、オブジェと自然物、支持体との関連性、自動運動と作品との関連性などが考察できたかもしれない。川の流れという自然の力で作られた石の形状について、360度回転によって考えることもできるかもしれない。
が、如何せん作品との距離がありすぎてそこまでの考えには至らない。距離感を考えると、回転する石の表情の変化、個別の回転速度と全体の時間との関連、回転する台座の石と天井の石との対比(動力vs重力)、などということになろうか。
SCG、展示品を一望するには良いのだが、踏み込んで考えようとすると距離感が難しい。アーティスト側もこの特殊な距離感とスケールで制作・展示することにはさすがにチューニングしきれていない感がある(当然だ)。通常の展示空間で見たらどうなるだろうか。
◆Gallery4:久保田荻須智広「12 white inventories」
最も見辛かったのがこちらで、ガラス面に光と風景が映り込んで作品が見えない。作品と壁が白地である上に、作品は入れ子構造になっていて、木枠に白い布地の扉で蓋のされたライトボックスで、内側から白い電球で光っている。白 × 白 × 白で、距離が遠い上に反射が強くて、中が見えない。晴れた日中だったのが良くない。夜なら全部綺麗に見えたのだろう。つまりホテル宿泊者の勝ち。泊まりましょう。
ボックスは扉に施された刺繍と、扉の開いたものはボックス内の品物を見るという構成になっている。品物は祖父のコレクションしてきた記念硬貨で、実家で場所をとっていて管理に困っており、その保存箱としてのボックス作品、コレクション預かり場としての展示、という建付けになっている。確かにズームを伸ばして撮影してみると、記念硬貨のバインダーの表紙だとわかる。
個人の持ち物の所有、収蔵、管理がテーマだと見ると、我が事にも通じるし(この本の山をどうするんだ私は、)多分多くの家でも共通した話題・課題なのではないか。オタクの終活などはまさに切実な問題だ。個人の所有(物)は外部へ接続されなければモノとしての価値、存在感を発揮できず、死蔵されたまま存在もろとも消えていく。売却や譲渡以外に取りうる有効な方法とは? データベース展示は一つの案となる。
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( ◜◡゜)っ 完。