nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展/KG】KYOTOGRAPHIE 2021(2)_②MEP Studioによる5人の女性アーティスト展 ―フランスにおける写真と映像の新たな見地

KYOTOGRAPHIE 2021・プログラム②は、パリの「MEP Studio」(ヨーロッパ写真美術館)との共同企画として選出された、5名4組のフランス人若手女性アーティストによるグループ展だ。

それは「写真」に止まらず、激しく濃い色の写真もあれば、物語・空想を紡ぐ写真群あり、動画映像あり、壁に文字を書き付けた作品あり、バリエーションが多彩で「写真」でひとまとめには語れない。

総じて気付いたのは、文法の違いである。

 

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「MEP」はパリの中心部に位置する写真専門の美術館で、ヨーロッパの最も重要な写真集専門図書館を併設しているという。私はパリもフランスも知らないのでアレですが、海外旅行の観光サイトではおすすめスポットの一つとして紹介されている。ウエー。海外が苦手とか言うてられませんね、ウェー。

 

www.travel.co.jp

 

そんな写真文化の歴史的な殿堂で、新進・若手作家を支援するためのプログラムとして今回コラボされている「MEP Studio」が2018年に開設された。若手作家の初個展専用の会場とのこと。

西欧でどんな作家が輩出されているかを知る良い機会です。どんな指導・教育がなされてこのような作品に結び付いたのかを知りたかったですね。

 

 

◆ニナ・ショレ (Nina Cholet) & クロチルド・マッタ (Clothilde Matta)/
 《ELLES,Tangier(彼女たち、タンジェ)》《ELLES,Rome(彼女たち、ローマ)

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直接的な台詞や具体的な情報がなく、どちらもイメージ映像に近いため、左右で展開されているどちらがどちらのタイトルか、解説を読んでもやや自信がないが、向かって左側の、街と女性の登場する映像が《ELLES,Tangier》、右側のエロティックな色彩溢れる映像が《ELLES,Rome》。それぞれ20分、12分、左右交互に流されるため、なかなか全容を鑑賞するのはしんどいかもしれない。

いや、しんどかった。時間的にしんどいため、私は全部は観ていない。

 

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《ELLES,Tangier》は章立てになっていて、女性がモロッコのタンジェの街の中を歩いたりクローズアップされたりする。英語字幕が出るので何らかの物語にはなっていると思うのだが、詳細な読み解きはしていない。

エピローグの開始時に流れる字幕だけメモしたが、「私」と「あなた」、見るものと見られるものとの関係について触れているのか? 始まりの章では主語は「she」だった。主格の切り口が何かを握っているかもしれない。

 

"You are down there perhaps.”

”I see you at the window.”

”I know that you are hiding somothing from me.”

”You were not there.”

 

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色使いと明暗、そしてチラッとした断片的な見せ方が印象的で、肉体と背景が色の強い太陽光に照らされ、画面の全てが肉として浮かび上がっている。

 

首尾よくプレビュー動画を見つけた。極めて短いが世界観は全くこの通りで、尺がもっと長いため、太陽光と砂の色と白と肌の色とが合わさり、熱のけだるさ、時の流れが溶けたような触感が強かった。くっきりした具体的な映像なのに、観る側と観られる側、さらに登場人物とナレーションの見る見られるの関係といった、内と外の関係が溶けていく感覚、それが官能とかエロスと呼んでいる状況だろう。

 

 

 

《ELLES,Rome》はより抽象性が増す。抽象的というより、像の重ね合わせによって輪郭が遠のき、多層の中で色と光が動いてこちらへと染み出してくる。見る見られるの関係について、映像内の対象物とこちらとで客観的な距離感と立ち位置を失いながら、向こう側で女性の身体が動いている。形のない彫刻となって眼から入ってくる。

 

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これは本当に色と光の移ろいが見事で、ハマると中毒性が高そうだ。陶酔感に優れている。2020年にローマで撮影され、『この街の抽象的で神秘的なフォルムは私達を深い黙想へと導き、現実世界を超越した未知の官能的な宇宙へと誘う』というが、確かに日本の都市で同じような世界観は撮れないだろう。だが建築を語っているのでもない。この2本の映像は、都市に内在する文法に触れているのか? 分からない。

 

 

 

◆マルグリット・ボーンハウザー(Marguerite Bornhauser)/
 《Plastic Colours》、《Red Harvest》、《When Black is Burned》

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ビジュアルの鮮烈さに眼を奪われる。HOSOO GALLERYの暗がりでひときわ強く発光している。

何かのモノや光景を外側から写真に撮ったというより、写真の内側から像が光っているように見える。展示上の演出というより、スマホなどの液晶デバイスに由来する鮮やかさとシャープネスの世界観が活かされているからだろうか? 液晶デバイスの画面がメディアやツールであることを超えて、素の「視界」になったことを告げているようにも思える。

 

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これらの写真が象徴的だが、像がバキバキに割れたり、内側から光の細部が沸き上がって砕けている。これは砕けたもの・散乱するものを被写体として撮ったはずが、撮られた像自体が中心と周辺を保ちながら画面の内側で自壊している姿としても見えて、砕けた液晶画面を連想させる。それは液晶画面越しの描画が既に現実の視界の一つとなっていることへ思い至らせる。

 

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別の写真でも、部屋の暗さと照明の強さだけではなく、作品自体がやはり内側から光っているようにして撮られている。それは作中の影との関係によって切り立って現れている。エモーショナルに傾くことなく、しかし即物的でもない、だが物語は成さない。物語や情感を生まないため像として独立している、とは言え1枚の写真で完結することがなく、他のカットと併せて体感しないとこの生命感は出てこない。連鎖反応の正体がまだ掴めていないが、形と色が続いていくことでそれぞれの被写体、撮影されたモノの同定を躱しているように思える。

 

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本作は3つのテーマタイトルから成るが、バキバキに砕けた像、赤を主体とした光と影、そして影と物体や人体との重ね合わせがそれぞれタイトルに対応していると思われる。観ている分には共通した世界観として伝わってくる。

外界=光に照らされたモノや世界と、それを見る眼=内面への入力器という二分法で写真を捉えるならば、これらの作品は光と影の織り成す造形に関する考察、試行ということになるが、もし本作の画面を液晶画面化した我々の視座=光も影も内側から生成された同じ映像素子の産物と捉えるなら、これらの写真に見る「影」はまた意味が大きく異なってくる。光線の進行が遮蔽された結果ではなく、手前の遮蔽物と無関係に空間に現れるもう一つの次元のようなものだとしたら・・・

 

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以上のことはどこにも書いておらず、私が勝手に感じたことを綴っているだけだが、この10年ぐらいの間に、いつの間にか「光」や「色」の意味が根底から変わっている=もう一つの視座、液晶画面越しに知覚される視界を獲得していることが表現として反映、出力されるようになったのではないかという気付きを得た。

 

 

◆アデル・グラタコス・ド・ヴォルデール(Adēle Gratacos de Volder)《Jamais indemne! Un coeur ā corps 決して無傷ではない!(心を体に)》

これはどうしようもない、分からなかった。手前に動画映像のモニター、その奥に白く何もない部屋があり、白い壁には文字が書きつけられている。これがフランス語のためお手上げだった。

 

映像も当然ながら意味の抽象性が高く、諦めが入ったので、ごく一部しか観ていない。

 

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写真は一切ない。わあい。

 

それぞれの書きつけはマインドマップのように関連の線が伸びて、派生・分岐している。

 

解説にはこうある。『常に問いを抱き、問いかけを続けようとするアーティストのスタイルを反映した作品であり、心に焼きついたイメージ、雑多なメモ書き、消えない記憶などによって構成された精神風景が描き出される。』『文学や音楽、写真、映画など様々な作品を参照し、自らの作品とそれを組み合わせることで、グラタコス・ド・ヴォルデールはこの世界を解き明かし、再構成し、そしてそれを通じて世界を理解しようとしている。』

 

なるほど。分かったけどわからん(  >_<) 

誰か仏語に堪能な方、解読お願いします。

 

 

◆マノン・ロンジュエール(Manon Lanjouēre)《Ask the Dust(塵に訊ねよ)》

こちらも厄介、難解で、サッと見ても凝視しても視覚情報だけでは理解できないので、やはり全体を統御している文法が私の持っているそれと異なるために、意味構成=物語のようなものを体感し難いのだろうと察する。

字義的に解説をなぞって理解することは出来る。だが、日を改めてチャレンジしたものの、その意味へと体で乗っていく状態にまでは入れなかった。

 

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解説を引用しよう。

『米国の作曲家ジョン・アダムズのオペラ作品「天井を見つめていたら空が見えた」と同じように、マノン・ロンジュエールは自然災害(この場合には架空の暴風雨)を出発点として、多彩な象徴性を織り込みながらストーリーを紡いでいく。雷が屋根を直撃し、そこに穴を穿つ。その穴は暴力性の象徴でもあり、空の広大さの象徴でもある。この空想の出来事を通じて、ロンジュエールは意味と記憶を探求する』

 

言われればそうだろうなと思う。家屋の写真、感光して一部が消し飛んだ写真、時代の分からない、ともすれば古い資料に見える薄いグレーのモノクロ色調での統一、状況と雷について証言する文字は記録というより示唆的で、資料と言葉によって現実、写された本人と被写体との実関係ではない異次元の話を想起させる、ソフィ・カルでお馴染みのスタイル(あんなに凄まじくはないが)に源流があるような気もする。

 

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作品では資料のように写真と言葉が組み合わせて提示され、雷や放電の解説、真夜中に襲来した嵐と雷雨で家の中が滅茶苦茶になるのを目撃した様子、古い資料のタイトル、などの形で言葉が用いられる。

 

夫婦のように見える男女の証明写真、その下部に掲載されていた一文を引用する。

”Ball lightning just missed the bed of the occupants,leaving them more dead than alive, but without causing them any harm - passing a few centimeters from their heads and striking the adjacent dairy through a small gap in the wall.”

 

Web翻訳をいくつか組み合わせてみると、「球電は居住者のベッドをわずかに外れ、あやうく死ぬところだったが、彼らに害を及ぼすことはなかった。そして頭から数センチのところを通過し、球電は壁の隙間から隣の酪農場に直撃した。」といったニュアンスになるようだ。

ここで重要なのは「ball lightning」、「球電」だろう。これは通常の落雷ではなく、超常現象のひとつである。目撃例は多数あるが、発生原因はどれも仮説にすぎず、謎が多い。

つまりこの作品は「雷」という自然現象に象徴される様々な、文学的、心理的なメタファーを重ね合わせた、ミステリーSF小説と詩の要素を併せ持った写真文学なのではないかとも想像される。

 

今回展示されているのは『複数の章からなるストーリーとして構想されたこのプロジェクトの冒頭部分となる《The Unpredictability of the Lightning (雷の予測不可能性)》』、作品の一部・導入部であるというから、象徴性に富んでいるし、この先に物語らしきものが動くのかもしれない。だがいずれにせよ、向こうの文法というか、雷や暴風雨と家屋、人物が登場する際の文学的「お約束」を知っていないと、この情景に入っていくことは難しそうだ。

 

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以上です。

 

これら5名4組のアーティストに共通しているのは、「意味は分からなくても弱くはない」ことと「表現が前へ、作者の外側へ向かっている」ことだ。

作者の内面を描いたり、気持ちを察してもらうよう期待する文体ではなく、外に向かって明確に発話している。アウトプットにおける主語述語の関係がはっきりしていて、我々日本人がモニョッとしたスナップで「何気ない」「日常」を「エモーショナルに」「断片的に」語る文法とは全く違うことが分かった。

 

このルールを体得するのは結構大変で、読むだけでもなかなかだったが、作り手として意識する(=西欧のマーケットを視野に入れて写真作品を発表しようとする)なら、必須にはなると感じた。たいへんや。誰かよく分かっている人に指導してもらうか、現地に飛び込んで格闘するしかない。たいへんや。

 

( ´ - ` ) 完。