【ART】林勇気「やすみのひのしずかなじかん」@ギャラリーヤマキファインアート
写真をゲーム世界に投じる作者、2007年の作品を再生させる。 ギャラリーのHPで告知画像を見た時、あっこれはゲームだと思った。
【会期】2019.10/19(土)~11/29(金)
( ´ - ` ) ゲームだった。
見た目は、ゲームだった。
実にキュートでセンスのある自作ゲームだと思った。小さく細長い主人公がちょこちょことコミカルに動く。
ギャラリー内には4ヶ所で、同じような映像作品が展開されている。小さくて少し古いテレビが2台、薄い液晶モニタが1台、壁面が1枚。それぞれ同じような映像が流れている。白色をベースとしたビデオゲームそのものだ。人物が歩き、飛び、平地や水辺、町をゆく。作品はループしていて、いつの間にかまた繰り返される。終わりのないフィールドの探訪が続く。
(参考)林勇気の映像作品の例
だが机上に並べられた紙資料、年代の異なる機材、ステートメントから、これは単なるゲームではないことが分かる。
写真・映像に関連して、作者の名前は聞いてはいたが、作品を見るのは初めてで、予備知識も無かった。展示からは、丸くて白味のある映像素材が、実は実際の現実を撮った「写真」を加工して作られていることが示されていた。人物の動きは作者自身の様々なポーズをパラパラ漫画のように繋ぎ合わせたもの、一定周期でミニマルに動く水面の揺れは、実際の水面に照る光と波の映像を切り出したものだった。
膨大な手間隙をかけて、現実の像を用いて作られた、ゲームに擬態した写真。写真の動くゲームだった。
このゲームは現実から出来ている。いや、ゲーム世界を構成する素材、言語を、現実=写真へと貼り替えたものだ。気付いた瞬間に、オセロのようにゲームの内部は逆転する。VRや昨今のゲームは、現実の写真を貪欲にスキャンし、ゲーム内のアニメーションへと書き起こしていくが、それらとは逆のプロセスを持つ。そして本作はプレイヤーは存在しない。作者自身がプレイヤーとなってゲーム化された世界の中を歩き回る。目的はない。クリアもない。
PerfumeやVOCALOID、チームラボやライゾマティクスなどは、デジタルの世界とこちらの世界をヒトが行き来する時代・技術の象徴として降臨した。我々の体はまだ向こう側には行けないが、徐々に領界を越境しようとする試行錯誤は進んでいる。その中で「写真」はどのような役割、位置付けに立つことになるだろうか。向こうの世界の言語基盤にこちらの世界の像を送り届けるための素材、運送業として、搾り取られるのか。こちらの世界での反動的なネオ・唯物論を語るべく守りを固めるのか。
林作品においては、写真は加工されて向こう側に行きながらも、写真が写真であり続けている。人物は真っ平らの平面、木もボートも平面。東西南北の四方から撮られた1枚絵で、FC版ドラゴンクエストのビジュルアルのように、振る舞う。それはなだらかに、写真側からの越境という挑戦を行っているように見える。ゲームに擬態した、写真の越境行為のように。
1997年から写真とデジタル技術を用いた映像作品の制作を行ってきた作者が、本展示で試みるのは、過去・2007年に作成した同名の作品《やすみのひのしずかなじかん》を改めて解析し、現在の機材で再撮影し、再作成することだった。会場には当時使われた、今となっては少々レトロな機材も置かれている。ここでの論点は、「映像」の作成、再生、保存におけるフォーマットや機材との関連性である。動画映像は写真とは異なり、物理の形にはない。それ自体では存在できず、ファイル形式、再生ソフト、再生デバイスを組み合わせを必要とする。それらの仕様の組み合わせが変わるごとに、コンテンツの主張は不変でも、映像自体はまた少し異なる別のものへとずれてゆくことが避けられない。
作家自身がこちら側の世界で撮影した「写真」を、加工、データ化し、向こう側へ送り込むための手続きが示される。そして2007年から2019年へ飛び越えることの意味を、自身の体と労働で実践してみせる。
この小さなアイコンの状態では分からないが、12年越しに撮り直された写真は詳細に見れば、機材の変化に伴う解像度の向上があり、何よりも時の流れに応じた作者自身の老化があり、それ以外にも多くの点で、写真的に言えば、素材は別物になっているはずだ。見た目は同じ「ゲーム」でも、現実世界の「写真」が混入したそれは、ゲームとは別物の世界になっていることだろう。
今後も活動を注目したいと思った。
しましょう。
( ´ - ` ) 完。