nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【学生】2025.2/9-16「大阪芸術大学卒業制作展2025」(優秀作品展-写真学科)@大阪芸大、2/4-14「大阪芸術大学大学院 終了制作展」@スカイキャンパス

引き続き、大阪芸大の卒展から「優秀制作展」にノミネートした写真学科の3名、映像作品の2名、同時にあべのハルカス・スカイキャンパスで催された同大学院の修了制作展からデザイン(写真)分野3名、計8名の作品をレポ。

母校でもないのだが大阪芸大の卒展に来てキャッキャしました。キャッキャ。時間がなくて最後の方は悲壮感がすごかった。生徒数が多いから展示数がどえらいことになってますんや。写真は全部観ました。

卒展は時間が最大の敵です(二郎系の大盛りを想像してください)(ウグッ

写真学科の展示レポはこちら。

www.hyperneko.com

本当は油画やデザイン含めて全作品レポ書きたいんやけど死んじゃうからね、しんじゃう(´・_・`)

では続きをやっていくます。

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◆映像作品

映像作品は写真学科展示スペースの一番奥のスペースでPCモニターを並べて展開され、その中でも大森脩平「HR-2503」と辻元ましろ「The Ocean's Feeling」の二点は芸術情報センター・地下実験ドームでも展開されていた。これが大掛かりな空間展示だった。しかし時間の都合があり、ドームで鑑賞できたのは辻元ましろ作品だけだった。

辻元ましろ「The Ocean's Feeling」は360度視座の円状、いや平面な球体ともいえる視界で海中を映し出している。ダイバーの探索する世界を360度にしていて、青い。憶測だがInsta360やRICOH・THETAシリーズのような360度カメラを頭上に伸ばした状態で動画撮影していると思う。

ドーム内で投影された映像はどういう処理なのか分からない。PCモニターで見る際には360度視座を上・外側から平面的に見ることになるが、ドーム内では逆転した視座となり、映像の内・中心から外側へ向かって投射された映像を見ることになる。単にスクリーンを置いて平面的に再生するのではなく、中心の客席を取り巻く半球の曲面に投射しているのだ。海中に自分がいるような仕掛けとなる。

規模といい、すごい試みではあるが、画質や像そのものの奥行き感などの兼ね合いもあって、映像への没入感がなく、平面の像が壁面のカーブに引き伸ばされているようにしか見えていなかった。内側から再生・発光するモニターとの差異か。

 

なお映像コーナーでは村田凱「Escape」が面白かった。スランプに陥った際に見る夢を表現したもので、不安や葛藤に向き合いたいとしているが、こうした言は大学という教育機関での成果を発表する場であるがゆえのプレゼンテーションで、実際に映像が孕む不穏さや揺れ幅には個人の主観、心の状態以上のものがある。

映像はバグで波打ち、全体として整った画像になるまでのタイムラグが頻繁に繰り返される。これは、映像というコンテンツが時間という尺度を持つ以上に、動画を構成する一枚一枚の画像を出力する際にも画面内で微細なタイムラグが存在していることを暴露している。つまりデジタル画像にはそれ自体で「時間」の概念を動的に孕んでいる。このことは撮影・再生機材や通信容量が猛烈に向上したことで見失われていたが、実は押し寄せる波のように、ドミノ倒しのように情報処理が行われていたのだ。言わば、本作はデジタルの内面を暴いている。それは魅惑的な暴力性に満ちている。

 

 

◆優秀作品展(写真学科)

優秀作品展が「芸術情報センター」で別個に行われていた。各学科で学科賞や学長賞を受賞した作品を集めたものだ。これはありがたい取組みだ。なんせ各学科を回るだけで一日が終わってしまうので(白目)

 

写真学科からは3名がノミネートしていた。

 

学長賞を受賞した竹澤亜南「父 良雲」は内容も見せ方も充実していて、卒塔婆を用いた額装よりも写真の中身にまず目が行ったことからも、強く興味をそそる内容だった。

思うに、信号やパトカーと同じレベルで見慣れた「お寺のお坊さん」という表象の「続き」、中身が提示されているので、それだけで条件反射的に見てしまう。僧侶としての仕事モードと、オフの姿=家族・父親としての姿と、それらの合間の様子が示される。極めて基本に忠実な作品だと思うが、取材と画作りの足腰がしっかりしていて、その強度によってスルスルと、半ば自動的に読み進めることができる。

お寺の仕事と家庭内と、狭い世界のようで、多彩にして印象的な場面が多数あることを見逃していない。一枚一枚の画にインパクトがある。つまり日常動作のどこが画として「強い」かを作者は見抜いている。身も蓋もない話だが、よき料理人やミュージシャンと同様に、良き写真家というのは理屈ではなく身体的な才や資質で決まるところがあり、本作はそのことを知らしめている。むろんそれは、被写体=父親の身体性の資質の高さと呼応している。



小野摩利子「島が私をうけいれてくれた -命は続いていく-」、一目で伝わるここ10年ぐらいの写真文法の要点を押さえた仕上がりとなっていて、様々な写真集をよく読み込んでいることが伺える。また、前述の竹沢亜南と逆の方向でヴィジュアルの強さを有している。逆というのは各シーンの強さをショットの切り取りによってではなく色味や霞み・透明度といったニュアンスによって表す点においてだ。

朧げな霞みと透明感がエモーショナルで何となく良い、と感じる。これは、外部へのドキュメンタリー、リサーチと、私景・私情と、風景(歴史性・土地性)との3領域を重ね持つ重層性から生じた濁りをできるだけクリアに処理(それぞれの主張を抑え、特に私情、感情を抑制する)して得られた透明度に由来している。あっさりしているようで複合的で、その領域の重曹的構成は、作者の出自の発見:実は日本人ではなく韓国人のルーツを引いている、というアイデンティティーの重ね合わせとも連動している。

 


小野道夫「圃場の景色」、濃淡の効いたモノクロ写真で田畑とそこで作業する人を写し出す。(そういえば2010年代後半ぐらいまで大阪芸大の写真作品はモノクロで地道にプリントのクオリティを重視していたと思い出させられる)。

「圃場(ほじょう)」とは聞き慣れない言葉だが、田畑だけでなく果樹園や牧草地など相当に幅広く包含し、また「圃場整備」というと関連する用水路や農道なども含まれる、農業関係者のタームと言っても良いだろう。

本作が単にノスタルジックな農家の写真ではないのは、埼玉県の「見沼たんぼ」という地を舞台としていることだ。徳川吉宗の時代に新田開発された歴史を持ち、戦後の開発が進む中で、首都近郊にある貴重な大規模緑地空間として県によって公有地化され、現在約1260haもの規模で保全されている。つまり人為的に保護された農地である。行政が保護しなければ宅地造成や道路開発などで切り刻まれて消滅していたかもしれない。日本の農家・農業について考える上で、原型を示す場所として貴重なものではないだろうか。

www.minumatanbo-saitama.jp

 

 

◆大学院修了制作展/デザイン(写真)

あべのハルカス・スカイキャンパスで展開されていた「大学院修了制作展」の写真作品もレポする。(専門分野としてはデザインの一部に含まれる)

博士課程も含めての展示だが、写真は大学院生3名。しかし3名とも日本人ではない。日本人家庭にはもはや、子供を大学院まで行かせて写真制作を行わせる余裕がないのか、「写真」というジャンル自体(ことに研究となると)が就職を差し置いて選ぶべき選択肢ではなくなっているのか、そらそうやんな、と、非常に考えさせられた。

 

YU HU「ひとときの語らい」は、研究テーマ「異邦人の私としての写真によるコミュニケーション」として、写真とテキストでダイアローグを再現している。映像作品のワンシーンを字幕付きでスクショ化したものを、写真撮影によって再構築したというとイメージしやすい。河川敷で出会った人たちとの一問一答になっている。

展示作品は上下二段で、上段に出会った人や風景、下段には地面に映る自身の影を配し、呼応関係は一見気付きづらく意識されない。だが自身の影を取りながら私情の光景写真とはならずに、影も含めてオープンに開かれていることが分かる。インタビュー、対話の構成が明確になるのは写真集によってだ。作者=影と現地で出会った人を左右に配することで一問一答ダイアローグが明確に出る。

先に見てきた学部生の作品、特に日本人学生の作品は私的で抽象的なスナップが多く、写真が30年前から堂々巡りしているように思われて頭を抱えていたのだが、こうして他者に対してコミュニケーションを開く様式が模索されていると知って、袋小路から抜け出せた思いがした。



Luan Xin「北方」、研究テーマは「AIを使った写真と言葉の関係について」と、写真とテキストが対になって示される。写真はどれも鏡のようにメタリックにプリントされている。タイトルの「北方」は自身の故郷である中国・大連よりも更に北の地域を指している。だが北方に訪れてみると、想像していた寒々しく荒涼たる大地ではなく、青い空、白い雲、水草の豊かに茂る土地であった。その時に得た想像と現実のギャップを題材とし、現地で撮った写真をAIに読ませて言葉を生成させ、両者を並置したものだ。

作者の解釈と全く別のところからやってきた言葉と、作者が自分の実感に基づいて撮った写真と、この二つから観客は何を見出すか。

気付かされるのはAI文法だ。逆プロンプトで、こう指示されたらこういう画像を出力しますよという記述を逆手順で出力している。そこには作者・当事者個人の私的な事情や感情は介在しない。もう一点は、全体を貫く文脈の無さ、モノクロニックな完結だ。要は大喜利で、一枚の画に対してあらん限りの修辞を行うが、前後左右の画像との連関、それらをセレクトした意図、並び、サイズ感など総合的な文脈、編集はAIにとって存在しないものとなっている。これは読み込ませ方によっては斟酌され得るだろうが、少なくともここでは顧みられていない。

と言いつつも「AIが生成した言葉は私の想像を超えるものであり、時には私自身の意図と驚くほど一致する解釈もあった」という。この意図せざる意図の共振にこそ、本作の重要な点がある。

 

 

Tang shuyang「The Truffles」は研究テーマ「隠された私を語る「物」の写真表現」とあり、画面中央に写された「物」を争点としている。三種の作品から成り、異なる2枚の写真を半分ずつ1枚に合わせたもの、中央の「物」をくり抜くように内側から白く発光させたもの、「物」部分の写真をピンで二重・立体化させたもの、から構成される。

実際には「直感的に撮影する中で」得られたスナップ写真ゆえ、様々な要素が写り込むため、白くくり抜かれた作品では中央以外のものにも逆に目がいくなどする。虫ピンでモノを二枚重ねにした作品では、浮き上がらせている仕組みや二重化自体に目がいく。そのため作者が企図した「隠された自分自身の存在を感じ、曖昧だった自己認識が徐々に明確になっていく」「隠された自分をどのように表現できるのか」というメインテーマが作品からどう見い出されるのかが分からなかった。もしかすると「もの派」のような表現を逆説的な手順から試みたのだろうか? あるいは、スナップを何気なく撮る時に視点を置く「もの」が、ショットの発火点となるトリガーなのか、それともショットの目的地点である標的なのかを問うたのか。

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はい。作る側は死ぬような大変な思いで作るが、観る側は数秒で、言う側は好きなことを言える、この不均衡な制作・創造と鑑賞の関係性において、なやんでいたら作品を観たことが無かったことになる=作品の存在が無かったことになるので、強引にでも言語化したいなと思いつつ、時間と労力があれですね、観る・言うのも実は大変なんだと改めて気付かされる日々です。芸大OBみたいなこと言うとんなこれ。全然縁がないんですけどね。

しかし、大学に入ってまで写真をやってる若い人が意外と多かった、このこと自体が刺激になりましてですね、そのこと自体が良かったです。写真が滅ぶ日はどんな日だろうかとたまに想像します。あええ。

 

( ◜◡゜)っ 完。