毎年恒例のアーティストフェア京都。メイン会場2ヵ所、アドバイザリーボード展会場1ヵ所、計3点を回ったレポです。
結論:2,500円払うほどではない。
作品を買うだけの財力はなく、作品を観るだけにとどまる私でして、それはそれで潔く楽しいので観に行きました。しかし割に合うかどうかというと高いなと思いました、
(アートフェア東京が入場料5000円だったそうで、それに比べれば善良かなとは思いましたけども)
前回行った際には量が凄くて時間切れになりかけた。たのしかったな。
だが今回の鑑賞は異様にスムーズで、東福寺で30~40分、国立博物館で50分、京都新聞ビルで1時間。9時スタートで12時前には観終わるという快挙?を成し遂げました。おかしいなスムーズすぎる。お陰で昼から別の予定を多数こなすことができた。いいのかわるいのか。
ひとつには私がアートに対して耐性を獲得したことが大きい。かつてのようにキャッキャできなくなったか。
だがそもそもには、展示ボリューム自体がさほど大きくなかったためでもある。3会場のうち見応えのあるボリュームを有していたのはメイン会場・京都新聞ビルぐらいで、特に東福寺のアドバイザリーボード展は、非常にあっさりとしたプレビュー的なものだった。
それは深掘りして考えて鑑賞するという質のものではない、購入のためのお披露目の場で、まあ確かに「アートフェア」なのだが、ううん。現場で一つ一つXに短観を投稿していたら倍ぐらい時間が掛かったと思うが、そういうもんでもないなという気がして、もっぱら記録撮影のみを行った。
価格だが、メイン会場の京都国立博物館は2,000円、アドバイザリーボード展は500円、計2,500円が必要になる。一番見応えのあった京都新聞ビルは無料なのだが、どの会場が見逃せない質と量かは実際に見てみないと分からないので、最初から会場を絞ることはできなかった。運営へのカンパだと思えば全然良いのだが、有料パートと無料パートの差がありすぎるというか。
◆アドバイザリーボード展 @臨済宗大本山 東福寺
計15名、著名なベテラン作家が名を連ねる、最も「見どころ」と予想した会場だった。が、逆に1~2点ずつ提示されるぐらいの、最もプレビュー的な作品(商品)紹介といった趣だった。行かなくても良いぐらいだったが、何事も行ってみないと分からない。
また、東福寺・書院の「和」の空間、仏教寺院の経文・数式のような力学の場が、異様な支配力を見せていて、現代アートは完全にその中に取り込まれていた。
仏教の律が絵画その他を飲み込んで制圧しているのを見るのは悪くない思いがした。西洋の歴史に抗する力が備わっているわけだ。この力をヌルッと戯画的に避けつつ、存在感を立ち上げていたのがYotta《花子》だ。
和には和を。同種族ならではの特権である。誇張されたキッチュな「和」が、ガチの権威としての「和」の力を中和して、空間をまったりと溶かす。さすがである。
和のテイストによって寺院・書院の空間に調和し入り込んでいたのはミヤケマイ《ボクハイマココニイルヨ I Exist》も同様だが、こちらは洗練された抑制と静寂がより強い。和の間取りを分解・再構築したようなパーツの切り出し方が拍車をかける。それでいてやはり「カワイイ」キャラクター性が活かされている。隙なく理で構築された仏教空間では、戯画化された超平面的キャラクターはむしろ生き場を得るようだ。奥行きゼロの圧倒的なフラットによって生まれるものがある。
鶴田憲次《-niwa- 2019 緑(屋久島)》《-niwa- 2025 水(櫛田川)》は、和の写実性を見せてくれる。水面の揺らめき、太陽光を透して現れる輝き、水底の表情、それら全てを包含する水の、液体としての厚みや奥行きをたっぷりと表している。
西洋絵画の写実性とは何が異なるのか。水の透明度、水というものの風景と物質性を強く表しているところに違いがありそうに思う。
大巻伸嗣《Oak Leaf -the given-》《Drawing in the Dark》、前者は永遠に輝きを帯びているかのような、金色の柏の葉のオブジェ、後者は部屋の奥に佇む黒い影そのもののような大きな油彩画。
2023年の国立新美術館での大規模個展「Interface of Being 真空のゆらぎ」を観に行けなかった私にとっては、大巻作品を生で観るのは貴重な機会である。身の周りの存在への感覚、この身で存在することの感覚がおそらく表されている。が、体感するには至らない。関西でも大規模個展を望む。切望しております。
こうした「和」の力場への一定の親和性、寄り添い方を見せる作品群の中で、オサム・ジェームス・中川「Trace」シリーズは、装丁こそ阿波紙を鴨居から床まで垂らして「和」に調和してみせるが、イメージの中身はアメリカのパワフルな風景写真と、刻印めいたサイアノタイプやフロッタージュと、むしろ逆の世界観が込められている。
ただしステレオタイプな「アメリカ」一辺倒のモノローグでは勿論ない。パワフルなのは風景の広さと空の青さの外形的な部分である。撮られた場所は第二次世界大戦中に作られた日本人・日系アメリカ人収容所跡であるという。米国の中にあった日本人・日系人の過去、ルーツの一端について向き合うことは、作者自身のアイデンティティーの確認ともなっていて、見た目以上の構造の深さを有している。写真の読み込みが必要な点で本作は他の出品作とは一線を画しているようにも思う。通常の会場と通常のプリントで観たい作品。
◆メイン会場 @京都国立博物館 明治古都館
計24名の展示。2,000円払って観るべきかというと、作家やイベント自体への応援の意を込めて、ということになる。
こちらは主に絵画の展示・販売会場で、若手作家が多く、出品している全24組のアーティストのうち、知っている人は誰もいなかった。そういう意味では、どういう作家・作品が評価されて市場に乗っているか、今の動向を知ることが出来てよかった。
まず写真の作家が2名いて、どちらも相当な実力者とみた。日本人でないのが残念だが非常に面白い作品だ。
ジャクリン・ライト(Jaclyn Wright)、コラージュの色彩感覚が見事で、素通りできず、視線を奪われる。矢印と的によって眼が吸い込まれて誘導されていくのだ。
写されているのは文字通り「的」で、無数の弾丸の痕で穴だらけになっている。砂漠・荒野、的、銃痕とくれば、アメリカという国の素顔と成り立ちについて思いを至らせねばならない。健康的な高露出ビキニ女性、荒野、銃! 偉大で強いアメリカ! それらの一切がハリボテのようにペラペラでポップに、書き割りとして提示されている。「アメリカ」という巨大な書き割り、それはまさにトランプが繰り出してみせたカラ手形としての国家間、愛国心ではないか? 穴だらけの使い古されたターゲットのように脆く滑稽で・・・
アンドレス・マリオ・デ・ヴァローナ(Andrés Mario de Varona)、人物の肌、身体を彫刻のように画面内に配置し、美しいグレーのトーンで白黒に仕上げる。だが美しいのはトーンであって、時の流れが止められた中で、人物・人体は傷のようなイメージを喚起する。平原の上に斜めに置かれた巨大な板、その上で仰向けになった男女や、土に掘った穴の中へ入ろうとする女性の後ろ姿は、確実に光と生ある世界と逆方向へと向かっていて、逃れ難い「傷」の印象を与えてくる。こちらの何が侵食されているのか分からないが、鏡のようにそれは心の表面についた無数の傷をぎらりと照らし出してみせるのだ。
絵画と簡単に呼んでいいのか分からないが、大角ユウタの巨大な絵画は壮大な叙事詩のような光景を、マンガ原稿のようにくっきりとした線描と明瞭な白と黒のコントラストで仕上げている。この線が黒いテープを駆使して描かれたものだと知ったのは説明を受けた後だった。印刷物かドローイングかを惑わせる、力強さと精妙さを持った線だ。マンガ文化と仏教的な静かな恍惚を湛えた世界観に惹かれた。
山越美佳のコラージュや単語の組み合わせも詩的と言うべきか、本来のイメージ体や単語から切り出されて拡大・再接合されたパーツが別のものを表す。素材は不明で、元が印刷物や塗料の組み合わせにも見える、そぎ落として最小限のパーツが響き合い形らしきものを成すのが面白かった。鳥の頭が並んでいる、赤い鳥が留まっている、言葉が画コーする…。
橘葉月の人物画もマンガ的な誇張が効いているが、目は写実的というか記号化されざる生の表情を湛えていて、意思を持っていた。一方的に鑑賞され視線を浴びせられることを内側から跳ねのける目をしている。土人形のように簡略化された身体、膨らみの輪郭線に眼が宿っているので、目の力、意思の力が増幅されてこちらへ迫ってくる。
岡村よるこの作品はサイズ、額装、質感がまちまちで、図像も脱力したイラストめいたものや無作為に見える塗りそのものだったりするが、多くは方眼のマス目と、何か文字、言葉らしきものが書かれていて、手法が版画かサイアノタイプかに関わらず、その言葉(らしきもの)自体がテーマであるようだ。
AIとの交換日記というものを見た。手帳には作者が書きつけた言葉、言葉未然の仮名、文字が続く。どうやら平仮名を一文字ずつやっていったらしい。何をどうしたのかは定かではない。交換絵日記の結果として作者が書いた(描いた)メモが残されている。AIは主にユーザーの思考の壁打ち、要約作成に用いられるが、意思疎通という行為は可能なのだろうか。
◆メイン会場 @京都新聞ビル 地下1階
計16名の作家が展示。無料なのだが最も見応えがあった。京都のアート会場で毎度お馴染み、元・新聞印刷工場のため、規模が大きく、暗く、天井も高く、メタリックな場所柄ゆえ、スケールの大きな彫刻の展示やインスタレーション展開に向いている。
全員紹介してもいいぐらいだが印象に強く残った展示に絞り込んでいうと、残念ながら写真そのものを主とする作品はなかった。
会場最奥の立ち入り不可エリアに立てかけられた大澤一太の大パネル作品が写真と言えば写真だった。
だがそれらはスピーカーが埋め込まれていて音、言葉が流れている。写真のど真ん中にスピーカーがあり、音声が工場内に反響しているので、映像ではないが映像的で、写真ではあるが写真的ではない。像も動画の流れの中から一部をスクショで切り取ったように核が見当たらず、ますます写真的でない。もっとクリアでフラットなホワイトキューブで観る方が、それらの関連性を考えることができたように思う。
中村直人は作品の一部に写真を組み込んでいる。だが細かくオブジェや写真、動画、窓、文字などを散りばめて、多彩な手数で構成していて、どこからどこまでが一つの作品なのか、全体として何が語られているのかを解することは難しかった。ボートやブイを模したらしき小さな模型、大学時代の同居人と窓の外の建物を見ながら過ごしたことを綴った英文、窓と写真、一体それらが何を指して/刺しているのか? 意味を持つこと・意味を持たされること自体を避けるように、しかし沈黙せず、それらは何かを語っている。
ヤマモトコウジロウは最も興味を掻き立てられる複合的なインスタレーションで、他のビエンナーレ、トリエンナーレなどの地域アートイベントでそのまま出てきそうな密度と地域特異的なプロジェクトだった。
「ヤマモトコウジロウは滝になりたい」と貼り出されている。何の標語か?
「くも」についてのフロー図が書いてある。よく見ると時期に応じて富山市の雪を作家自身を介して循環させるらしきことが図解されている(理解できたわけではない)、そして映像、スコップや、シャワールームのような透明のBOX。現地で採取した雪の塊を作者の体温(存在)によって溶かし、その水をまた現地に戻して、雪の一部に還るか循環して雲になってまた次の雪になるかという水循環のサイクルを成す。作者はパフォーマンスによって身体を挿入しそのサイクルの結節点そのものになる、そして気象や自然現象である水の循環を、極端なまでに観客の眼前に引き寄せる。力強い作品だ。
オヤマアツキも力強い。アダルトグッズそのものにしか見えないオブジェを並べ、アダルトショップを模してみせるが、それらは男根、オナホールと、日本に投下された2発の原爆「ファットマン」「リトルボーイ」との思わぬ接続を果たす。アダルトショップ的な怪しい光と影の中で、壁には戦時中の京都新聞が空襲の損害を報じている。撃ち込まれていたのだ、京都にも。
銃弾や爆弾はなぜ男根に似ているのだろう。機能性の果てに収斂されるフォルムがある。そしてセックス、性と戦争・兵器はどちらも人類史に刻み込まれた欲望であり巨大ビジネスである。きっと誰もが一度は口にするであろうこのアナロジーをまっとうにきちんと形にしたのは、強い。
丹羽優太の豪華絢爛な金色に輝く2対の屏風、黄金の宴会めいたオブジェ群も、強い。作者は2012年から、東福寺塔頭の光明院に納める襖絵を描くため、住み込みながら制作活動を続けているという。
左側は八岐大蛇が酒盛りをする《大蛇宴会図屏風》、滑稽な表情で悦に入っている。本作は熱海のホテルニューアカオで開催された「ACAO OPEN RESIDENCE #5」(2022.1~2月)に出品され、2021年に発生した熱海市伊豆山土石流災害を受けて、自然災害を治め鎮撫する意が込められているという。
右側の《八紘一宴図屏風》は戦車に乗った仮面の軍勢が、主砲をぶっぱなしながら巨大な酒瓶を担ぎ上げ、大蛇に酒宴を促しているように見える。この仮面の軍勢にはスサノオノミコトが含まれていると見るべきだろう。天災(神獣)と人災(武力、戦争)が対になり、酒宴で繋がる様は、日本美術独自の技法と相まって、日本史を凝縮しているともいえよう。
災害つながりで、吉川永祐の大画面の映像《遠くの山のように》と、足元のモニターで流れる《2024年1月2日の日記》の組み合わせは、2024年元旦に発生した能登半島地震に関連している。前者はヨーグルト状のものがクローズアップで映されているが、石膏の型取りの工程で、作者自身の身体を型取るところを逆再生しているという。画面、粘体の微妙な震えは、身体の不随意な振動だったのだ。これを地殻変動、地震と関連付けている。
後者の作品は被災後、避難所へ避難する際に書いた日記と録画した映像で、AIが作者の声でテキストを読み上げている。猫を探して連れ出すのに苦労したり、ガソリンスタンドの行列に並んだり、有事の際の混乱が伝わってくる。
他の作品が大きい、多い、陰影が深くて派手だったり、映像や音で動きがある、といった特徴を以って、元・工場空間に対応・対抗していたのと対極的だったのが山本紗佑里だ。
それは髪の毛を数える行為だ。静かで、小さく、こちらが息を止めて、よく見なければいけない。髪の毛を見る時、それらは髪の毛ではない。カミソリであったり、誓いであったり、癒しであり、時には呪いのようなものであるかもしれない。声よりも小さい声がする。小指の爪の先よりも小さな穴を通してやってくる光を数える。綿毛をひとつだけ見て春を思う。不可算名詞が可算名詞となるとき、アートや文学が生まれる。
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このへんにしときましょうか。2,500円が高いとかぬかしておきながら、ぞんぶんにまんきつしておるやないか。はい。さいでんな。関西人は元をとらないと死ぬ種族と言われています。
(´・_・`) 本当は全部紹介したかったんやで。かんにんやで。
完。