大阪芸術大学(以下、民に慣れ親しんだ呼称「大阪芸大」と書きます)、初めて南河内のキャンパスで卒業制作展を観ました。あまりに膨大なので写真学科の作品だけ取り上げます。
公共交通機関でのアクセスが実にしんどい立地のため、これまで行けずにおり、写真学科の展示のみを写真メーカー系ギャラリーで観るにとどまっていた。今回、幸運にも車が使えたので初のキャンパス入りである。
芸大をなめてた。15学科、生徒数6500人超のけっこうな学校であった。でか。
作品も膨大な量で、途中でやばいと感じて飛ばし観したが、それでも10時半開始で16時半に観終わり、手に負えなくて焦った。さ、さすがは芸大。。いいですね4年間制作に打ち込めて…。筆者は浪人時代に芸大に行きたくなって発狂した過去があります。よかったですね。
今回の訪問は探訪録としても書きたいし、絵画やデザインも面白かったが、時間がない。まず写真である。写真にしぼって。レポをしましょう。絞らないと死にますからね。
◆写真学科の展示
予想外に展示数が大量にあってびっくりした。細長い通路のような建物で小部屋が連続し、小分けにされた室内で、通信教育部の4名を合わせて計46名(パンフレット数え)の展示があった。
うち、学科賞、学長賞を受賞した3名は「優秀作品展」の会場で展示された。これらは別途紹介する。
気になった作品について以下に取り上げます。さすが大学、指導がしっかりしていて、どの作品も、たとえ私的で感覚的でとりとめがなさそうなものでも、それがどういう「テーマ性」のフォーマットに乗ってくるかを考えて提示されている。何かしらのジャンルに乗っているのだ。それゆえに見やすく、鑑賞できる(こちらの認識パターンにはまってくる)し、逆に言えば領域や常識を激しく逸脱するものではない(無論、教育機関なので、そういう趣旨の展示ではない)。
というわけで個人的に大雑把なジャンルを当てて捉えてみた。
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◇私性・内面、自己
スナップと私性的表現。写真が最も得意とする反面、誰でも今すぐ出来る上に、これまであまりに膨大に繰り返されてきたがゆえに、作品としての独自性や訴求力を打ち出すことが難しい分野だ。人生経験や知識・視点のまだ乏しい学生には最も手にしやすい領域だが、他者との差別化が難しい。いったん作品としてまとめた後、卒業してからどんな作品を手掛けていくのだろうか。しかしみんな上手くまとめている。とはいえ全てが私小説てきな私的写真へ支配されるのが、清少納言に呪われた国民であるように感じられた気分でもあり、わりと打ちひしがれた。恐ろしい。
加藤美月「わたしのなかのわたしのなかのわたし」はヒキの強い1枚を主役として据えたことによる勝利だと思う。写真は畢竟、視覚のヴィジュアル表現なのだから、ヴィジュアルが強くなければ勝てないことを教えてくれる。勝つとは、鑑賞者の意識を引き付けて集中させ、他の作家より強い印象を鑑賞者に残し、あるいは自分の主張を狂いなく鑑賞者に突き付けることだ。本作にはそれがある。
加えて、タイトルのような入れ子構造を意識した作りになっていて、自己の内面表現に見えて、情緒の吐露というよりも「写真」にした際の「私」という像がどう移ろうか?その意味・存在の境界線を錯綜させているのが、上手い。額縁も「私」と作者とを切り離し別人格の・他の世界線の”誰か”のように見せている。今後も作品が見たい。
山本輝「邂逅」は散文的スナップを「光」を軸にまとめ上げている。具体的に誰か・何か・何処かを指名せず、場面の光と色味と形の組み合わせで「よき」スナップを撮り溜めていることが分かる。型やジャンルのない写真がスナップであり、ではスナップとは何かという問いに対して、作者は変化し続ける自己と世界、それが出会うところであると回答している。
現時点では、自分の撮っているもの・行為が何であるか、意味の兆しを見たところであろうと思われる。もしステートメントの通り、本当にそれを徹したときに一体何が見えるのか、その領域が垣間見えたら…と思う。
川崎陽菜「Love yourself」でのスナップは葬式というか、出会い直しを約束した別れのようなニュアンスがあり、物語がある。「自分」というものにネガとポジの両面の気持ちを抱いている、冷え切ったところから再出発するような作品だ。写真は使い方によっては自己を回復させる効果もある。しかし体温の冷たさ、血の止まりそうな冷たさを的確に表現している。
森山涼太朗「私を見つめる私」はその通りの作品で、写真を通して自分を見つめている。鏡で見る自分と写真に写った自分とがなぜ異なるのかという問いから始まった試みだという。鏡と違って写真は「私」と時間的に切り離されているだけでなく、意識の外から「私」を捉えて光学的に描写する。或いは、慣れてくれば逆算で望ましい「私」を演出し撮らせることが可能になる。そうした視座の可変性をもたらすものが一体何なのか、鏡とカメラの違いはどこから来るのか、メタな部分を更に見せてほしいと思った。
久井日和「自己愛」、筋肉を鍛えて自信に満ちた生活を送っていたが、大切なものを失って心に潜む弱さに気付き、外見の強さでは喪失や空虚を埋められないと知ったことが動機となっている。普通にヒキの強い良い写真と思ったが、内面の弱さや強さについてのテーマがあるとなると、そこまで読み取らせる/語れるビジュアルに引き上げる必要がある。「弱さ」を人に伝わるように表現する=弱さの表現力を強める、と、一件矛盾した技法が求められる。身体か、背景か、描画か…変数が無数にあることに気付かされる。
◇関係性、絆
自己の気持ち、内面の先にある他者関係に着目した作品。2010年代以降、関係性をテーマとした取り組みは非常に多く見られるようになった。東日本大震災や新型コロナ禍のような危機に晒され、あるいは超高齢社会の中で、家族を始めとする「絆」を強く意識せざるを得ない社会にあるとも言える。多くの若手写真家が毎年取り組むので個人的には謎が多いというか納得がいっていないテーマでもある。なぜだ。
谷井善「だれもが、しあわせになる。」は愛車のロードスターが主役で、愛車というと一方向的な美しさやエモさが強調されそうなところだが、本作は愛車を整備・修理するカットで占められ、自動車整備工場のようなメタリックさと重厚感が溢れている。ここに作者と愛車の「関係性」が凝縮されている。
クルマというのはボディのデザインから始まり、走行性能やドライバーとの一体感などあらゆる面で陶酔にも似た美学を伴うと思われるが、そうした疾走感を表現したり、日本全国を駆け巡って美しい風景とともにモデル撮りすることを避け、最も無防備で脱・美的な姿を晒したところを撮っているのは、まさに親しい存在との親密な、プライベートの関係性への眼差しと言える。勿論、よいマシンは内部機構も一つ一つの部品も美しい、ということでもあろうが。
鈴木弥依奈「suZukI fAm Fam」は「鈴木家」、家族をありのままのシーンで捉えた作品で、自分が元気でいることが当たり前のことではなく、今を大切にしようとの思いから撮られている。確かにその通りの表現で、日常の気になる・エモーショナルなモノやシーンに「家族」が入っている。
私の個人的な関心事として、なぜ若い世代にとって、家族・親との繋がりや絆がそもそもそこまで重要で、守るべき対象とならねばならなかったのか、がある。本来は家族・親との関わりを脱していこうとする動機が強まる年齢と思うのだが、何故なのか? 家族・親というものの在り様が20年前とは根本的に変わったからか? その絆(への希求)を呼び起こすものの正体を誰か教えてほしい。
山本樹「境界」はきわめてガチな、伝統的なストリートスナップで、そう分類するつもりでいたが、写された人物はどれも撮り手をしっかり見ている。目線が合った、というより目線を合わせたスナップで、見ず知らずの他者とのコミュニケーションとしてのストリートスナップなのだった。掠め取る瞬間芸としてのスナップから、通行人の顔面ゲリラ無許可撮りを経て、瞬間的関係の構築術としてのスナップへステージが進んだとすれば、それは注目すべき変化である。ストリートは猥雑であるべきで、インバウンド特需で街の人工とテンションが嵩上げされている時期こそスナッパーには狙い目だ。現代にふさわしいストリートスナップが開発されますように。
◇ドキュメンタリー、リサーチ
客観性をもって外部のものを撮ればそれだけで「ドキュメンタリー」性を帯びてしまうのが写真の強みだが、情や欲の引力がそうさせないのが写真の難しいところだ。ここでは特に「私」の外にあるものを客観的に語り伝えてきた作品を選んだ。
いきなり矛盾するが、「私」を通じてドキュメンタリーをしているのが岩崎志歩「Under ground IDOL」だ。作者は大学生ライフとアイドル活動の二つの生活を送っていて、写真はキャンパス―ステージ間の切断面を橋渡しする。アイドル活動のステージ裏のオフショット、メンバーとの私的な活動記録とも言えるが、それらは部外者や観客からすれば普通には見ることのできないシーンがカメラによって可視化されたもの=ドキュメンタリーとして映る。
コンビニ店内で防犯ミラー越しに撮った仲間たちとのセルフショットに、そうした作者の二面性を作者自身が突き放しつつ面白く見ているというねじれの視点が表れていて、強く惹かれた。
ただステートメントで「こんな一変した大学生の記録を作品で残したいと思った。」と〆ていることから、ここで写真は卒業してしまうのかな、と思った。写真を用いた「アイドル」という稼業の表現、「アイドル」と「私」の表象や演出の意味、遷移などを掘り下げる作家が生まれると面白いと思う。
松浪里華「ゲームセンター」は文字通りゲーセンで、格ゲーに興じる人々が撮られている。1991年にストリートファイター2がアーケードゲームに登場して以来、90年代~ゼロ年代初頭はまさに格ゲーの時代だった。しかしゲームの舞台、インフラがオンライン、スマホ内となった今でも、実店舗に集まり筐体を前に熱を帯びたプレイヤーらがレバガチャしている姿には、一つの「文化」があることを実感させる。ゲーセンはライブハウスのように文化とコミュニティの場なのだ。
横谷聖「シエンゴン 日本が支えるタイの車社会」も優れたドキュメンタリーで、タイ最大の自動車部品市場・シエンゴンという、日本人が誰も知らないような土地で「日本」がいかに深い関わりを持っているか示してくれる。これは写真の形をした卒業論文で、作者は大学に通いながらタイ料理屋と自動車整備工場でバイトをする中、タイの自動車文化を知りたいと思ったことが動機となっている。
バンコクから南東、車で1時間のところにあるシエンゴンでは、日本車が解体されパーツが売られ、市場内で販売される部品の約90%が日本製だという。写真とテキストの両方が揃って初めて力を持つレポートであり、この取材力・編集力は何処に行っても通用するだろうし趣味の個人サイトを持っても面白く活躍できそうに思った。
◇土地、風景
何気ない、何の意味もなさそうな場所や建物にカメラを向ける、写真にすることで、それらは意味を帯びるようになる。ニュー・トポグラフィックス以降と言えばいいのか、ともかく土地の歴史や背景、建築物の意味、あるいは撮り手との関係性などを表し、鑑賞者もそれらを読み取ることが出来るようになった。
安達俊哉「The Power of Not Knowing」、アメリカの砂漠地帯の綺麗な風景写真と思って油断していると、中央の一枚に「NO MORE STOLEN SISTERS」と書かれた手描き看板が写っており、一気に不穏さへ反転する。誘拐か人身売買が多発しているのか不安になる。
写真集にそのヒントがある。アリゾナ州ソノラ砂漠の美しく壮大な風景と、土地や様々なものを奪われてきた先住民族の歴史とが表裏一体としてあることを示す作品だ。”もう奪われる姉妹達を増やさない”というスローガンは、先住民の女性・少女らが他の人種・民族に比べて失踪や暴力事件の被害に遭うリスクが非常に高い現実に抗うものだ。写真集ではその他の居留地の話題も続いていた。非常に興味深い。
Yang Futao「新型の廃墟」は作者の故郷・中国の広州が舞台で、都市開発の規模の大きさを物語っている。現代中国ならではの光景、高層マンションが密に立ち並び、真っ平らな平面的な土地が広がり、開発は更にその周囲へ荒々しく広がっている。だが人間の数に比べてマンションなど建物の規模と量が大きすぎて、まるで無人の廃墟のように見える。掘り返された地面はこれから開発が進む過程なのか、人間の生活が終了してしまった後の崩壊を示しているのか、区別が付かない。こうした光景が中国の何処まで広がっているのか想像がつかない。そうした関心を呼び起こさせる強さが本作にはあった。
Wang Ke「帰れない家」、作者の故郷である中国の北京市石景山(せきけいざん)が舞台で、かつて父親が工場で働いていたという。石景山はかつて首鋼公司という巨大企業による鉄鋼精錬工場があり、現在は首鋼集団への過度な依存から脱却すべく動きがあるようだが、風景には工場、そして昔ながらの街が開発されてゆく様子が写り込んでいる。
パーソナルドキュメンタリー、家族の歴史の話でもあるが、雰囲気ではなくしっかりと風景・建築物に語らせる写真となっていて、それゆえに強度が高い。これは私写真的スナップを用いる日本人学生との大きな差で、清少納言vs英語の論述のような大きな差異がある。完成度が高く、Yang Futao「新型の廃墟」と共に良い作品だった。
田畑廣道「織り交ざる」は実に素朴で何気ない、鄙びたローカルな民家、路地が撮られている。これらは特に何の歴史的背景などの文脈を持たないというのが逆に特徴で、作者は「居心地の良さ」を挙げ、「自分と町が織り交ざる感覚があった。そういった感覚を覚えながら一枚一枚撮り進めてきた。」という。純粋なスナップなのだ。写真行為によって場所を愛でて、一歩踏み込む体験は、言わばテーマへの入口だ。白い一軒家を真横から撮った一枚が非常に印象に残った。
伊藤友太「海に沿って」も田畑廣道「織り交ざる」と同様に、作者にとっての心地よさ、愛おしさをベースとして海沿いの町歩きの中で撮られている。だが情感に傾くのではなく外界のシーン、建築物や風景に脚色を加えずそのまま切り取っていて、「風景」に対するアプローチが試みられている。好ましさ、調和がベースにあり、思えば異郷への旅や風景でも尾仲浩二がいかに凄みがあったかが分かる。「写真」が透明化しているか、それと格闘しているか、前提が全く異なるのだと思った。
小川元大「気配の痕跡」も、前の二人:伊藤友太「海に沿って」と田畑廣道「織り交ざる」と近しいものがある。ただテーマの切り口が異なり、二人がある土地の風景に対する写真での応答だったのに対し、本作はもっと直接的に場面・瞬間へ向かっていて、それを無形の「気配」、有形の「痕跡」として扱っている。
ここにはより場所性がなく、人や物や光はもっと即物的に還元されて捉えられる、と言いたいところだが、作者が表そうとするのが「自分が生きている証として残る過程」と、ここで私性の話が出てくるので、何となくの「良き」に回収される――前の二人と同系統の写真、ということになる。日本人は即・物や光景には行けないのか。清少納言の呪いを突き付けられた気がした。
◇分野の越境、立体、ミックス
一つの被写体と一枚のプリント、一人の撮り手と一つの被写体・場面、一人の作者と一つの機材(カメラ)…といったモノ(mono)な結びつきからなる表現形態であることを脱した作品、こうしたものに特に注目したい・注目せねばと思っている。なぜなら「写真」の意味や定義が年々薄らいでいるからだ。
Li Jinyang「私の部屋 ~写真を超える写真~」はずばりそのものの試みで、写真により三次元立体を組み上げ、また「四次元の時間変化」も表現したという。前者は写真を切り貼りして再構築された作者のミニチュア自室=立体、後者は恐らく壁に貼りだされた日々の自室の定点観測写真=時間経過、の組み合わせを意味している。
シンプルに面白かった。写真はよき観測者となるが、どこまでいっても「点」であり、空間と時間それぞれの幅を表現することが困難、というよりそれらを圧縮して2次元に引き算し平面化させる映像メディアなので、改めて次元を足しにいく・復元させる試みは「写真」が何なのかを知るのに有益だ。しかし本当にミニチュアがよくできている、これは発展性もある。
山田直紀「コーラ写真日記 2023-2024」は作者の父親との関係性・記憶、自己の食生活の記録でもあるが、私的なテーマを複合させており、しかも展開としては「コカ・コーラ」缶のビジュアルを前面に押し出したポップアートの引用みと、同一フォーマットをひたすら連続するという私性を排した現代美術的な手法が前面に貫かれていて、非常に見るべきものが多い作品だ。「写真と現代美術の現代史を踏まえて両者をミックスし、写真によって”日常”を題材としなさい」というお題に満点で答えたような。しかしこのコーラ頻度は心配になる。歯のエナメル質は大丈夫だろうか。
岸岡奈津「切望のまなざし」は人の顔写真を分解し、立体的に再構築した多視点のオブジェだ。多方向からの像がキューブ状に組み合わされて、バラバラな視点の像によって全体で一つの像を組み上げている、つまり一見キュビスム的だが、それでも被写体となった人物のぬくもりというか人肌、人間らしさが失われておらず、むしろ目や鼻や頬、顎の丸みのフォルムとともに強まってやってくるところに、絵画におけるキュビスムとは異なるものを感じさせる。
絵画との関連でいうと荒田健吾「狭い世界」は写真プリントの上から絵の具を塗っている。作品を子のような存在と例え、「子が生まれるには二つの遺伝子が必要であると考えた。それは光の遺伝子である写真と制作者の意思である絵の具にあたる。」としている。写真の原点は製作者の意図の外にある光で、絵画の原点は意図そのものとしての絵の具・筆致であるとの論は、絵画と写真の親類縁者のような生い立ちの関係(親子関係とまで言うべきかどうか?)からも分かりやすい。
プリントの上からドローイングを施すことは誰もが一瞬は思いつくが作品としての実現に至る事例が少ない。恐らく絵画のセンス・才能と写真のそれとは別物だし、写真家は写真を写真として完成させるもので、それ以上の加法は不要だからだ。しかし本作は妙によくマッチしている。絵の具が加わってこそこれらのヴィジョンは「作品」になっていると実感する。この試みを続けていく先に、絵画、ドローイングと写真の関係性について何か引き出してほしいと思う。
井關立「Osaka Loop Line」、コラージュで構成された衝立のような巨大作品である。大阪環状線の輪に含まれる各駅・地域の代表的な建築や風景にストリートスナップを加え、そして環の背景として空を用いている。
粗削りで大胆な作品で、一枚一枚のピースはかなり細かく切られていて、一つの光景を表す一枚のショットでもコマ切れにされている。だができるだけ現地の臨場感をスナップ写真でそのまま出したいようで、各場面は空と地面を含めてわりとそのままの形で採用されている。要は、人やモノを厳密に切り抜き抽出していない。西野壮平の作品と異なるのがそこで、恐らく参考にはしたが異なるテイストで制作したかったのではないか。すなわちスナップの総合的再構築。何気ない(特権的な意味や視座を持たない)スナップ写真はいかにして特別な意味を帯びるか、総合的な視覚体験へと次元が上昇するのか否か、と。
平面・一枚もののプリントだが、撮影において凝った演出をしているのがWang Yifan「私と金魚」で、古いブラウン管時代のテレビに金魚が入っている。「新しい場所に魚とテレビを持ち込み、環境が写真に与える変化を楽しむ中で、予想外の風景が生まれました。」とあるように、合成ではなく実際にテレビを金魚鉢化して持ち運び、設置して撮影したようだ。
単純にまずレトロで味わいがあり、かつ箱(テレビ画面)の中と外とが連結することの気持ちよさがある。テレビという映像装置の中身と外側の世界が逆転し、虚実の差異や位置づけが不問になり、全て見たままにエモーショナルな「良さ」へ統一される=全エンタメ化という心地よさが本作の機構だ。現実・外部から力を抜き去る。これはテレビに限ったことではなくスマホ等の液晶デバイスも同様だろう。そういえばRyu Ikaもテレビ大好き・テレビ文化圏の出自であり、そのパワーをフルに活かして写真作品を作ったのだ。
( ◜◡゜)っ 優秀作、大学院修了制作展へつづく。