2022年3月、大阪・豊中(服部天神)の複数のギャラリーが連動して大阪・北摂に関するスナップ写真の展示が催された。うち、豊中市立市民ギャラリーでは「浪花 北摂 写真散歩」展が催され、北井一夫の作品「新世界物語」を中心に「gallery 176」メンバーなど12名の写真家が参加し、様々なスナップ作品が一堂に会した。
【会期】R4.3/15~3/27
- 1.「gallery 176」運営メンバー(5名)
- ◆鈴木郁子《服部緑地・岡町界隈》
- ◆友長勇介《大阪情思》
- ◆布垣昌邦《Osaka - 青の時代》
- ◆早川知芳《服部緑地公園の素猫》
- ◆坂東正沙子《RESIDUES》
- 2.それ以外の様々な写真作家(6名)
- ◆中家和子「服部緑地撮りおろし」より
- ◆中家和子《河内の子》
- ◆津田明人《猫 生存の証》
- ◆矢野智雄《Glass forest》
- ◆杉浦正和《見返り横丁》
- ◆上田良一 「大阪ぶらり」より
- ◆高林直澄《A second of NANIWA》
- 3.北井一夫 「新世界物語」より
本展示の主催は豊中市だが、実施的には豊中・服部天神の3つのギャラリー:「gallery 176」「G&S根雨」「galerie SPUR」が協力者として企画運営に携わり、「G&S根雨」のオーナー・石井仁志がプロデューサーとして全面的に関わっている。
また、会期中の関連展示として、「gallery 176」では展示「服部天神」(3/14~3/17)、「galerie SPUR」では展示「LINES」(3/12~4/3)が同時展開された。が、手が回らなくてそれらを網羅して観ることができず、関連を把握できなかったのが残念である。よよよ。
展示は大阪、北摂のスナップで、過去作品や撮りおろしなど様々だが、北井一夫「新世界物語」(1981、長征社)が「過去・記憶の大阪」というテーマの土台を支え、他の作家らはそれぞれの自由な感性と視点で大阪・北摂を切り取って見せた。
参加メンバーを大別すると、北井一夫、「gallery 176」メンバー5名、それ以外の写真家6名、計12名である。それぞれの写真家については特設ページに詳しい。
では、「gallery 176」のメンバーを中心に作品を見ていこう。
1.「gallery 176」運営メンバー(5名)
オーナーの友長勇介を筆頭に鈴木郁子、布垣昌邦、早川知芳、坂東正沙子、の5名が出展。それぞれの活動のダイジェスト版のようなもので、日頃なかなか各人の展示を観に行けずにいた私にとっては、各人がどのような作品を作っているか知る好機となった。
なお「gallery 176」で同時展開された「服部天神」展では友長勇介、鈴木郁子、西川善康、木村孝の4名が出展した。
◆鈴木郁子《服部緑地・岡町界隈》
『豊中を撮ると決めてでかけたのは緑地公園だった。カメラはBRONICA645を使用しカラーネガをセルフプリントしたもの』と紹介シートにあり、撮りおろし作品だと思われる。
緑色が深く出ているのがフィルムの特性だろう。色は濃く、色によって陰影が刻まれている。左側の町の写真3枚では、画面中央のシャツや車止めの柱などオブジェクトが主で、緑地公園の4枚では色の面が主となっている。
場所の記憶を共有しているわけでもないのに郷愁の念を駆り立てるところが、尾仲浩二の風合いも感じる。それは具体的な記憶というより写真の褪せや濁りによる、写真的な記憶(フィルム写真自体が記憶そのものであった当時のありよう)としての懐かしさかもしれない。
実は私はいつも服部天神駅「gallery 176」に寄って即・帰るばかりで、服部天神から2駅先の岡町も、東北側へ徒歩20分の服部緑地にも行ったことがなく、こういう感じの風景なのかと改めて思った。つまり私にとっては記憶の照合というより、記憶の先にある地名との接ぎ木のような写真となっていた。
◆友長勇介《大阪情思》
10点全てモノクロ、上段5枚は主に光景や場所で、下段5枚は人物写真。上下段でそれぞれ縦と横位置を揃えており、あまり見たことのない展示形式だった。
懐かしい写真である。例えば新幹線の車列は摂津市の鳥飼車両基地だが、顔ぶれは100系と300系で、つまり90年代の写真である。だが新幹線に懐かしさを覚えたのではない。昔の大阪が写っているかどうかと言えば、場所性・記録性は白黒の陰影によって抽象化されていて、大阪の昔か今かという問題ではなさそうだ。
私が感じたのは写真の文体としての懐かしさだ。80~90年代までの、フィルム写真およびストリートスナップ全盛期の頃の、元気で、この世の何処までも狩猟(写猟!)する勢いで、朝から晩まで、夜通し、朝が来るまでうろつき続ける、そんな「写真」の時代を催させるものだ。
深い黒とコントラストは森山大道を筆頭とした様々なスナップ写真家の系譜を思わせる。焼きの風合いと被写体の選び方、光と影の陰影のついた光景を更に白黒写真として作り込んでいるから、写真的な光景を写真化している感がある。
あの頃に帰りたいと思う自分がいる。少なからずあの時には「写真」は有効だった。今現在も形を変えて撮影と画像の流通は盛んに行われているが、撮影行為の「個」としての作家性は棄却されている。意味が違いすぎる。友長作品を観ていてそういうことを思った。思わずノスタルジックな溜息。ふう。
◆布垣昌邦《Osaka - 青の時代》
5枚のカラー作品は、作者の住んでいる大阪・茨木市で撮られたものだ。離れて見ると、何の変哲もない風景スナップ写真だが、そこには人物が写り込んでいる。
人物を風景の一部として捉えること、「滑稽さと哀愁」を感じる瞬間にシャッターを切ることを、作者は日々の暮らしの一部として実践し続けている。
きわめて温厚、温暖なスナップ写真だ。同時期に開催された京都・五条「galleryMain」での個展「洛中洛外観察日記『03_19』」のモノクロ写真群では、人物は風景の一部であるとともに、より画面内の造形物としての、姿形や挙動の滑稽さがあった。
それと比べると本作では人物が風景(=色)と等価に近付ている。大別すると2種類あって、風景全体が見えるものと、画面内を別の造形が面として占めているもの(青緑色の柵、踏切と阪急電車のボディの2枚がそうだ)があり、後者ではむしろ眺望が遮られて、具体的な場所性が中和されている。
その時、写真が指し示すのは何処なのか。作者の場所・風土に対する印象や感傷か、写真的記憶か。どちらでもあるだろう。友長作品とは違った角度と系譜で、先行する写真家らの偉業(=写真的記憶)に向かって、日々の写真行為からアプローチし続けているのだ。
◆早川知芳《服部緑地公園の素猫》
布垣作品よりも更に直接的なカラーの風景スナップ。まさに緑地公園の池と緑と遊歩道である。早川作品を見るのは実は初めてだったが、ここまで何の変哲もない写真だとは予想していなかった。
逆を言えば、服部緑地公園がそもそも波風の立たぬ、淡々とした、何の変哲もない場所だということに他ならないとも言える。解説シートに『服部緑地公園の素描』と一言だけ書いてあるのは、まさにこれが「実相」であることを物語っている。
「gallery 176」作家紹介ページでは、海の波しぶきを上げるダイナミックな写真が登場する。
作者自身が若い頃に旅を重ねた釣り人でもあり、撮影と釣りを通して自然や光景と自己との結び付きを考察しているという。それを考えると、何も起こらない水辺でシャッターを切ったこれらの写真は、何の変哲もない中で地味に兆している変化のモーメントを「待つ」という、釣りに似た行為なのかもしれない。
まだこれしか見ていないので、作品に共通するテーマなどはこれから掴んでいきたい。
◆坂東正沙子《RESIDUES》
展示タイトルを訳せば「残留物、かす」。壁面に刻まれたグラフィティ類の一部を鮮やかに切り取っている。恐らくはグラフィック全体で文字・メッセージとして機能したであろうもの(読めないスタイルのものもあるそうだが)を、ごく一部を拡大しカットすることで、別の造形へと転換する。近代的な写真の特性を改めて提示し、魅力的に用いている。手法として珍しいわけではない、具体的な名前は今のところ思いついていないものの、60~80年代のアメリカのカラースナップ写真で色々と先例がありそうだが(アーロン・シスキンド以降というか)、本作が特徴的なのは描写の優しさではないかと思う。現像とプリントの質感だが、グラフィティの色と形の鮮烈さを用いながら、それを尖った平面造形物として、突き放して切り立たせていない。
これら平面オブジェクトは、作者の心理描写や感受性の共鳴・受信する依り代として撮られているのではないだろうか。どこかほの暗く、しかし光もあり、優しいのはそのためな気がする。その意味で、これらは古典的な手法ながら、今日的なテーマの作品である。
2.それ以外の様々な写真作家(6名)
他の参加者については、どんなキャリアから、どういう経緯で参加したのか、選考など手続きがあったのか詳細は不明だが、作品だけさっと紹介する。
会場・市民ギャラリーの掲示ケース。いかにも昔ながらの市民ギャラリーで懐かしい感じがする。さっそく写真が提示されている。
◆中家和子「服部緑地撮りおろし」より
上掲の屋外展示ケース内で貼り出されたスナップ写真群。一見、インスタレーション風だが、縦列と横並びの構成がキチッとしており、アルバムをほぐして1面に広げたような印象である。
被写体は服部緑地公園での自然とのふれあい。ファミリーアルバム感があるのは、鳥などと共に家族と思わしき人物らが、自然と触れ合って余暇を楽しんでいる表情が見えるためだ。
中には中央の縦2枚のように、妙に抽象的な、表現的な写真もあったりする。ファミリー感とのギャップが面白い。
◆中家和子《河内の子》
同じ作者がギャラリー内でも6枚展示している。基本的には似たシーンと被写体で、自然の中で人々が安らいでいる。個々の写真をよりダイレクトに、近付いて見ることができるので、やはりこうした展示形態の方がありがたい。
活発な子供らと対等の勢力を持つのが緑、雑草だ。日常を舞台にしたスナップながら、生命力・活力に強く注目していることが分かる。「河内」はかなり広いので(北・中・南の3エリアにまたがり、大阪府の東側:枚方市や四条畷市から東大阪市、富田林市、河内長野市などに及ぶ)、地域性というより作者の生活圏に溢れる活力を撮ったものと解するべきだろう。
◆津田明人《猫 生存の証》
猫5枚組である。美女と猫と子供の写真はコメントしづらいが、いわゆる「猫を愛でる」写真ではなく、荒々しい表情とプリントなのが目を引く。
愛玩動物、自身の従属物としてではなく、路上でワイルドに生きている野生の隣人という観点から撮っているのではないだろうか。物理的な距離は近いのに、心理的な距離はかなり遠く、猫と撮影者は全く分かり合うことがなさそうな距離感なのが面白い。
◆矢野智雄《Glass forest》
木々、植物の葉など各部の造形をしっかりと見つめて煮詰めた写真。まさに近代写真の力を存分に発揮している。自然界に潜む思わぬ造形の妙を、機械の眼で精緻に力強く描画することが100年ほど前に試みられ開拓されてきたが、身近な場所(緑地公園)でそうした造形の魔界へと踏み入れられるのは、写真ならではの特権だと思う。
後に(2022年9~10月)、このシリーズはギャラリー「G&S根雨」にて個展「硝子の森」として改めてフルバージョンで提示され、同時に写真集も販売された。描画の質、プリントの美しさなどで高いクオリティを見せてくれた。
◆杉浦正和《見返り横丁》
大阪の下町、繁華街に色濃く残る「昭和」を、色濃いカラーで写し込んだ写真群。恐らく無数の写真家、無名の写真趣味人らが撮り続けてきたモチーフだろう。百々俊二の写真と比較したくなる。難波の「味園ユニバース」はレトロ大阪の頂点とも言える名所であるが、それ以外にも随所に大阪の本来の顔が生きていることが分かる。2000年代、2010年代で押し寄せた大規模再開発の波、そして今般の新型コロナ禍は、確実にこうした風景を減らしていくだろう。
郷愁にすがるわけではないが、再開発で生じた新しい風景/都市が丸のまま肯定できるものかどうかは、こうした旧来の風景がなければ比較検証できないだろう。その意味でもレトロへの撮影行為は必要だと思う。
◆上田良一 「大阪ぶらり」より
5枚組の白黒写真で、人物の顔の写った広告を通行人と共に撮っている。大きな広告と通行人はストリートの「顔」と言っても過言ではない。広告は一定期間を過ぎると新しいものへ切り替わってしまうので、どちらも通り過ぎてゆく一期一会の存在である。都市スナップの相手として魅力的な被写体だ。
一般・不特定多数の人物の「顔」を撮ったり発表することがプライバシーの問題等で困難となる社会では、広告は最も撮りやすい「顔」であることは間違いない。このシリーズは長い年月を積み重ねる中で、広告・人物の表象のトレンドが移り変わる様を表すことができるだろう。ぜひ続けて発表していってほしい。
◆高林直澄《A second of NANIWA》
ギャラリー「galerie SPUR」のオーナーであり写真作家である作者も参戦。5枚ともブレているのは、タイトルの通り1秒間露光でストリートを撮ったもので、作者を代表する作品シリーズである。刹那の「秒」の長さ、質感を示すとともに、都市部の躍動感を表している。コンセプト系の作品であるが、ストリートスナップの要素が強いのが特徴的だ。
詳細については過去の展示レポを参照されたい。
3.北井一夫 「新世界物語」より
本展示の支えるのが北井一夫の作品群で、「新世界物語」をフロアの2カ所に分けて提示していた。1979年から2年半かけて、阿倍野の自宅から通って撮ったシリーズで、新世界界隈に生活する人達の芯が写っている。視点のフットワークの軽やかさと、一人一人の生業に向き合う腰の据わりの重さとが同居している。「昔の写真家ならではの写真」と言えばそれまでだが、他のどの出品者ともアプローチが異なり、真似できないものを感じた。
北井は「アサヒカメラ」の企画で、1960年代半ば以降はデモ・学生運動を撮り(写真集『抵抗』、『三里塚』)、1970年代半ば以降には都市化に逆行して地方の村落での人々の暮らしを撮り(写真集『村へ』)、日本写真史にその名を刻んできた。いずれも中央の――都市・政府の論理に与しない人々である。「大阪」という地がその舞台として取り上げられているのは興味深い。今では見る影もないが、70年代の大阪、特にミナミ:新世界、西成の方は、中心から脱した人達を受け容れる大きな場だったということだ。現在の新世界は高齢化、観光地化、大規模な再開発が加わり、ある程度の雰囲気は残されつつも、北井が撮ったこの状況とはどんどん離れたものになっている。
人々の暮らしが路上に溢れている、路上が店や家と溶け合っていて公私の境界が定かでない点が非常に興味深い。このことは妹尾豊孝が撮った80年代~90年代初頭の関西の都市部の様子にも通じるところがあり、都市における公共の場というものがどう形成されてきたかの過程を物語っている。尤も、土地の歴史的経緯などから「新世界」が他のメジャーな都市とは同一視できるものではないが、タフな「生活」が路上にまで溢れている様は注目すべきだろう。
以下の4点は少し離れたところで提示されていた作品だが、基本的には同じ新世界界隈のものだ。「やど」と平仮名で書かれた看板の店(旅館?労働者向けの宿?)、その前で遊ぶ子供らの姿からは、いつの時代の姿なのか判別できない。
現在、新世界=新今宮は、串カツ屋、ドンキホーテ、星野リゾート系列ホテルで脱色・上書き更新されている。2010年前後に通天閣の足元が一新され、観光客向け串カツ屋ストリートの様相を呈するようになった。下記・2014年の「デイリーポータルZ」記事はその様変わりの驚きを記している。
都市は変容し続ける。良いか悪いかは別として移ろいは止められない。生活者もまた然りである。写真/写真家はその時点時点での本質的な姿を写し取る。その像は残り続け、何がどう変化したかを後に検証可能にする。北井一夫の写真をそのように用いるのが適切かどうかは分からないが、大阪に住み、90年代から今に至るまでの移り変わりを見てきた人間としては、これらの写真群は今後も官・民の主導で再開発が進められてゆく大阪においてこそ、比較検証などで意味があると思うものであった。
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大阪のスナップ写真特集でした。面白かったですね。所構わずスナップは撮られるべきです。Twitter、Instagram等でこそ、大阪・関西の下町や都市空間を舞台にスナップ写真をやっているフォトグラファーはもっと多いと思うので、そうした人達もリアル展示、リアルの写真界隈へ出てきてくれると、私のような人間もキャッチできると思うので、出てきてほしいなと思います。
撮りましょう&出しましょう。
( ´ - ` ) 完。