nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】2025.2/7-18_鄭名植(Myoungsik Jeoung)「明鏡止水」@gallery 176

韓国の仏教文化「荼毘式」。宮大工の眼から撮られる朝について。

2023年より始まった「YARTGALLERY」(韓国・ソウル)と「gallery 176」の交流展・第3弾となる。

作者は宮大工であり、韓国の伝統的な宮殿や寺院などの建築物の補修・復元工事を20年以上手掛けてきた。さらに作業の仕上げ時、セレモニーでの撮影も手掛けており、つまり大工道具とカメラの二刀流で伝統建築の保全に携わり、再構成してきたといえる。加えて、寺院で20年、王室・王陵で10年近く、韓国の「死」にまつわる儀礼を撮影してきたことが、写真家としての独特なスキル・キャリアに結びついている。

 

なお2025.2/8(土)にgallery 176で開催された作家トークYouTubeにアップされているので参考にどうぞ。


www.youtube.com

トークでは韓国における仏教、「死」に関する祭礼、それらをテーマとした作者のプロジェクト全体像について語られていた。写真論というより韓国王室・寺院での葬送儀礼の話なので、写真関係者だけでなくもっと幅広く聞かれてもよい内容だ。

 

本展示は3つのシリーズで構成され、寺院で死者を荼毘に付す「DABI(荼毘)」、寺院での僧侶の修行をとらえた「CLEAR MIND AS STILL WATER (明鏡止水)」、そして職場である昌徳宮(チャンドックン)に毎朝出勤する際に定点的に撮った「CHANGDEOKGUNG (昌德宮). 6:20 AM」  が展示されている。

 

「荼毘」「明鏡止水」はどちらもモノクロで仏教世界であるから、展示では混ざり合って見え、明確に区別はつかない。言われてみると展示前半は僧侶の修行の緊張感あるシーン、途中から後半にかけては荼毘式の葬儀の場面で、特に後半、火を焚いて死者を供養しているシーンは特に炎の揺らぎに満ち、前半と対比的である。だがどちらも仏教の中の儀礼なので、一般人にとっては違和感がなく、一つの教義というか大いなる型の中にあるものと映る。

「荼毘」は20年近くにわたって撮り続けられている。ここで撮られている「荼毘式」とは一般的な火葬のことではなく、寺院の代表者のような高位の僧が亡くなった時にのみ行うことができる、特別な葬儀である。規模は大きくなり費用もかかるという。多数の僧侶が写っているのはそのためだったのだ。私は鑑賞時にこの点を分かっておらず、一般人の火葬を想定していたので、途中のシーンが理解できなかったのだ。しかし大勢の僧侶が集結している場面は、昔観に行った「阿含の火祭り」に通じるものがある。信仰の場ならではの、得も言われぬ律と動の同居を思い起こさせる。

 

荼毘式の大きな特徴の一つが、屋外で遺体が焼かれることだろう。一般人の火葬は屋内で行われる。1500年近く歴史的な営みが今も続けられているのは、国から伝統文化として認定され、警察や消防の協力もあるためだという。

最も「死」と弔いを実感するのが、人の形を連想させる白い帯を巻き付けたハシゴのような木枠の写真だ。僧の棺を運ぶ台なのだが、それは布に包んだ遺体そのものだ。あるいは磔刑の十字架にも見える。死者が姿形を変えて現れたもの…

棺台の写真に至るまでには、僧侶らが火のついた棒を手にし、炎が燃え上がり、火花が宙に舞う写真が続いている。ここに儀礼のクライマックス、荼毘の核心部がある。炎は写真の内側から、写真という画面、表面、カメラのレンズが護る客観視や記録性を食い破るように、深くから揺らめいている。

炎で揺らめき歪む空気は、現世とあの世の境が解けたように見えた。

 

「明鏡止水」は、この荼毘式で送られた故・寂明和尚がよく口にしていた言葉だという。調べれば「邪念がなく、澄み切って落ち着いた心の状態のこと」といった字義が出てくるが、簡単な言葉ほど難しい。だが作者にとっては観念論ではなく、幼少期からの寺院との関わりもあって、生の実感として距離の近い所にあるのだと思われる。身体が弱かった作者は幼少期から母親に寺院へ連れられて通っていたというから、その心身は意識せずして仏教界そのものと密接であったのではと思われる。

心(眼)の澄み渡って静かな状態を最も体現しているのが、ギャラリー正面の壁面を埋めるグリッド状の写真群「昌徳宮.6:20AM」だろう。

デジタル画面上の無数のサムネイル画像、リバーサルのスリーブを連想させるそれは、毎朝6時20分に出勤した際に昌徳宮の姿を撮り続けたものだ。2011年に撮り始めてから撮影期間はもう13年半にも及び、展示では直近の3年間分がまとめられている。

japanese.visitseoul.net

来る日も来る日も変わらず、作者は宮大工として仕事に行き、同じ朝日を受け、同じ「一日」の到来を見やる。この繰り返しの中に、無心がある。定点観測的な写真を機械的に列挙するのは1970年代頃の現代美術では定番だが、本作はもっとシンプルに、「朝」が到来する空と、宮殿の影とが繰り返され、美術的意図すら帯びていない。透き通った「一日」が繰り返し、訪れて、繰り返される。

 

しかし解説や注釈がなければ「昌徳宮.6:20AM」シリーズは日本のどこかの寺院に見紛うだろう。空や太陽、空気そのものが日本の風土に実に似ている。「荼毘」と「明鏡止水」では、同じ仏教でも韓国特有の建築様式、衣装などが露わになり、日本の仏教との文化的な違いが浮かび上がるが、こちらは同じ「空」に貫かれていることを実感する。

 

作者は宮大工の報告書作成のためにも、日々100~500枚の撮影を行う。私心を離れて、未来のために記録に徹する撮影行為は、祈りや修行にも似ているのかもしれない。

 

( ◜◡゜)っ 完。