nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【KYOTOGRAPHIE 2022】R4.4/9~5/8 【3】「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」@HOSOO GALLERY・2F(細倉真弓、地蔵ゆかり、鈴木麻弓、岩根愛、殿村任香)

【KYOTOGRAPHIE】プログラムNo.3「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」では、タイトルの通り10名もの日本人女性写真家が1会場「HOSOO GALLERY」(2F、5F)に集結している。

実力、質、テーマの多彩さ、いずれの点でも今年の【KG】において支柱的な展示であった。むしろこれがなかったら空虚な10周年となっていただろう。良かったんですよ。全員違うし全員いい。多彩で芯がありビジュアルの力があり説得力があり、美しい。

前半では2Fで展示された細倉真弓、地蔵ゆかり、鈴木麻弓、岩根愛、殿村任香の5名をレポする。

【会期】R4.4/9~5/8

 

 

【概論】本展示について:なぜ「女性」か

なぜ「女性」写真家でなければならなかったのか。なぜ男性その他がいないのか。

本展示は仏高級ブランドグループのケリングが「ウーマン・イン・モーション」プログラム(映画をはじめ、写真や文学など多方面で女性の活躍を称え、認知を広げる取り組み)を通じてサポートする企画だ。

会場では「KERING」「fisheye」「WOMEN IN MOTION」ロゴが明記された無料冊子を配布していた。これには各作家の簡易ポートフォリオがまとめられている。

www.kering.com

 

冊子冒頭には、KYOTOGRAPHIE共同創設者のルシール・レイボーズと仲西祐介、写真専門インディペンデント・キュレーターのポリーヌ・ベルマールの3名へのインタビューが掲載されており、本展示の主旨や選定方法とともに、日本における女性写真家の位置付けが語られている。

「日本」は長らく男性写真家の目を通して語られ、女性写真家の活動と歴史は理解されてこなかった。日本社会自体が男性に支配されており、自立した女性の活躍の場も限られている。また、日本では写真で生計を立てることが難しく、写真家活動を行うために生活のための仕事をしなければならず、それは真の戦い、殉教者のようですらある・・・ そのような厳しい指摘が続く。

 

3人が「もうひとつの日本の写真、その祝祭」「すべての日本人女性にとってのマニフェスト(宣言)」と言い表しているとおり、あえて今の時代に「女性」を冠した企画としたのは、やはり毎度お馴染み日本社会の後進性――「ジェンダーギャップ指数」下から数えた方が早い問題(2021年、156ヶ国中120位)(なお、「ジェンダー不平等指数」では162ヵ国中24位)が象徴するとおり、ひいては日本写真界が「古い」ことへ、見直しの風をもたらす運動という意味合いがあろう。東京五輪や日大の問題や東京医大の合格点操作を思い出すとまあそうですよね。はい。

本展示が、日本写真界・美術界内部からのアップデートの声を特集するのではなく、あるいは国内のリベラリズム、アクティビスト、フェミニストらによる主催ではなく、西欧のファッション界、巨大コングロマリットという完全な外部(にして権威)と協働している点は見逃せない。写真界・芸術界の内部事情は全く知らないが、しがらみのない「西欧」と「ファッション界」を直結する形をとったことで、話が早く進んだとも想像する。

 

こうした趣旨と枠組みから、日本人女性写真家の「芸術的才能」と「社会的なテーマ」を評価し取り上げる本展示は、90年代のガーリーフォトなる流行の後、フェミニズム的反省と批判も交えながら日本に育ち根付いてきた「女性写真家」の、直近約20年間をめぐる一種の中間総括的な展示と言えるだろう。何の不自由もないバリバリのマジョリティのおまえが総括とか言うなや、という声も飛んできそうだが、まあそう言わんと展示見てや。見てください。はい。

 

 

以下、展示順路に沿ってレポしていく。「HOSOO GALLERY」・2階は窓がないため、どの展示も「暗さ」を舞台として展示が構成されている。

 

 

【3ー①】細倉真弓「NEW SKIN」

会場に入ってすぐ、真っ暗な部屋と通路があり、第2の部屋と続く。二つの部屋では壁にモノクロの新聞のような粗い印刷の目の映像が投影されている。画面は拡大と縮小と上下左右移動を小刻みに続け、時折どこまでも深く拡大して映像の中に潜っていく。「ウィイィイイイーーーーーーーンンンンン チュン」と、スキャニングの音が響く。通路に立てかけられたスキャナがこっちに原稿台のガラス面を向けて発光し、空を切ってスキャンしている。映像の拡大縮小と空スキャンには始まりも終わりもなく、ずっと続いていて、ドットと膨らみが白黒に輝いている。

 

『NEW SKIN』は2019年に清澄白河mumeiで展示発表され、2020年に同名の写真集がMACKより発刊されている。

作品はデジタルコラージュで、画面は常に移動と拡大・縮小を繰り返すため全容を知ることはできない。男性の身体表現に当たって影響を受けてきたゲイ雑誌のグラビア、美術館の男性彫刻の写真や、自身が撮影した男性ポートレイト写真などを合成して作られている。・・・と解説で言われていても、画面のどこが何かを判別できるような生易しい映像ではなく、画面が引きになって手指や腿や顔の輪郭が見えても性別や肉感はなく、画面全てがパーツであり全体ある白黒・陰影のコントラストと膨らみ、網、ドットに埋もれていく。たたみいわしを顕微鏡で見ながら性差や個体の中身を探るような体験だ。

 

解説によれば細倉はダナ・ハラウェイの「サイボーグ・フェミニズム」(1985)に強い影響を受け、「男性の身体をどう見るか」に焦点を当て、当たり前のものとして受け入れられているジェンダーの意識を作品によって粉砕するという。

私が見た映像は一部にすぎないとは思うが、見た限りは性別、ジェンダー観への言及よりも、そもそも「人間」「人体」を表す描画がドットやうねりの中で他のものと混然一体となったり、境界を失うことのパワフルさに目を奪われた。曲線や膨らみは何かエロティックなものを孕んでいる。性的な意味を持つかも知れない。がすぐに画面は動き、性的な眼を引き起こすトリガーは沈み、バラバラになり、溶け、また別の形の予兆へ、粘土の波のように移ろいゆく。

「新しい皮膚」とは人や他の生物、無機物、メディウムが全て1枚の表象上に混在していく、メディアにおける生命のスープのような状態ではないか。デジタル画像と液晶デバイスの組み合わせに慣れた身にとって、物理的な感触として親しみを覚える

 

残念ながら現実の「サイバー」、インターネット界やアカウント、アバター、VR技術を用いたコミュニケーションは、そういうものにはならなかった。

匿名掲示板もSNSも、性差やアイデンティティーの境界は物理世界以上に強調・誇張されている。女性(に見える)アカウントが男性からの暴力的で有害な振る舞いを受け続けたり、ツイフェミやクソオスなどという言葉と口論、ネトウヨ的な愛国や家父長制や家事をしない男性パートナーへの呪詛その他が飛び交う戦場と化している。VRVTuber? プライベートの男女関係が露呈して引退したり、おっさんが美少女に化けるために使われたり、どうもあれだ。かつて期待されていたような「サイボーグ」の出る幕はなく、本作のような純度の高い試行領域でしかポストモダン的な表象の産物は生きられないのだと痛感する。

だからこそ「表現」は重要なのだと思う。

 

 

 

 

【3ー②】地蔵ゆかり「ZAIDO」

暗い会場では、手前のついたてに山脈を見やる雪景色、奥には雪の長い階段の写真が掲げられ、その中央を一本の白い巻物が貫き、寺の本堂へと続く歩廊のように写真が展開されている。祭事のドキュメンタリー的な写真を見せつつ、冬の八幡平・大日堂の雰囲気を空間的にも表現する構成となっている。

 

タイトル「ZAIDO」とは「祭堂(ざいどう)」、秋田県・八幡平の大日堂で1300年に亘って継承されてきた祭事で、毎年1月2日に4つの集落から舞い手である「能衆」が集まり、舞が奉納される。

大日堂は、秋田県青森県岩手県の県境あたりで、十和田湖の南(車で約1時間)に位置し、1枚目の写真の通り巨大な奥羽山脈が傍を走っている。冬には豪雪地帯となりマイナス20度になることもある。私は洒落で真冬の十和田湖に行ったことがあるが、店という店が閉まり、町が白く雪の中に沈んで眠っていた。大変な土地である。

 

本作ではこの雪の白さと冷え込みが重視されており、進むにつれ静謐な仏教世界へと深く誘われてゆく。

巻物では、雪の地で舞い手の能衆たちが集まり、歩きながら、雪景色と共に水垢離(みずごり)の修行や伝統的な舞の道具などのカットが続く。透明度が高く、しかし色の濃いカラー写真は現地の雪や水の色に近いのだと思う。

だが写真の流れの中にアンダー目のモノクロ写真が混ざり込む。厳冬期の自然、仏教の光景にしては深みが数段違う。寂しく、深く空虚な闇の奥行きを感じさせる。

 

解説で繰り返される「父の突然の死」「父を探して東北の奥地へと旅立つ」「父親に対する美しい追悼」が、このモノクロ写真に当たるのだろう。

 

ただ、展示数が限られているので、本来のあるべき物語のメッセージ性:雪深い土地と仏教の世界と、父親への追悼やあちらの世界との重なりは、解説文が繰り返すほどにはピンと来ないかもしれない。おそらく実際の写真集では見え方がまた大きく異なると思われる。

 

本作は2016年にキヤノンギャラリーで展示され、2020年にシュタイデル社から同名の写真集が出版された。写真集販売サイト「写々者」の紹介ページでは、撮影に至る経緯として、父親の死による喪失感だけではなく、作者の身に起きた様々なアクシデント、東日本大震災の体験などが積み重なっていたことが解る。展示で見た以上に奥行きの深い作品のようだ。

www.shashasha.co

 

なお、「祭堂」については、作者自身が執筆・撮影を手掛けた、まさに本作そのものの紹介記事があったので、こちらを参考にされたい。掲載写真は展示作品そのもので、1枚ずつの写真の意味がよく分かる。

www.nippon.com

 

 

【3ー③】鈴木麻弓「豊穣」

人体(=作者の体)と野菜・植物とを並べ、詩のようにその類似性を行き来する本作は、しかしエドワード・ウェストンが女性の体とピーマンとの類似性をモダンの「美」として表したこととは比較にならないほど、切実で深い内情に満ちている。

本作はカメラでは捉えられない体内(胎内)や、卵子精子という微小な領域を巡るドキュメンタリーで、語られているのは不妊治療という制度・単語の内にある被治療者の状況であり、心身に多大な負担を抱えつつも希望を懸ける、現代の女性の内情である。

 

作者が取り組んでいた不妊治療・体外受精を諦めようと思った時に、不揃いな野菜を目にして、自身とのシンパシーを感じたこと。それらを丁寧に撮影しようと思いついたこと。治療での60秒ほどの診察時間を、4×5でのセルフポートレイトの露光時間に置き換えたこと。モノの見た目しか写せない「写真」だが、その技法と見せ方において、作者は「写真」に不妊治療の臨床の当事者性を帯びさせることに成功している。

 

不揃いな野菜の写真は驚くほど人体に、ヒトに似ている。漆黒の写真の中でそれは切なげである。いびつさが複雑かつ私的な内情を宿らせる。「子供を産みたい」という願いが果たされなかったこと、子供を産むことで果たされうる女性としての喜びや役割を断念しなければならないこと、そうした様々な思念の想像が押し寄せてくる。

 

エドワード・ウェストンは幸せだった。外形を光学的に追及すればよかった。鈴木麻弓のことは、その尺度では測れない。第3者が評価することでもない。ゆえにこの作品は、意義がある。

 

世間の認識はかなり変わってきたとはいえ、マーケットではまだまだ野菜や果物は形の整った「美しい」物でなければならない。市場性は強固である。女性もまた、子供を産める体かどうか・健康な子供を産めるかどうかという、見えざる(しかし厳然としてある)価値判断に晒され続けているのではないか。

「産む」までの管理、出産の実施・実現だけでなく、健康な子供を「産める」ということ自体への期待値とを一身に背負っている「女性」の身体のことを、深く意識させる作品であった。

 

だが、正面を向いて両手を目の下にやるカット、赤ちゃんを抱いているようにしか見えない最後のカットは、そうした社会的意義や言説に結び付けた読み方と言葉を押し流すような、何か途方もない、想いがあった。

 

作者のホームページから言葉を引用したい。

「今の時代、女性はどう生きるかを選ぶことができますが、時には自分ではどうしようもない運命をうけいれなければならないこともあるのです。たとえ自分の体が「肥沃」でなかったとしても、自分の命である以上、誇りを持ちたいと私は思っています。」

 

 

 

【3ー④】岩根愛「A NEW RIVER」

土地の風景と、そこに息づいてきた歴史、伝統芸能や伝説とを結びつけた作品は数えきれないほど多く、ことに東日本大震災以降は、10年が経った今でも東北と震災と歴史についての作品が追いきれないほど発表されている。正直、どれほどの写真家が取り組んでいるのか、全容が未だに分からない。

岩根愛の作品がそれらと一線を画するのは、此岸(主たる取材先の土地)から彼岸(そこから距離的に離れた場所、シチュエーション)へとジャンプするダイナミックさと、接続の確かな強さにある。そして両者を繋ぐものは、土地や歴史の中に息づく、ソウルやスピリットとでも呼ぶべき、見えざる霊的な領域である。特徴的なのは、現代の私達にも強弱はあれど、それがインスピレーションとして内在していることをうまく突いている。

 

木村伊兵衛賞受賞作『KIPUKA』(2018年、写真展開催/青幻舎より写真集出版)では、彼岸にはハワイの火山と大地と地元民を、彼岸には東北の被災地を配し、その両者を盆踊り、仏教寺院でのボンダンスという祭事のトランスにより、魂のレベルで接続を行った。

本作《A NEW RIVER》では、此岸にコロナ禍で人の絶えた東北の夜桜の写真を立て、彼岸には実家と若くして自死した妹の写った写真をスライドで流す。両者を結ぶのは桜の樹であり、樹の下に現れる、現の者とは思われぬ装束の鬼、精霊である。東北の伝統的な舞いと衣装は、夜の闇と桜の青白い光と混ざり合って、異界との親和性をこの上なく高める。

これは癒しや鎮魂の姿だろうか。

霊的なインスパイアは、「今・ここ」という時空間的な適性距離――形を保つべく働いている諸々の境界を溶かし、振幅をこの上なく高め、失われたものたちとの繋がりを深める。その「個人」の身体はそのままに、遥かに大きく開かれたものへと意識を交えてゆく。

妹の家族写真はいつの間にかハワイの壮絶たる黒々とした溶岩原へと切り替わっている。全ては繋がっているかのようだ。「私達は何処から来て、何処へ行くのか」。私達の生は地上のエネルギー、風や光の循環に似ているかも知れない。今や「写真」はそのような表現体系を獲得するまでに至ったのだ。

 

 

 

 

【3ー⑤】殿村任香「焦がれ死に」

KYOTOGRAPHIEインタビュー動画で作者は「人間の生活をしながら写真を撮り続けるなんて、正気の沙汰じゃない」「己をなくすことが愛ならば、自己喪失を試みよう」としたものと語っている。冊子等ではそれ以上の具体的な解説はなく、Web上でも情報が乏しい。

 

こうして作品について書こうとして気付かされたが、殿村任香の特徴は、写真家としての一定の実績があるにも関わらず、これまでの活動や作家性についての論考、評論が実に乏しいことだ。写真集の帯に荒木経惟が寄稿したフレーズばかり見ても仕方がない。

さすがに直近の話題ゆえに、「KYOTOGRAPHIE 2022」と本展示、そしてがんと闘い向き合う女性らのポートレイト撮影活動「SHINING WOMAN PROJECT」に関するWeb記事は多い。が、過去の『焦がれ死に』(2018)や『cheki』(2018)、『orange elephant』(2015)、『ゼィコードゥミーユカリ』(2013)などへ言及するWeb記事は、個展と写真集の紹介情報ばかりだった。

本展示に関する記事の中では「Numero」のWeb記事が一番詳しいが、作者が自身の子宮頸がんの告知・治療を機に、「写真」との関係を変換させ、「SHINING WOMAN PROJECT」へと接続していく経緯を語るもので、本作についてはやはり「愛」という言葉に尽きてしまう。

numero.jp

 

作者の現時点の立場としては、過去作の言語化よりも、「KGアソシエイテッド・プログラム」として別会場で同時展開している「SHINING WOMAN PROJECT」の運動について、全力で発信し、女性がんサバイバーについての認知度を高める必要に迫られている。

 

『焦がれ死に』の艶やかでセクシュアルな状況を、「愛」や「エロス」、あるいは「殿村劇場」といった、荒木経惟の類似表現以外の語彙で語ることはできないものだろうか? 本作がセルフポートレイトなのか否かすら言及がないのは、あまりに曖昧すぎないだろうか。

 

ウクライナの写真家・アレックス・ブランコ(Alex Blanco)はオランダのライデン大学、ハーグ王立美術アカデミーで写真を学んだ人物だが、自身のYouTubeチャンネルにて写真集『焦がれ死に』を紹介し、カメラを恋人らに渡して撮らせた自身のポートレイトと風景、そしてセルフポートレイトから構成されていると解説している。また、殿村の滑稽で、痛々しく、かつ希望に満ちた作風は、写真家というよりむしろヤン・シュバンクマイエルアレハンドロ・ホドロフスキーといった映画監督らに学び、同じアプローチから制作していると述べている。

写真を染める赤色は自身の血の色であり、自身の痛みと脆弱性を表現しているとも。

 

 

基本的な制作手法や態度を知ることは、作品の理解や没頭を妨げない。むしろ、ラブホテルの隣の部屋を、ドアの隙間から覗き見るような状況から、扉の内へ、そして更に階段を下りていく方へと一歩ずつ導くものとなるだろう。そうして作品のパワーの渦の中に居る/在るものとの対峙、対話の機会が見えてくるのだ。

 

(なお、後にご本人から「これはセルフポートレイトではありません。写真はシャーマニズムでもあるので、そう思うのかな?」とコメントいただいた。知れば知るほど、力が深まる思いがする。。。)

 

 

本作では恍惚に浸る女性が主役となっている。性行為の真っ最中と思われるが、もう一人の行為者(=男性側)は姿を見せない。女性一人が指を当てて悶えている姿のカットも強い印象を残す。誰/何によって貫かれているのか分からないが、強く、大きな喜ばしきものによって、この女性は存在を貫かれていることだけが十分に表れている。

荒木経惟の場合は、自分が劇場の支配人兼演者であり、そこに連れてきたゲストの女性を「芸術」舞台の主役に仕立て上げる。即興であっても無秩序に見えても全ての台本は荒木が握っているようだ。「愛」というものがあるとすれば、両者の演出の全力を以て、1枚の紙にすぎない「写真」を、無限に女陰化――エロトス化しようという芸術的情念・執着のことを指すだろうか。

 

殿村の場合は、登場するのは基本的にこの女性自身しかいない。それが殿村自身であるかどうかはあまり大きな問題ではない。誰と性交しているのか、いや誰としていなくても支障がない。撮影者も不在に等しい。独り、身体と意識を緊張と弛緩の大きな波に浸し、燃やし、溶かし、真夜中の光とともに溶ける。

だが実際に燃えたり溶けたり消えたりすることは出来ない。写真の中で写真に向かって燃えたり溶けたりし、自己を消尽するのだ。その様を我々鑑賞者は呆然と見つめている。殿村劇場では演者と台本と舞台が全て殿村であるから、演者が燃えれば劇場も燃えてゆく。支配人も演者もいなくなり、仮に撮影者、性交者はそこにいたとしても、彼らは写真を殿村作品として立ち上げる力を持たないため、次の芸術舞台を設営できる者はもういない。

アントワン・ダガタの写真においてダガタが写らないのと似ているだろうか? 違う。ダガタは撮り、性交するが、撮られているのは挿入され、撮られる側としての女性である。作者=ダガタは温存されている。殿村は、焼き尽くされる。

殿村の文体は見た目上、荒木の「私写真」によく似ているが、前者・本作が自己を失うバイブレーション、燃え上がる炎そのものを写真にする点は真逆である。「私」はいない。演出もリアルもない。バイブレーションで溶け合い、焼けつき、醒めてゆく、その光と温度の明滅を感光に換えて、写真とした。それが本作に起きていることではないかと私は思った。

 

「あなたは誰のために/何に向かって悦ぶのか?」そう問われた気がした。常人は、瞬間的に命を懸けたり燃やしたりすることができない。ルーティン生活の中でバランスよく配分し、その中で喜怒哀楽を発散することには長けているが、愛が何なのか、どういう形をしているかを知る者は、実は少ないのかも知れない。殿村はそれを、極度の集中力を以て実現したのだ。

 

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( ´ - ` )ノ 後半/5Fの5名のレポへ続く。